雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の仲間たち

2006-11-09 17:21:21 | M/Cレース
http://blog.with2.net/link.php?391170


人生70年のなかで、沢山の仲間たちが出来た。

仲間とは、どんな人たちのことをそう呼ぶのか、辞書の定義はともかく、私なりの定義を持っている。

「同じ思い出を共有している人たち」のことをすべて「私の仲間」と呼びたいと思っている。

それは、同年代の野球部の連中も当然そうだが、同僚も後輩もそして少々失礼になるかも知れぬが先輩も、「同じ思い出を共有している人たち」はすべて仲間と呼びたいのが、私の本音である。

会社の人たちだけだなく、レースのライダーやメカニック、販売店の人たち、他メーカーの人たちとも気安く付き合った。

お互いに共通する思い出を持つ私の仲間たちが、全国に、もっと大きく言えば世界に沢山いることが、私の財産だと思っている。

今もなお、仲間たちが増え続けるような生き方が出来たらいいと思っている。

この雑感日記を書き始めて、そんな仲間たちのことも書きたいなと思っているのだが、星野一義や山本隆のことは既に書いた。
正直何の抵抗もなく書けた。
彼らは間違いなく仲間である。

私の日記に登場してくる、仲間だと私が思っている人たちは沢山いるのだが、世間一般の常識でいえば、所謂「偉い人」も意外に沢山いるのである。

この人たちを今後どのように表現したらいいのか、少々悩んで、今日、直接電話してみた。「そんなこと気にせずに」と予想通りの答えが帰ってきた。

当然そのような答えを貰える相手だから、「私の仲間」なのである。

私の雑感日記での仲間たちの呼び方を勝手に決めた。

私より、年齢の上の人はすべて「さん」付け、年齢の下の人は、どんなに社会的な地位が高くとも、すべて「君」付けにすることにした。

と書いて一度実行してみたが、もう一つ座りが悪いので、「さん」にすることに改めた。


どんな仲間が登場するか。乞うご期待である。



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KAZE雑感

2006-11-09 09:08:49 | ジェットスキー&KAZE
http://www.kawasaki-motors.com/kaze/

モーターサイクルやマリンスポーツに関心のある方は、「KAZE」には多分出会ったことがあると思う。

Kawasaki Amusing Zone for Everybodyの頭文字をとって、風を切って走るスポーツビークルとかけて、「KAZE」と呼んだ。

カワサキのユーザークラブで、最盛期は5万人のメンバーを集めた。
各メーカーが、それぞれのユーザーークラブの活動の充実に注力した時代があったが、今も活動を続けているのは、「KAZE」だけだと先日誰かに聞いた。

現役の後半、KAZE活動には心底熱中したので、「KAZE」に関する思い出や想いはいっぱいある。

その想いの一端をご紹介したい。

上述の「KAZE」4文字のなかで、特に想いが入っているのは、「Everybody」である。

メーカーは、自社の商品を売り込むことに熱心である。
当然のことではあるが、それだけが目的になってしまい勝ちである。

二輪車とかジェットスキーという商品は、それをどのように使って楽しむのか。
ツーリング、遊び、レースなど使い方はいろいろある。

商品を買ってくれたユーザーだけではなく、その周りにはいろんな人たちがいる。
公道を走る二輪車は、それに関心のない人たちの間も走るのである。そんな人たちにも、せめて迷惑をかけない心遣いが必要だと思う。

カワサキの基本コンセプトである、「Good Time」コンセプトはカワサキに出会うすべての人たちが、カワサキと出会うことでHappyになる。「Good Time」を持てることを願っているのである。

KAZEの「Everybody」も、カワサキを買ってくれたユーザーだけでなく、KAZEに関心のあるすべての人たちを対象にしているのである。

ホンダ、スズキ、ヤマハを持っている人も、誰でも文字通り「Everybody]である。

従って、ユーザークラブという呼び方は、本当はあたっていない。
私は、1台のオートバイも買ったことはない。ユーザーではないが、今でも現役のKAZE会員である。

レースの世界では、1台のマシンを中心ににチームとして沢山の人たちで構成される。
車を買ってくれた人、それだけがユーザーであると思ってしまうのは間違いだと思っている。

