ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

阪神・淡路大震災 27周年記念日に寄せて

2022-01-17 05:45:17 | 自分史

 今日は、阪神・淡路大震災の27年周年記念日。記憶が風化してしまいましたが私は当時、地震でバスが阪神高速から落ちそうになった事故現場の近くに独りで住んでいました。

 今回は、できるだけ記憶を取り戻すために、7年前に書いた大地震当日についての手記を添付しました。是非、非常事態で私が味わった奇妙な感覚を共有してみてください。



 
アルコール依存症へ辿った道筋(その16)阪神大震災、地震の当日
私自身、経験したことのない大災害の現場に居合わせているという自覚はありましたが、日常とは全くかけ離れた、異質な世界となってしまった現実を、第三者のように醒めた眼で眺めていました。恐怖感も湧かず......
 

 

 

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一風変わったテーマ

2020-02-07 06:22:02 | 自分史
 先日、AAのミーティングで出たテーマは “経済的不安”。一風変わったテーマでしたが、誰にでもあるのが当たり前過ぎて、却って話しにくいテーマでは(?)とも思いました。

 ミーティングの常連は50~60代の人が多く、中には生活保護を受けている人も少なくないのです。働く意欲を持っていても職に就けない人、アルコールの後遺症で健康を害し職に就けない人、色々います。

 案の定、参加者から色々苦労話が出ましたが、ここでは私事に限ってお話することにします。

 “経済的不安” とはズバリお金の問題です。その典型が、昨年6月に出た「夫婦の老後資金に2000万円が必要」とした年金問題ではないでしょうか。

 高齢夫婦無職世帯(夫65歳以上、妻60歳以上の二人世帯)の毎月の収入は約20万9000円で、支出は約26万4000円なので、収支は約5万5000円の赤字。年間だと約65万円の不足となる。残りの人生が20~30年だとすると不足額の総額は単純計算で1300万円~2000万円になるというのがその根拠です。
(総務省の「家計調査」データから試算による)

 私は今、すべて年金で生活を賄っています。毎月の収入はほぼ上記の金額だけ。支出の固定費(税金、健康・介護保険料、電気・ガス・水道料、管理費)は月々およそ10万円弱です。

 月によっては2~3万円ほどの赤字もありますが、月々を均してみると収支はほぼトントン。年間の赤字を合算しても精々5~10万円の範囲でしょうか、当然、それは貯金を取り崩すことになります。

 アルコール専門クリニックに毎日通院していた頃は、さすがに医療費がかさんで赤字巾も大きかったのですが、身体的・精神的に安定するにつれ2ヵ月に1回の通院で済むようになりました。

 その分余計な出費を抑えることでき、身の丈に合った支出を心懸け、・・・つまり、シブチン生活(粗食)に慣れて上記の収支でボチボチやっていけるようになったわけです。

 ところで、ミーティングの場で私が思い出していたのは30代半ばまでのこと。

 入社以来配属されていた臨床開発は、社内ではエリートと見做されていました。そんな部署で何の実績も残せていなかったので、いつも他部署へ転勤させられるのではという不安に怯えて汲々としていました。

 身近にいた先輩社員が、一方ではプロジェクトに失敗して営業に左遷させられていましたし、他方では見事に成功してトントン拍子に昇進していました。そんな姿が不安と焦りに拍車をかけました。営業職などへの転勤は、用ナシの左遷先と思い込んでいたのです。

 そんな精神状態でしたから、もし転勤ともなれば即退職、退職となれば即 “経済的不安”に陥る、こんな短絡的考えで頭が一杯でした。

 転勤即、退職というところが青臭いところです。そんな狭い了見が、つい酒に向かわせたのだと思います。

 仕事が順調に進み始めてもこの飲酒習慣は止みませんでした。たまにする晩酌のつもりが習慣飲酒になり、悪循環からそのまま精神依存ひいては身体依存へと落ちるところまで転げ落ちたのです。

 今振り返ってみると、慣れ親しんだ生活(の安定)が損なわれるかもしれない、そんな取り越し苦労が不安の原因だったと考えています。アルコールで体調が悪くなると生活リズムが乱れて精神状態も悪くなり、それが一層、取り越し苦労を繰り返えさせていたようです。

