雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

代理店 昔話ー4

2006-11-22 12:56:33 | カワサキ単車の昔話
「実用車のカワサキ」であった時代、県毎に代理店があった。

カワサキでも「鹿児島の金谷さん」、「新潟の鍋谷さん」、などの呼び名で呼ばれ、「こわい、うるさい」代理店の代表として有名であった。

今この話をしても、通じる人は居なくなってしまったと思うが、このような自前の代理店との関係があった時代の経験は、私にとっては大きな財産である。

現在のように、メーカーの100%資本系列で販売チャンネルが形成されていると、それはそれで、メーカーの思いが直接反映できて合理的ではあるのだが、「上から下へ」の流ればかり、指示伝達が主になって、「下から上へ」の意見が通り難くなりがちである。

仮に「下からの意見」を述べるにしても、聞くにしても、「上が恐れおののくような」種類のものには決してならないのである。

そんな率直な意見なり、文句を聞けた時代を短期間ではあったが経験出来たことは非常によかったと思っている。

レースを担当して後、仙台で代理店制の東北を4年間担当した。
このような流れを汲む、東北6県の代理店の社長さんとのやりとりは、今となっては懐かしい思い出である。

福島の中西さん、宮城の門伝さん、岩手の久保さん、秋田の佐藤さんなど、教えて貰ったことは多い。

この人たちの意見は、痛烈であった。
こんな人たちに鍛えられたお陰で、次の大阪で、船場の岡田さんや、堺の伊藤さんといった「ウルサイが真っ直ぐな人たち」とも、問題なく対応できたのだと思っている。

社内の上司で「ウルサイこわい」と言われていた方たちも、自前の代理店の社長さんに比べたら、随分とやさしく紳士であったと、私には思えた。

その後、メーカーの系列化の度合いに比例して、同じ方の意見も徐々に本音は消えて、やさしくなっていった。本音の意見は聞けない時代になった。

そんな経験から、率直でストレートな意見が聞けない環境にある今、「上の立場にいる」人たちの判断は、ある意味むつかしいのかも知れない。

懐かしい、もう経験できない時代の話である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国の星、夢の扉

2006-11-22 11:08:16 | 発想$感想
今朝の朝日、久しぶりにすがすがしいニュースである。

松坂の大リーグ60億円移籍など、ビックリするようなニュースが続いたが、

「四国の町で、若者の夢がはじけた。2人の選手が、巨人とロッテからドラフト指名を受けた。初のドラフト選手の誕生。あこがれ続けてた舞台への扉が開いた。」と四国リーグからのはじめてのドラフトを報じている。

深沢投手,角中外野手、本当におめでとう。
苦労してリーグを立ち上げた、往年の名選手石毛さんにも心からお祝いを申し上げたい。

選手はドラフト指名された場合、契約金と年俸の合計額の2割をリーグに支払う契約になっているとか。
仕組みとしてはいいと思う。

この独立リーグの赤字は、今年半減したとは言え、1億5千万円になるという。
日本のプロ野球の底辺を拡大する仕組みとして、こんな独立リーグが大きな役割を果たすようになって欲しいと思う。

今の日本のプロ野球の経営システムは、関係のない他人とも言える学校や実業団が育てた選手を、金にあかしてかき集めるものである。
それもいいが、もっと底辺の埋もれた素材を発掘して育てる、このようなシステムに目を向けるべきである。

松坂や井川などの大リーグ移籍で各球団に入る金額の10%とは言わない、せめて1%でも、こんな底辺を支えようと頑張るリーグに寄付する気にでもなればと、ふと思った。

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FISCOの思い出、1966年

2006-11-22 09:18:22 | M/Cレース
FISCOに明けFISCOで終わった。1966年はそんな年だった。

1966年、レースを担当した最後の年である。
前年から、MFJの運営委員の末席をけがしていた。
H前川、S岡野、Y内藤さんという経験豊かな方々の中で、会議のなかでただ座って、傍聴しているレベルの頼りない委員であった。

GP準備委員会が設立され、FISCOでの日本GPについての、難しい議題の検討が65年末から続けられた。

Hは第1コーナーが余りにも危険という理由で終始反対だったが、S,Yは鈴鹿から新しいFISCOということで、賛成だった。
議論の焦点は第1コーナーに集中した。私など、議論に入る見識も持ち合わせず、ただ黙って議論の流れをみていただけである。

66年1月に実際に、現場の視察走行を委員たちで行うことになり、FISCOの第1コーナー,「須走り落とし」を四輪で体験走行した。

ものすごいコーナーだった。すり鉢の底に突っ込んでいく、そんな感じであった。
意見を言うというよりも、カワサキの誰よりも先に自分が走れたというか、経験したということのほうが印象に残っている。

その後、いろいろあったが、Hは6月にその年のGP不参加を表明した。
後年、第1コーナーは、問題視され改修された。
今思えば、Hの主張は正しかったのだと思う。

GPの前に、幾つかのレースもあった。
W1のレーサーで金谷秀夫が走ったりした。直線は無茶苦茶早かったが、裏のカーブで抜き返された。左ブレーキ、右チェンジのレーサーだった。

9月18日のレースでは、90ccで村上、250cc金谷と、カワサキがはじめてロードレースでの優勝を果たした。

GP前には、マシンのセッテングによく出かけた。
9月29日にはデグナーが練習中、切れたチェーンが後輪に巻きつき転倒、入院することになり、カワサキでのデグナーの走行は見られないまま終わるのである。

そして、本番の日本GP(10月16日)では、GP125では、7位にしか入れなかったが、ジュニア250での、A1Rに乗った金谷とガリーニクソン(Y)の手に汗にぎる一騎打ちは見ごたえのあるいいレースであった。

更に、翌週FISCOのモトクロスレース場で行われた、MCFAJ全日本では、ノービス90cc星野,セニア250山本、オープン山本と優勝、山本隆君が最優秀選手に選ばれた。

250のマシンは、この年の7月のデビューしたF21Mであった。

FISCOに明けFISCOに終わったと言えるこの年の、私のレース担当、最後のレースであった。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする