乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

法然 5  死後・嘉禄の法難

2024-05-19 | ことのは

 

 法然 5  死後・嘉禄の法難

 アサヒクラブで法然について読んでいる。

 隙間時間を利用してのことだが、1/4は読めたような気がする。

 

 わたくしにも言えることだが、人間は自分中心に物事をとらえる。

 そこまでならば良いが、自己中心で物事が動くかの如く考えら場合、感情を爆発させることは度々みられる。

 

 集合体によっては多数が個に爆発をさせる場合があるが、例年では普通の行いに対して、白い牙を向ける場合がある。

 古参(私)と言ってしまえば聞こえが悪いし印象も悪い。が、逆に新参者が古参を脅かし,心無い言葉を投げかけてくる場合がある。

 別に気にしない風を装って気づかないふりをしてはいるが、心穏やかではない。

 集合体によって、好きな能楽が心から味わえなかったり、気分が阻害される場合があるが、集中して楽しもうと努力する。

 努力

 集中する努力。それこそが重要。

 上のような場合、何事においても気づかない風を装い、なおかつ集中する努力が不可欠なのである。

 

 日本人は傾向として宗教を持たない民族だといわれることが多い。

 その実私もいい加減なもので、かろうじて仏教、、、両親と先祖の墓は仏教だったな、、程度であった。

 その仏教知らずが、最近 仏像や仏教を学ぶ機会に恵まれている。

 理論こそあやふやなものだが、ここにきて一つ身についたことがあるので、ここで記しておこう。

 

   何事もほどほどに、そして許す心

 これは講義で教えられてないが、講義の要約の軸となることを要約し鑑みると、私が思うに宗教において大切なことは、細かな知識を身に付けることよりも、

   何事もほどほどに、そして許す心

が かなり重要であり、生きていく上で 生きやすさを感じるのではないかということである。

 聖徳太子の云う、いわゆる

   和を以て尊し

に通じるのではないかと考える。

 

 途中何度も挫折はしていたが、ブログを始めて6600日がたった。

 本日も吉日。乱鳥 健在也。

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

法然 4  讃岐配流と晩年 

法然 5  死後・嘉禄の法難

 

死後・嘉禄の法難(ウィキペディア)

 法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。

 そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。

 更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。

 そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。

 

天台宗 ここでは、延暦寺

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法然 4  讃岐配流と晩年 

2024-05-16 | ことのは

 

 法然 4  讃岐配流と晩年 

 

 

 

 建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。

 享年80(満78歳没)

 法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。

 

 今週も忙しかった。

 複数の講義を受け、その後は図書館に行き、先ほど帰宅。

 7、8回目まで見ていたドラマ『光る君へ』を、今一度第七回から見始める。

 退屈だ。

 なので、ドラマをつけつつ、ブログに向かっている。

 

 どこに行っても、まことしやかここでに、当然見ているであろうとばかりに、ドラマ『光る君へ』の話がなされる。

 私はこれまで大河ドラマを一度も見たことがないことをここで暴露しておこう、、、

 

 ドラマ『光る君へ』を一旦見なくなった理由は、清少納言の描き方があまりにも『枕草子』から受ける清少納言のイメージからかけ離れていたため。

 せっかく時をかけて読んだ『枕草子』のイメージを壊したくなかったからだ。

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

法然 4  讃岐配流と晩年 

 

 讃岐配流と晩年 (ウィキペディア)

 讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。

 

 法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。  

 法然上人廟所 (知恩院) 承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現・箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。

 翌年の建暦元年(1211年)には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。

 

 建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。

 享年80(満78歳没)

 

 なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。

 廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。  

 

 法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。

 また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子 宇都宮頼綱[注釈などがいる。  

 

 死後・嘉禄の法難 詳細は「嘉禄の法難」を参照

 

 法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。

 そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。

 

 更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。

 そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。 

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法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

2024-05-15 | ことのは

 法然 3  長浄土宗の開宗 

 

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 そういわれれば、苦しい生活を強いられている民衆ならば、人によっては飛びつかれるのは、世の常、、、

 

 今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。

 そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。

 大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。

 時間が欲しい。

 やりたいことが多いが、消化不良が続く。

 自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 

長浄土宗の開宗  (ウィキペディア)

 長浄土宗の開宗

 承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験。

 専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。

 そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。

 すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。

 これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

 法然はこの地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。

 法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)

 しかし、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。

 この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。

 

 法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

   養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

 

  文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。

 そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。

 これを「大原問答」と呼んでいる。

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。  

 

 建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。

 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。

 叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

 建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。  

 

 元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。

 

 絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

 法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。

 これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。  

 

 延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難 詳細は「承元の法難」を参照 元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。

 しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

 念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。

 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

 

  法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。

 なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

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法然 2  生い立ちと出家・授戒

2024-05-14 | ことのは

 法然 2  生い立ちと出家・授戒

 

