ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“自己憐憫” か?

2017-06-30 06:11:49 | 病状
 “行動に移す” がテーマのミーティングで、あらましこんなことを語ってくれた仲間(仮にAさんとします)がいました。

「アルコール専門病院を退院して、現在、7ヵ月目になります。会社は休職扱いになっていますが、そのうちきっと自主退職を求めてくると思っています。そうなったら応じざるを得ないと考えています。
 二人の子供は高校、中学に通っていて、失業したらこの先学校はどうなるか、・・・生活自体がどうなるか、・・・そんなことばかり考えています。
 行動に移さなきゃ・・・というのはわかるのですが、どうしたものか(途方に暮れ)、なかなか考えられないでいます。」

 自分にも覚えがあるだけに、淡々と語ったAさんの辛さは身につまされるものでした。もし助言を求められたら何をどう話すべきか? と考えてはみたものの、言葉が見つからないままどこか引っかかるモノだけが残りました。

 私が違和感を覚えたのは、自主退社をすんなり受け容れるというAさんの淡泊な考え方でした。

 大事なモノを手放さざるを得ないという、これと似た状況にかつて私も途方に暮れたものです。アルコール問題で妻に家を追い出されてやむなく別居となったとき、私も暗澹たる気持ちに落ち込みました。それでも崩壊した家庭の再建には意外に楽観的でいられました。

 先ず私が考えたのは、息子たちを何としても守らなきゃならないということでした。そのためには金が必要であり、仕事を辞めるなど考えもしなかったのです。何かにつけだらしなくなっていた自分に一定の非があったことは認めていましたが、それでもそれは酒のせいで、アル中などとは考えもしませんでした。妻に未練もありましたし、こんなことでは終われないというプライドもありました。これらが私を後押ししてくれたのです。ただ、まだアル中ではないと否認していたことが後に尾を引いたのだと思います。

 ミーティングから大分後になって気づいたのですが、あのときのAさんの話は “自己憐憫” だったのでは(?)でした。「なぜ自分がこんな目に・・・」と、言外に臭っていたのです。

 断酒歴9~10ヵ月ということは、ドライドランク(PAWS)の好発時期に当たります。恐らくAさんは、ドライドランク(PAWS)の真っ最中にあったのではないでしょうか。その一方で、自分に非があったとハッキリ認め、ジタバタしてもしょうがないとも考え始めていたのでしょう。そんな微妙なところにあってなお “自己憐憫” の気持ちの方が勝ってしまい、「どうしたものか分からない」という言葉になったものと思われます。ドライドランク(PAWS)の最中ならこれもあり得る話です。

 渦中にあると、ドライドランク(PAWS)とはなかなか自覚できないものです。そんな状態では助言など聞いてくれませんし、むしろ反感を持たれるのがオチです。そんなときは黙って聞いてやるのが一番です。

 そんな状態でも声に出して話したことで、Aさん自身も “自己憐憫” に気付けたのではないかと思います。黙って聞いてもらえるミーティングは、ガス抜きと “気づき” の一挙両得にもってこいなのです。

 アルコール専門病院に入院していたのなら、病気についての教育は受けていたはずです。再飲酒に誘う否認やドライドランク(PAWS)の危うさも学んでいたことでしょう。断酒中にやってはいけないこと、是非やってみるべきことも知っていたはずです。

 それらの知識を土台にミーティングに参加し、自分の頭を整理して悩みをありのままに語ったのですから実に理に適った行動でした。Aさんの採った行動は立派の一言に尽きます。

 断酒継続には、“最初の一杯” を何としても避ける強い意志を持ち、規則正しい生活リズムを刻むだけで十分です。そのためなら心を鬼にして非情に徹することも必要です。断酒を続けさえすれば状況は変わり、状況によって考え方も変わります。あれもこれもと浮気していては、どれも手にすることはできません。

 将来への不安は色々あっても、今やるべきことはただ一つ、アルコールが抜け切るまで断酒一つに絞ること。酒を一切飲まないでいれば必ずアルコールは抜け切ります。万が一、助言を求められることがあったなら、このように私は言うつもりです。



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今日も一日、またいい日!(Today is another good day!)

