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日本近代文学の森へ (90) 徳田秋声『新所帯』 10 風景は涙に揺れる

2019-02-09 15:43:13 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (90) 徳田秋声『新所帯』 10 風景は涙に揺れる

2019.2.9


 

 婚礼の翌日からセカセカと働く新吉だが、お作は、目まぐるしい境遇の変化に、ついていくのが精一杯だ。


 午前のうち、新吉は二、三度外へ出てはせかせかと帰って来た。小僧と同じように塩や、木端(こっぱ)を得意先へ配って歩いた。岡持(おかもち)を肩へかけて、少しばかりの醤油や酒をも持ち廻った。店が空きそうになると、「ちょッしようがないな。」と舌打ちして奥を見込み、「オイ、店が空くから出ていてくんな。」とお作に声をかけた。お作は顔や頭髪(あたま)を気にしながら、きまり悪そうに帳場のところへ来て坐った。
 新吉は昨夜(ゆうべ)来たばかりの花嫁を捉えて、醤油や酒のよし悪し、値段などを教え始めた。
「この辺は貧乏人が多いんだから、皆(みんな)細かい商いばかりだ。お客は七、八分労働者なんだから、酒の小売りが一番多いのさ。店頭(みせさき)へ来て、桝飲みをきめ込む輩(てあい)も、日に二人や三人はあるんだから、そういう奴が飛び込んだら、ここの呑口をこう捻(ひね)って、桝ごと突き出してやるんさ。彼奴(やつ)ら撮(つま)み塩か何かで、グイグイ引っかけて去(い)かア。宅(うち)は新店だから、帳面のほか貸しは一切しねえという極(き)めなんだ。」とそれから売揚げのつけ方なども、一ト通り口早に教えた。お作はただニヤニヤと笑っていた。解ったのか、解らぬのか、新吉はもどかしく思った。で、ろくすっぽう、莨も吸わず、岡持を担ぎ出して、また出て行ってしまう。
 晩方少し手隙になってから、新吉は質素(じみ)な晴れ着を着て、古い鳥打帽を被り、店をお作と小僧とに托(あず)けて、和泉屋へ行くと言って宅を出た。


 新吉の商売は、貧乏人相手の「細かい商い」だ。わずかばかりの醤油や酒を売って、そこからわずかな利益を得る。そのわずかな利益をコツコツためて行って身代を築く。そういう商売をしていると、生活、考え方も、みなそういう商売に沿ったものとなる。一円を稼ぐのに費やした苦労を考えると一円をおいそれとは使えない。時間も無駄にはできない。ちょっとの時間でも働いて稼がなければ気が済まない。

 こうした商人の姿を新吉は一身に担っている。この人物造型は実にうまい。モデルがいたにせよ、やはり秋声の人間観察は優れていて、それが、硯友社での長い文章修行によって見事に表現されているわけだ。尾崎紅葉の弟子となって、多くの小説を書いてきた秋声だったが、なかなかヒット作が出なかった。その秋声の努力がようやく実を結んだのが、この『新所帯』だったわけである。

 新婚だからといって、生活に変わりはないから、女房も新しい働き手でしかない。新吉は女房を特訓するわけだ。

 ところが、お作は、どうも心許ない。「ニヤニヤ笑っている」ばかりで、もどかしい。このお作は、登場してきたときから、いい印象を新吉に与えていない。小柄で地味でぱっとしない女だ。顔も美人とは言いがたい。しかし、これで商売をテキパキとこなすような女なら、新吉にとってはなんの不満もないはずだった。それが、こんなふうにハッキリしないのでは、新吉もイライラするばかりだ。


