雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

三木市

2006-11-12 17:25:01 | みっきぃふるさとふれあい公園
ブログを9月9日にはじめたきっかけは、三木市にも深く関係がある。

世の中の事柄は、ひょんなことでひょんなことになるものだ。

三木にきて33年、市政など何の関心も持たなかった。

今年のはじめ、永年努めた前市長に代わって、新しく47歳の若い市長が当選した。
市長が若くなったのだな位のことは解っていたが、その程度の関心であった。

4月になって、市長の市政方針を読む機会があった。
その骨子の一つに、「夢。ビジョン。三木のイメージ向上。」があった。
「イメージ向上」という言葉が私の関心事であった。

永年、二輪車の業界やカワサキのイメージ向上について、本気で取り組んできた。

イメージの向上がどれ位難しいものか、身に沁みて解っていた。
また、夢、ビジョン、これを本気に基本方針に揚げるTOPは,日本では珍しい。
これは、基本コンセプトの問題である。


「三木市のイメージ向上について」というテーマに絞り、提言、提案を始めた。

4月中旬からスタートし、今まで88通の市長メールを出した。
半端な数ではない。内容も会社の企画書レベルのもので続けた。

市の情報開示も徹底していて、一般の人でも,市が進もうとしている方向や具体的な内容、市長の思いなど、意外に解る。
詳細に見ると、全体の動きは、タテ割組織の市役所の人より詳しくなったりする。
企画書レベルの提言や提案が出来る所以である。

三木市の庁内会議の議題に正規に採り上げられたりもした。
基本コンセプト、差別化、ネットワーク、トータルシステムなどのマーケッテング用語が議事録に載るようにもなった。

全国の各市の動きも調べたりした。高槻市は今年の行政ホームページコンクールで日本一に輝いた、動きの面白い市である。
その高槻市がブログを始めた。

ブログについても、市長メールで少し触れた。
双方向の情報発信に魅力を感じた。
自分でもよく解らなかったので、自分の勉強のために9月9日から、ブログを始めた次第である。

少々、はまってしまったきらいがある。


ちなみに、三木市が今、掲げている目標
「日本一美しいまち三木をめざそう」である。
そして、「スローライフなまちづくり」を五つの視点から進めようとしている。

市のホームページも内容も、よくなりつつある。

85000人の市だが、年にその50倍の人たちが三木を訪れる。

「みっきい」という愛称もあるし、「FMみっきい」という放送局もある。そこにボランテイヤする人たちのことを放送で「みっきいず」とよんだりして、なかな格好いいんだが。

利用できるツールがいっぱいある。
ヨコ型のネットワークの発想が、今後の行政の展開にも有用と思っている。


二輪業界にも、カワサキにもお世話になったし、今は三木市にもお世話になっている。

幾らかでも「雑感日記」がイメージ向上にお役にたてばと思っている。



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小野田滋郎さんのこと

2006-11-12 11:23:34 | カワサキ単車の昔話

小野田滋郎さん。
カワサキのレースの創生期にライダー関係で三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人だと、私は思っている。

あのフィリッピンから帰国した小野田寛郎中尉の弟さんである。

ブログを書く資料として日記をめくっていたら、1972年10月22日の日記にこんなことを書いている。

(私が39歳、もうレースを離れ、東北での始めての営業経験をして後、大阪にいて、近畿、中部、と東京都という大市場を担当していた。
張り切ってはいたが、背伸びもしていた時代のことである。)

原文のまま、ご紹介する。



「フィリッピンのルパング島で、生き残りの日本兵が島民と銃撃戦、一人が死亡した。一人はジャングルに逃亡。その生き延びた一人は小野田寛郎、和歌山出身、その母の書いた文章をみて、ひょっとしたら小野田滋郎さんのーーと思った。テレビを見ていると小野田さんが出てきた。」


とここまで書いて、あと補遺とある。

小野田さんは、もうその時はカワサキには居なかった。
補遺も少し長いが、原文のままご紹介する。



「小野田滋郎。この人が自分に与えた影響は大きい。

思想的にも、今仕事をしている実務的なやり方も、それに対する態度も。小野田さんは自分がサラリーマン社会に入って以来、この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。

陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、わるく言う人もいるが、自分は小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。

小野田さんの兄さんなら、最も親しかったという兄さんなら、一徹にただ一筋にこの27年,銃を磨き,弾の手入れをし、最後の一人になっても戦う気持ちを失わなかったであろう、と思う。

陸軍中野学校出身のこの秀才の生き方は、その思想の善悪はともかくとして、一筋にひたむきなところに共感を覚える。

箸袋 寛郎と今も 還らぬ子 

小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。

その滋郎さんも10月24日、現地に調査と呼びかけに出発した。
新聞に笑う小野田さんの笑顔、人をひきつけずにおかぬ笑顔である。

人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
自分の39年の人生を振り返ってみて、野球部の先輩の山本治さん、小野田滋郎さん、岩手の久保社長、宮川部長などは、現在の自分の生き方を支えている。

小野田滋郎さんが、あの温かみのある笑顔を更にくしゃくしゃにして、兄とともにタラップを降りて、日本の地を踏まれることを祈るものである。(10月24日夜)」



本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。
今も、お元気である。
毎年頂く年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしている。

いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力である。

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私の自慢話と自慢の人生

2006-11-12 09:22:32 | M/Cレース
ブログのコメントがきっかけで、「仲間」の話をしたら、また、多分若い方から、そのコメントを頂いた。
また何か書こうという気持ちが湧く、応援歌のように思える。

この2,3日の私のブログを自分で読み返してみると、自慢話のようにみえる。
確かに、私の自慢話で、そんなことが書ける面白い人生が歩めたと思っている。

ただ、「私の仲間」に登場した、偉い人たちも、星野や金子など有名人も、私との付き合いのスタート時点は、決して偉くもなく普通の人だった。
星野や金子は名もない、若いライダーの一人でしかなかった。

この人は偉くなるからとか、将来有名になるであろうからなどという下心など、勿論なかった。

「タテ割り」が一般的な日本の社会のなかではあるが、間違いなく「ヨコの繋がり」のほうが面白く、大きな仕事が出来ると、私は確信している。
私の信念みたいなものになっている。

タテ割りの組織のなかだけの仕事など、それがどんなに大きな金額であっても,大きいだけで面白いものではないと思っている。

そして目線は常に末端、Consumerに置くべきと思っている。
そしてそれが実践できたことが、私の秘かな自慢である。

私の仲間たちのなかにも、出会ったはじめから有名人であった人もいるにはいる。
何人かの有名人、島田しんすけなどレースの関係でお会いした。
岩城洸一はある時期本当によくつきあった、「仲間」である。

彼は4輪や2輪のレースやジェットスキーの関係でカワサキに出入りしていた。

ビジネスとして彼を一日拘束したら多分何百万かの金が要るのであろうが、仲間としての付き合いだったから、レーサーに乗せたり、SPA直入を走らせたり、彼の乗るジェットスキーを提供するぐらいのことで、一銭の金も払わずに、いろんなことを手伝ってくれた。

しょっちゅう会社にも顔をみせたが、KAZEの機関紙にも、カワサキのデーラーミーテングにも、サーキットでのカワサキのイベント、JJSBAのジェットスキーの会場にも、大勢の彼の仲間とともに登場し手伝ってくれた。

2輪のレースに関しては、大阪のマフラー製作で有名な月木君のチームのメンバーとして活動した。
当時のことだが、岩城洸一が清原明彦君と直接話しが出来たと馬鹿みたいに喜んでいたのを想いだす。
彼のようなスターにとっても、また別の世界のスターがいるのである。

こんなことが私の自慢話の一つだが、すべてこれらはヨコの繋がりなのである。

ネットワークこそ、人生を面白く生きるKEYであると思っている。
そしてもう一つ、誰とでも本音で話し、同じスタンスで付き合うことである。

それが出来たことが私の特技であり、私の人生の自慢である。

これからも、そう生きたいと願っている。


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