2017-06-27 06:49:04 | 病状
 ついこの間、私の贔屓にしているブロガーが次のような言葉を書いていました。
  「今が一番いいのかも。
    今が一番頂点なのかも。
     そう思って毎日生きている。」
将来への不安などもうたくさんとする諦観の境地が言葉に込められています。この言葉にいたく感じ入りました。

 ここ5年余りの間、完全退職、連続飲酒状態、死の瀬戸際、断酒、諸々の離脱症状、“憑きもの体験”、・・・が続きました。それらを経て、“しらふ” の日々を過ごせるようになった今の私がいます。

 断酒歴丸2年のとき、「人生で初めてと思えるぐらい幸せだと思う」という一文を残していました。この先一体どうなるかにばかり囚われて、将来への不安や恐れで一杯だったことに気付き始めた頃のメモです。私の半生は “何としても生き残らねばならない” という首枷で雁字搦めにされていた、このことへの気づきです。これまで一番の “気づき” でもありました。

 ここに至った転機は、断酒10ヵ月にあった “憑きもの体験” で間違いありません。これを期に様々な “気づき” がありました。今ではどうにか自然体で構えていられ、何かが満たされなくても余り気にしなくなっていますし、感情に振り回されることもほとんどなくなっています。

 気分が落ち着かないときの助け船にと、ゴミ拾いという妙手が見つかったこともプラスでした。今だにゴミを目にする度にカリカリしていますが、拾っているうちに落ち着いてくるのが不思議です。これが怒りの減感作療法となり、今では随分救われています。

 強いて困り事を挙げれば、何かまとまったものを考えて書こうとした途端、ちりぢりに言葉が飛び交って収拾がつかなくなることでしょうか。それも、収拾がつくまで別のことで気を逸らして待っているしかありません。これは、アルコールの遺した迷惑遺産・思考プロセス障害のせいと考えています。

 ものごとは成るように成る、どうにもならないものはどうにもならないのです。ジタバタしても仕方ありません。

 今日も一日、またいい日!(Today is another good day!)

文法的にはメチャクチャですが、これが近頃の心境です。

 どうやら私は人生の断捨離を済ましたようなのです。そう思えてなりません。こんなエラソウなことを書いて大丈夫でしょうか? 思い上がりの隙を突かれてバチが当たらないよう祈るだけですが・・・。



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転んでパンダ顔になる?(血管迷走神経失神)

2017-06-23 06:23:49 | 病状
 道を歩いていると、前方から50歳前後の女性が歩いて来るのが見えました。長い髪を垂らし、踝に届くぐらいの長いスカートを履き、サングラスにマスクを付けていました。見覚えのある恰好に、つい目を凝らしてしまいました。

 髪とサングラスでよく見えなかったのですが、目に隈がチラッと見えました。サングラスとマスクは、どうやらそれを隠すためのようでした。
「(あっ、O 女史だ!)」思わずそう思ってしまいました。サリーマン時代のかつての同僚のことです。

 私が55歳ぐらいの時だったでしょうか、ある一時期、彼女がパンダ顔をサングラスで隠して出勤して来たことが再三ありました。訳を聞くと、転んだからという答がいつも返ってきました。私はてっきりウソとばっかり思っていました。

 その当時、彼女は一人息子のことで金銭トラブルを抱えていたらしく、席を離れては物陰で長電話に掛かり切りのことがよくありました。ただならぬ様子から、かなり追い詰められていたようでした。そんな姿から、恐らく暴力沙汰に巻き込まれたものと勝手に思い込んでいたのです。殴られて目に隈は知っていましたが、手も突かずに顔から転ぶ(顔面転倒)など、私の想像力を超えていました。

 定年退職後の1年半の間に、私も目に隈のパンダ顔を6回も経験しています。失神による顔面転倒でした。視野が、その都度不意に白黒(モノクロ)状態から真っ暗闇になりました。覚えているのはこれだけで、気が付いたら額や眉の生え際から血を流して倒れていました。意識が戻ったのは直ぐのようでした。大抵が、発泡酒を手にゆったり座って寛いでいたときでした。

