雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

服部謙治君のこと

2006-11-15 16:11:46 | M/Cレース
http://www.hattori-kawasaki.shop-web.org/

レースの担当の後、仙台で東北6県の営業をはじめて担当した。

1967年、私がまだ35才の頃で若かったし、勇ましかった時代のことである。


服部謙治君。
当時、宮城カワサキの工場長で技術のウデは確かであった。
それ以上に、趣味のモトクロスには熱心であった。はじめて会ったころからそこそこ早かった。

当時の東北はモトクロスが日本で一番盛んであったと言ってよく、その開催頻度も群を抜いて多かった。

カワサキの当時のファクトリーの主力は山本、歳森、岡部、星野の時代で、若手としては
清原明彦や従野孝司がまだモトクロスライダーとして走っていた。
マシンはF21Mの全盛期であった。

顔なじみの私がいて気楽だったのか、ライダーたちは競って東北のレースに出場したがった。

服部謙治君も、数多く訪れるライダーたちと一緒に走り、またマシンのチューンを受けたりして、どんどん早くなった。

確か当時の東北のジュニアでは、1~2を争う実力であったと思う。
東北の山本隆と言われたか、自分で言ったか。言ったとしてもおかしくない実力であったと思う。


レースだけでなく、仕事の上でも毎日のように関係があった。

私の東北時代の最後の頃だが(この記述の日時が違っている、これより7年後のことである)、服部君が故郷岩手に帰っての、独立開業を目指した。
相談を受けたが、私は絶対仙台でするべきと主張した。
昨日のことのようによく覚えている。

今、彼は仙台の服部カワサキの社長である。
仙台や近県はもとより、遠く関西からも客を集める有力店で、誰もが認める成功を納めている。

彼のモトクロスでの知名度もあったかと思うが、基本的には彼のサービスのウデの確かさと真面目さが、顧客の信頼を克ちとったと言うべきであろう。

その後、全国いたるところで、販売店とはいろいろと関係し沢山の想い出もあり、このブログにも登場させたいのだが、何をさておいても、服部君のことを最初に採り上げたいと思うのである。

私にとっても、想い出深い最初の経験であった。



全然違う話だが、1970年頃、当時仙台で東北のMFJの担当もしていた佐藤さんが、村田町に立派なモトクロスコースを造った。
当時としては、びっくりするほどの規模だった。

仙台テクニカルハイランドと称したと記憶する。

このコースが立派に育つように、佐藤さんに頼まれて、服部君などとよく練習など、行ったものである。


70年の後半、私は大阪に転勤になったので経緯は確かでないが、このコースで71年6月モトクロスGPが開催されたはずである。

今の、ヤマハのSUGOの前身と言うか、スタートとなった場所だった気がする。

もう30年も前の話である。



コメント (2)
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今朝のメール

2006-11-15 09:36:53 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
毎朝沢山のメールが入る。

情報収集が主たる目的であるため、発信元は、行政の政府、市町村、などのメールマガジンをはじめいろいろある。個人からのメールはめったに入らない。

今朝、珍しく2通の個人からのメールが入った。私にとって、嬉しいメールだったのと、「雑感日記」にも関係があるのでご紹介する。


一つは今アメリカのロスの近く、アーバインにいる娘婿からである。

彼は今、ノーリツのアメリカ進出のために新しく設立された現地法人に出向して、頑張っている。
カワサキも30年ぐらい前に、そんな時代があった。

私ももう73歳になり、自分が生きてきた経験や出合った出来事、仲間のことなど誰かに伝えておきたいというのは、正直な感想である。

誰かは、いろいろある。その中の一つに身内も入る。
つい先日、同じ日に娘婿と息子に「雑感日記」のことを伝えた。
二人とも今40台の前半で、会社の仕事は一番忙しい頃であると思うが、まだまだ人生はこれからである。
何かの参考にでもなればと思った。

娘婿からは今朝、長いメールが入った。全部読んだとか。日記とストレッチ始めてみようかと思っている、などと書いている。
幾らかお世辞もあるだろうが、おおむね気に入ってくれたようなので何よりである。

息子からは当然のことながら、何の連絡もない。想定の範囲内である。


もう一つは、三木市市長室広報、広聴課で、三木市のホームページを担当している中尾君からである。メールを貰ったのは,はじめてである。

市役所の職員の方だが、あえて「君」と書きたくなる。この数ヶ月ではあるがそんな付き合い方をした。

私と同じ野球部の出身で、まだ「さん」とよぶには若すぎる。
頑丈な身体だが頭はスマートである。気さくで前向きなところがいい。

三木市との関係を先日、ブログで少し触れたが、今までに88通出した市長メールの1通目にホームページのことに触れた。

「ホームページは三木市の顔です。こんなホームページでは、三木市のイメージ向上に役立っているとは思えません。」
「札幌や大分などのホームページを一度見て下さい。」
「今のホームページでは、いつまで経っても三木市のイメージは上がりません。有名になったりはしません。」
と書いた。

4月17日のことだから、あれから7ヶ月の月日が流れた。

中尾君からのメール
TOPページのデザイン変更と、フラッシュサイトを新設しました。
「美しいホームページ」をコンセプトにしました。
詳しいことは、またお邪魔してお話します。
というものだった。

相当のレベルになった。ホームページのコンクールでベスト10に入った、大分や高槻、長崎、京都に十分匹敵する出来ばえである。

このブログをお読みになる皆さんにとっては、余り関心のない事柄でしょうが、是非一度、三木市のホームページも開いて見て下さい。


いずれにしても、私にとって嬉しいメールであった。

コメント (1)
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