 何を言いたかったかわからなくなりました。要はこういうことです。

 “経済的不安” は取り越し苦労の場合が多く、誰もが免れないもの。たとえ大富豪でも相続先や投資先には何がしかの不安を持っているはずです。

 人は人、自分は自分と割り切ることが肝腎。何よりも健康に気をつけ、身の丈に合った生活を心懸ければいいだけの話です。

 その際、最も大事なのは規則正しい生活リズムと軽い運動(歩き)。これらは体調を整え元気にさせてくれます。

 元気であれば余計な取り越し苦労もしなくて済むはず。まぁ、これが結論でしょうか。



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女性ならではの特性?

2019-09-27 06:01:42 | 自分史
 久々に、2ヵ月に1回通院しているアルコール依存症(アル症)専門クリニックに行ってみました。

 前々回の受診では、主治医の S 先生に元気がなく、自ら老人ボケが進んでいると嘆いていました。その背景には、跡取りにと目論んでいる息子さんとうまくいってないことも窺えました。そんなわけで、今回はどんな様子か興味津々の受診でした。

 さて、S 先生の診察室・1診に入ってみると、意外に上機嫌で迎えてくれました。
「今日は、2診で息子が診察しているんだ。やはりアルバイトでない医者はいいね!」
どうやら、息子さんとのわだかまりが解消されたようでした。
「見ましたよ。顔は余り似てなくて良かったですね。背が高いのはお父さん譲りのようだけど・・・?」
「そうそう、背が高いのはウチの家系だからねぇ。顔と性格は・・・」

 家族の話になったので、頃合いを見計らってこんな質問をしてみました。
「家族の回復って、時間がかかるんですね? 今だにウチのは言葉にトゲがあって・・・」
「それは女性特有の資質から、ということだね。何か事があると、こっちがすっかり忘れていることを『あの時もこうだった』と持ち出して来るでしょう。
 小っちゃいことでもしっかり覚えていて、さもさも大事(おおごと)だったとネチネチ言い続けるし、そう思い込んでもいる。
 挙げ句に、それを更に他のことにまで飛び火させるから敵わない。蟻の一穴から “拡大と飛躍”、これこそが女性ならではの特性です。」と、一般論として説明してくれました。

 私には、この S 先生の言葉が次のように聞こえました。
「あんたのカミサンの辛辣さは、女性生来の特性で一生改まることはない。諦めなさい!」と。

 さらに S 先生は続けました。
「こうなったときは下手に抗ってはダメ。黙っているか、その場から即逃げるかだね。」
これには私も異論ありません。相手は山の “神”、とことん言い負かされるのがオチです。

 けれども、アル症からの回復は身近な人にしか判断できない、こういう回復観を持っている私です。身近にいるそのカミサンに回復(?)が期待できないのなら、自分にも一生回復はないのでは(?)と、ついつい悲観的になってしまいました。まぁ、結局は世の亭主族の多くと一緒、ということなのでしょう、ネ?

 今回の S 先生は、以前と同じ経験豊富な臨床医の姿に戻っていました。跡取り問題が彼の一番の気がかりだということもよくわかりました。さて次回はどんな様子を見せてくれるのか楽しみです。



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ブログ開設から丸5年

2019-09-24 05:51:51 | 自分史
 アルコールの後遺症PAWSのひとつドライドランクを記事にした『断酒中のハイテンションは危ない!(ドライドランク)(2014.9.06投稿)で始めたこのブログ、お陰様で開設から丸5年を超えました。“にほんブログ村” のヒゲジイさんのプロフィールを見ると、開設日が2014年9月26日になっていますが9月6日の間違いです。

 写真一つない文章だけの記事なのに、それでも読んで下さる方々がいてのこと、どんなに励まされたことか計り知れません。開設して丸3年のとき、このブログの目的は次の3つと書きました。