 顔面転倒を招いた失神は脳の血流減少が直接の原因です。血管迷走神経失神が正式な医学用語で、失神の約20%を占めると言われています。血清Mg濃度の低下が関係するらしいとも言われていますが、私の場合は、大量の発泡酒を飲んでいたことから血清Naの過剰排泄で低Na血症となったせいかもしれません。酒を断ってからは一度も失神はありません。

 血管迷走神経失神のキッカケは、アルコールや睡眠薬の使用、強い痛み、排便、ストレスが知られており、他にも咳や飲み込みの場合もあるそうです。アルコールの場合はアルコール癲癇もあり、癲癇ならば意識が戻った際、痙攣による筋肉痛が残るので鑑別診断できるそうです。(癲癇なら命にもかかわります。ご注意!)

 私の場合、倒れて打った部位にコブや出血はありましたが、顔全体が腫れ上がったりはしませんでした。そう言えば確か、当時の O 女史の顔にも腫れはなかったように思います。彼女は正直に話してくれていたのです。道ですれ違った女性の顔が、果たして腫れ上がっていたのか分かりませんでした。

 人は、他人の日頃の言動から勝手にウソつき、・・・とか決めつけがちです。これこそ色眼鏡を通した “認知のゆがみ” のなせる業、思い込みです。正確な知識と経験の積み重ねがあれば避けられる誤解でしょうが、如何せん限りのある人生、これも仕方ないことかもしれません。精々心懸けるべきは、“ありのままの事実をありのままに受け止め”、その一つひとつを経験知として大切に記憶に留めて置くことでしょうか?
 


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自我のめばえを幼女に教わる

2017-06-20 06:46:32 | 雑感
 図書館でひとしきりうたた寝した後、その帰り道に10分ほど離れたスーパーに寄ってみました。スーパーのイートイン・コーナーで一休みしていると、少し離れたところで2~3歳ぐらいの女の子が大声で泣き叫び始めました。側にいる母親は素知らぬふりをしていました。

「(あぁ、やってるやってる・・・)」初めはそんな軽い気持ちで見ていました。そのうち、文字通り地団駄を踏んでは体中から怒りが爆発しだしました。
そんな女の子を見て、「(今あの子、頭にジワッと血が上っているな !?)」。女の子の姿に幼い頃の私自身が被って見えました。

 あの歳頃の私も、思い通りになりそうもないと直ぐに悔しさを通り超して怒って泣き喚いていたのでしょう。頭にジワッと血が上った感覚と涙で鼻が詰まっていた感覚は今でも鮮明に覚えています。「(そうか、ヒトって怒っても泣くんだ!)」。アリキタリのことでこんな当たり前のことに気づかされました。

 大人なら、涙を流して泣くのは余ほどの悔しさや悲しさがあってのことで、怒って泣くことはありません。ところが、言葉の未発達な幼児では、悔しさ極まっての怒りでも泣くのです。強いてそこに共通点を挙げるなら、思い通りにならない悔しさでしょうか。幼児の場合は、欲しいものが手に入らない悔しさに、思いを言葉で言い表わせない悔しさが二重になって怒ってしまうのでしょう。

 自分の思い通りにならない悔しさは自分という意識がなければあり得ません。・・・と言うことは 2~3歳ぐらいの幼児でも自我があるということ? じゃぁ、赤ん坊が泣くのも自分の思い通りにならない悔しさ? 赤ん坊にも自我がある? ・・・これ以上やると屁理屈の捏ねくり回しになるので止めにしました。
 
 言葉にできない悔しさは怒りに変わる。
 言葉にできない怒りは泣くことでしか晴らせないこともある。

言葉に思いを託せるか否かが鍵。幼い女の子に実地で教わりました。
 
 アリキタリのことでこんな当たり前のことに今さら気づくなんて、最近どうかしてます。うたた寝したら本来頭が冴えるはずなのに、冴えているのかボンヤリしているのか・・・、少なくともどこか変調を来たしているようです。

 毎年、2月下旬から3月にかけてと7月下旬から8月にかけて、頭の回転が鈍くなるのが普通ですが、ちょっと早いのではと思っています。今の時期、気温の変化など大したことないはずなのに、思いの外快適な気候続きのせいでしょうか?