先日のブログで「顧客とは誰のことか」を書いたが、日本の企業の「顧客」と言う意味の捉え方は、どうもおかしいと思う。

現実は、売ることばかりに熱心で、企業の社会的責任などを口では言うが、心では顧客のことなど真剣に考えていないのではないか。

そんなことを考えさせられることが、多すぎる昨今である。
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星野がはじめてレース場を走った日

2006-11-08 11:56:59 | M/Cレース
インパルのホームページに、星野一義のレース経歴が載っている。

63年カワサキコンバットに入り、64年MXレース開始、和歌山のデビュー戦は転倒、脳震盪で入院とだけ記述されている。

69年、日産の4輪転向までの約5年間カワサキファクトリーに籍を置いた。

星野との思い出も多いのだが、その中の幾つかを、ご紹介しよう。

星野のデビューは、42年前、1964年の今日、11月8日、和歌山紀ノ川で行われた、スポニチ主催第1回西日本モトクロスである。

正確には、デビューではなく、 「レース場を走ったのは」 と言うべきであろう。

当日の朝の練習で、岡部が荒井と接触し指を怪我して、レースに出場出来なくなった。
出場予定のなかった星野だが、チームリーダーの三橋が走らせたいと言うので、 「岡部の代わりに岡部の名前」 で出場させた。

朝のレースで転倒し救急車で病院に運ばれた。入院したのは確かだが、午後帰ってきて、「もう一度、走らせて欲しい」と言い、オープンは完走だけはした。
いい根性だと思ったのを覚えている。

当時の日記の記述に、西日本モトクロスのことは書いているが、星野の記述はない。
契約ライダーでもなく、コンバットの若手のone of themであったから、注目度ゼロであった。

派手に転倒したのが、たまたま、私が見ている前だったので、非常にはっきりと覚えているだけである。

そんな星野のデビュー戦?であったが、5ヶ月後、翌春の全日本には90ccで、ぶっちぎりの優勝を見事果たすのである。
抜群の素質があったのだと思う。


20歳前後の星野は、本当に素直でチームのみんなに可愛がられていた。

1966年11月9日の私の日記の記述に、
「星野が自動車を買いたいと相談に来る。一度話があったが、未だ早い。どうしても買いたいときは相談に来い。と言ったので来宅した。」
と書いてある。

これは前述の転倒と違って、日記の記述はあるが全然覚えていない。
人間の記憶は頼りないものである。

和歌山のレースの2年後,星野19歳のときの話である。
星野の律儀さが、よく出ている。いい男である。

星野がはじめて買った車は、確かホンダS600か800だったと思う。それは何となく覚えている。

未だ、幾つも思い出や面白い話はあるが、またの機会にゆずりたい。




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権限とは

2006-11-08 08:57:41 | 発想$感想
権限と責任。よく言われる言葉である。

責任とは何となく、理解できるが、権限とは具体的にどんなことなのか、よく解らない、はっきりしない場合が多い。
偉い人の権限はともかく、一般の人たちにも権限は与えられているのだろうか。

30代の頃、読んだ本の中に、「権限とは、その人に与えられた、誤りの量である。」という記述があった。

当時、広告宣伝とレースを担当していて、よく判断を間違った。
然し、この二つの業務は会社としても、はじめての分野でこれを経験した上司が居なかったために、誤りを指摘されることもなく殆ど見過ごされた。

