インパルのホームページに、星野一義のレース経歴が載っている。
63年カワサキコンバットに入り、64年MXレース開始、和歌山のデビュー戦は転倒、脳震盪で入院とだけ記述されている。
69年、日産の4輪転向までの約5年間カワサキファクトリーに籍を置いた。
星野との思い出も多いのだが、その中の幾つかを、ご紹介しよう。
星野のデビューは、42年前、1964年の今日、11月8日、和歌山紀ノ川で行われた、スポニチ主催第1回西日本モトクロスである。
正確には、デビューではなく、 「レース場を走ったのは」 と言うべきであろう。
当日の朝の練習で、岡部が荒井と接触し指を怪我して、レースに出場出来なくなった。
出場予定のなかった星野だが、チームリーダーの三橋が走らせたいと言うので、 「岡部の代わりに岡部の名前」 で出場させた。
朝のレースで転倒し救急車で病院に運ばれた。入院したのは確かだが、午後帰ってきて、「もう一度、走らせて欲しい」と言い、オープンは完走だけはした。
いい根性だと思ったのを覚えている。
当時の日記の記述に、西日本モトクロスのことは書いているが、星野の記述はない。
契約ライダーでもなく、コンバットの若手のone of themであったから、注目度ゼロであった。
派手に転倒したのが、たまたま、私が見ている前だったので、非常にはっきりと覚えているだけである。
そんな星野のデビュー戦?であったが、5ヶ月後、翌春の全日本には90ccで、ぶっちぎりの優勝を見事果たすのである。
抜群の素質があったのだと思う。
20歳前後の星野は、本当に素直でチームのみんなに可愛がられていた。
1966年11月9日の私の日記の記述に、
「星野が自動車を買いたいと相談に来る。一度話があったが、未だ早い。どうしても買いたいときは相談に来い。と言ったので来宅した。」
と書いてある。
これは前述の転倒と違って、日記の記述はあるが全然覚えていない。
人間の記憶は頼りないものである。
和歌山のレースの2年後,星野19歳のときの話である。
星野の律儀さが、よく出ている。いい男である。
星野がはじめて買った車は、確かホンダS600か800だったと思う。それは何となく覚えている。
未だ、幾つも思い出や面白い話はあるが、またの機会にゆずりたい。
63年カワサキコンバットに入り、64年MXレース開始、和歌山のデビュー戦は転倒、脳震盪で入院とだけ記述されている。
69年、日産の4輪転向までの約5年間カワサキファクトリーに籍を置いた。
星野との思い出も多いのだが、その中の幾つかを、ご紹介しよう。
星野のデビューは、42年前、1964年の今日、11月8日、和歌山紀ノ川で行われた、スポニチ主催第1回西日本モトクロスである。
正確には、デビューではなく、 「レース場を走ったのは」 と言うべきであろう。
当日の朝の練習で、岡部が荒井と接触し指を怪我して、レースに出場出来なくなった。
出場予定のなかった星野だが、チームリーダーの三橋が走らせたいと言うので、 「岡部の代わりに岡部の名前」 で出場させた。
朝のレースで転倒し救急車で病院に運ばれた。入院したのは確かだが、午後帰ってきて、「もう一度、走らせて欲しい」と言い、オープンは完走だけはした。
いい根性だと思ったのを覚えている。
当時の日記の記述に、西日本モトクロスのことは書いているが、星野の記述はない。
契約ライダーでもなく、コンバットの若手のone of themであったから、注目度ゼロであった。
派手に転倒したのが、たまたま、私が見ている前だったので、非常にはっきりと覚えているだけである。
そんな星野のデビュー戦?であったが、5ヶ月後、翌春の全日本には90ccで、ぶっちぎりの優勝を見事果たすのである。
抜群の素質があったのだと思う。
20歳前後の星野は、本当に素直でチームのみんなに可愛がられていた。
1966年11月9日の私の日記の記述に、
「星野が自動車を買いたいと相談に来る。一度話があったが、未だ早い。どうしても買いたいときは相談に来い。と言ったので来宅した。」
と書いてある。
これは前述の転倒と違って、日記の記述はあるが全然覚えていない。
人間の記憶は頼りないものである。
和歌山のレースの2年後,星野19歳のときの話である。
星野の律儀さが、よく出ている。いい男である。
星野がはじめて買った車は、確かホンダS600か800だったと思う。それは何となく覚えている。
未だ、幾つも思い出や面白い話はあるが、またの機会にゆずりたい。