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ヒゲジイ流 “言語化” の流儀

2017-06-16 06:46:00 | 言語化
 アルコール依存症からの回復には “認知のゆがみ” の矯正が課題と言われています。その矯正に推奨されているのが認知行動療法の一つ “言語化” です。

 私がアルコール依存症と診断され、酒と縁を切ってからほぼ3年8ヵ月、本格的に “言語化” に取り組んでからも2年10ヵ月が経ちました。断酒を始めるまで “言語化” という言葉さえ全く知らなかったのですが、今では生活リズムの一つとしてほぼ毎日これに励むようになりました。そのお陰で順調に回復しつつあると自負しています。

 私の考えている “言語化” とは、移ろいやすい思いを言葉で掬い取り、文字に固定し、見える化することです。こうすることで、過去の自分の姿が客観的に見える化されます。この作業を続けることが記憶のネットワークを活性化し、アルコールでイカレた脳の回復をも促進してくれると考えています。

 忘れない内に酒害体験を記録しておこうという単純な動機から始めた “言語化” ですが、そのうち自分の過去との対話という位置付けに変わってきました。いい機会と思い、我流で取り組んできた私流の流儀(?)を整理してみました。当初から常に心懸けていたのは以下の5つです。

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事実を正確に把握しておくこと
 出鱈目を重ねてきた飲酒時代が相手ですから、触れたくない過去はあります。書き始めてみて改めてそれが自覚できました。

 後ろめたさに苛まれ、つい感情に流されて自己否定に陥ったことがありました。罪悪感と反省の記述に始終したことや、上辺だけの悪行を書いていたこともあります。

 そんな苦い経験に懲り、対象とした時代の正確な個人史年表を作りました。個人的な出来事に限らず、その時々の客観的な社会情況の記述をも含めた年表です。この年表のお陰で自分の過去を相対化することができ、厳しい時代背景を背に精一杯頑張って来た自分の姿も見えて来ました。

5W1H、特にWhy(なぜ?)を意識して叙述すること
 “言語化” の真髄は客観的事実関係を明らかにすることだと考えています。その意味からも5W1Hを意識して書くことは極めて重要です。特にWhy(なぜ?)による因果関係の解明が鍵で、事実から決して目を背けまいと努めてきました。

 このことを忠実に実践しようとすれば、必然的に場面描写も含む物語風の叙述にならざるを得ません。大変な労力を要しましたが、それだけに記憶機能の活性化が進んだと考えています。

言葉と表現に徹底してこだわること
 書いた文章に違和感を覚えたら、自分の思いとはズレがあるというサインです。思いが適切な言葉となっていない証です。文法的な誤りの場合もありますが、違和感なくスッキリするまで徹底的に言葉や表現にこだわってきました。違和感は “自分に正直に!” という警告です。このことは次の項にも当てはまります。

誤魔化し、取り繕い、装うことでウソを書かない
 事実から目を逸らそうとしていたのでしょうか。無意識によくやっていたのが誤魔化し、取り繕い、装うことへの逃げでした。アリキタリの言葉でアリキタリに表現し、知らず知らずにアリフレた話にしてしまうことです。言い換えれば、自分の言葉ではなく、つい他人の尻馬に乗ってしまうということでしょうか。

 違和感に気づいて読み返してみると、自分の思いとはかけ離れた薄っぺらな印象の文章になっていました。ここでも重要なことはやはり違和感です。違和感は “正直に” 書き手の自分に警告を発してくれました。

文章は一定以上の長さにすること
 ブログ投稿用の記事は、当初A4サイズ(40字35行)2ページ半を目標としました。実際に書き始めると記憶が活性化され、次から次へと思い出が湧き出してくるものです。できるだけそれらを全部書き留めることにしました。問題を多角的に捉え、深く掘り下げて考えるためです。