 お作は後でほっとしていた。優しい顔に似合わず、気象はなかなか烈しいように思われた。無口なようで、何でも彼でもさらけ出すところが、男らしいようにも思われた。昨夜の羽織や袴を畳んで箪笥にしまい込もうとした時、「其奴(そいつ)は小野が、余所(よそ)から借りて来てくれたんだから……。」と低声に言って風呂敷を出して、自分で叮寧に包んだ、虚栄(みえ)も人前もない様子が、何となく頼もしいような気もした。初めての自分には、胸がドキリとするほど荒い言(ことば)をかけることもあるが、心持は空竹(からたけ)を割ったような男だとも思った。この店も二、三年の中には、グッと手広くするつもりだから……と、昨夜寝てから話したことなども憶(おも)い出された。自分の宅の一ツも建てたり、千や二千の金の出来るまでは、目を瞑(つぶ)って辛抱してくれろと言った言を考え出すと、お作はただ思いがけないような切ないような気がした。この五、六日の不安と動揺とが、懈(だる)い体と一緒に熔(とろ)け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。
 お作は机に肱を突いて、うっとりと広い新開の町を眺めた。淡(うす)い冬の日は折々曇って、寂しい影が一体に行き遍(わた)っていた。凍(かじか)んだような人の姿が夢のように、往来(ゆきき)している。お作の目は潤んでいた。まだはっきりした印象もない新吉の顔が、何(なん)かしらぼんやりした輪のような物の中から見えるようであった。


 一方、お作は新吉をどう見ていたのか。何を言われても「ニヤニヤ笑っている」お作だが、新吉という男を案外きちんと見ている。ポンポンと厳しい言葉を投げられるのは辛いけど、新吉が悪人じゃないことはよく分かる。表裏のない、さっぱりとした男らし男だ。見栄を張らないでなんでもあけすけに言うあたりは頼もしい。そうお作は思うのだ。

 床の中の睦言も、商売のことばかりだけど、それでも、もっと稼ぐからしばらくは辛抱してくれというような言葉は、甘く響く。それがお作を「思いがけないような切ないような気」にさせる。

 お作は、新吉に愛されるとは思っていなかったのだろう。自分の容姿や性格へのコンプレックスは当然あったはずで、こんな私だから、ジャマにされていつか追い出されるに違いないといった投げやりな気持ちがあったかもしれない。だからこそ、婚礼の席で、別の部屋にさがってひとりボンヤリしていたのだ。自分に幸せはふさわしくない、そう思っていたのかもしれない。

 それなのに、新吉は、床の中で自分に優しい言葉をかけてくれた。それがお作には「思いがけなかった」のだ。そして、それが「切ない」のだ。嬉しいのだが、手放しで喜べない。いつかそんな甘い言葉もかけてくれなくなるに決まっている、そう思うから「切ない」のだ。

 「この五、六日の不安と動揺とが、懈(だる)い体と一緒に熔(とろ)け合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。」──「懈い体」は、夜の行為のせいでもあろう。甘ったるい快楽を懈い体に反芻しながら、嬉しいとも思い、はかないとも思う気持ちを「胸一杯に漂」わせてうっとりするお作。

 この辺の文章の見事さには目を見張るものがある。涙に潤んだお作の目に映る冬の日の町。そこにぼんやり浮かぶ新吉の顔。その顔をお作はまだはっきりと思い出せないのだ。

 新吉は優しいけれど、でも、ほんとうはどういう男なのだろう。そして、自分はいつまでこの男と暮らせるだろう。きっといつか捨てられる。その不安からお作は逃れられない。風景は涙に揺れるのである。

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 50 子どもは走る──アッバス・キアロスタミ『友だちのうちはどこ?』

2019-02-07 15:09:09 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 50 子どもは走る──アッバス・キアロスタミ『友だちのうちはどこ?』

2018.2.7


 

 子どもだけが持っている「仁義」がある。それは絶対的なもので、大人のように「諸般の事情」によって破られるものではない。どこまでも純粋で、どこまでも忠実で、そしてどんな「事情」をも突破してしまう。

 大人は子どもの言葉に耳を傾けない。子どもはそれに絶望しながらも、訴えつづける。何度でも何度でも、訴えつづける。それでも大人は耳を持たない。子どもはただ走るしかない。ただ走って、「仁義」を果たそうとする。その結果がどうであれ、「走る」ことに意味がある。

 アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』は、学校で隣に座っている友だちのノートを間違えて持ってきてしまった子どもが、それを友だちのうちに返しにいく、というだけの話である。友だちは、「ノートに宿題をやってこなかった」ことで先生に叱られ、こんど同じことをしたら退学だと言われている。それなのに、男の子は、その友だちのノートを間違えて自分のカバンに入れて帰ってきてしまったのだ。もし、今日中にそのノートを友だちに返せなかったら、友だちは退学になってしまう。それはぼくのせいだ。だから、どうしても今日中に友だちに返さなきゃならない。そう思うのだ。

 けれども、母親は厳しく、宿題をしろという。友だちのノートを間違えて持ってきちゃったから返しにいきたいと言っても、遊びにいく口実だと思って許してくれない。そのうえ、さまざまな雑用を言いつけてくる。

 とうとう男の子は、家を抜け出し、友だちにうちへ向かう。けれども遠い町のどこに友だちのうちがあるのか知らない。知らないけれど、たずねていく。丘を越えて走る。出会う大人たちは、総じて無関心だ。自分のことで精一杯。一緒についてきてくれたのはオジイサンだったけれど、そのオジイサンは高齢のため、はやく歩けない。かえって足手まといになってしまう。

 はたして男の子は、無事にノートを友だちに返すことができるのだろうか、というサスペンスが、見るものの心を惹きつける。

 結果は言わぬが花だが、とにかく、出てくる人間の表情がいい。全部、素人だというのだが、それがまたドキュメンタリーのような感触を与える。子どもの表情も、いい。いいといっても、この映画に出てくる子どもは、誰一人として笑っていない。みんなどこかおびえたような顔をしている。先生の言葉にビクビクしている。親の言葉にもおびえている。

 子どもはどうしようもなく不安なのだ。大人は、子どもをしつけようとしか考えていない。世間に出てこまらないように、あるいは、よい稼ぎができるように、礼儀を身に付けさせなければならないと思い込んでいる。だから、宿題を言われたとおりノートにやってこないことは許されないのだ。同じことを三回言われて守れない子どもは退学なのだ。

 そういう大人の勝手な「教育」の中で、それでも、子どもは子どもの領分で、「仁義」を通そうとする。その一途さに涙が出る。

 いくら訴えても、耳を貸してくれない大人の姿を見ているうちに、最近の野田でおきた両親による子どもの虐待事件のことがいやおうなく思い浮かんだ。

 いつの時代でも、子どもは犠牲者だ。暴力の犠牲になることもあれば、過剰な愛の犠牲になることもある。大人の犠牲にならずに子ども時代をまっとうできるなんて至難の業だ。それでも、子どもは走る。子どもは生きる。その姿の尊さを、この映画は見事に、心にしみ入るように教えてくれる。





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日本近代文学の森へ (89) 徳田秋声『新所帯』 9 外面(そとづら)のいい男

2019-02-06 10:10:19 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (89) 徳田秋声『新所帯』 9 外面(そとづら)のいい男

2019.2.6


 

 友人たちも皆帰った。新吉はグッタリである。新婚初夜のときめきもない。


「アア、人の婚礼でああ騒ぐ奴の気が知れねえ。」というように、新吉は酔(え)いの退(ひ)いた蒼い顔をしてグッタリと床に就いた。
 明朝(あした)目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭(まくらもと)には綺麗に火入れの灰を均(なら)した莨盆と、折り目の崩れぬ新聞が置いてあった。暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴の音が、眠りを貪った頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。
 何だか今朝から不時な荷物を背負わされたような心持もするが、店を持った時も同じ不安のあったことを思うと、ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。床を離れて茶の間へ出ようとすると、ひょっこりお作と出会った。お作は瓦斯糸織(ガスいとお)りの不断着に赤い襷をかけて、顔は下手につけた白粉が斑づくっていた。
「オヤ。」と言って赤い顔をうつむいてしまったが、新吉はにっこりともしないで、そのまま店へ出た。店には近所の貧乏町から女の子供が一人、赤子を負(おぶ)った四十ばかりの萎(しな)びた爺(おやじ)が一人、炭や味噌を買いに来ていた。
 新吉は小僧と一緒に、打って変った愛想のよい顔をして元気よく商いをした。

