木洩れ日抄 51 本当の生き方を求めて「堕ちる道を堕ちきる」人たち──劇団キンダースペース第40回公演『白痴』を観て
2019.2.24
戦争というのは何だろう。国家と国家が武力をもって争うことというあたりが辞書的な定義だろうが、その本質は、暴力、支配、抑圧、殺人、差別などのあらゆる「悪」を内包している何かだ。国が戦争をするとき、当然、その国民はそれらの戦争の本質というべきものの犠牲になる。暴力を振るわれ、支配され、抑圧され、殺され、差別される。けれども、国民は、ただの犠牲者にすぎないのではない。彼ら人間の中にあるそれらの「悪」が、戦争によってあらわになり、彼らの心の中で暴れ回る。
例えば、戦争の必然的な要請によってできあがる軍隊は、国民によって組織されるが、その軍隊は他国の軍隊との戦いのみをこととするわけではなくて、その軍隊内部が、限りもない「暴力、支配、抑圧、殺人、差別」の坩堝と化すことは、幾多の「戦争文学」が描いてきたところだ。
それでは軍隊ではなくて、市井の国民はどうなのか。戦時下という特殊な状況の中で、彼らはどう生きたか。あるいはどう生きざるを得なかったのか。戦争ほど残酷なものはない。もう二度と戦争はごめんだと、終戦後の日本人は口をそろえて言ってきたけれど、戦後も70年も経てば、すっかりそんなことは忘れ、またぞろ戦争を口にするようになってきたのは、戦争を自然災害のような外からのものとしてしか認識してこなかったからではなかったか。二度と戦争はしないという誓いの中には、戦争を「内なるもの」として捉える視点こそが必要だったのではなかったか。安吾が描く「戦争」には、そうした戦争の内面化がある。
戦争の終結を、すべての破壊と消滅として捉えるしかなかった国民は、戦時下において、それぞれの生き方を痛切に問われていたわけで、それが人生や人間への絶望感であれ、やけっぱちな刹那主義であれ、そのときの現実を見据えるところから出てきたものであるかぎり、みな切実な真実性を備えていたのだ。つまり、そのとき、戦争は内面化されつつあったのだ。
安吾はその『堕落論』の最後にこう書いている。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
「人間は堕落する」ということは、人間は生きているかぎり、その生の根源に触れざるをえないということだ。人間の「生き方」を他所から借りてくることはできない。自分の生き方を見つけるには、ナマの現実の中で、自分のすべての感情と欲望を包み隠さずあらわにして、とことん生きなければならない。それを世間では「堕落」と呼んで非難するかもしれないが、実はそうではない。それこそが、本当の生き方への道なのだ、ということだ。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」とはそういうことだ。
『白痴』『戦争と一人の女』『青鬼の褌を洗う女』の三編の小説を貫くのは、そうして意味での「堕ちる道を堕ちきる」人たちの姿だ。そこに登場してくる人物の誰をとっても、どこまでも「人間」だ。都合のいいお仕着せの思想で身を飾っている人間はいない。ナマのままの剥き出しの人間だ。彼らが、戦争という巨大な悪の中で、自分たちの悪も全開にしながら、懸命に生きている。
この三編の小説を連続的に舞台化するという離れ業を原田一樹はやってのけたわけだが、別々の話なのに、それがまるで一つの話のように何の違和感もなくつながって見えるのは、原田が舞台に描き出した人間が、みな生きるということの切実性を見事に表現していたからに他ならない。戦時下を生きた人間のストーリーは、その「上皮」がどんなに異なっていようと、その皮の下の肉には、みな同じ哀切窮まる血が流れている。その生きた血の流れ、生きた肉のうごめきが、今回の舞台の最初から最後まで変わることなく溢れ出ていて、見る者を圧倒した。ほんとうに素晴らしい舞台だった。
キンダースペースは、長いこと、日本の近代小説を、モノドラマを初めとする独自の手法で舞台化してきた。それは、書かれたものとしての文学に、役者の肉体を与え、そこから「書かれていない実感」(原田の言葉)を引きだそうという地道な作業だが、ぼくらはまた、その舞台を見たあとに、それを再び小説の言葉の中へ還元していくという楽しみを味わうことができる。こうして、文学の世界は、どんどん厚みを増していく。ぼくがキンダースペースの芝居を見たあとに感じる、「感謝」の念は、いつもここから生じるのだ。
今回の公演では、キンダーのベテラン俳優と、新人俳優、そして豪華な客演俳優が、ギクシャクすることなく溶け合い調和していた。特に、新人俳優は、臆することのない全力を出し切った演技で、実に爽快だった。
魂に訴えてくる音楽と、美しすぎる照明と、斬新な装置は、毎度のことながらため息もの。こうしたスタッフが、キンダースペースの芝居の独特な深みのある雰囲気を作りあげていることを改めて実感した。
年に一度のシアターXでの公演は、毎回新鮮な驚きと感動を与えてくれる。このめったにお目にかかれない極上の芝居が、この先も長く上演されつづけられることを心から願っている。
作家は基本的には人が「なぜ生きるのか」ということが創作の初めの衝動である。しかし、それ以前に人は生きているわけで、このあらかじめの「生」を否定的に、あるいは、本来、より理想に近いものであるととらえようとした時、様々な嘘が生まれる。曰く「国のため」「主義のため」。これはもちろん欺瞞だが、人が生きていくためには必ず付いて回るものである。……ということを安吾は戦争の始まるずっと前から見抜いてしまった。では「なゼ生きるのか」。 安吾にとってこれはおそらく「なぜ生きているのか」という命題に変わっていった。もちろんそんなこ とはワカラナイ。 そのワカラナサがすとんと現れる瞬間。「演劇」で、安吾にせまる道は、結局はここにしかないような気がしている。
オメカケの抱えるもの
キンダースペース第40 回公演「白痴」にご来場頂きありがとうございます。この作品は坂口安吾の「白痴」(S21)「戦争と一人の女」(S21.22))「青鬼の揮を洗う女」(S22))の三本を舞台化したものです。「戦争と~」に関しては、発表時GHQ の検閲削除があったため女性の一人称に書き直した続編、また翌年、同じ題材の元にかかれた「私は海を抱きしめてゐたい」も含め原作としました。
坂口安吾という作家の稀有な点は、その思考の原点が自身の「四囲の現実」からもたらされる実感に徹底して基づいていることです。これは至極当たり前のことのように思えますが、彼の言葉に撃たれるのは、私たちがいかにその真逆に居るか、つまり「架空の観念」にすがつて「現実」を都合のいいように解釈して安心しているか、を、思い知らされるからです。ー方で敗戦直後「堕落論」で鮮烈に「堕落」を解きながら、同時に「堕落」しきれない私たちの姿も見抜いているからです。人はどれだけ孤独を覚悟しても自分自身を完全に突き放しきることはできません。安吾には「堕落」をはじめとしていくつかのキーワードがあり、今回の三本もそれでいえば「現実」「戦争」「孤独」となりますが、以下、もう少し今回の作品について……
先ず「白痴」の舞台化が今回の出発でした。文学を舞台にする意味は登場人物に俳優の身体を対置し、書かれていない実感を手繰り寄せる、というのは当たり前ですが、もうーつ、小説の空間の相対化ということがあります。「白痴」は観念小説です。登場人物は皆、主人公の観念の世界の人物です。しかし舞台ではそうはいきません。ここに作家自身の姿も現れると考えています。伊沢の見たものが安吾の見たものであると感じられる瞬間です。
「戦争と一人の女」について。安吾は「文学のふるさと」というエッセイの中で「救いがないということが救いであり、モラルがないということがモラルである」というような場所があり、そここそが文学の「ふるさと」である、としています。「ふるさと」とはそこから生まれ、又帰る場所という意味でしょう。「白痴」の伊沢につきつけられ「戦争と~」の「女」が求めたのはこの場所です。ただ「空襲が美しい」というのは、私自身も母の口から出たのを聞いたことがあり、それは当時、偽らざる実感だったようです。その「美しさ」の下の破壊と殺叡には目を向けず、その先の内省に及ばないというのも日本人の性質の一つでしょうが、安吾は「戦争」を歴史や政治の中に見るのではなく、一人の女の中に見ようとしたのだと思えます。
「青鬼の揮を洗う女」の主人公は母を厭いながら同じ生き方する「オメカケ」です。「四囲の現実」とは「帝銀事件を論ず」の中の言葉ですが、安吾はこの中で16 人を簡単に殺害した犯人に「戦争」を見ます。しかしこの「戦争」は、唯一凶悪犯だけのものでしょうか。「戦争」はまたサチ子の「孤独」の中に、つまり私たちの魂にもあるはずです。そしてここにこそ私たちの過酷な「ふるさと」もあるはずです。もちろんその「ふるさと」は、私たちがあらゆる「架空の観念」を排さねばと覚悟した時にようやく現れるものでしょうが。
原田一樹