 その結果、目標としたページ数を超え、続き物にすることがよくありました。今になって読み返してみると、編集の余地が十分過ぎるほどありますが、記憶機能の活性化にはよかったと考えています。断酒歴3年を機に、5番目のルールは止めにし、短くまとめるよう努めています。
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 現在試みていることは、次の二つです。何か引っかかりの残った身近な出来事について “言語化” すること。言葉をよく練って簡潔な文章を書くこと。この二番目は難題ですが、これらを課題として試行錯誤中です。

 文章の簡潔化と共に私の究極の目標は、如何にして自分自身をも常に客体化して眺められかです。道半ばではありますが、“言語化” の継続でそれが出来そうな気がしています。
 “ありのままの自分を ありのままに・・・”


ヒゲジイ流 “言語化” の実際については、こちらをご参照ください。
“心の落ち着き(serenity)”が分かる?(言語化入門)」(2015.3.06投稿)
回復へ ― アル中の前頭葉を醒まさせる」(2015.6.05投稿)
自分に正直になるには “言語化”」(2017.2.24投稿)


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思い込みと旧式蛍光灯

2017-06-13 06:49:15 | 病状
 ご存じと思いますが、マイナンバー・カードさえあれば、住民票や印鑑証明などの行政公文書がコンビニのコピー機でも発行してもらえます。市役所より手数料が100円安く済むというので試してみることにしました。

 コンビニでいざ試してみると、コピー機の表示に暗証番号入力の指示が出て来ました。暗証番号?心当たりがなかったので、しかたなく翌日、市役所に行くハメとなりました。

 翌朝の市役所でのことです。さっそく受付で相談してみると、暗証番号はリセットできるとのことで、担当窓口を教えくれました。併せてその際、写真付き身分証明が必要とも言われました。これにはすかさずマイナンバー・カードそのものが身分証明のはず、と珍しく切り返してみました。やはりその通りと確認できたので、もう出番なしと脳がお休み遊そばしたのかもしれません。
 
 担当窓口の担当者は私のマイナンバー・カードを手に取ると、案の定、カード申請時の申し込み用紙を取り出して来て、記憶がないか聞いてきました。なるほど申し込み用紙には、4桁の暗証番号記入欄がありました。かすかに見覚えがあったのですが、何の数字を書いたのかすっかり忘れていました。
「言われてみればあったような、・・・思い出せませんね。」
「では、リセットになりますね。免許証とかパスポートが身分証明に必要なのですが・・・」とサラリと告げられました。臆するところがなく、さも当然のような口調でした。そんな口調にこちらもすっかり魅入られ
「パスポートなら家にあります。それじゃ改めて、ですね?」と素直に応じてしまいました。

 ことの顛末を報告しておこうと再び受付に向かったのですが、何かに後ろ髪を引かれる思いでした。
「受付で交わした事前のやり取りは、一体何のためだったのだろう?」
歩きながらやっとそう気づいたときです。先ほどの担当者が追いかけて来ました。
「失礼しました。マイナンバー・カードお持ちだったんですね! すぐに手続きできます。どうぞ!」
これでどうにか一件落着となりました。

 双方ともに、二重の意味で思い込みがあったのです。その窓口は新規申し込み受付が担当ですから、通常なら身分証明が必須アイテムです。写真付きのマイナンバー・カードが目の前にありながら、担当者は通常業務通りに身分証明と機械的に口にしたのでしょう。私も私で、あまりにも自然な彼の口調に何の疑問も湧かず、ごく当然と受け容れてしまったのです。どちらの思い込みもいい勝負、何ともシマラナイ話です。

 私としたことが、自信タップリの口調にかくも簡単に落ちるとは・・・。こんなことではオレオレ詐欺の恰好の餌食になりかねません。素直と言えば素直なのですが、あんまりです。肝腎なときになるといつも旧式の蛍光灯状態、つまり気付くのが遅いのです。ここでも遺憾なく発揮されました。
“ありのままを ありのままに受け容れる”、時と場合によりけりです。



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“自分に正直に・・・”って?(“認知のゆがみ” の矯正に)

2017-06-09 07:09:16 | 病状
 “自分に正直に・・・” 倫理的意味合いを帯びるこの言葉に、皆さんはどんな思いを抱くでしょうか。さすがに自由・気儘を連想する人は少ないでしょうが、見栄を張ったり面子に拘ったりしないことと考える人は結構いるでしょう。あるいは、犯行を黙秘する容疑者に自白を促す際の常套句だと連想する人もいるかもしれません。

