雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

星野がはじめてレース場を走った日

2006-11-08 11:56:59 | M/Cレース
インパルのホームページに、星野一義のレース経歴が載っている。

63年カワサキコンバットに入り、64年MXレース開始、和歌山のデビュー戦は転倒、脳震盪で入院とだけ記述されている。

69年、日産の4輪転向までの約5年間カワサキファクトリーに籍を置いた。

星野との思い出も多いのだが、その中の幾つかを、ご紹介しよう。

星野のデビューは、42年前、1964年の今日、11月8日、和歌山紀ノ川で行われた、スポニチ主催第1回西日本モトクロスである。

正確には、デビューではなく、 「レース場を走ったのは」 と言うべきであろう。

当日の朝の練習で、岡部が荒井と接触し指を怪我して、レースに出場出来なくなった。
出場予定のなかった星野だが、チームリーダーの三橋が走らせたいと言うので、 「岡部の代わりに岡部の名前」 で出場させた。

朝のレースで転倒し救急車で病院に運ばれた。入院したのは確かだが、午後帰ってきて、「もう一度、走らせて欲しい」と言い、オープンは完走だけはした。
いい根性だと思ったのを覚えている。

当時の日記の記述に、西日本モトクロスのことは書いているが、星野の記述はない。
契約ライダーでもなく、コンバットの若手のone of themであったから、注目度ゼロであった。

派手に転倒したのが、たまたま、私が見ている前だったので、非常にはっきりと覚えているだけである。

そんな星野のデビュー戦?であったが、5ヶ月後、翌春の全日本には90ccで、ぶっちぎりの優勝を見事果たすのである。
抜群の素質があったのだと思う。


20歳前後の星野は、本当に素直でチームのみんなに可愛がられていた。

1966年11月9日の私の日記の記述に、
「星野が自動車を買いたいと相談に来る。一度話があったが、未だ早い。どうしても買いたいときは相談に来い。と言ったので来宅した。」
と書いてある。

これは前述の転倒と違って、日記の記述はあるが全然覚えていない。
人間の記憶は頼りないものである。

和歌山のレースの2年後,星野19歳のときの話である。
星野の律儀さが、よく出ている。いい男である。

星野がはじめて買った車は、確かホンダS600か800だったと思う。それは何となく覚えている。

未だ、幾つも思い出や面白い話はあるが、またの機会にゆずりたい。




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権限とは

2006-11-08 08:57:41 | 発想$感想
権限と責任。よく言われる言葉である。

責任とは何となく、理解できるが、権限とは具体的にどんなことなのか、よく解らない、はっきりしない場合が多い。
偉い人の権限はともかく、一般の人たちにも権限は与えられているのだろうか。

30代の頃、読んだ本の中に、「権限とは、その人に与えられた、誤りの量である。」という記述があった。

当時、広告宣伝とレースを担当していて、よく判断を間違った。
然し、この二つの業務は会社としても、はじめての分野でこれを経験した上司が居なかったために、誤りを指摘されることもなく殆ど見過ごされた。

そのころ出会った「権限とは、その人に与えられた誤りの量」という言葉は、私にとって忘れられない言葉になった。

人間、馬鹿でない限り、他人に指摘されなくても、自分で間違いはひそかに反省し、次はちゃんとやろうと思うものである。

それが、進歩につながり、積極性が身につくのだと思う。

後年、部下を沢山持てる身になったとき、自分の権限はともかく、部下の権限とは「その人に与えられた誤りの量である。」ということを徹底して守った積りである。

他人は自分の思い通りには、なかなか動かない。間違いもある。
部下に文句をいう前に、まず「誤りの量の範囲かどうか」を考えた。
範囲内の場合は、黙って見過ごした。

そのうちに、部下は自主性を持って育っていく。

部下の間違いなど、大局に影響はないのである。
あまり小さなことは、注意するより見過ごすほうが、人は育つと思う。
人が育っていくほうが、上は楽になるのである。

お陰様で、周りに仲間とよべる多くの部下に恵まれた。
それが、仕事に繋がるのだと思っている。

然し、官製談合など、これは誰であろうと間違いなく、誤りの量をはるかに超えている。

断じて、見過ごすわけにはいかない。

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