そのころ出会った「権限とは、その人に与えられた誤りの量」という言葉は、私にとって忘れられない言葉になった。

人間、馬鹿でない限り、他人に指摘されなくても、自分で間違いはひそかに反省し、次はちゃんとやろうと思うものである。

それが、進歩につながり、積極性が身につくのだと思う。

後年、部下を沢山持てる身になったとき、自分の権限はともかく、部下の権限とは「その人に与えられた誤りの量である。」ということを徹底して守った積りである。

他人は自分の思い通りには、なかなか動かない。間違いもある。
部下に文句をいう前に、まず「誤りの量の範囲かどうか」を考えた。
範囲内の場合は、黙って見過ごした。

そのうちに、部下は自主性を持って育っていく。

部下の間違いなど、大局に影響はないのである。
あまり小さなことは、注意するより見過ごすほうが、人は育つと思う。
人が育っていくほうが、上は楽になるのである。

お陰様で、周りに仲間とよべる多くの部下に恵まれた。
それが、仕事に繋がるのだと思っている。

然し、官製談合など、これは誰であろうと間違いなく、誤りの量をはるかに超えている。

断じて、見過ごすわけにはいかない。

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まぼろしのサーキット

2006-11-07 15:35:53 | M/Cレース
先日から、レースやサーキットのことを書いたら、直ぐ幾つかのコメントが寄せられた。

なるほど、ブログは双方向の情報発信というがこんなことかと、改めてその機能を実感した。
そして一挙にアクセス数が増加して驚いている。

サーキットに関して、関東の陶芸の町で、およそ17年位前にカワサキのサーキットの話があったはずだが、というコメントを頂いた。

益子プロジェクトのことだと思い出して、日記帳で調べてみた。

90年4月15日に直入町にSPA直入がオープンした。

次は是非関東圏に、一般のライダーたちが気楽に走れるサーキットの建設をと挑戦した最初のプロジェクトが益子だった。
90年5月頃にスタートしたが、約1年後の91年3月に終結している。
16年前の話である。

益子のあと、群馬県の松井田町の町有林地を候補に、サーキット開発を進めた。
91年から97年まで6年もかかって、もう一歩のところで実現しなかった。

松井田町は軽井沢へ通ずる道の「峠の茶屋」などで有名であった。

高速道路の建設で、軽井沢へ向かう人たちが素通りすることに、町は危機感を持っていた。
集客の一つの手段としてサーキットが候補に上がったのである。
カワサキもやりたかったが、町のほうも非常に積極的だった。

お互いに、メリットもあり、候補地の殆どが町有林であったので大まかな計画までは、とんとん拍子に進んだ。
ところが、取り付け道路の地元地主との交渉や、予想もしなかったイヌワシの生息調査などに考えられない時間を費やした。

軽井沢の直ぐ下で、高速道路の出入り口から数キロのいい立地であっただけに残念であったが、いろいろ大変であったことが今となっては懐かしく思い出される。

カワサキの関東での「まぼろしのサーキット」であった。




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顧客とは誰のことか

2006-11-06 09:26:58 | 発想$感想
顧客満足、C.Sが言われて久しい。

今朝の朝日の社説に「顧客軽視の体質を直せ」が掲載されている。

C.SのCは、CustomerなのかConsumerなのか。
はっきり解らぬが、日本ではCustomer Satisfactionが使われているのが一般的である。

辞書をひいてみると、いずれもお客の意味を持っているのだが、Customerにはお得意様、取引先の意味が濃く、
Consumerは同じお客でも消費者、即ち末端の人たちのことを指すのである。

私自身は、C.Sの基本的な思想からいえば、絶対にConsumerでなければならないと思っている。
現役のとき、C.S推進部を組織したが、明確にCosumer Satisfactionと徹底した。

朝日の社説は、損保保険業界のことを書いているのだが、
「損保業界は、黙っていても契約が増えた自動車保険の上に、あぐらをかいてきた。大蔵省の護送船団行政にも助けられてきた。」とある。

損保業界は、末端のお客よりも、取引先の自動車業界の顧客満足を考えていたのではないか。

この体質は、損保業界に限らず、関係のある業界団体や支援団体、系列先の満足を第一に考える風習がある。
政治の世界にも支持団体の満足を優先する同じような考え方があり、これが原因で談合や天下りの体質が生まれる。

末端のユーザーや、国民の満足を真っ先に考えるようになって欲しいものである。

顧客満足を、Customer Satisfactionとして広報している企業が殆どだが、一度、自分たちの本当の顧客は誰なのか、考えてみて欲しい。
Consumer Satisfactionと明示されれば、本物である。

社説の最後には「顧客を軽んじる意識が残る限り問題はなくなるまい。各社のトップは自らの経営責任が問われると受け止めるべきだ。」と結んでいる。

末端の人たちのことを第一に、C.Sを考えるようにならないと、
「顧客軽視の体質を直せ」と言っても直らないと思うのである。

めずらしく、朝日の社説に、100%賛成である。

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談合体質

2006-11-05 16:10:42 | 発想$感想
各県での談合のニュースが新聞を賑わしている。

談合というのは、日本独特の仕組みで、日本人の体質なのであろうか。

特に、官公庁受注を舞台にする談合は、端的にいえば、税金で集めた金の一部を、関係する企業や高級役人で山分けする仕組みで、こんなことが永年許されていたことは、日本の恥と言わざるを得ない。