 ● アルコール依存症回復への闘病記録
 ● 認知行動療法 “言語化” の実践記録
 ● 自分の “認知のゆがみ” を知ること

 これらは今でも変わっていません。最近はこれらに加え、よくこなれた文章表現になるよう試みてもいます。そこで、目的にもう一つ加えることにしました。

 ★ よくこなれた文章表現を試みる場

 理屈を捏ねるのが好きな私ですから、これまでとかく抽象的で硬い言葉を使用しがちで、くどくどしく冗長な文章にもなりがちでした。そんなところを改めようと考えた次第です。

 ところで、好奇心がなくなったらボケた証拠と聞きます。たとえ日常的で些細なことにでも面白味を見出せたらそれが好奇心。そんな好奇心がある内はまだまだ大丈夫! そう考えています。精々、アンテナを目一杯広げ、イカレタ記憶機能にむち打ってネタ漁りに励むだけです。

 ブログ開設5年を期し、以上の4本柱でブログを続けて行けたらいいなと思っています。これからも引き続きご愛読下さるようお願いします。



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懐メロに想うこと

2018-11-02 06:29:03 | 自分史
 “懐メロ” と言えば、私の若い頃ならジイさんバアさんの青春時代の歌、つまり戦争直後に流行った歌謡曲というのが定番でした。今ならさしずめフォークソングでしょうか。

 先週のある朝のこと、目が覚めたらラジオから、「君とよくこの店に来たものさ~♪」(『学生街の喫茶店』ガロ 1972)が流れていました。後ろめたくも、苦くて哀しい想いで胸が一杯になりました。

 この歌は、私が大学2年の頃に流行った歌です。歌詞にもあるように当時、喫茶店はデートの待合わせに恰好の場所でした。が、そんな喫茶店に私はめったに行きませんでした。正直言って、彼女と別れて間もなくて、度重なる引っ越しでそんなお金もなかったからです。

 別れた彼女は、私が寄宿していた予備校寮の厨房で働いていた子でした。一浪しても受験に全敗し、やむなく二浪することになった私は、同じ寮で新一浪生と一緒に暮らすのが嫌でその寮を出ることにしました。

 彼女との付き合いはその頃に始まりました。そして、間借りのような6畳一間のアパートに移って間もなく、彼女とは半同棲のようなズブズブの関係となりました。

 当時、人生最悪の危機にあると思い込んでいた私は逃げ場を求めていました。たとえ落伍者に落ちぶれた身だとしても、せめて恋愛ぐらいはよく街で見かける人並みにやってみたいとも考えていました。それでも、このまま享楽に逃げていては完全に身を持ち崩してダメになる、と薄々感じてもいたのです。そんなふうに東京は当時も、若者の心を惑わす刺激的な街でした。

 受験勉強に身が入らなくなった私を見て親友の1人が心配し、受験直前の3ヵ月間、私の部屋で合宿してくれました。この合宿のお陰で必然的に彼女とは疎遠になり、入試の方もどうにか合格できました。(彼がいなかったら今の私はなかったでしょう。)

 翌春、やっと志望大学に入学できた私は舞い上がっていました。それまでの辛かった1年間を付き合ってくれた彼女なのに、何かと足手まといとなったと別れ話を持ち出しました。当然、刃傷沙汰寸前のとんでもない修羅場となりました。それで、どうにもならなくなって彼女の両親に泣きつき、上辺だけの詫びを入れてどうにかこうにか関係解消となったのです。

 これが “懐メロ” で呼び覚まされた私の心の闇のひとつです。かくも身勝手で、ひとりよがりな男の、彼女を捨ててまで上を目指した人生が、アル中という結末となったのも自業自得なのです。薄情な天邪鬼がどんな顛末をたどるのか、改めて嚙み締めた歌でした。
         *   *   *   *   *
 恋心は身勝手な性欲が創り出す幻想・妄想です。

 たとえ身を焦がすほど恋い焦がれた異性でも、いざ我が物にしてみたら次第に露わになる実像に幻想が醒め始め、そのうち実像が面倒になって逃げ出す。もし逃げずに続いたとしたら、それは妄想の欠片と忍耐の為せる技、形式を重んじるプライドが辛うじて足止めさせているだけなのです。

