今朝の上海は晴れです。予報は晴れ後雲が多目の晴れ、最高気温は9度、最低は4度です。上海は晴天が続いています。風があるのか、空気もややましな感じです。
清東陵の見学は乾帝の裕陵とその皇后妃の陵まで終わりました。「現在位置」を示すべく、最初の図は清東陵の西部分の鳥瞰図です。図の右手が東で、右端に乾帝の裕陵と裕陵妃園寝がみえます。前回までこの裕陵と裕陵妃園寝を紹介していました。
その更に西側では、図右手から順に慈禧陵、慈安陵、定妃園寝、定陵と続きますが、みんな定陵の主である咸豊帝の関連です。乾帝の次の嘉慶帝、道光帝は清西陵に行き、そのまた次の咸豊帝は東陵に戻り、定陵に納まりました。
慈禧は咸豊帝の唯一の男子を産んだ功績により妃賓となり、その男子が次の同治帝になるに従い皇太后となり、紫禁城の西側の宮殿に住んだので西太后と呼ばれます。特に同治帝のその次の光緒帝(同治帝の従弟、そしてその生母は西太后の妹です)の時代の「垂簾聴政」(すいれんちょうせい)は有名です。
慈安は咸豊帝の皇后で、同治帝時代に東太后と呼ばれたとのこと。西太后の名は以前から知っていましたが、東太后が居たとはこの歳で初めて知りました。
この慈禧と慈安の陵墓は皇帝陵のように荘大です。夫の咸豊帝の死後西太后、東太后となり、特に西太后は執政したので、定陵近くに皇帝並みの陵墓に納まったということだと思います。東太后が先に没したのですが、西太后は自分の死後のことを考え、東太后の陵墓を皇帝並みにして、自分もその隣に同様の陵墓に納まるようにしたのだと私は想像します。
その慈禧陵、慈安陵の次が定妃園寝で、咸豊帝の皇后、妃が15人葬られています。
そして一番西側に咸豊帝の定陵があるということです。今回の見学では慈禧陵と慈安陵を見て、それで清東陵の見学を終わりました。定妃園寝と定陵はパスしました。鳥瞰図ではすぐ隣のように見えますが、慈禧陵と慈安陵が接近している以外、定妃園寝、定陵は離れており、運転手の誘導で見るのを止めました。午前中半日で東陵を幾つも見ると、途中でもういいという気持ちにもなりました。
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清東陵の見学は乾帝の裕陵とその皇后妃の陵まで終わりました。「現在位置」を示すべく、最初の図は清東陵の西部分の鳥瞰図です。図の右手が東で、右端に乾帝の裕陵と裕陵妃園寝がみえます。前回までこの裕陵と裕陵妃園寝を紹介していました。
その更に西側では、図右手から順に慈禧陵、慈安陵、定妃園寝、定陵と続きますが、みんな定陵の主である咸豊帝の関連です。乾帝の次の嘉慶帝、道光帝は清西陵に行き、そのまた次の咸豊帝は東陵に戻り、定陵に納まりました。
慈禧は咸豊帝の唯一の男子を産んだ功績により妃賓となり、その男子が次の同治帝になるに従い皇太后となり、紫禁城の西側の宮殿に住んだので西太后と呼ばれます。特に同治帝のその次の光緒帝(同治帝の従弟、そしてその生母は西太后の妹です)の時代の「垂簾聴政」(すいれんちょうせい)は有名です。
慈安は咸豊帝の皇后で、同治帝時代に東太后と呼ばれたとのこと。西太后の名は以前から知っていましたが、東太后が居たとはこの歳で初めて知りました。
この慈禧と慈安の陵墓は皇帝陵のように荘大です。夫の咸豊帝の死後西太后、東太后となり、特に西太后は執政したので、定陵近くに皇帝並みの陵墓に納まったということだと思います。東太后が先に没したのですが、西太后は自分の死後のことを考え、東太后の陵墓を皇帝並みにして、自分もその隣に同様の陵墓に納まるようにしたのだと私は想像します。
その慈禧陵、慈安陵の次が定妃園寝で、咸豊帝の皇后、妃が15人葬られています。
そして一番西側に咸豊帝の定陵があるということです。今回の見学では慈禧陵と慈安陵を見て、それで清東陵の見学を終わりました。定妃園寝と定陵はパスしました。鳥瞰図ではすぐ隣のように見えますが、慈禧陵と慈安陵が接近している以外、定妃園寝、定陵は離れており、運転手の誘導で見るのを止めました。午前中半日で東陵を幾つも見ると、途中でもういいという気持ちにもなりました。
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