 今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。

 そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。

 大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。

 時間が欲しい。

 やりたいことが多いが、消化不良が続く。

 自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

 

生い立ちと出家・授戒 (ウィキペディア)

 長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。

 生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。  

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。

 その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。  

 

 その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。

 源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。

 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。

「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。

 したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。

 

 法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。

 そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。

  これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。

 

 その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。

 また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている

 

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法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

2024-05-14 | ことのは

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

 

『法然上人絵伝 上』(日本絵巻物大系)と『別冊 太陽』(178)を楽しみ始めた。

 ただいま東京国立博物館では『法然展』を展開されている。その後秋には、京都国立博物館に『法然展』がやってくる。

 美術などを詳しく展開されていらっしゃるブロガーさんに、『法然上人絵伝』は一期で四軸も公開されるとのことを教えていただいた。ありがとうございます。

 

 そういえば、三月、芝居を見た日に知恩院に行ったときに、【法然800年(要約)】と書かれていたのを思い出す。

 知恩院といえば幼いころ、お正月には毎年のように父に連れてもいらったことを思い出す。

 いわば思い出の寺の一つである。

 

 京都国立博物館の『法然展』をしっかりと見たいので、今から予習しておくことにした。

 まずは安直に、ウィキペディで記録したい。

 

法然について  ウィキペディア(Wikipedについて

 法然房源空 長承2年4月7日 - 建暦2年1月25日(宣明暦)(1133年5月13日 - 1212年2月29日〈ユリウス暦〉)

 

 幼名 勢至丸 号

(房号)法然

(大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師

 

諱 源空 諡号 慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・ 天下上人無極道心者・光照大士

尊称 元祖法然上人

生地 美作国(現・岡山県)

没地 洛東大谷(現在の知恩院付近)

宗旨 浄土宗 寺院 法然自身は寺院を建立せず。

 

 師 源光・叡空

弟子 弁長、証空、親鸞、蓮生、源智、 幸西、信空、隆寛、長西、湛空 など。

 

著作 『選択本願念仏集』、 「一枚起請文」、他。

 

廟 知恩院、金戒光明寺、法然寺、 粟生光明寺など。

 

法然上人絵伝

 

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。

 

 はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。

 法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。  

 諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。  

 

 大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。  

 

『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

 

  浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。  浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。

 

 親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然のことを「本師源空」や「源空聖人」「よきひと」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

 

房号(坊号、房号)

 ①院中の坊につける名前。〔日葡辞書(1603‐04)〕

 ② 得度後、実名と別につけた僧名。何々坊と称するもの。鎌倉期以後盛んに行なわれるようになった。

※円照上人行状(1302)上「東大寺戒壇院住持上人、諱円照、房号実相」

 
諡号(し‐ごう)とは
 
 貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名。贈り名。
 
 [類語]戒名・法名・諱・贈り名・追号・霊位
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翻刻文(白文)と書き下し文と読み下し文と解説文  写真は沙羅

2024-04-17 | ことのは

翻刻文(白文)と書き下し文と読み下し文と解説文   写真は沙羅

 一般的に字の書き起こしをしている場合、翻刻か書き下し文化、いったいどちらを書くべきなのか、、、

 人によって違い、問う日や時間によって答えが変わるが、ますますわからなくなってきた。

 専門的な大学に行きたい。

翻刻とは

 翻刻とは、古文書や古典籍、石碑などに残された古い時代の文字を読み取り、活字化(テキスト化)する作業を指します。

 また、単に既存の文書や書籍の内容をそのままに再印刷・出版することも翻刻と言います。

 以下に、翻刻に関連する用語とそれぞれの意味を説明します。

 

  1. 翻刻文(白文)

    • 古文書原文に忠実な解読です。
    • 原文の文字を現在通用する文字に変換するだけで、必要以上の手は加えず原文の形式や体裁を保って解読します。
    • 文字の順番は変えず追加もしない。
    • 改行や空白も原文通りにします。
  2. 書き下し文

    • 古文書原文の文字順を変えず、文字の追加もせず、必要最小限の文字変換にとどめる解読です。
    • 原文の文字順を変更せず、文字の追加もしない。
    • 句点「、」を文意に合わせて付けます(読点「。」は付さない)。
  3. 読み下し文

    • 書き下し文を現代の一般的な読み言葉の文章に変換したものです。
    • 口語体で読み順の文章にしますので、書き下し文を変更します。
    • 返り点や返読文字、再読文字などを読み順に合わせて並び換えます。
  4. 解説文

    • 書き下し文や読み下し文とともに作成され、文書作成時の時代背景と併せて登場人物や地域の説明、書かれている個別事実の相互関係や歴史的事実との前後関係、他の同様文書との関連性など、詳細な調査・分析を反映して解説します。
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「方丈」とは、 寺でいう「方丈」とは

2023-04-15 | ことのは

写真は慈光院(奈良 大和郡山市)の本堂「方丈」

 

