遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

表現の源

2008-08-18 10:27:48 | ブログ

3033 森瑤子が自分の作品はゲロみたいなものだ。                                とどこかの女性雑誌に書いていて                                       森瑤子の若者時代を知っている私は                                        それがすごく良くわかる。

と、

前にも書いたかな。

森瑤子がかつて

シュウチョウと呼ばれていた頃

彼女が自分をめぐる出来事をどう受け止めていくのか

年下で妹のように可愛がってもらっている立場ながらハラハラしていたことを思い出し

小説家の原動力ってそういう

自分の人生の中の苦悩の中にあるのかなと思ったりした。

Sagi5 最近、鷺沢萠の本を次々読んでいるが

この人が生まれてから15歳まで豊かな家庭で育ち

父の会社が倒産し

田園調布の大きな家も出て没落

その後高校生のときに書いた小説で

小説家デビュー

自分のおばあちゃんを取材するうち彼女が在日韓国人と知る

で、その方面の

モチーフも小説の中では

大きな位置を占めるようになっていった。

で、若くして自殺してなくなった!

この15歳のときの鷺沢萠のことを考えている。

前のも書いたが私は今で言う中学校お受験をした。

彼女はその私が通った学校の後輩に当たる。

その学校は変な学校だ。

学校生活はものすごく楽しかったけれど

それまで私が住んでいた世界とは

全く見知らぬ世界。

まあ、貧乏人の娘が行く学校ではなかった。

一方彼女は

そこらの地区の豊かな家庭

で育って、小学校からその学校に通っていた彼女は

自然にその空気には溶け込んでいたのかもしれない。

それとも

田園調布のお屋敷街で、感じ取るものもいろいろあったのかな。

突然襲った不運は

どんな風にストレスだったのか。

ゆたかな家庭の子どもが多いといっても

その中の奇妙な階層社会ぶりは

思春期の子どもにはけっこういろいろ感じさせられるものがあるもの。

そういうことって

鷺沢萠の中でどう発酵していったのか

興味津々。

この間見てきた巨匠対決もそう。

何がこのような表現の違いになるのか。

作者がその時代をどう生きたのか

すごく興味がある。

こういう作家になった人

芸術家になった人ではなくても

誰もが

表現の源を持っているわけだし

「表現を通しての教育」

ってやはり大事だろうと思うよ。

コメント (6)
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