こんなことは絶滅させないと、とても美しい国などとは言っておれないと思う。

それにしても、談合に参加する沢山の企業が、具体的にどのようなメリットがあるのだろう。

いつか、談合のご利益にあずかるためには、公共工事がどんどん継続しなければならない。
そのために極端にいえば、毎年不要な公共工事も役所側で用意するのだろうか。

世界的にみて、世の中は基本的に競争社会なのである。
もっと、競争の原理に忠実でなければならない。

小学生の徒競走にも反対する親たちもいるようだが、こんな競争を避ける態度は、談合とは言わぬが、いい傾向ではないと思う。

堂々と競争に勝つ、負けても耐えて、また頑張る、そんな強い体質を造るようになりたいものである。

談合を税金の無駄遣いと非難するとともに、国民全体が正当な競争について、考えてみなければならない。

50年間、二輪事業に関係した。
世界に事業を展開したこの業界には、厳しい競争ばかりで、談合のダの字もなかった。

業界をリードした、ホンダ 本田宗一郎の理念が立派だったのだと思う。

そんな業界にいたことを、誇りにしたい。
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カワサキのMXを確固たらしめた、マシンと人

2006-11-05 10:31:23 | M/Cレース
1960年代後半、国内のモトクロス界で、カワサキは確固たる地位を築いたと言っていい。

その原動力となったマシンは、F21M。
ライダーは、連続して日本チャンピオンに輝いた、山本隆だろう。

F21Mのエンジン設計者で、モトクロスチームの監督でもあった安藤吉朗さん、チーフメカニックの松尾勇さんも忘れてはいけない人である。(吉朗の吉はにんべんが付くのだが、探せない。)

66年頃のマシンは、バックボーンフレームの市販車を少し改造し、エンジンチューニングした程度のものだった。

はじめて本格的なマシンとして登場したのは、ヨーロッパの世界モトクロス選手権にスズキが持ち込んだ、RHだろう。確か小島松久、と久保和夫が乗っていた。

これに刺激されて、カワサキもと、開発されたのがF21Mの前身となるファクトリーの250ccのマシンである。

特にフレームは、正規に技術部門で造られたのではなく、モトクロス職場の松尾さんの手作りであったと言っていい。

66年(昭和41年)7月頃の話である。ヘリコプターで使っていた、クロモリのパイプに海岸の砂をつめて一本ずつ曲げながら、ダブルクレードルのフレームが造られた。
設計図などなかった。

レース職場で、目の前での作業だったから、技術オンチの私にもよく解った。
セリアーニタイプのフロントフォーク,車重100キロを切ることは特筆出来ること、クロームモリブデンのパイプは軽くて、丈夫だが高価であることなどは、その時覚えた知識である。

エンジンは、238ccまでボアアップしたものだった。

確か、三橋、安良岡、山本,歳森、梅津、岡部,星野用に7台のマシンを一挙に造って、7月24日、青森県津軽の岩木山のスキー場で行われた全日本に参加した。

250ccでは、小島に優勝をさらわれたが、オープンでは、山本、歳森、北山、星野、岡部と5位までに4人が入る圧勝で緒戦を飾った。

その後、各地のモトクロスで圧勝を重ね、カワサキのモトクロスでの地位を不動のものにしたのである。

この年のモーターショーに、記念車として展示したが。
そのとき安藤さんが「エンジンの設計者として、少々恥ずかしい。」と私につぶやいた。
「何故。」「だって、125ccの市販車のエンジンをベースにレーサーエンジンとして238ccまでアップして、なおもつということは、過剰設計だよ。」

