■『蜻蛉日記』上 (上村悦子著より引用。) 2015.9.20
初瀬からの帰路で、兼家の愛情を確認したこと、何よりも十一面観世音菩薩の霊験を信じ、期待することによって、心の安らぎを得て落ち着いた作者は、超子(兼家と時姫のむすめ)入内に全面的に協力する姿勢を見せている。兼家は冷泉院の後宮に長女を入れ、陽のあたる道をまっしぐらに進んでいく。
……
結びの直前の作者の心情は穏やかで満足しており、生涯の中では新婚の一か月とともに幸福な時期で、「人にもあらぬ身の上」とか「かげろふの身」とか「ものはかなし」と長嘆息し「書き日記」せねばならぬほどの追い詰められた、惨めな境涯ではなかった。それなのにこの結びの文句がその直後に書かれているのは木で竹をついだような唐突な感じがする。貞観殿登子との交友や初瀬詣での記事とまったく違和感を与えるこの文句をあえて結びに据えた作者の意図は何であろうか。もしこの結びの文句「かく年月はつもれど…かげろふの日記をいふべし」がなく、初瀬詣でや御禊の記事で終わっていたら、上巻は序や主題(かげろふの如き身の上を書く)と無縁のもの、むしろ逆な印象さえも読者に与えかねないであろう。この結びの言葉により読者に今一度上巻全体がはかない身の上の告白であるという認識をあたえるためにこの結びの言葉は上巻末に必要であり、この結びの言葉によって、上巻が、主題のもっとも鮮明に出ている中巻と密接し得ているのである。
初瀬からの帰路で、兼家の愛情を確認したこと、何よりも十一面観世音菩薩の霊験を信じ、期待することによって、心の安らぎを得て落ち着いた作者は、超子(兼家と時姫のむすめ)入内に全面的に協力する姿勢を見せている。兼家は冷泉院の後宮に長女を入れ、陽のあたる道をまっしぐらに進んでいく。
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結びの直前の作者の心情は穏やかで満足しており、生涯の中では新婚の一か月とともに幸福な時期で、「人にもあらぬ身の上」とか「かげろふの身」とか「ものはかなし」と長嘆息し「書き日記」せねばならぬほどの追い詰められた、惨めな境涯ではなかった。それなのにこの結びの文句がその直後に書かれているのは木で竹をついだような唐突な感じがする。貞観殿登子との交友や初瀬詣での記事とまったく違和感を与えるこの文句をあえて結びに据えた作者の意図は何であろうか。もしこの結びの文句「かく年月はつもれど…かげろふの日記をいふべし」がなく、初瀬詣でや御禊の記事で終わっていたら、上巻は序や主題(かげろふの如き身の上を書く)と無縁のもの、むしろ逆な印象さえも読者に与えかねないであろう。この結びの言葉により読者に今一度上巻全体がはかない身の上の告白であるという認識をあたえるためにこの結びの言葉は上巻末に必要であり、この結びの言葉によって、上巻が、主題のもっとも鮮明に出ている中巻と密接し得ているのである。