Y山さんとも話したのだが
審査の様子を見るというのはとても勉強になることだ
私はこの二日で今まで見えなかったものが見えるようになった気がするよ
といったらYさんには通じた
だからこのビエンナーレに出そうよとお友達を誘うのだが
乗ってくれたのは Yさんだけなんだよなあ
もったいない!
でも彼女は半分は寝ていたけれどね
お仕事もあり 前日は姪御さんの結婚式がありでお疲れモードだったけど
さて
第一次審査の時 いちいち ええ!?これ一顧だにしないの?
と意外な反応にびっくりしながら 自分の判断と先生の判断と
いちいち比較してみていて
感想はいろいろあった
なんだあ!ピンク嫌いなのね!
とか
モノクローム なんで?流行り?
とか
あああ 木漏れ日好きねえ これだけあると陳腐じゃない?
とか
あらま 人間が出てくると写真のようでないとだめなわけ!?
とか感じていた
浅はかだけど
中途半端な具象画は ほとんど落ちた
くそまじめなただの風景画とか 静物画とか
古臭く見えるように そういうのは古臭いのかなあ
で二日目 おお!レベルアップだと思った
やはり 半分くらいふるい落とした後のものは
ぐん とレベルアップ
そういうレベルって 確かにあるな
そのあとは
私の眼も 画面の訴求力 というものを主に物差しで見て行った
一日目と違うのに気づいておかしい
これらの中で
具象画の最たるものは真ん中あたりの葡萄の絵
ほとんど写真 中央に蜂がいる
こういう葡萄の光が透ける様子
描くの好きだけれど
好きで描いたのではだめなのよね
このスーパーリアリズム で ありえない巨大さ
これが今的 ではある
この人もしかして前回パンを描いた人かもしれない
大きな花もあった
そういう流行ってあるんだよな
私なんか巨大に描きたいという気は起きないなあ
後ろの右から二番目のはセピア色の写真みたいなもの
この頃写真をセピア色に古めかせるのが流行っているけれど
そういう流行も感じた
そんな感じのファッション性というのが
あるな
こういうコンクール
今 これが新しいのですよ!的な
そういうのに 反発を感じる
ただのリアリズムではなく
写真のように それでいて大きさとか色調とかで一ひねり
という作品は多かった
大賞を取った 後ろの左から三番目の絵は
気味の悪い絵で 何が言いたいんだろう
と思って見てきたけれど
震災以降の芸術家たちのモチベーションの変化
それと絡めて この絵の詩的表現力にどんどん惹かれて行った
と
審査員の先生の話が会った
詩的表現かあ
そうかあ
表現が 即物的であるか 観念的であるか
シャガールはピカソがリアリストだから下らん!と批判的だった
というのを思い出した
絵は観念を描かなきゃ 詩的表現みたいな
それでなきゃ意味ない というのがシャガールの主張なんだよね
スーパーリアリズムも 即物的なところを極大化して
リアリズムを脱却しようとしているのかな
おなかが空いたので 中断