 実は、この言葉はアルコール依存症(アル症)者にとって特別な意味を持っています。と言っても、倫理的な意味ということではありません。

 アル症の特徴の一つに “否認” があります。酒浸りになっては出鱈目を繰り返している姿を本人も薄々異常と気付いていても、そうさせるのは周りのせいなどと他に責任転嫁する “他罰的” 考え方もその一つの現れです。再飲酒の繰り返しで、どうしてもアル症から回復できない要因とも考えられています。その根底にあるのが “ありのままの自分をありのままに” 見ようとしない “認知のゆがみ” です。

 ものの見方や考え方は周りの環境によって幼少期から育まれるものですが、その見方や考え方を認知と言うそうです。ですから人はそれぞれ独自の認知パターンを各人が持っていることになります。

 認知パターンに偏りが見られたら、傍の人からは偏っていると容易にわかるのですが、本人にはそれがなかなか気付けないものです。何かへの拘りが心の暗闇に潜んでいて、それに囚われていることが、ものの見方や考え方を知らず知らずに歪めているからです。無意識下のことだけに気付けないのも無理のないことです。

 無意識下の囚われから解放されるには、囚われの正体を暴くことが必要です。言い換えれば、“ありのままの自分” がどんな姿をしている / していたのかをしっかり把握し、それを “ありのままに” 認めることが必要ということです。

 そのためやるべきことは “自分に正直に” なって、自分自身の過去と対話を重ねることだと考えています。

 過去との対話と言っても、あの時あーすればよかった、こーすればよかったと後悔を重ねてばかりいて、結局、結論の出ないグルグル巡りの循環思考に陥ることではありません。解く鍵は触れたくない記憶の中に埋まっています。恐れず過去の自分に向かって問いかけ、決して誤魔化しを許さない覚悟で臨むことです。それが “自分に正直に・・・” だと考えています。

 ところで、人の体験談が正直に語られているものか否かは、不思議と傍から見ていればわかるものです。真に迫ったような話でも、演技ならそれと容易に察しがつきます。では、どんなときなら自分自身で自分に正直になっているとわかるものなのでしょうか?
 
 他人の経験談に思い当たることがあって、その話に共感を覚えると同時に自分自身の経験の意味も理解できたと実感するときがありませんか? 胸のつかえが降りたと言うか、心のモヤモヤが晴れたと言うか、そんな気持ちにさせてくれたのは言葉です。他人の語った言葉が自分の気持ちを代弁し、記憶の奥底に埋もれていたものを掘り出してくれたのです。
 
 “自分に正直に” なるには、これと同じように自分の過去を掘り起こし、モヤモヤした記憶に言葉で形を与えればよいのです。言葉でしか、自分の気持ちや考えを表現できないからです。(他に手段があるとすれば、絵画を含めた映像や音楽などでしょうが、ここでは触れません。)

 私などは、思いを託した言葉がうまく自分の気持ちと合致したとき、頭の中を光が走り、言いようのない満たされた気分になれます。これを私はカタルシスと呼んでいます。私は、“自分に正直に” なれたか否かをこのカタルシスの有無で考えています。残念なことに、言葉を思いのままに紡ぐのは難しく、そんなふうに満たされた気分になれるのは希にしかありませんが・・・。



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“捨てるヒトあれば 拾うヒトあり” 神がヒトに化けた?