 これが醒めきっている今の私の偽らざる実感です。

  (またまた余計なことを書いてしまいました。)



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断捨離

2018-08-03 05:59:41 | 自分史
 ついこの間、AAのミーティングで最初の発言者に指名されました。テーマは “手放す” でした。間口の広いテーマなので、十分に咀嚼できないままトップバッターとして話すのは結構大変です。私には珍しく、そのとき咄嗟に “断捨離” という言葉がなぜか閃きました。手持ちの物を思い切って整理・処分する、あの “断捨離” です。

 私にとって飲まない生活への転機となったのは、断酒10ヵ月目にあった “憑きものが落ちた” 体験でした。取り憑いていた妄想が消えて正気に戻ったという意味ですが、今まで触れて来なかったエピソードに、この体験後に実行した “断捨離” もあったのです。そのときの “断捨離” の対象は本でした。

 学生時代から集めていた本は六段構えの本棚2つ分になっていました。別居に伴い、大事なところに線を引いたり書き込みをしたりしていた大量の文庫本はすでに処分されていて、残った単行本は6~7個のダンボールに詰め込まれて収納庫に入れられていました。本棚の1つは息子たちのマンガ本用に、もう1つは物置棚代わりに使われていて、6年振りに家に戻っても今更復元するなどと言える雰囲気ではありませんでした。

 これでアルコールが脳から抜け切ったと思え、早くも回復したと勘違いしたぐらいですから、 “憑きものが落ちた” という体験は画期的でした。ダンボール詰めにされた本が忍びなく、いっそのこと古本屋に再活用してもらおうと考えたのです。

 結局、元町の高架下の古本屋に引き取ってもらいました。「タダでもいいぐらいですが、それでは納得できないでしょう」と、何とたった2千円だけ置いて帰って行きました。ほとんどの本はかつて古本屋で買ったもので、中の何冊かは1万円以上もしていたのです。購入時の総額は50万円を下らない本たちでした。

 後になって “Book off” にすべきだったかなと少し悔やんだのですが、そのときは不思議と清々した気分になれました。これが “断捨離” 効果なのかと妙に納得したことを覚えています。こんなことをそのミーティングで話しました。

 アルコール依存症の人は、モノへの執着心が強いことでも共通しています。変にマニアックなところがあり、酒を切らさないため必ず買い置きしておくなどは当たり前です。

 断酒をしてもこの性癖は残っており、「もったいない」などと言い訳しては、なかなかモノが捨てられないでいます。心の中を整理する “精神的な断捨離” は、やはり “モノの断捨離” を通じてしかできないもののようですネ。



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“滋養強壮” 目的が仇になり?

2018-06-29 05:56:10 | 自分史
 今更ながら、アルコール依存症(アル症)がどんなプロセスを辿って進行するのか復習してみます。因みに、依存症との境界線は精神依存までと言われています。

【アル症の進行プロセス】
  習慣飲酒 ⇒精神依存 ⇒身体依存 ⇒連続飲酒発作

 習慣飲酒とは、日常的に酒を飲むようになった状態のことで、酒に強くなって(耐性の形成)酒量が増加します。精神依存とは、酒がないと物足りなく感じるとか、緊張をほぐすのに酒を必要とする状態のことで、酒量が増え、ほろ酔い程度では飲んだ気がしなくなります。酒呑みならほとんどの人に当てはまることと思います。

 先日のAAのミーティングでは、“なぜ酒に囚われたのか” がテーマでした。仕事上のストレスでイライラした神経を宥めるためとか、トントン拍子で昇進する先輩社員に嫉妬してとか、決まってマイナス感情を紛らわすためだったからと考えるのが私のいつもの定番です。ところが珍しいことに、そのとき考えたのは上記の進行プロセスにある習慣化のことでした。

 初めての酒なら、一回の飲酒だけで酒の虜になるわけがないのです。最初の一口は、舌や喉へのピリピリした刺激が強く、それがビールならその苦さに閉口するのが普通で、二度と口にすまいと心するものです。だから、酒に囚われるまでには相当長い期間にわたる習慣化があったハズなのです。そこで思い出したのが薬用養○酒でした。