 

 明朝の描写は趣深い。莨盆と新聞には、お作の心遣いがみえる。「豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。」も、いい。どんな鈴の音だったのか想像できないが、この当時は朝夕にいろいろな物売りがいろいろな声や音を町中に響かせていたことだろう。落語を聞いていると、そのいくつかを実演してくれる。

 そういえばぼくの幼い頃も、納豆売り、棹竹売り、金魚売りなどの声をよく聞いたものだ。特に金魚屋のオヤジは粋だったなあと懐かしく思い出す。明治から昭和へと時代は移ったけれど、そしてその間に大きな戦争もあったけれど、庶民の生活はそれほど大きく変わったわけではない。変わったのは、ここ数十年の間だ。

 「瓦斯糸織」というの初めて見る言葉。「ガス糸」とは、「ガスの炎の中を高速度で通過させ、糸の表面の毛羽を焼き光沢を与えた糸。主に綿糸の双糸(そうし)に施す。」(日本国語大辞典)だそうで、その糸で織った織物のことを「瓦斯糸織」というとのこと。「日本国語大辞典」の「ガス糸織」の項目には、例文として、『新所帯』のこの部分が採られている。「ガス糸」の用例も、尾崎紅葉の『多情多恨』や、長塚節の『土』などからも採られており、当時はよく使われていた言葉だったことがうかがわれる。要は、安い布地の普段着ということだろう。その着物に赤い襷というのは、かいがいしいが、白粉は「斑」である。

 新吉の気分は、「不時な荷物を背負わされたような心持」で、どこか不安だ。けれども「ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。」というわけで、お作との「新所帯」に、かすかな希望も感じていたのだ。

 けれども床から出てお作と顔を合わせると、お作は、「『オヤ。』と言って赤い顔をうつむいてしまった」と、新妻らしい恥じらいをみせるのに、新吉は「にっこりともしないで、そのまま店へ出」てしまう。ただ照れくさいからなのか、それとも床の中で感じた不安がまだ払拭されていないからなのか分からないが、お作の気持ちを考えると気の毒になる。

 店に来る客に「赤子を負(おぶ)った四十ばかりの萎(しな)びた爺(おやじ)」がいたとあるが、この辺はまさに「隔世の感」がある。たった40歳前後の男が「萎びたオヤジ」と表現されるなんて、いくらなんでもかわいそうだが、しかし、明治末期の年齢感覚はこんなものだったのだろう。

 店に出た新吉は「打って変った愛想のよい顔をして元気よく商いをした」。外面のいい男の典型だろう。家庭内ではシンネリムッツリなのに、外へ出るとやたら愛想がいい男。お作の行く末が案じられる。


 朝飯の時、初めてお作の顔を熟視することが出来た。狭い食卓に、昨夜(ゆうべ)の残りの御馳走などをならべて、差し向いで箸を取ったが、お作は折々目をあげて新吉の顔を見た。新吉も飯を盛る横顔をじっと瞶(みつ)めた。寸法の詰った丸味のある、鼻の小さい顔で額も迫っていた。指節の短い手に何やら石入りの指環を嵌(は)めていた。飯が済むと、新吉は急に気忙しそうな様子で、二、三服莨を吸っていたが、やがて台所口で飯を食っている傭い婆さんに大声で口を利き出した。
「婆さん、この間から話しておいたようなわけなんだから、私(あっし)のところはもういいよ。婆さんの都合で、暇を取るのはいつでもかまわねえから……。」
 婆さんは味噌汁の椀を下に置くと、「ハイハイ。」と二度ばかり頷いた。
「でも今日はまあ、何や彼や後片づけもございますし、あなたもおいでになった早々から水弄(みずいじ)りも何でしょうからね……。」とお作に笑顔を向けた。
「己(おれ)ンとこアそんなこと言ってる身分じゃねえ。今日からでも働いてもらわなけれアなんねえ。」と新吉は愛想もなく言った。
「ハアどうぞ!」とお作は低声(こごえ)で言った。
「オイ増蔵、何をぼんやり見ているんだ。サッサと飯を食っちまいねえ。」と新吉はプイと起った。