2017-06-06 06:35:54 | 雑感
 軍手にトング(火バサミ)とレジ袋のいつもの恰好で、いつものようにゴミ拾いをしながら信号待ちをしていたときのことです。同年配ぐらいの女性が私に声を掛けてきました。

「いつもいつも、ご苦労さまぁ! 大変ネェ・・・。」
「まぁ、好きでやっていますから。」私は当たり障りなく言葉を継ぎました。
「これでも以前に比べたら随分マシになったんですがねェ・・・、続けているからでしょうかね。ただ目障りだからと、黙って続けているだけなんですが・・・。見て見ぬふりはダメですよね。」
「そうそう、そうよネ。この辺りはお陰様でネ。・・・でもネ、JRの駅の近くはヒドイものよ、誰も気付かないはずはないのにネェ。目も当てられないぐらい!」
「人通りが多いから・・・、あの辺は。誰かやる人、いないんですかねェ・・・?」
「そうよネ! 誰かがやらなきゃネ。実は私も、見習ってこの辺り(のゴミ拾い)をちょっとはやっているのよ。」その言葉にはちょっとビックリさせられました。女性は続けて、
「“捨てるヒトあれば 拾うヒトあり”、よ。ゴミ拾いは誰かが黙ってやるしかないのよネ。黙ってやるのがイイのよ、そうよネ!」そう言い残して女性は去って行きました。

 「(何と不公平な! “捨てる神あれば 拾う神あり” のはずなのに、ついに神が人に化けたか?!)」他人事みたいに言った女性の言葉に割り切れなさを覚え、つい皮肉りたくもなりました。しかしすぐに、“捨てるヒトあれば 拾うヒトあり” と割り切るのも悪くないと思い直しました。

 道を歩いていても、恐らくポイ捨て常習者にはゴミなど目に入って来ないのです。自分自身が荷担した不始末など見たくもないのは当然ですし、人間の目は見たくないものは見えないよううまく出来ているのです。だから、多少散らかっていようがいまいが、歩ける道でありさえすればそれでいいのです。多少のゴミなどほとんど気にならないのが普通です。かつての私がそうでした。

 ポイ捨てされたゴミがどんなに目障りで情けない光景と映るのか、それを体感してもらうには、実地でこざっぱりした道を歩いてもらうしかありません。

 人は、たとえ些細なことへの “気づき” でも、その “気づき” を転機に成長できる生き物のはずです。目に映っている光景が目障りで情けないと気づけさえすれば、自分の至らなさにも気付けるはずです。不要なモノを捨てるにしても作法というものがあるのです。“気づき” を契機にまともな作法を身に付けてもらえるなら、黙って拾い人に徹するのも人助けには必要なのでしょう。

 恐らく、女性の真意はこんなことだったのではないでしょうか。
 “捨てるヒトあれば 拾うヒトあり” なかなか乙な言葉です。



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怒りの感情に振り回されないために・・・

2017-06-02 06:31:22 | 病状
 唐突ですが、嫌な言葉をかけられた場合、一瞬頭の中で “ジワァッ” とした感覚が湧いてきませんか? そして、この感覚と同時に「これはキライだ! オモシロクナイ!」と判断して腹を立てていないでしょうか?

 この “ジワァッ” とした感覚こそ、キライと判断したのと同時に一瞬現われる怒りの兆候ではないか、と私は考えています。俗に「頭に血が上る」と言われているのはこの “ジワァッ”  とした感覚のことだと思います。

 このことに気づいて以来、“ジワァッ” とした感覚を察知したら、精々「あっ、来た!」と一息深呼吸するぐらいに止めてみました。すると不思議に心が鎮まったのです。ですから、この感覚が怒りの兆候とみてまず間違いありません。

 さて、結論です。
怒りなどのマイナス感情に振り回されないためには、感情の湧きだす兆候を察知するだけに止めることです。努々「・・・を変えなければならない」など余計なことを考えてはいけません
これが最善策と思います。

 以前は、「怒っちゃいけない。何とかしなければ・・・」などと考えたものですが、そうするだけで意識が固まってしまい、周りのことが何も見えなくなっていました。抑えが一層効かなくなるだけだったので一切考えないことにしたのです。そうしたらうまくいきました。

 繰り返しになりますが、頭の中で “ジワァッ” とした感覚がしたら、それが怒りの兆候です。まだ生煮えながら、これが私の苦い経験から導き出した結論です。ご用心ください。


 なお、兆候に「気づく」とは敢えてせず、「察知する」としました。「察知する」の方が情報戦の戦時下(?)という緊迫感と臨場感に富んでいると思えたからです。どこか野性的で直感的な語感のある「感づく」もよさそうですが・・・。



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