 

  「方丈」とは、 寺でいう「方丈」とは

 

 

方丈とは  

  1. 一丈(約三メートル)四方(の室)。
     
  2. 寺の中にある、住持の居所。転じて、住持。住職。
     

方丈とは 

 日野の "方丈" の庵

方丈記とは

  1 丈四方 ( = 5.5 畳) 程度のわびしい住まいの中で執筆された。

 

 上のイメージが大きいので、寺に行き 「方丈の間」を見るとどこもかしこも広くて明るくて立派で、戸惑ってしまう。

 上に記したように、「方丈」とは元々はこじんまりとした割合に狭い空間。それが後に「寺の中にある、住持の居所。転じて、住持。住職」となったのであろう経緯はうかがえるが、さらに転じて元々はこじんまりとした空間であったが、住職などがより居心地よく、広く美しい空間を展開させたのではないかと考えるが、真意は定かではない。

 確かにてらには「方丈」と行った間が設けられている処を多く見るが、二畳、三畳のように茶室のような広さは言い過ぎであるが、五、五畳といった茶室のような狭い空間の寺の「方丈の間」を見た試しがない。

 このことを疑問に感じ家族と共に話していると、それを聞いた慈光院のご住職が親切に教えてくださった。

「確かに方丈は狭いという意味があるのですが、住職などが利用するという意味も、方丈という言葉にはあるのです。」

 今更のように「方丈」という意味を調べ、ご住職のおっしゃる通りだと感心した^^

 尚、慈光院の場合は本堂を兼ねた立派な「方丈」という間であったことを、付け加えておきたい。

 

 

 

 以下の写真は、奈良 慈光院の 方丈(本堂)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 みなさま、

 拙ブログにお越しくださいまして、誠にありがとうございます。

 

 
 
 
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山村流日本舞踊について   ノート

2023-01-30 | ことのは

京都国立博物館の庭にて

 

 

 

 

 山村流日本舞踊について

 

 山村流日本舞踊を知らないことに引っかかり、確かめることにしたが、たいそう意味のある舞踊の流派だった。

『日本舞踊上方舞山村流公式配信 第百回 小唄『福寿三番叟』を拝見させていただくと、『三番叟』とあるが舟を漕ぐような踊りであった。

 また、能楽にも近く、それでいて、歌舞伎のように形を作る。

 さらに足の運びが特徴的で、滑らすような所作をされることにも興味を持った。

『高砂』はひたすら舟を漕ぐようにと習ったと云う方がいらっしゃったが、まさしく舟を漕ぐように舞うのは『福寿三番叟』か或いは山村流舞踊の特徴と言えるなのではないかと確信した。

『福寿三番叟』には、「宝船」と云う言葉が出てくる。

 それを考えると、『高砂』にも関係するのかとも思われるが定かでない。

 こう云う時に、国文に籍を置いておけば、ご存知の先生がいらっしゃるかもしれない。

 

 ややこしい事柄になると、調べかたがわからない。

『日本古典文学大辞典』になら載っているのか。

 能楽本で調べるのか、舞踊で調べるのか、こう言った場合、悪戦苦闘で時間を費やすわりには実りは薄い。

 

 世の中には知らないことが多く、恥を書くこともしばしばあるが、多少の調べ物によって多少の知識が加わり、わからずともわかった気になるのはありがたい。誠、幸せな鳥である。

 

『二人椀久』なら馴染みがあるが『三面椀久』とはどんな舞踊なのだろうか。

 椀久とは、日本大百科全書(ニッポニカ)では次のように解説されている。

日本大百科全書(ニッポニカ)「椀久」の解説

 歌舞伎(かぶき)、浄瑠璃(じょうるり)、音曲(おんぎょく)などの一題材。

 大坂堺筋(さかいすじ)の商人椀屋久右衛門(きゅうえもん)が新町(しんまち)の遊女松山と契り、節分の豆撒(ま)きに金銀を撒き散らすほどの豪遊で、座敷牢(ろう)に入れられ、1677年(延宝5)精神に異常をきたして水死したという実話を、椀屋久兵衛の名で脚色。

 流行小唄(こうた)や井原西鶴(さいかく)の小説『椀久一世の物語』にも扱われたが、歌舞伎では七回忌にちなんで1684年(貞享1)大坂で大和屋甚兵衛(やまとやじんべえ)が演じたのが最初という。

 その後、紀海音(きのかいおん)作『椀久末松山(すえのまつやま)』など人形浄瑠璃にも脚色されたが、とくに舞踊、音曲には狂乱物の一系列として多く扱われた。

 一中(いっちゅう)節『椀久道行』、長唄『其面影二人(そのおもかげににん)椀久』(1774年、9世市村羽左衛門(うざえもん)初演)、常磐津(ときわず)『狂乱廓三曲(みだれごころさとのてごと)(三つ面(みつめん)椀久)』(1839年、4世中村歌右衛門(うたえもん)初演)などが有名。