 虚弱体質だったこともあり、私は小学校の中学年ころから薬用養○酒を常用するようになりました。滋養強壮によいからと親が人に勧められ、結構高価なのに無理して私のために買ってくれたものです。元々酒に強い体質の私には何の不快感もなく、就寝前の一杯が1~2年ぐらい続いたでしょうか。それを見た周りの大人たちは、将来辛い洋酒を好むようになるだろうと言っていました。

 薬用養○酒の度数はワインと同じくらいの14度です。大人が1回に飲む分量は20mL、恐らく私はその半量の10mLを常用していたと思います。そんな量を1~2年も続けていたのですから、小学生のうちに習慣化が立派に成立していたのだと思います。

 だから酔いは心地よいものだという刷り込みがあり、本格的な飲酒に対して何ら抵抗感がなかったのです。このお陰で立派な大酒飲みになれました。

 もうひとつ習慣化を挙げるとすれば毎晩の晩酌でしょうか。TVドラマやCMの影響だと思いますが、暮らし向きの良い家庭なら晩酌は当たり前という刷り込みがあったようなのです。要は虚栄心を満たすための見栄なのですが、たとえ外で飲んで帰って来ても飲み直しの晩酌が欠かせなくなって行きました。

 こうして習慣化から精神依存が成立し、さらに酒量が増えて身体依存となり、家庭内不和から別居という定番コースを辿ったわけです。挙げ句の果てが連続飲酒発作で危うく死にかけるところまで行きました。

 想えば、すべての根源は小学生時代の薬用養○酒にあった? いくら何でもこれはお門違いの言いがかりですが、小さい頃の飲酒はたとえ『滋養強壮』が目的でもお勧めできません。こんなこと当たり前ですよね。


次の記事も是非ご参照ください。
アルコール依存症の進行プロセス』(2016.3.04投稿)
私の底着き体験・断酒の原点』(2014.9.08投稿)



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“ジリツ” って?

2018-04-13 06:22:10 | 自分史
 断酒して1年9ヵ月目に入った頃、自助会AAのミーティングで “ジリツ” がテーマになったことがありました。“ジリツ” と言っても自立と自律があります。一体どちらの“ジリツ” なのか迷った記憶があります。

 AAにはスポンサー・シップという仕組みがあります。スポンサーとは『回復のプログラム』の指導役も兼ねた個人的な相談相手のことで、経験を積んだ人になってもらうのが普通です。話題提供にと司会者のした話は、このスポンサーについてでした。

 最初なってもらったスポンサーが絶対服従を求めてきた人だったそうで、付き合うのにほとほと難儀したという話だったと思います。話の締めは、依存気質の強いアル症者だからこそスポンサーからも精神的に自立すべきという結論だったような? 半分上の空で聞いていたのでハッキリしませんが、このことで話の流れが自然に自立となったことは覚えています。

 一方、このミーティングの日に書き残していた私のメモには、なかなか自立できないでいたサラリーマン時代のことが書かれていました。入社して5、6年経った頃のことで、家計上の強い経済的プレッシャーから、解雇されでもしたらどうしようとしきりに怯えていた時期のことです。

 結婚生活と就職とが同時スタートだったので、次男が生まれるまでの5年間は共稼ぎでやっていました。なので気持ちは、依然として青二才丸出しの学生気分そのままでした。さすがに次男の誕生と同時に家計を一手に担うことになり、そんな気分でいる自分が頼りなく思えていました。つまり、仕事での実績がなく自立できていない状態が心細くなったのです。それほどまでに会社に依存していました。

 毎晩の晩酌が定番となったのは、そんなストレスを紛らわすためでもありました。晩酌を毎晩したことで益々、夜更かし・朝寝坊が酷くなりました。家計の収支を自分で正確に掴んでいたのなら、毎晩の晩酌などできるはずがありません。妻に給料袋を渡したら後はお気楽なご身分だったのです。アル症の初期段階・精神依存への道はこうして敷かれたのだと思います。