 朝飯は、一仕事終えてからだ。お作の「飯を盛る横顔」をじっと見つめる新吉の目は冷たい。新吉はまだ、このお作の顔をじっくりと見たことはなかったのだ。しげしげ見れば、寸詰まりの丸顔で、鼻も小さく、額も狭い。手の指も短い。美人というのが、面長で、鼻もちょっと高くて、額も広いとすれば、その反対である。新吉はお作の容貌が気に入らないのだ。

 だから不機嫌になる。莨をせわしなく吸って、急に大声だして傭い婆さんに話しかける。もう来なくていい、嫁が来たんだから、というのだ。婆さんは、まあそういわずに、今日ぐらいはお嫁さんに水仕事をさせるのはかわいそうですよ、というのだが、新吉はうちはそんなご身分じゃねえ、嫁には今日からでも働いてもらわなくっちゃ困るんだと言うのだ。

 お作は、「『ハアどうぞ!』とお作は低声(こごえ)で言った。」とあるように、はっきりしない。新吉がシャキシャキ動き、ものを言うのに対して、お作は、グズグズして、ちっともはっきりしない。ここにもう、二人の決定的な溝が見える。新吉はますます苛立ち、使用人の増蔵に八つ当たりするのだ。

 こうして読んでくると、やはり秋声はうまいなあと感心してしまう。新婚の朝のほんの一コマなのだが、そこに、二人の性格の違い、そして二人の将来までもが、見事に描きだされている。





 


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日本近代文学の森へ (88) 徳田秋声『新所帯』 8 下品でしたたかな人たち

2019-02-03 11:07:22 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (88) 徳田秋声『新所帯』 8 下品でしたたかな人たち

2019.2.3


 

 「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」という和泉屋の声に、座も盛り上がり、新吉も挨拶にまわる。


 新吉も席を離れて、「私(あっし)のとこもまだ真(ほん)の取着き身上で、御馳走と言っちゃ何もありませんが、酒だけアたくさんありますから、どうかマア御ゆっくり。」
「イヤなかなか御丁重な御馳走で……。」と兄貴は大きい掌に猪口を載せて、莫迦叮寧なお辞儀をして、新吉に差した。「私(わたし)は田舎者で、何にも知らねえもんでござえますが、何分どうぞよろしく。」
「イヤ私(あっし)こそ。」と新吉は押し戴いて、「何(なん)しろまだ世帯を持ったばかりでして……それに私アこっちには親戚(みより)と言っては一人もねえもんですから、これでなかなか心細いです。マア一つ皆さんのお心添えで、一人前の商人になるまでは、真黒になって稼ぐつもりです。」
「とんでもないこって……。」と兄貴は返盃を両手に受け取って、「こちとらと違えまして、伎倆(はたらき)がおありなさるから……。」
「オイ新さん、そう銭儲けの話ばかりしていねえで、ちょっとお飲(や)りよ。」と小野は向う側から高調子で声かけた。
 新吉は罰が悪そうに振り顧(む)いて、淋しい顔に笑みを浮べた。「笑談(じょうだん)じゃねえ。明日から頭数が一人殖えるんだ。うっかりしちゃいらんねえ。」と低声(こごえ)で言った。
「イヤ、世帯持ちはその心がけが肝腎です。」と和泉屋は、叔母とシミジミ何やら、談(はな)していたが、この時口を容れた。「ここの家へ来た嫁さんは何しろ幸せですよ。男ッぷりはよし、伎倆はあるしね。」
「そうでございますとも。」と叔母は楊枝で金歯を弄(せせ)りながら、愛想笑いをした。
「これでお内儀さんを可愛がれア申し分なしだ。」と誰やらが混ぜッ交した。
 銚子が後から後からと運ばれた。話し声がいよいよ高調子になって、狭い座敷には、酒の香と莨の煙とが、一杯に漂うた。
「花嫁さんはどうしたどうした。」と誰やらが不平そうに喚(わめ)いた。
 和泉屋が次の間へ行って見た。お作は何やら糸織りの小袖に着換えて、派手な花簪を挿し、長火鉢の前に、灯影に背いて、うつむいたままぽつねんと坐っていた。
「サアお作さん、あすこへ出てお酌しなけアいけない。」
 お作は顔を赧(あか)らめ、締りのない口元に皺を寄せて笑った。
 小野が少し食べ酔って管を捲いたくらいで、九時過ぎに一同無事に引き揚げた。叔母と兄貴とは、紛擾(ごたごた)のなかで、長たらしく挨拶していたが、出る時兄貴の足はふらついていた。新吉側の友人は、ひとしきり飲み直してから暇を告げた。