 明治以後では、舞踊に初世市川右団次(うだんじ)が演じた『盟約誓十徳(にせかけてちかいのじっとく)』、6世尾上(おのえ)菊五郎初演の『幻(まぼろし)椀久』(岡村柿紅(しこう)作)など、戯曲に初世中村鴈治郎(がんじろう)が得意にした渡辺霞亭(かてい)作『椀久末松山』をはじめ、田村西男作『椀久』真山青果(せいか)作『椀屋久兵衛』などがある。 [松井俊諭]

 

 

 

『三つ面椀久』 2017年にフェスティバルホールで、山村友五郎さんによる上方舞「三ツ面椀久」があったと云う。(歌舞伎美人:松竹株引用)

  2017年4月28日(金)、大阪 フェスティバルホールで、第55回大阪国際フェスティバル2017「花舞台浪花賑(はなぶたいなにわのにぎわい)」

第55回大阪国際フェスティバル2017

花舞台浪花賑(はなぶたいなにわのにぎわい)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

上方舞「手打唄」梅の小袖(てうちうた うめのこそで)
  京都 宮川町芸妓・舞妓

上方舞「三ツ面椀久」(みつめんわんきゅう)
  椀久:山村友五郎

舞踊「宝塚、春爛漫」
  瀬戸内美八 南風舞 ほか宝塚歌劇団OG

歌舞伎舞踊 楳茂都「三人連獅子」(うめもと さんにんれんじし)
  父獅子:片岡愛之助
  母獅子:中村壱太郎
  子獅子:片岡千之助

 

 

 

山村流日本舞踊について

 2世は1世の養子友三郎 (16~95) で,1世の没後2世友五郎を襲名して宗家格になり,劇場の振付師として活躍する一方,山村流の舞を整理完成し,今日の山村流を大成した。

 1世の養女れんは,九郎右衛門町の山村「九山村」の1世家元を称し,京坂の劇場の振付師としても活躍したが,1881年に没し家元の後継者がない。

 1世の養女登久は,島の内の山村「島山村」の1世家元となり,その孫若子は今日の女性本位の座敷舞としての地歌舞を完成し,1942年3月推されて3世宗家を継ぎ,2世山村舞扇斎吾斗を襲名。

 このとき,その孫山村菊が2世若子を襲名したが,48年4月4世宗家を継ぎ,若と改称。

 4世没後,92年孫の山村武が6世宗家を襲名,5世宗家はその母故山村糸に追贈された。

 

〘名〙 日本舞踊の流派の一つ。 文政(一八一八‐三〇)のころ、大坂の振付師山村友五郎が、地唄の名人在原検校と提携し観世流の能を研究して創始したもの

 優婉閑雅を特色とし、劇場における振付のほか、花柳界や家庭にも進出した

 

山村流日本舞踊

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「山村流」の解説

 日本舞踊,上方舞の一流派。

 流祖は1世山村友五郎 (1781~1844) 。

 上方の歌舞伎役者藤川岩松の子で,1世山村友右衛門の門弟となり,師の初名友五郎を襲名したが,文化1 (04) 年6月師が没したので俳優をやめ振付師となった。

 3世中村歌右衛門の専属的振付師となり,天保年間 (30~44) には上方一の振付師とされ,山村舞扇斎,舞扇斎吾斗と称した。

『三つ面椀久』などの歌舞伎舞踊のほか,地歌舞の大成者として山村流の基礎を確立。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)「山村流」の解説

 上方(かみがた)舞の流派。

 流祖は初世山村友五郎(ともごろう)(1781―1844)で、のち山村舞扇斎吾斗(ぶせんさいごと)と号した。

 大坂に生まれ、歌舞伎(かぶき)俳優であったが、3世中村歌右衛門(うたえもん)に起用され、上方歌舞伎の振付師に転じた。

 天保(てんぽう)期(1830~44)の名振付師として劇場舞台における優れた作品を生むと同時に、座敷舞としての山村の舞をつくりあげた。

 おもな作品に『三つ面椀久(みつめんわんきゅう)』『江戸土産(えどみやげ)』などがある。

 初世没後は養子の2世友五郎(1816―88)が「新町の山村」として活躍し、山村の舞を大成した。

 また彼の義姉妹の二人(初世の養女)の山村れんは「九郎右衛門町の山村」、山村登久(とく)は「島の内の山村」とよばれ、ともにその舞を伝えた。

 1949年(昭和24)に島の内系の山村若(わか)(1905―91)が4世宗家を名のった。

 現在はその孫、若が6世宗家である。

 現在、新町系の山村、また北山村、東山村などがある。

 人間国宝の山村たかは新町系の出身であった。

 