 話しは戻って、“ジリツ” がテーマとして出されたとき、私自身は自律の方を考えていました。断酒を続けるには自分で自分を律するしかないだろう、と単純に考えてのことでした。後で調べてみると、自分で自分を律するという意味なら精神的自立と同義で、自立でも問題ないことがわかりました。それでもなお自律に絡んで何かが引っかかったままでした。

 前置きが長くなってしまいました。最近になってようやく気づいたのですが、どうやら気になっていたのは自律神経のことだったらしいのです。

 唐突ですが、今の私は自律神経が正常に機能してこそ初めて精神的自立もあるのでは、と考えるに至っています。何のことはない、精神の宿る肉体が健全であってこそ精神的な自立もあり得るという意味です。そして、自律神経が正常に機能するよう仕向けるためには、規則正しい生活リズムを刻み、身の回りを整理整頓して生活秩序を保つことが不可欠とも。

 あーだこーだと下手な理屈を捏ねるよりも、こう言った方がわかりやすいでしょう。早寝・早起きに始まって毎日欠かさず一定時間外を歩くこと、これです。特に、外を1~2時間ほど歩くことが自律神経を正常に機能させるのに最も有効なようです。しかも、無理なく身体を動かすという意味では最も理に適っている、と私は実感しています。

 経済的に自立した生き方にせよ、精神的に自律できる生き方にせよ、どちらも飲まないで生きる生き方の達成目標です。その目標達成のためには、“秩序とリズム”。これが変わらぬ私のモットーとなっています。



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亡き姉を偲んで

2018-02-16 06:16:54 | 自分史
 最近の私は認知症について色々考えさせられています。孤立感に囚われれば認知症になりやすいと聞いたことから、先日ふと思い出してしまったのが姉からの最後の電話でした。姉が亡くなる2ヵ月半前の夜のことで、老人ホームに入所してから2~3ヵ月経っていました。

 姉の話はひそひそ話のような話し方で、言葉も途切れ途切れだったのでよく聞き取れませんでしたが・・・。
「殺し屋って今でもいるの? どうやら(私は)殺し屋に狙われているようで、・・・」のっけから可笑しな事を聞いてきました。
「寝ていて何か(人?)の気配がして起きてみると、・・・皆(静かに)寝ているし・・・」

 金縛りにあったような感覚かと聞いても、どうもそうではなさそうでした。レム睡眠時の夢ならば、金縛りになった感覚に襲われることがあり得ると聞いていたので質問してみたのです。

「怖くなって今日、一時帰宅してみたけど、・・・ホームのスタッフが私を変だと言っているのが聞こえたし、・・・」とも言っていました。それは幻視・幻聴ではないかと話してみても、
「皆そう言って、誰も私の言うことを信じてくれない」と言うだけでした。

 ここまでの会話で明らかだったことは、姉に幻視・幻聴による被害妄想が現われていたことでした。幻視・幻聴は統合失調症の代名詞みたいなものですが、高齢になってからの発病など聞いたことがありません。結局、姉は認知症と診断されました。

 認知症と言えば、記憶障害(食事をしたことさえも忘れるetc.)や見当識障害(今日の日付がわからない、顔を見ても相手が誰かわからないetc.)、徘徊などの問題行動が有名ですが、姉のお陰で幻視・幻聴による妄想もあることを知りました。

 恐らく姉は、孤立感でいたたまれなかったのでしょう。自分で決めたこととは言え、老人ホームへの入所は決して姉の本意ではなかったはずです。姉から度々相談を受けていた私としては、姉の決断を後押ししたことに少なからず負い目を感じています。

 持病のパーキンソン病が進行して、専門職の介護なしでは最早暮らしていけないと自覚したことが決め手だったのでしょうが、なかなか結婚できない息子が気楽に独り立ちできるようにと打って出た勝負手でもあったのかもしれません。相談を受ける度、私も甥の一人暮らしを姉に勧めていましたし、老人ホームへの入所にも賛成しました。そうでなければ気丈な姉が、自分で建てた家を離れてまでして赤の他人に身を委ねるなんてあり得ないことなのです。

