今月の18日ブログ仙岩に小野田寛郎さんの死を悼むとして生い立ちや日本での野外活動を載せました。
その野外活動の足掛かりとなったフィリピンルバング島のジャングルの中での29年間の生きた生活はどのようなものであったかは自然塾を経験していない私には想像するだけである。
小野田さん自身は「私の帰国に際して、残置諜者という言葉がクローズアップされたようだが、私が命じられたのは、あくまでも遊撃戦の指導で、残置諜者ではなかった。しかし、友軍との連絡方法が無くなり、赤津を基準とした自分たちの行動力を考えれば、後方攪乱などの遊撃戦も思うにまかせず、結果的にこの時期は、残置諜者的な役割を果たさざるを得なかったのである。」と述べている。
私も集団での登山、キャンプをして、小野田さんのようにリーダーは体の一番弱い赤津さんに基準を置いて生活していたことと同じ方法で行動していた。5人のグループであれば、一番先頭は斥候役のすばっしこい方、一番弱い方はリーダーの前、最期に体力十分な人を配置するのが当たり前である。
自分が作り出す恐怖との戦い、毎日の死か生きるかの戦いで気心が分かると仲間喧嘩になり気が収まると風や小鳥の鳴き声が聞き分けられるという。ジャングル生活10年過ぎて、掃討戦があり、仲間が負傷してからの続きは次回に。
その野外活動の足掛かりとなったフィリピンルバング島のジャングルの中での29年間の生きた生活はどのようなものであったかは自然塾を経験していない私には想像するだけである。
小野田さん自身は「私の帰国に際して、残置諜者という言葉がクローズアップされたようだが、私が命じられたのは、あくまでも遊撃戦の指導で、残置諜者ではなかった。しかし、友軍との連絡方法が無くなり、赤津を基準とした自分たちの行動力を考えれば、後方攪乱などの遊撃戦も思うにまかせず、結果的にこの時期は、残置諜者的な役割を果たさざるを得なかったのである。」と述べている。
私も集団での登山、キャンプをして、小野田さんのようにリーダーは体の一番弱い赤津さんに基準を置いて生活していたことと同じ方法で行動していた。5人のグループであれば、一番先頭は斥候役のすばっしこい方、一番弱い方はリーダーの前、最期に体力十分な人を配置するのが当たり前である。
自分が作り出す恐怖との戦い、毎日の死か生きるかの戦いで気心が分かると仲間喧嘩になり気が収まると風や小鳥の鳴き声が聞き分けられるという。ジャングル生活10年過ぎて、掃討戦があり、仲間が負傷してからの続きは次回に。