精選版 日本国語大辞典「山村流」の解説

〘名〙 日本舞踊の流派の一つ。

 文政(一八一八‐三〇)のころ、大坂の振付師山村友五郎が、地唄の名人在原検校と提携し、観世流の能を研究して創始したもの

 優婉閑雅を特色とし、劇場における振付のほか、花柳界や家庭にも進出した。

※細雪(1943‐48)〈谷崎潤一郎〉中「観世水に四君子の花丸の模様のある山村流の扇をかざして」

 悦子は学校から帰って来ると、毎年お花見の時より外にはめったに着ることのない和服を着て、足に合わない大ぶりの足袋穿いて、観世水四君子の花丸の模様のある山村流の扇をかざして

(https://furigana.info/w/四君子:しくんし)

 

 四君子とは(ウィキペディアより)

 四君子(しくんし)とは、蘭、竹、菊、梅の4種を、草木の中の君子として称えた言葉。

 また、それらを全て使った図柄、模様。

 本来、中国語で君子は徳と学識、礼儀を備えた人を指し、文人はみな君子になることを目指した。

 蘭、竹、菊、梅の4種の植物がもつ特長が、まさに君子の特性と似ていることから、文人画の代表的な素材にもなった。

 蘭はほのかな香りと気品を備え、竹は寒い冬にも葉を落とさず青々としている上、曲がらずまっすぐな性質を持っている。梅が早春の雪の中で最初に花を咲かせる強靱さ、菊が晩秋の寒さの中で鮮やかに咲く姿が好まれた。

 それぞれの気品の高い美しさから、中国宋代より東洋画の画題としてよく用いられ、春は蘭、夏は竹、秋は菊、冬は梅と、四季を通じての題材となる。

 また、これら4つの草木を描くにあたって基本的な筆遣いを全て学べるため、書を学ぶ場合の永字八法と同じように、画法を学ぶ重要な素材となっている。

 麻雀牌の花牌として4枚1組で用いられることもある。中国麻雀では常用されるが、日本の麻雀ではほとんど用いられず、日本で発売される麻雀牌のセットからも省略されている。中国の麻雀牌をモチーフにしたゲーム『上海』では花牌として用いられている。

 

デジタル大辞泉「山村流」の解説

 日本舞踊の流派の一。天保年間(1830~1844)に大坂の振付師山村友五郎が創始。女流の地唄舞に特色をもつ。

 

世界大百科事典 第2版「山村流」の解説

 日本舞踊の上方舞の流派名。

 天保年間(1830‐44)に大坂で名振付師として活躍した初世山村友五郎(ともごろう)(のちの初世舞扇斎吾斗(ぶせんさいごとう))を流祖とする。

 初世は《慣(みなろうて)ちょっと七化》《三つ面椀久》などを振り付け,地歌や能を舞にとり入れて上方舞を完成させた名手だが,その伝統は2世友五郎(新町に住んだので〈新町の山村〉とも),養女の山村れん(九郎右衛門町),同じく養女の山村登久(島の内)に継承され,明治の大阪芸界を風靡(ふうび)した。

 

世界大百科事典内の山村流の言及

 …さらに新舞踊からも新流派はあり,藤蔭流,五条流,林きむ子(1886‐1967)の林流,

 西崎緑の西崎流がある。上方舞では篠塚文三郎(?‐1845)を祖とする篠塚流,

 井上八千代の井上流,山村友五郎による山村流,

 楳茂都(うめもと)扇性の楳茂都流,吉村ふじ(?‐1909)の吉村流等がある。

 歌舞伎舞踊【菊池 明】。

 

 井上八千代の井上流は、井上さん^^v

 楳茂都(うめもと)扇性の楳茂都流は、確か、片岡愛之助さんか、、、

 楳茂都流は確か、大阪歴博で掛け軸か何かを見たような気がする。

 

 

 2世は1世の養子友三郎 (16~95) で,1世の没後2世友五郎を襲名して宗家格になり,劇場の振付師として活躍する一方,山村流の舞を整理完成し,今日の山村流を大成した。

 1世の養女れんは,九郎右衛門町の山村「九山村」の1世家元を称し,京坂の劇場の振付師としても活躍したが,1881年に没し家元の後継者がない。

 1世の養女登久は,島の内の山村「島山村」の1世家元となり,その孫若子は今日の女性本位の座敷舞としての地歌舞を完成し,1942年3月推されて3世宗家を継ぎ,2世山村舞扇斎吾斗を襲名。

 このとき,その孫山村菊が2世若子を襲名したが,48年4月4世宗家を継ぎ,若と改称。

 4世没後,92年孫の山村武が6世宗家を襲名,5世宗家はその母故山村糸に追贈された。

 

 

〘名〙 日本舞踊の流派の一つ。 文政(一八一八‐三〇)のころ、大坂の振付師山村友五郎が、地唄の名人在原検校と提携し観世流の能を研究して創始したもの

 優婉閑雅を特色とし、劇場における振付のほか、花柳界や家庭にも進出した

 

