ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

仲間二人と永遠の別れをした小野田さん

2014-01-23 09:37:02 | 日記
攻撃中止後、三人で次にとるべき行動を話し合うと、41才になった足怪我の治療を二人から受けて少しは回復した島田さんがここにいたいという。投降した赤津さんからこの場所が知られているからと小塚と喧嘩になり小野田さんが島田さんの意見を尊重して留まった。

果物ナンカを倒木の上に並べたが、日が沈むと島田さんが谷へ下ろしたことから、居場所を知られまた銃撃戦に、射撃の名手島田さんが立撃ちの姿勢から打たれ亡くなった。残された二人は島田さんが日章旗を見て友軍と思い撃たなかったのではないかと推測したが、私は島田さんの銃撃戦のケガから、自分の家族の写真のビラを見たりする郷愁の念と合わせて、自殺行為ではないかと推測した。

朝鮮動乱ベトナム戦争での上空飛来の飛行機から戦争続行していると思っていた二人は、食糧確保で稲の焼き払いから銃撃戦となり、1972年に島田さんが亡くなってから17年後小塚さんを亡くした。

一人になった小野田さんは、小塚さんの戦死後1年4ヵ月後1974年2/20夕刻鈴木さんと出会い、写真撮影に応じ、2週間後3/5「口達す」のビラから99%信用、3/9谷口少佐から「作戦任務解除命令」を受け、マルコス大統領から罪なしの許可を得晴れて帰国した。4年に一度の閏年を考慮した自作歴30年間で6日早い誤差であったという何事にも驚異的な生活の足跡を残していた。

異国の丘の作詞者増田幸治さん亡くなる

2014-01-23 08:45:32 | 日記
1.今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる春がくる

2.今日も更けゆく異国の丘に 夢も寒かろ切なかろ 泣いて笑って歌って耐えりゃ 望む日が来る朝が来る

3.今日も昨日も異国の丘に 重い雪空日がうすい 倒れちゃならない祖国の土に 辿りつくまでその日まで

福島県桑折町出身の増田幸治さんが、期せずして小野田さんと同じ91才でこの年明けにひっそりと亡くなった。

異国の丘は吉田正記念オーケストラの曲で大分自分のAudioでシベリアの極寒の地をイメージしながら聞いた。

1943年陸軍上等兵の吉田正さんは「大興安嶺突破演習の歌」として作曲していた。一方でシベリア抑留の増田幸治さんは「明日も今日も」で作詞、過酷な環境で亡くなる兵士も多い中で、シベリア抑留兵の仲間で歌われていた。が、1948年シベリアから帰国した中村耕造がNHKのど自慢で唄い一躍有名になっても、作詞作曲者が誰か分からないという。

吉田正さんが復員後に私が曲をつけたと名乗り出たために分かり、その後、福島の増田幸治さんが作詞者と分かり、佐伯孝夫補作詞で「昨日も今日も」から「異国の丘」と題名も変更したという。1945年終戦後の混乱の様子を垣間見ることが出来る。