蜻蛉日記 上巻 (59) 2015.8.5
「御四十九日はてて、七月になりぬ。上に候し兵衛の佐、まだ年もわかく、思ふことありげもなきに、親をも妻をもうち捨てて、山にはひのぼりて法師になりにけり。『あないみじ』とののしり、『あはれ』といふほどに、妻はまた尼になりぬと聞く。」
◆◆村上天皇の四十九日の法要も過ぎて七月になりました。その村上帝の殿上に近侍されていた兵衛の佐という方が、年もまだ若く、何かの悩みもありそうにないのに、肉親も妻もきっぱりと捨てて、比叡山に入って法師になってしまわれました。「まあ、大変なこと」と大騒ぎし「なんと、おいたわしいこと」と言っていましたが、程なく妻も又出家して尼になったと聞きました。◆◆
「さきざきなども文かよはしなどする中にて、いとあはれにあさましき事をとぶらふ。
<奥山の思ひやりだにかなしきにまたあま雲のかかるなになり>
手はさながら返りごとしたり。
<山ふかく入りにし人もたづぬれどなほあま雲のよそにこそなれ>
とあるも、いとかなし。」
◆◆これまでも文を交し合う間柄でしたので、胸をうたれ、なんと意外なこととお見舞いもうしあげます。
(道綱母の歌)「奥深い山で出家した夫君のことを伺うだけでも悲しく思いますのに、あなたまでもが、尼になられるとは何としたことでしょう」
筆跡は前と同じで(姿は尼になられても)お返事ありました。
(兵衛佐妻の歌)「山深く出家した夫のあとを追おうとも、尼の身では比叡山にも入れず、逢うこともできません。二人の間は隔たってしまいました」
と書かれていました。ほんとうに悲しいことです。
■兵衛の佐(ひょうえのすけ)=藤原敦忠(あつただ)の4男。村上天皇に近侍していたが、天皇崩御後、康保(こうほう)4年(967)比叡(ひえい)山で出家、真覚と名乗る。天禄(てんろく)2年岳父の藤原文範(ふみのり)が創建した京都大雲寺の開山となる。子の文慶(もんきょう)が同寺の初代別当になった。
■さきざきなども文かよはしなどする中=佐理の妻は、道綱母の姉の夫である為雅の姉妹か、
という。作者とも文を交わす間柄であったので。
「御四十九日はてて、七月になりぬ。上に候し兵衛の佐、まだ年もわかく、思ふことありげもなきに、親をも妻をもうち捨てて、山にはひのぼりて法師になりにけり。『あないみじ』とののしり、『あはれ』といふほどに、妻はまた尼になりぬと聞く。」
◆◆村上天皇の四十九日の法要も過ぎて七月になりました。その村上帝の殿上に近侍されていた兵衛の佐という方が、年もまだ若く、何かの悩みもありそうにないのに、肉親も妻もきっぱりと捨てて、比叡山に入って法師になってしまわれました。「まあ、大変なこと」と大騒ぎし「なんと、おいたわしいこと」と言っていましたが、程なく妻も又出家して尼になったと聞きました。◆◆
「さきざきなども文かよはしなどする中にて、いとあはれにあさましき事をとぶらふ。
<奥山の思ひやりだにかなしきにまたあま雲のかかるなになり>
手はさながら返りごとしたり。
<山ふかく入りにし人もたづぬれどなほあま雲のよそにこそなれ>
とあるも、いとかなし。」
◆◆これまでも文を交し合う間柄でしたので、胸をうたれ、なんと意外なこととお見舞いもうしあげます。
(道綱母の歌)「奥深い山で出家した夫君のことを伺うだけでも悲しく思いますのに、あなたまでもが、尼になられるとは何としたことでしょう」
筆跡は前と同じで(姿は尼になられても)お返事ありました。
(兵衛佐妻の歌)「山深く出家した夫のあとを追おうとも、尼の身では比叡山にも入れず、逢うこともできません。二人の間は隔たってしまいました」
と書かれていました。ほんとうに悲しいことです。
■兵衛の佐(ひょうえのすけ)=藤原敦忠(あつただ)の4男。村上天皇に近侍していたが、天皇崩御後、康保(こうほう)4年(967)比叡(ひえい)山で出家、真覚と名乗る。天禄(てんろく)2年岳父の藤原文範(ふみのり)が創建した京都大雲寺の開山となる。子の文慶(もんきょう)が同寺の初代別当になった。
■さきざきなども文かよはしなどする中=佐理の妻は、道綱母の姉の夫である為雅の姉妹か、
という。作者とも文を交わす間柄であったので。