 後水尾天皇の第一皇女、文智内親王により営まれたのが始まり。

 華道山村御流は明治の後期第6代門跡伏見宮文秀内親王によって基礎が築かれた後、第十代山本静山門跡が山村御流初代家元となりました。

 

 

 

 

 とりとめもない記録にお付き合いくださいまして誠にありがとうございます。

 みなさま、楽しいお時間をお過ごしください。

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「右に出る者がいない」 2022年南座顔見世のまねき上げの一番右上は、片岡仁左衛門様、、でござりまする。

2023-01-10 | ことのは

「右に出る者がいない」 2022年南座顔見世のまねき上げの一番右上は、片岡仁左衛門様、、でござりまする。

 

 

 

 2022年南座顔見世のまねき上げの右上は、

 片岡仁左衛門丈でござりまする^^

 これぞ!

「右に出る者がいない」ので、ござりまする^^

 ウヒャヒャ、ウヒョヒョ

 なので、ござりまする^^

 

 

 ついでと言ってはなんでございますが、

 南座顔見世のまねき上げを裏から見てみましょう^^

 これぞ、まねき上げのお背中でございまする^^ 

 

 

 こちらは正面横から見た、南座顔見世のまねき上げの様子でございまする。

 私も度々紹介させていただいておりますお景色でございます。

 

 

 またまたついでと言ってはなんでございますが、「右に出る者がいない」について記させていただきたいと思います。

 古くは、中国から伝わる後でございます^^

 

 実用日本語表現辞典より

 右に出る者がいない (みぎにでるものがいない)

 別表記:右に出る者はいない、右に出るものがいない、右に出るものはいない  

 実力において勝る者がいないさま。

 古来、偉い立場の者から見て右側に立つ者(本人たちから見れば左側)のほうがより優れた者という決まりがあったためにこの表現が生まれたとされる。

 実際に、左大臣は天皇から見て右側にいたものの、右大臣より立場が上だったとされている。

 

 類語

 誰にも引けを取らない

 誰にも負けない

 誰にも劣らない

 誰とでも渡り合える

 右に出るものはいない

 無双の並ぶ者のない

 並ぶものがいない

 並び立つ者はいない

 右に出る者はいない

 他

 

 

 みなさま

 ご訪問に感謝します^^

 ありがとうございます^^ 

 

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『人はうわべを見るが、主は心を見る。』  サムエル記  16:7  /   『サムエル記』とは

2022-07-03 | ことのは

 

 

『人はうわべを見るが、主は心を見る。』

         サムエル記  16:7

 

 

 

 K日記様のページで、『人はうわべを見るが、主は心を見る。』という言葉を読み、感動しました。ありがとうございます!

 

 

 

 しかしサムエルに仰せられた。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 サウルから王位を退けました。

 そして、ダビデにその王位を与えるべく、エッサイの家に行って油注ぎを行ないなさいと預言者サムエルに命じられます。

 サムエルはけれども、父エッサイの息子のうちの誰かだとしか言われていません。

 それでサムエル長男から、油注ぎを受けるべき息子を見分けようとします。

 サムエル長男エリアブがその人だ、と思いました。

 けれども、は違うと言われました。

 そして、この言葉になっています。

 が選ばれる者は、人が見るような上辺ではないのだ。

 そうではなく、心なのだ、ということです。

 

 

 

『サムエル記』とは

『サムエル記』は旧約聖書におさめられた古代ユダヤの歴史書の1つ。

 元来、『列王記』とあわせて1つの書物だったものが分割されたようである。

 また『サムエル記』自体も上下にわかれているが、これはギリシャ語聖書以来の伝統である。

 また、正教会においては列王記第一、列王記第二と呼称される。

 内容的には『士師記』のあとを受け、『列王記』へと続いていく。

 タイトルは最後の士師であり、祭司であったサムエルに由来。

 ユダヤ教の分類では『ヨシュア記』『士師記』『列王記』と共に「前の預言者」にあたる。

 この書物の原作者は、サムエル、ナタン、ガドであると伝えられている(歴代誌上 29:29)。

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  『もくれんのさうし』とは   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』第四章一 至文堂 より

2022-06-28 | ことのは

 

 

 

  『もくれんのさうし』とは   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』第四章一 至文堂 より

 

 

『もくれんのさうし』(「目連の草子」)  世界大百科事典 第2版より

 室町時代の短編物語。

 甘露飯王(かんろぼんおう)の太子の目連は,15歳で受戒して僧となるが母を失う。

 37歳の3月25日,死んで冥途に遍歴し,黒縄地獄の亡母と対面。

 母は目連に財を与えようとした慳貪(けんどん)の罪で餓鬼に堕し,さらに出家した目連のために大阿羅漢の死を願って地獄に堕していた。

 4月1日に蘇生した目連は写経供養して母の苦を救い,7月15日に盂蘭盆会(うらぼんえ)を行った。

 盂蘭盆の起源説話であるが,《盂蘭盆経》や中国の所伝,あるいは《三国伝記》や後代の《目連記》の所伝とは異なる。

 