 お作の兄や叔母は、とにかく新吉の「伎倆(はたらき)」があることが気に入っていることが露骨に分かる。新吉も、ひたすら自分がまだ「取着き身上」に過ぎないから、とにかく「真黒になって稼ぐ」ことを約束するのだが、そんな新吉と親戚のやりとりを耳にした小野は、「オイ新さん、そう銭儲けの話ばかりしていねえで、ちょっとお飲(や)りよ。」と「高調子」で声をかける。新吉はムッとして、「笑談(じょうだん)じゃねえ。」と呟く。

 この辺のやりとりは、真に迫っている。新吉は、別に「銭儲け」の話をしているつもりはない。新しい世帯を持ったのだから、これまで以上に働かねばならないと思っているだけだ。それを小野は「銭儲けの話」だという。カチンときた新吉が、「低声(こごえ)」で呟くあたりに、新吉の短気な気性があらわれている。胸のあたりにキラリと刃物が光るような危険な感じがある。新吉の「男っぷり」がいいだけに余計にその危険度が鋭く感じられる。映画でいえば、この新吉は、若いころの中村錦之助にやらせたい。ちょっと男っぷりがよすぎるけど。

 このままでは一触即発、喧嘩になりかねない。そこで、和泉屋が割って入る。叔母も応じる。この叔母も「楊枝で金歯を弄(せせ)りながら、愛想笑い」をするあたり、なんとも、下品なしたたかさを感じさせる女である。(やっぱり杉村春子だね。)

 ぼくは昔からこの「楊枝で歯をせせる」という所作が嫌いでならない。ぼくだって、歯にものが挟まったときは、楊枝を使うこともあるけれど、ランチなんぞを食べたサラリーマンのオヤジが、店から楊枝をくわえて出てくるのを見ると、なんとも嫌な気分になる。ほとんど嫌悪を感じる。それはそういう所作が汚らしいと感じるためでもあるが、「ああオレは今ものを食って満足だ」という自足の気分に浸っているオヤジが、どうにも我慢がならないゆえでもある。どうしてそういう風に感じるのか、自分でも分からない。何か、過去にあったのだろうか。

 そう思って幼いころを思い出すと、ぼくの育った横浜の下町には、こういう下品でしたたかなオバサンやらオジサンやらがあふれかえっていたなあと思い当たる。自分の家だって上品からはほど遠い職人の家だったけれど、それでも、そうした周囲の人たちとはどこかが違っていたように思う。どこが違っていたのかはっきりとは分からないのだが。

 「これでお内儀さんを可愛がれア申し分なしだ。」なんていう下卑たセリフに座が乱れ、「花嫁さんはどうしたどうした。」と花嫁にお酌を迫る者もいる。猥雑な庶民の婚礼の風景だ。

 そんな宴席の喧噪を避けて、「何やら糸織りの小袖に着換えて、派手な花簪を挿し、長火鉢の前に、灯影に背いて、うつむいたままぽつねんと坐ってい」るお作の姿は印象的だ。花嫁こそ主人公のはずなのに、誰もそんなふうには思っていない。親戚は、お作が「稼ぎのある」男に嫁いだことが嬉しくてならない。できれば、自分たちもお相伴にあずかりたいといった魂胆がみえみえだ。小野やら、和泉屋らは、飲むことしか考えていない。あげくに、花嫁の「酌」を要求する始末だ。

 要するに私利私欲だけがここにはあって、誰一人、お作の幸せを、心から祝福する人間はいないのだ。





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