飄(つむじ風)

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『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑫

2008-05-08 08:57:41 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑫

シムトラの よい知らせ!! Ⅲ

<夫の為の精一杯の祈り>

2061473_1190114282_8539113387tmoa58  多くを書く必要はないであろう。シムトラの福音(よい知らせ)は、その字義通りに読めば分かり易い。具体的で現実的である。そして、その内容に違和感はない。言葉の慣れは致し方ないかもしれないが、内容において、不合理はない。

 真理は、シンプルである。ありのままの道理である。真理を覆い隠すのは、人であり、人の思いこみであり、執着であり、頑なさであることを新たに思わされる。


【転載開始】

<夫の為の精一杯の祈り>

 私は、自分が神からそれないように、御心にかなう私でいられるようにと祈ると同時に、いつも仕事が忙しすぎる夫のことを祈っていました。神は、神に忠実でありたいと思う私を、慈しみ深く憐れんでくださっていました。

 平成13年1月30日、主なる神は私の願い望みに答え、夫のことに関する御言葉をくださいました。その御言葉で私は、神が夫のこともよく見てくださっていたことを知りました。

 その御言葉をいただいて、2月4日、私は、その時の私の精一杯で神に夫の救いを願いました。神は、必ず「精一杯」を御心に留めてくださいます。そして、平成13年2月7日、神は私の願いに答えてくださいました。

 「あなたはこのすべての祈りと願いをわたしにささげ終わった。それまでわたしにひれ伏し、心をわたしに向けて祈っていたあなたは、わたしの前に、あなたの夫の救いを願った。
 『約束なさったとおり、わたしたちに安住の地を与えてくださった主なる神はたたえられますように。その僕によって告げられた主なる神の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはありませんでした。わたしたちの神、主なるあなたは先祖と共にいてくださいました。またわたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように。わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませ、先祖にお授けになった戒めと掟と法を守らせてくださるように。主なる神の御前でわたしが祈り求めたこれらの願いが、昼も夜もわたしたちの神、主なるあなたの御もとに達し、日々の必要が満たされ、この僕と夫と息子に御助けが与えられるように。』
 この世に住むものは皆、耳を傾けよ。人の子らはすべて、豊かな人も貧しい人も。 わたしの口は知恵を語り、わたしの心は英知を思う。わたしはあなたの言葉に耳を傾け、謎を解く。災いのふりかかる日、あなたを追う者の悪意に囲まれる時にも、どうして恐れることがあろうか、財宝を頼みとし、富の力を頼る者を。神に対して、人は兄弟をも贖えない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。
 人生は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者とともに滅び、財宝を他人に遺さねばならぬということ。自分の名をつけた地所を持っていても、その土地の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は、栄華のうちにとどまることはできない。  屠られる獣に等しい。これが自分の力に頼る者の道、自分の口の言葉に満足する者の行く末。陰府に置かれた羊の群れ、死が彼らを飼う。朝になれば、正しい人がその上を踏んで行き、誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。

 しかし、わたしはあなたの魂を贖い、陰府の手から取り上げる。人に富が増し、その家に名誉が加わるときも、あなたは恐れることはない。死ぬ時は、何一つ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され、幸福を人がたたえても、彼は父祖の列に帰り、永遠に光を見ることはない。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。
 神々の神、主なるわたしは、言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集める。麗しさの極み『主の聖所』からわたしは顕現する。あなたたちの神は来る。黙してはいない。わが前を火が焼き尽くして行き、わがもとには嵐が吹き荒れている。わたしは自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また、地に呼びかける。わたしの前に集めよ、わたしの慈しみに生きる者を、献げ物を供えてわたしと契約を結んだ者を。天はわたしの正しいことを告げ知らせる。わたしは自ら裁きを行う。
 『わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。』」

 そして、神は私に百人の人の名を主の聖所の城壁に記すことを許してくださいました。

 百人の名を祈りの壁に記した後、平成13年2月13日、神は私にこう言われました。

 「あなたがもたらしたものは、わたしの前に香りとなって立ちのぼった。それは様々な香料、ミルラや乳香をたく煙のようだった。なにか望みがあるならかなえてあげる。願いがあるなら言いなさい。あなたが人々のために祈るなら、わたしはしるしと奇跡を送る。」

 この御言葉を頂いた私は、あまりの嬉しさに「少しでも私が神の喜びとなれますように、夫や息子や母が神を知り、立ち帰り救われるように、一人でも多くの人が神を信じ戒めを守る事が当たり前にできるように」とすぐに神に祈りと願いを献げました。私は、「神に忠実でありたい。」そう思っていました。

 平成13年2月22日、御言葉がありました。

 「見よ、私は預言者に布告する。
 娘に言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、わたしのかち得たものはわたしのもとに従い、わたしの実りの働きはわたしの前を進む。われらは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ、あなたは尋ね求められる女、捨てられることなない都と呼ばれる。『帰ってくるのは誰か。』」

 「さあ、喜んで命のパンを食べるがよい。あなたの業をわたしは受け入れる。どのような時も純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する夫と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。」