 

 

 目連関連の早稲田大学諸像デジタル公開分  ↓

 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php

 

 

 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』 (明治大学人文科学研究所叢書)  至文堂ハードカバー より

  

  • 至文堂 (2003/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

 
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今更人に聞けない言葉の混乱  宗教編 1【浄土宗と浄土真宗】

2022-05-18 | ことのは

 

    今更人に聞けない言葉の混乱  宗教編 1【浄土宗と浄土真宗】

 

 

 

 京都にいる時には漠然と仏教徒として生きていた私。

 奈良に引っ越してきて、差別問題に触れることが多くなる。

 差別問題を意識する講師から【浄土宗と浄土真宗】に対する講師の考えを植え付けられた。

 だが、それが正しいのか否か、私にはわからない。

 

 ところがどっこい。

 頼りなきかな、【浄土宗と浄土真宗】については無知である。

 エレベーターとエスカレーターくらいに、私は混乱するのだ。

 

 もちろん【浄土宗と浄土真宗】は、

 

  浄土真宗東本願寺

  浄土宗西本願寺

 

と言えば、京都出身の私には分かり易い。

 

 ただこれだけでは何のことやらわからないので、書物やネットを通じて、おいおい【浄土宗と浄土真宗】について調べて生きたいと思う。

 

 

      つゞく

 

 

 

今更人に聞けない言葉の混乱  宗教編 1【浄土宗と浄土真宗】

 

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侍女とは             

2022-02-27 | ことのは

 

 ドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』をの侍女について、しっかりと意味を知りたいと思い調べてみる事にした。

ドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語 シーズン3』 5、6、7、8、9、10、11、12、13回 4,8★/5  2019年 

 侍女という言葉は古くは、『古事記 上』にも出てくるらしいがその場合は、【まかたち】と読むようである。

 まか‐たち【侍=女/侍=婢】  《「まかだち」とも》貴人に付き従う女。腰元。 「豊玉毘売とよたまびめの—」〈記・上〉

 

 侍=女/侍=婢

 婢とは

 精選版 日本国語大辞典によれば【婢】(ひ)とは  

 〘名〙 召使いの女。

    下働きの女。

    はしため。

    下女。

    下婢。また、女の奴隷。

  ※正倉院文書‐養老五年(721)下総国葛餝郡大嶋郷戸籍「婢真物売、年弐拾陸歳」 〔世説新語‐徳行〕

とある。

 

 侍女は日本の古典である『落窪物語』や『太平記』にも出てくる。

 この場合は、【じじょ】と読む。

 

 精選版 日本国語大辞典によれば、【侍女】とは  

 〘名〙 貴人の側に仕えて、その身のまわりの世話をする女。

    小間使いの女。

    腰元(こしもと)。

  ※経国集(827)一一・竹樹新裁流水遠引即事有興把筆直疏得寒字応制〈小野岑守〉「侍女開レ扉聴、親臣巻レ箔看」

  ※太平記(14C後)二一「後宮三千人の侍女(ジジョ)の中より花を猜(そね)み月を妬む程の女房達を」 〔白居易‐聞楊十二新拝省郎遙以詩賀詩〕

 

 また、ウィキペディアを見ると、ヨーロッパにおける侍女は次のように説明されている。

 

 ヨーロッパの侍女

  その役割は、紳士に対する近侍(バレット)ときわめてよく似ている。

  伝統的に侍女はコンパニオンよりもランクは低いが、雇われ人(リテーナー)であっても召使(サーヴァント)ではなく、その報酬には居室と食事、(女主人のお供をしての)旅行やそれなりの社会的地位が伴っていた。

  そして、下級使用人や訪問先の他家の使用人からは「お嬢さま」(ミス)と呼びかけられるなど、使用人に対してはその女主人と同等の優位を保っていた。

  侍女の仕事は、化粧、髪結い、服装・装飾品・靴などの選択、衣装の管理、そしてそのほか全般の買い物について女主人を補佐することであった。

 

 ドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』でも、買い物は、侍女の役割となっている。

 しかしドラマでは一番重要なことは理不尽である儀式に強制的に参加させられることである。

 儀式といえば聞こえは良いが、レイプ、拷問である。

 

 近侍(きんじ バレット)とは

  [名](スル)主君のそば近くに仕えること。また、その人。

     近習 (きんじゅ) 。「国王に―する武官」

  

 

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塚本晋也とは     監督、脚本家、俳優

2022-02-02 | ことのは

 

 

 

 

映画『鉄男 TETSUO』 4,3★/5  1989  67分  監督・脚本 塚本晋也  田口トモロヲ 不二稿京 叶岡伸 石橋蓮司 塚本晋也 六平直政 他

映画『鉄男 II BODY HAMMER』2,6★/5 1992年 82分 監督・脚本 塚本晋也 出演者 田口トモロヲ 塚本晋也 叶岡伸 金守珍 手塚秀彰 浅田修生他