そんなことはない、堂々と威張ればいいと事務屋の私は思った。

安藤さんは、厳しかったが本当に真面目な技術屋さんだった。
その安藤さんも、今年亡くなられた。
周りの仲間が減っていくことは、本当に寂しいことである。

その後、技術部で確りと正規に開発され、日本ではじめての本格的な市販モトクロサー、F21Mとして一般に売り出された。

山本隆君のことなど、また別の機会に。

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三木の金物まつり

2006-11-04 14:39:39 | みっきぃふるさとふれあい公園
今日、明日の2日間、三木の金物祭りが開催される。

もう30年も三木市に住んでいるが、金物祭りには行ったことがなかった。
今年は気が変わって、ちょっと覗いてみるかと出かけた。

15万人以上もの人が集まるという。
市役所の前の駐車場の広場で行われるのだが、三木の市民より周辺の地域や、他県からの人も多く、駐車場が大変である。

市役所の近くの空き地や、近くの森林公園や三木総合公園の駐車場などがまつりの駐車場として、準備されている。

15万人以上というと、鈴鹿の8H耐久レースの最盛期を思い出す。
鈴鹿市が車であふれ、臨時の駐車場が何千円もの有料で、ひどいところは畑も駐車場に化けていた。

三木もさぞ大変と思って出かけたが、そうでもなかった。
人出はすごかった。会場の賑わいは8耐なみであったが、滞留時間が8耐と比べて短いことと、駐車場の面積が断然広いのである。

有料は一箇所もない。すべて無料である。
開催場所とはこれも無料バスのピストン運転で連絡されている。

土地が広く、余裕があるということはいいことである。
三木で有料の駐車場を探すのは難しい。
グリーンピアも森林公園もホースランドも、すべて駐車料無料である。

意外に、三木に住む人はそんな意識すらないと思う。
いい環境である。

金物祭りでは、高枝採集バサミを買った。

金物のことより、自分の住むまちの環境のことを考えた一日だった。
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カワサキのレース場

2006-11-04 09:17:45 | M/Cレース
カワサキは、今二つのレース場を持っている。

大分県竹田市直入町のSPA直入と大分県日田市上津江町のオートポリスである。

SPA直入の建設には深く関係した。
1.43キロの短いコースだが、今は4.3キロのオフロードも併設されている。

SPA直入のコンセプトは、二輪を愛する一般のライダーたちが気軽に走れるサーキットを目指して建設された。

当時、問題となっていた峠族に、メーカーは車を提供するだけでなく、走れる場所の提供もすべきだとの発想であった。

レースマシンでない一般の市販車でサーキットランが出来たのは、SPA直入が日本で始めてのはずである。

一般の素人にサーキットを走らすのは無謀という意見が社内でも強かったが、一方通行で対向車もない、信号もない整備されたコースを走るのが、どうして危険なのか。二輪車はそんなに危険な乗り物かと、妙な理屈で強引に押し切って実現した。

これを契機として、その後各地のサーキットで、市販車でのサーキット走行が許されるようになるのである。

サーキットオープンの日には、4000人を超す一般ライダーが、ツーリングで直入を訪れ、はじめてのサーキットランを自分の車で楽しんだ。
4000台の市販車が列をなして走る様は壮観であった。

当時の町長はオープンセレモニーで,直入町にこのような多くの人が集まったのは有史以来はじめてである、と挨拶した。

先頭を走り文字通り先導の役を務めてくれたのは、清原明彦君と当時はヤマハの契約であったが、わざわざ来てくれた金谷秀夫君だった。

SPA直入の正式名称はS.S.R.F SPA直入である。
Sports&Safty.Riding.Fieldの略である。当初は全国にユーザーの走れるこのような場所を沢山造ろうという発想だった。

SPA直入のSPAは直入町の温泉のSPAと思っている人が殆どで、その意味もあるのだが、むしろ、ベルギーにある世界的に有名なサーキット スパ、フランコルシャン(SPA Francorehamps)のSPAとも掛けているのである。

SPA直入のコース設計など建設に尽力し、SPA直入の名づけ親である岩崎茂樹君も故人になられた。私のあとのカワサキのレースマネージャで博学であった。

このような、気軽に走れるコースをもっと造りたかったが、カワサキでは実現しなかったが。

この度、私も懇意にして頂いている、ミスターバイクの斉藤さんが永年の夢であったサーキットを、鈴鹿(鈴鹿ツインサーキット)に造られた。
サーキットの建設が如何に難しいものであるか、身に沁みて解っているので斉藤さんのご苦労とご努力に心から敬意を表したい。