 そんな後ろ髪を引かれての老人ホームですから、なかなか馴染めないことと孤立感から夜も眠られなくなったのでしょう。不眠の行き着く先が幻視・幻聴で、これが恐怖感を煽ってさらに悪化へ・・・よくある経過を辿ったのだと想像できます。ここに至るまでの間に何か善処できなかったのかが悔やまれます。

 この電話があってから一週間後、姉は精神病院に入院となり、さらに2週間も経たずに呂律が回らなくなって食事もできなくなったそうです。その後の1ヵ月少々で、意識がなくなっての危篤状態となりました。意識がまだしっかりしていた内は、「このままでは死ねない!」としきりに言っていたそうです。

「私からこういう電話があったこと、絶対に覚えて置いてよ!」今でも、姉が最後に言ったこの言葉が強く耳に残っています。事があったら私に証人となるよう求めての言葉だったと思います。周りへの不信感から切羽詰っての電話だったのでしょう。それだけに哀れさが身に染みます。

 昨日15日が姉の月命日でした。私の独りよがりかもしれませんが、姉との約束を果たす意味でも丁度よい供養になると思い、こんな記事を書いてみました。



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“楽になる / 楽になった” 新年はこの感覚を第一に!(上)

2018-01-05 06:38:42 | 自分史
 “楽になる / 楽になった” という感覚は、アルコール依存症者にとって心の回復の一里塚なのかもしれません。今週と来週の二回に分けて、今一度感覚について考えてみます。

 “楽になる / 楽になった” という言葉は、ひょっとして閉塞感を伴った経験をそれなりに積んだ者でないと出てこない言葉なのでしょうか? 奇妙な話ですが、私はつい最近まで “楽になる / 楽になった” という言葉を知らず(?)に生きてきたのではないかと自分自身訝しく思っています。

 言うまでもないことですが、心に背負った重荷から解放されて初めて味わえる感覚が、“楽になる / 楽になった” という感覚だろうと思います。その対極にある閉塞感は心の重荷の代表格で、その感覚を表わす言葉は “辛い / しんどい” でしょうか。

 この半生を振り返ってみると、私にもその後の運命を決した重大な転機がいくつかありました。中でも大きかったのは、二浪してやっと叶った大学入試の合格や、担当化合物が晴れて新薬となれるか否かを決した二重盲検比較試験の開鍵でしょうか。いずれも丁か半か二者択一のサイコロ賭博のようなものでした。

 これら二つの出来事は長年の苦労がやっと報われたという点では共通していましたが、正直解放されてホッとしたというのが当時の本音でした。どう思い返してみても、出て来たのは “楽になった” という言葉ではなかったのです。それもそのはずで、その頃は将来が前途洋々、閉塞感などどこにもなかったのです。

 こんな話もありました。私がまだ小学生だった頃のことと思います。忙しい農作業の合間を縫って、夏休みに家族で近くの温泉に行くことがありました。温泉から上がったばかりの母がよく口にしたのが、
「極楽、極楽! あぁ、楽になったぁ!」という言葉でした。
「(まるで、婆ぁさまみでぇだな)」それを聞いて私はこう思っていました(岩手弁です)。

 稲作主体の農作業は、年にたった一回の収穫を目指して際限なく続くものです。どうにもならない自然が相手で、除草などで手抜きでもしたら忽ち収穫減となりかねません。どんなに頑張っても収入増があまり見込めない業種ですから、それなりの閉塞感があったと思います。

 そんな “辛い / しんどい” 農作業を懸命に堪えてきた母ですから、温泉浴が束の間の息抜きとなって、つい口にしたのだろうと思います。そう察しもできずに、私には何とも年寄り臭い言い方だと思えたのでした。

 私も多少は、農作業の手伝いをしていたのですが、母の背負っていた辛さは子どもの手伝いぐらいでわかるヤワなものではなかったのです。今となってみれば、この言葉を使えるようになるには、どうやら相当 “辛い / しんどい” 年季(?)が要るように思えてなりません。
(この項つづく)



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