 

 

以下ウィキペディアより

塚本晋也とは

 塚本 晋也(つかもと しんや、1960年1月1日- )

 日本の映画監督、俳優、ナレーター。

 東京都渋谷区出身。

 渋谷区立渋谷小学校、渋谷区立原宿中学校、日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学芸術学部卒業。

 有限会社海獣シアター代表取締役。

 コマーシャルのナレーターとしては大沢事務所所属。

 映画監督として自ら製作・監督・脚本・撮影・美術・編集・出演を兼ねる自主制作スタイルを貫いている。

 

塚本晋也監督作品

 

塚本晋也出演作品

映画

 

ドラマ

 

 

 

 

 

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「やおら」と「なまら」  「やおら」と「なまら」に出てくる「やおら」と、元は北海道の方言とは言いがたく、新潟の漁師言葉の「なまら」についてし食べてみる。

2022-01-11 | ことのは

 

 「やおら」と「なまら」

 

 

『枕草子』を読んでいると、百八段目で「やおら」という言葉が出てきた。

『枕草子』で「やおら」という言葉が出てきたのは、私が覚えている限りでは、これで二度目である。

 

「やおら」とは

 やおら〔やをら〕  [副] 

 1 ゆっくりと動作を起こすさま。おもむろに。「やおら立ち上がる」

 2 静かに。そっと。 「姫君、御硯すずりを—引き寄せて」〈源・橋姫〉 [補説]1について、文化庁が発表した「国語に関する世論調査」で、「彼はやおら立ち上がった」を、「ゆっくりと」と「急に、いきなり」のどちらの意味だと思うかを尋ねたところ、次のような結果が出た。 (大辞泉)

 

〘副〙

 ① 静かに身を動かすさま、また、徐々に事を行なうさまを表わす語。そろそろと。おもむろに。やわら。現代では悠然としたさまをいうことが多い。 ※宇津保(970‐999頃)蔵開下「御後の方よりやをらすべり入るを」

 ② 時間の経過とともに変化、進展し、ようやくその状態になるさま、事態が変わるさまを表わす語。 ※読本・春雨物語(1808)宮木が塚「上人の御ふねやをら岸遠くはなるるに立ちむかひて」 [補注]歴史的かなづかいは、従来「やをら」とされており、それに従ったが、「疑問仮名遣」のいうように「やはら(柔)」と同源であったとすれば、「やほら」の可能性もある。 (日本国語大辞典)

 

 12行目

、、、まめひともりをとりてこさうじ(小障子)のうしろ

にてやをらくゐければ。ひきあらはして。

わらはるゝ事こそかぎりなきや

 

 ところで「やおら」と「なまら」は混乱することはないが、どちらも日常には馴染みがない。

 こと「なまら」にという言葉に関しては、こうだ。

 私の好きな戸次重幸や安田顕の所属するチームナックスの某舞台で、やたら「なまら」をネタのように多用していた。

 その舞台で初めて「なまら」という言葉を知った関西人の私は、本源を大切にしたり郷土愛の強い彼らは素晴らしいと感じていた。

 彼らは北海道の大学(北海学園)の演劇部出身である。

 

「なまら」とは

 なまら なまら△ [副]

  非常に。はなはだしく。〈全〉 ~「なまら」は北海道弁としてはポピュラーであるがまったく使わない人も多く,北海道弁を代表する語とは言い難い。1980年頃の流行語。  (北海道方言辞典)

 

 副詞 (新潟県・北海道の方言)

  とても、ものすごく。北海道では1970年代に新潟県出身のラジオDJが使ったことから広まった。

  [要出典] なまら美味い(とてもおいしい)  (『Wiktionary』)

 

 「とても」を意味する「なまら」 テレビなどでも耳にする言葉。

  なまらには「とても」「すごく」などの意味があり、強調したい時に使われる表現。

  特に若い人が使う傾向にあり、年配の人の中にはあまり上品ではないという印象を持っている人もいる。

 [要出典] なまら美味い(とてもおいしい)

 

「なまら」の語源

 「すごい」や「とても」という意味で使われている「なまら」という方言には、どのような言葉が語源となっているのかご存知でしょうか。  

 「なまら」の語源は「生半可」を意味していると言われており、もともと北海道でできた言葉ではなく、新潟で漁師をしている人たちの間で使われていた言葉だとされています。  

 北海道へと伝わっていく間に、本来の「生半可」の意味とは全く違った意味で使われるようになったのでしょう。

 

 

 

 本日某旅行者のパンフレットが送付されてきた。

 北海道旅行の見出しに「なまらいい街」といった言葉があり、関西に住んでいると馴染みのない言葉「なまら」を調べてみた。

『枕草子』に出て来た「やおら」も今一度調べたのは、ご愛嬌。

 

   どんと はらい

  

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