SPA直入と同時期に建設されたオートポリスも、縁があって、今はカワサキのサーキットになっている。
昔の仲間の一人がマーネージメントにあたっている。

先日、レースの前に往年の名ライダーたちが走ったそうである
片山義美、金谷秀夫、清原明彦など私にとって懐かしい名前があった。

多分、レースマシンではなく、市販車だったはずである。
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カワサキコンバットのこと

2006-11-03 15:34:38 | M/Cレース

1965年前後、神奈川県海老名で三橋実の率いたカワサキコンバットは、有名ライダーを擁しモトクロス界で名を馳せていた。

カワサキファクトリーの契約ライダーとしては、三橋、安良岡、梅津、岡部、星野がいた。

私はその頃、このクラブとの契約やライダー個人との契約を直接担当していたのだが、どのようにしてこのクラブがスタートしたのか詳しいことは解らない。

私がレースを担当したのは、63年だが既にコンバットは存在していた。

昔のことは、なかなか正確には残っていないものだ。

今からの話は、私の記憶と推測も混じるが、多分当たっていると思う。

当時、カワサキ自販の広宣課長に小野田滋郎さんが居た。今も、お元気である。
あのフィリッピンから生還された小野田中尉の弟さんである。

ヤマハにいた三橋を強引にカワサキに引っ張ったのは、これは間違いなく小野田さんである。
川崎航空機が直接レースを担当するまでは、小野田さんが独りでライダー関係をやっておられたと思う。
カワサキコンバットも、多分この頃出来たのだと思う。

どこの世界にもあることだが、カワサキのレースも、全員賛成でスタートしたわけではない。
むしろ、その逆である。

カワサキが、運よく青野ヶ原のレースで優勝ほか上位を独占し、数日後記念写真を撮ったとき、勿論苦労した直接の関係者もいたが、ひな壇に並んだ人の大半は反対をしていた人たちだった。

その数ヶ月後、広告宣伝の仕事を小野田さんから引き継ぐことになり、レースも担当の一部になった。
レースとの関わりのスタートである。

三橋とは個人契約のほかにカワサキコンバットの運営契約を結んだ。
クラブ員の募集、面倒、練習に拘る費用、宿舎、運搬車両など一切を含んで、月20万円の契約だった。
私の年収が50万円に届かぬ時代であったから、相当な額である。

有望な若手ライダーが全国から集まった。
その中に静岡の星野や栗山もいたし、秋田の金子豊(星野インパル経営)もその一人であった。

何事も、逆風の中で、ものごとを進めた人を忘れてはならない。
小野田滋郎さんは、カワサキのレースをスタートさせた一人であることは間違いない。

然し、今、小野田さんのことも、カワサキコンバットのことも詳しく正確に知っている人は、カワサキの関係者でも、殆ど居ないだろう。

カワサキコンバットは、三橋、梅津、岡部の契約が切れた時点でなくなり、星野は神戸木の実へ移籍した。

私には懐かしいクラブチームであった。




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核議論

2006-11-03 12:35:19 | 政治
自民党の中川政調会長の核保有議論で、政界は騒がしい。

同じ自民党の中で、意見が分かれている。
全般的には、発言を控えるようにとの、批判的な意見が大勢を占めるようである。

東京都の石原知事のように、「非常に大きな意味を持った。外交に好影響を与えた。」と積極的に評価した人もいる。

また、全然違う立場から、安倍政権の広報を担当する世耕補佐官は、広報担当として安倍政権の「タカ派」イメージの払拭に努めているのにと、心配しているという。

ご当人の安倍さんは「個人の発言」であれば問題ないと容認の姿勢とか。

私自身はこの問題にコメントできるほどの見識もない。
何となく、いろんな意見になるほどと頷くレベルである。

ただ同じことでも、いろんな立場、ものの考え方があり、それをバックにいろんな発言に繋がっている。

単に発言に関心を示すだけではなく、その背景を読むことも大いに必要だと思った。同時に、いろんな発言が自由に出来るのはいいことだと思ったのだが。

自由な発言のために、この問題は起こっているのである。

自由な発言も、立場を考えて言わねばならぬということだろうか。
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びっくりした

2006-11-03 08:48:08 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
びっくりしたというのは、こんな予想もしない出来事のことを言うのだろう。

今朝ブログを開いたら、373jp,688pvの数字が飛び込んできた。
アクセスランキング419位にもランクされた。

アクセス解析で調べたら、昨日の「カワサキがはじめて鈴鹿を走った日」のブログがモトクロスニュースサイト、ダートスポーツに紹介されたのが原因である。

その紹介コメントに「なかなかお金を払っても読むことの出来ない文章をタダで読めるようになったのだからーーー」と褒めて頂いたのは感激である。

間違いなく、日時その他、正確であると言うことは、日記から内容を拾っているので、53年続けている日記がはじめて役にたったと思っている。

ダートスポーツをしっかり見てみた。
モトクロスを中心とする専門サイトである。
日本のモトクロスも、このように立派に育った。

40年も前に、モトクロスに色濃く関係した一人として、本当に喜ばしいことであり、感慨もまたひとしおである。

こんなブログでお役にたつなら、面白いネタは沢山あるので、調子に乗ってまた書いてみたい。

ダートスポーツさんありがとう。
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松坂、メジャーへ

2006-11-02 13:30:04 | スポーツ
松坂の会見は、実にさわやかであった。

とうとう、メジャーへ行く。
間違いなく、海の向こうでも、期待通りの活躍を見せるだろう。

彼には、実力とともに運もある。

春夏連続の優勝、それも一つは、ノーヒットノーランで達成した。
今年の春は、WBCで世界一になり、MVPにもなった。
決勝リーグに出られたのは、運が良かったからだと思う。

本当に大スターとしての道を、一筋に自分の努力と運で突き進んでいる。

日本のスター選手が大リーグに行くことを、日本のプロ野球の人気が下がり衰退に繋がると、反対する意見もあるが果たしてそうだろうか。

日本のプロ野球のレベルも、相当なところに来ていると思う。
大リーグとの野球技術のレベルの差は、今は未だあると思うが、もう少しで追いつけるのではないか。

むしろ、球団経営の質の差を縮める努力こそ望まれる。
日本の経営陣の旧態依然とした考え方が、プロ野球の発展を抑えているようにも思う。

選手の技術レベルは、スター選手が居なくなることで、また新しい素材が成長するのだと思う。
それがまた、全体のレベルを押し上げる。

かっての巨人の一塁手のように、川上と王の二人で、その位置を何年間独占し続けたことか。
その間、何人もの逸材といわれた人たちが消えていった。

松坂の会見で言った言葉。
出て行く人がいれば、新しい風を吹かせてくれる人もいる。今までもそうだった。

その通りだと思う。
西武のショートがいい例である。

松坂のアメリカでの頑張りと、松坂に代わるスターの出現に期待したい。


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カワサキが初めて鈴鹿を走った日

2006-11-02 09:13:10 | M/Cレース

★1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。

当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。

4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。

当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。

メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。

あまり大きな声では言えないが、2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

★モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある北陸の塩本にも出場を要請したのである。
案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。

駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆はは、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,佐藤(佐藤ではなくて鈴木だったようです)であった。

結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?

当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。

終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。

雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。

私は、現場には行っていなかったが、

チームマネージャーの川合さんから、5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

★カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助けとなった。 本当に何かの運である。

3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、

一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参加を認めることになったのである。

約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤、飯原(いずれもキヨさんの先輩ライダーである)は決まったのだが、

関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。

そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできyたのが、金谷秀夫なのである。 このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

★ もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。

このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれた内田さん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。

こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。

 

●不思議なことだが、カワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、1965年5月3日、ライダーは、後全日本モトクロスチャンピオンを3年連続で獲得した山本隆君

●1ヶ月後のアマチュア6H耐久の監督は、Z1の開発責任者の大槻幸雄さん、副監督が田崎雅元さん(のち川重社長)である。

●走ったマシンは90cc、  この耐久レースヤマハは確か鈴木忠さん、スズキは菅家などみんなモトクロスライダーが走ったのである。タイムは3分20秒は切れなかったと思う。

コメント (1)
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