雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

「差別化」を考えよう

2006-11-10 15:12:35 | 発想$感想
差別化。 一般には聞きなれない言葉かも知れない。

差別ということで使いにくい言葉かも知れぬが、マーケッテング用語としては、基本的な言葉である。

私のすべての発想のベースになっている。

会社にいたころ、区別では駄目なのかと上司に言われたことがある。
差別化でなければ、駄目なのである。

最近、ブログを始めた。

私のブログのコンセプトは別にあるのだが、具体的なその内容など、他と差別化することを基本目標として取り組んでいる。

ほかのブログと区別できると同時に、その内容も質も、明らかに他と差があるものにしようと努力するというスタンスである。

自分のことだから、大人しく言っているが、若しこれがビジネスの場合だと、他の追随を許さない、圧倒的なレベルでの実行を目指すことを目標に掲げて、頑張るのである。
所謂、差別化戦略である。

そういう差別化を目指す基本姿勢は、ビジネスなど実戦には極めて有用である。
会社などで立案されるいろいろな施策も、「差別化されているかどうか」の一言のチェックで、そのレベルが図れる。

若し、差別化されていない施策は、ただ造った、計画したというレベルで、殆ど目指す効果は期待できないのが普通である。

ビジネスだけでなく、一般の物事であっても、差別化の意識はいろんなところで有用であると思う。

特徴がある。上手くできている。個性的である。目立つ。立派である。印象的である、等などいろんなことを、たった一つの言葉「差別化」で表わせていると思っている。

そんなに難しく考えず、「差別化を考える」ことは進歩に繋がると思っている。

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レースの偉い仲間たち

2006-11-10 09:48:26 | M/Cレース

昨日、私の仲間たちというブログを書いた。

カワサキでのレースで関係した仲間たちは、想像以上にそれぞれ偉くなっているのである。

そのうちの何人かを、「共有する思い出」の幾つかとともに、ご紹介したい。
今後も私のブログに何度も登場するはずである。


どういう順にと考えたが,歳の若い順番にさして頂いた。


1964年9月13日、山梨モトクロス。
これが私のはじめての現場でのレースマネージメントであった。
ライダーはともかく、技術オンチの私を心配して、メカニック連中のまとめ役として手伝ってくれたのが、田崎さんである。

現在の川崎重工業、田崎雅元会長である。
彼にとっても、多分はじめてのレース現場であったはずである。

田崎さんとは、レースだけでなくいろんなことで、深く関係した。

先日の「カワサキがはじめて鈴鹿を走った日」のなかで、2台のレーサーを造ったとあるが、あの2台をラインから抜き取って、都合してくれたのは彼だった。

あのときは、名前を出すのをためらって、名前は伏せておいた。
昨日、直接電話してブログに名前を出すことの了解を得たので、今書いている。

本当に久しぶりだったので、1時間ほど電話でお互いに雑談を楽しんだ。

電話を切って直ぐ、彼から電話が入った。
「雑感日記、見つけた。お気に入りにいれたから、見させてもらいます。」
一人の定期読者が確保できた。


大槻幸雄さん。カワサキの名車、Z-1の開発チーフリーダーである。

これも先日のブログで紹介したカワサキのはじめての公認ロードレース、6H耐久の監督であった。ちなみに、田崎さんが副監督だった。

大槻さんとの思い出も多いが、今でも年4回は間違いなく、会ってゴルフを楽しんでいる。
大槻さんが会長のゴルフコンペ Z-1会。50名のそれこそ本当に懐かしい仲間の集まりである。
レース関係者が非常に多い。ライダーでは、清原も塚本も的野もいる。歴代のレース監督、メカニックたちも多い。またの機会にくわしく。

大槻さんは、元川重常務である。


あとお二人、どうしても私の仲間としてご紹介したい大先輩は、高橋鉄郎さんと山田えん明さん。(本当はてるあきと読むのだと思うが、みんな えんめいさん とお呼びしていた。私のパソコン技術ではその字が探せない。大変失礼だが進めさせて頂く。)

お二人とも、元川重副社長である。

高橋さんは、レース以外でも私の50年の会社生活で、最も影響を受け、直接ご指導頂いた懐かしく、尊敬する先輩でもあり仲間である。
私の日記のなかの登場回数も、数えたことはないが、多分トップであると思う。

カワサキのはじめてのモトクロスレース、青野ヶ原出場に関しては、色濃く関係されたと記憶している。
(後日、電話で確かめた。中村治道さんが監督だったが、当日来られなくなって、事実上、高橋さんがレースの指揮をとられたそうである。)


山田さん。
カワサキがはじめて外人ライダーとの契約をしたのは、あの鈴鹿のデグナーカーブに名を残す、ドイツ人のデグナーであった。

この契約に直接携わったのが山田さんで、契約書を作ったりお手伝いをしたのが、私である。外人との契約の仕方が解らずに、当時MFJの運営委員をしておられて面識のあった、ホンダの前川さんに鈴鹿まで出向いて教えて頂いたのを思い出す。


こういう社会的にも、偉い人たちを仲間とよんで憚らないのは、本当にレースの仲間として、ともに苦労した実績があるからだと思う。
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