鼓楼北側にある牌坊です。牌坊の先に鼓楼が見えます。天津鼓楼は1952年に撤去され、2001年に再建されました。再建の時、鼓楼を東西南北に貫く道路は歩行街になったようです。
以下は、天津鼓楼とは直接関係無い道路名に関する考察です。
天津では昔の地名をそのまま使っているようです。長い道路でも、昔の地名で場所により名前が異なります。
上海は解放後(戦後)、道路名を一斉に変更したようで、原則として中国の他の都市名を道路名にしています。南京路とか、北京路とかがそうです。大きな道路は中国の重要都市名がつけられています。香港路という道路もありますが、当時イギリス植民地であったことを反映して、見栄えのしない細い道路です。また淮海会戦勝利を記念した淮海路は上海の繁華街に使われています。
戦前の流行歌である「上海ブルース」には「夢のすまろ」というくだりががありますが、この「すまろ」は「四馬路」のことで、今では福州路という名前になっています。外灘(バンド)近くには北から順に南京路、九江路、漢口路、福州路と並んでいますが、南京路は大馬路、九江路は二馬路、漢口路は三馬路、そして福州路は四馬路と呼ばれていたそうです。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ
と
にクリックを!
以下は、天津鼓楼とは直接関係無い道路名に関する考察です。
天津では昔の地名をそのまま使っているようです。長い道路でも、昔の地名で場所により名前が異なります。
上海は解放後(戦後)、道路名を一斉に変更したようで、原則として中国の他の都市名を道路名にしています。南京路とか、北京路とかがそうです。大きな道路は中国の重要都市名がつけられています。香港路という道路もありますが、当時イギリス植民地であったことを反映して、見栄えのしない細い道路です。また淮海会戦勝利を記念した淮海路は上海の繁華街に使われています。
戦前の流行歌である「上海ブルース」には「夢のすまろ」というくだりががありますが、この「すまろ」は「四馬路」のことで、今では福州路という名前になっています。外灘(バンド)近くには北から順に南京路、九江路、漢口路、福州路と並んでいますが、南京路は大馬路、九江路は二馬路、漢口路は三馬路、そして福州路は四馬路と呼ばれていたそうです。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ


今朝の上海は晴れです。予報は雲が多目の晴れ、最高気温は10度、最低は5度です。
清東陵は昨日で終わりました。清東陵を見たのは7月31日です。天津薊県から行きました。午後一番くらいに薊県に戻り、バスで天津の市街地に戻りました。天津から上海へのフライトは余裕を見て夜の便にしてあったので、少し時間がありました。それで天津の鼓楼を見ることにしました。
まず写真1枚目は天津地図です。右橋に鉄道があり、文字の表示は欠けていますが駅の絵が見えます。天津駅です。中央右側に河が見えるのが海河です。中央左側に緑色の道路で、北から北大街、北外街と表示があります。その道路は更に南に行くと2本平行した道路に分かれ、共に城廂中路と表記されています。その道にはさまれた形にあるのが鼓楼です。
鼓楼の真下から東へ鼓楼東街、西へ鼓楼西街、南へ鼓楼南街、北へ鼓楼北街が走っています。そして、それぞれその先に東馬路、西馬路、南馬路、北馬路があり、鼓楼を中心にした四角形の地域があります。そしてその外側には南門外大街、北門街大街、東門内大街、西関大街等、城の内外を示す地名が多くあります。私は、この四角形の地域が古い天津の城内で、東西南北の馬路は城壁の址ではないかと推測します。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ
と
にクリックを!
清東陵は昨日で終わりました。清東陵を見たのは7月31日です。天津薊県から行きました。午後一番くらいに薊県に戻り、バスで天津の市街地に戻りました。天津から上海へのフライトは余裕を見て夜の便にしてあったので、少し時間がありました。それで天津の鼓楼を見ることにしました。
まず写真1枚目は天津地図です。右橋に鉄道があり、文字の表示は欠けていますが駅の絵が見えます。天津駅です。中央右側に河が見えるのが海河です。中央左側に緑色の道路で、北から北大街、北外街と表示があります。その道路は更に南に行くと2本平行した道路に分かれ、共に城廂中路と表記されています。その道にはさまれた形にあるのが鼓楼です。
鼓楼の真下から東へ鼓楼東街、西へ鼓楼西街、南へ鼓楼南街、北へ鼓楼北街が走っています。そして、それぞれその先に東馬路、西馬路、南馬路、北馬路があり、鼓楼を中心にした四角形の地域があります。そしてその外側には南門外大街、北門街大街、東門内大街、西関大街等、城の内外を示す地名が多くあります。私は、この四角形の地域が古い天津の城内で、東西南北の馬路は城壁の址ではないかと推測します。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ


雨または雪の予報で、雨がときどき降っています。空は雲で、わずかに光が漏れてくるときがあるだけです。比較的大きな寒波は去りました。
富山地方気象台の伊藤さんは、昨夜のテレビで「正月は比較的穏やかに過ぎる?」と言いました。それで年末年始の予報を見ると、雪マークと雨マークが並んでいてそれに雲が重なっています。頭が「?」となりました。大寒波が来て大雪にでもならない限り、富山では「比較的穏やかに正月が過ぎた」となるわけです。初日の出が拝めたなら、大祝いですね。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ
と
にクリックを!
富山地方気象台の伊藤さんは、昨夜のテレビで「正月は比較的穏やかに過ぎる?」と言いました。それで年末年始の予報を見ると、雪マークと雨マークが並んでいてそれに雲が重なっています。頭が「?」となりました。大寒波が来て大雪にでもならない限り、富山では「比較的穏やかに正月が過ぎた」となるわけです。初日の出が拝めたなら、大祝いですね。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ


咸豊帝の次の同治帝は咸豊帝に続き清東陵を選び、恵陵に納まりました。恵陵は、定陵の更に西側にせず、清東陵の東側にしましたが、順治帝の裕陵、康煕帝の景陵に並ばず、東の外れに、しかも以前の横列に並ぶ先代皇帝陵よりは南側に造りました。
最後に清東陵の東側部分の鳥瞰図を付けます。図の右上部分にあるのが、恵陵とその関連です。左端上部の端に小さく見えるのが景陵妃園寝で、これは康煕帝の皇后、妃の陵墓です。恵陵はその南東に位置するのが判ると思います。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ
と
にクリックを!
最後に清東陵の東側部分の鳥瞰図を付けます。図の右上部分にあるのが、恵陵とその関連です。左端上部の端に小さく見えるのが景陵妃園寝で、これは康煕帝の皇后、妃の陵墓です。恵陵はその南東に位置するのが判ると思います。
標題をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひ

