雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

山本隆からコメントが来た

2006-11-23 09:56:36 | M/Cレース
今朝、ブログのページを開いたら、2通のメールが届いていた。
2通とも、懐かしい山本隆君からだった。

1通は昨日の「四国の星」に対して、「懐かしい話すべて読みました」という表題で、今,町内会長や「峠池を考える会」会長をしていて、仕事がおろそかになっているとか。
店を持ってからも、MFJのトライアル委員長などを務めて、仕事をおろそかにするのは、今に始まったことではない。

2通目は、「カワサキMXを確固たらしめたマシンと人」に付けられたものである。
「懐かしい話ばかりです。」の書き出しで、F21Mのサイレンサー無しの音聞いてみたい。「サイレンサー無しの」と言うところが、如何にも山本らしい。
PC国内Bですからという記述もあったが、何のことか私には解らなかった。

2通とも山本らしいコメントである。「OB会楽しみにしてます」と結びにあった。



今まで山本隆君について少しだけ、何回も触れたが、少し纏めて「彼とカワサキの」「彼とわたしの」ことに触れたい。

山本隆君。
1964年から1971年まで約8年間、カワサキのモトクロスの文字通り中心選手として活躍した。

歳森康師とともに神戸木の実に所属したが、このクラブを主宰する片山義美がスズキの契約で、ロードレースであったことなどから、殆どカワサキとの直接契約のような関係だった。
マシンや技術に関心があり、レースのない時も毎日のようにモトクロス職場に出勤?していた。

レースでの活躍はあらためて話す必要もない。素晴らしい結果を残している。
当時カワサキにいた星野一義の兄貴分として、随分と星野を可愛がっていた。
MFJからのご褒美のヨーロッパ旅行も、山本、星野の2人で行った。何故2人だったのか、定かに覚えていないが、セニアとジュニアの最優秀選手ではなかったか。
(やはり間違っていた。山本がコメントで正確に訂正してくれた。)

65年2月13日に山本、歳森の2人から突然辞表が出てBSに行くという騒ぎがあった。
当時直接レースを担当していた川合寿一さんから相談があり、この問題にタッチしたのが、私のレース担当への直接のきっかけとなったのである。

片山義美に、はじめて会い相談した。
片山からはカワサキのレースに対するいろいろな事柄に対し厳しい注文を付けられたが、「もっとも」と思うことが多かった。
レースをはじめて間もないカワサキの経験不足で、レースの世界の理解に乏しかったのが原因の騒動だった。

「これから、ちゃんとやる」と言わされて、レースの世界に首を突っ込む派目になった。

「私とレース」の仲人のひとりが山本であるが、後、私は頼まれて山本君の仲人をつとめた。私の始めての仲人経験である。66年2月27日のことである。


67年から私は東北の営業に転勤したが、毎月のようにライダーたちが東北を訪れた。
当時一番レースが盛んであった東北では毎月どこかでレースが開催されていた。

勿論、レースでも東北に来たのだが、67,68,69年の3年間、山本には東北の各県警の白バイ隊員の講習と実技指導に来てもらった。

宮城、岩手、青森、秋田などでライデング技術の実技指導は当然のことながら、講義でも彼の知識と「講釈師」と言われていた話術は大好評だった。
何故カワサキが白バイのと思う方も多いと思うが、当時はまだメグロの白バイが主力の県警が多かったのである。
こんなことでも、山本にはお世話になった。

1971年で彼の契約は終わるのだが、71年12月13日、彼の引退慰労会が開かれた。
当時の事業部長の山田さん、高橋さんという事業部の幹部と、北村、岩崎、水町の当時のレース担当、私も出席した。
その席で山田さんから、永年の功績に対し20万円が特に手渡された。

こんなことをして貰ったライダーは山本隆君だけだと思う。
自他共に認める、カワサキのレース創生期の功労者であったと思う。

コメント (3)
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