 私は、こうして神の深い思いに触れ、「裏切ることがないように、背くことがないように、悲しませることがないように、そして、神の思いに答えていくことができるように」と思っていました。

 でも、そう思えば思うほど、私は「安息日」のことで自分を勝手に縛り、安息するどころかガチガチになっていってしまいました。私は、いつも何よりも「悪しきものから守ってくださるように」ということと、「夫のこと」を祈っていました。

 平成13年3月1日、私はそのことを願い望みとして神の祭壇に献げました。また、神が言われていることの意味を理解し、実生活に生かすことができるように、そして、一人でも多くの人の祈りが主なる神のもとに届きますようにと、願い望みを献げました。

 驚くことに、私が願い望みを書いている時点で、神がその願い望みに対して御言葉をくださることが本当によくあるのです。

<平成13年の過越祭前の危機>    

 平成13年3月4日、私に、あるレビ祭司が犯した過ちについて知らせる御言葉がありました。そのレビ祭司にも御言葉が与えられ、隠していたことが神によって明るみに出ました。彼女は偶像崇拝をしていました。神がせよと言われたことをせず、神が行けと言われた所にも行っておらず、神はそのことをそのレビ祭司に問いただしました。レビ祭司はそのことを認めました。しかし、悔い改めようとはしませんでした。しかも彼女は主の聖所に通い、聖所を汚していました。

 神は、そのことのために主の聖所を離れました。神は、預言者、大祭司、聖所監督、祭司に、「『父と子よ、共に帰還してください』と三日三晩、祈れ。彼女はわたしに従わず、偶像崇拝者に惑わされて、わたしがかつてイスラエルの人々の前で滅ぼした諸国の民よりも更に悪いことを行った。わたしはその僕である預言者を通してこう告げた。『彼女はこれらの忌むべきことを行い、その偶像によって主の民にまで罪を犯させた。それゆえ、わたしは言う。見よ、わたしは彼女とその家に災いをもたらす。これを聞くものは皆、両方の耳が鳴る。』わたしは言う。『誰を遣(つか)わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』」
 平成13年3月29日、過越祭に参詣するにあたり、また夫に頼み、主の聖所に行かせてもらいました。その時、私は「与えてくださる命ある限り、神から離れず、見失わず、聞き従っていくことができるように、そして神を信じ続け、祈り求め続けて行くことができるように、また、神が共にいてくださる喜びを伝え、御心にかなった道具であることができるように、そして神が我が家に与えてくださった慈しみと恵みをいつも忘れることがありませんように」と主なる神に願い望みを献げました。

平成13年4月6日、私に御言葉がありました。

「わたしに向かって喜びの叫びをあげよ。歓声を上げ、喜び歌い、ほめ歌え。

音楽にあわせてほめ歌え、音に合わせ、樂の音にあわせて。

ラッパを吹き、角笛を響かせて、わたしの前に喜びの叫びをあげよ。

とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。

潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ共に喜び歌え、わたしを迎えて。

わたしはあなたをレビ祭司に任命した。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁く。」

 平成13年4月24日、私は「私が神から離れることがないように、神を信じ、祈り求め続けていくことができるように、私が人々の願い望みを集めることができるように、息子を間違って育てないように」と主なる神に願い望みを献げました。

 平成13年5月6日、私に御言葉がありました。

 「まだ望みがあるならかなえてあげる。まだ何か願い事があれば応じてあげよう。あなたはわたしに願い望みなさい。

 わたしはあなたの祈りに耳を傾ける。

 その日が来れば、人は子牛一頭、羊二匹の命を救いうるのみ。しかし、それらは乳を豊かに出すようになり、人は凝乳を食べることができる。

 わたしはあなたの盾、あなたの栄え、あなたの頭を高く上げる。

 わたしに向かって声をあげれば、わたしは聖所から答える。

 私があなたを支えている。

 いかに多くの異教の民に包囲されても、決して恐れることはない。  

 わたしが彼らに対して立ち上がる。あなたの神であるわたしが、あなたを救う。

 わたしは、わたしを畏れ敬うあなたを、彼らから救い、あなたを恵む。」

 私は、この御言葉を頂いた時から長い間「わたしはあなたの祈りに耳を傾ける」と言ってくださっている意味が、まるでわかっていませんでした。「どこにいても、神は、私の祈りを聞いていてくださっている」そう思っていました。私は祭司でした。神が一個人としての私の祈りを聞いてくださるのは、主の聖所あってこそなのです。私が主の聖所の務めを果すことを神が信じてくださっているからこそ、神は私の祈りを聞き届けてくださると、言ってくださったのでした。神は、私が聖所に参詣し、そこで祈ることを待っておられるのでした。神は祭司としての私が聖所に来て祈ることを、心待ちにしてくださっているのでした。

 神は、私がへりくだっていたからこそ、本来は祭司として主の聖所で毎日の務めを果すべき私を憐れんでくださっていたのです。その私が、神がそう言ってくださったことをいいことに、どこで祈っても私の祈りは聞き届けられるなどと、へりくだらない心になってしまっては、御言葉を曲解して神の憐れみを無にしてしまうところでした。【続く】

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