ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

通院6年でもまだ抗酒剤を?!

2020-01-31 06:32:11 | 自助会
 久々に元町のアルコール専門クリニックに行って来ました。2ヵ月に1回の通院ですから、去年の11月以来のことです。

 待合室で懐かしい女性患者の顔を見かけました。名前を呼ばれ診察室に入っていくところでした。珍しい名字だったはずですが、まったく思い出せませんでした。

 まだ30代のはずの彼女、顔がやつれ、パンツ越しに見えるお尻の張りも心なしか萎んでいました。確か山歩きが趣味だと言っていたのですが、今はやっていないのでしょう。

 診察室から出てきた彼女がソファの隣に座ったので、思い切って声を掛けてみました。
「私を覚えていますか? もう何年になります?」
「もちろん覚えていますよ! もう6年です。」
「6年? そんなになりますか!?」
「あっ、抗酒剤飲むの忘れてた! 失礼、今飲んで来ます。」

 抗酒剤は、アルコールの中間代謝物でそれ自体が猛毒のアセトアルデヒドの解毒を阻害する薬です。この専門クリニックでは基本1年間の服用を治療方針としています。頭皮に痒いブツブツが出るなど結構重い副作用があり、そのため私は服用10ヵ月目でお役御免にしてもらいました。

 彼女、毒でもあるそんな薬を6年経ってもまだ飲んでいました。両親が統合失調症と言っていたので、どうやらよほど深い心の闇を抱えているのでしょう。依然としてまだ飲酒欲求に悩まされているらしいのです。

 ひょっとしたら自助会に出ていないのではと気になって、戻って来た彼女に自助会のことを尋ねてみました。いつだったか、自宅近くの○△断酒会に入会したと聞いたことがあったからです。
「断酒会は辞めました。何かと縛りがきつくて、うまく馴染めなくて・・・」と彼女。

 断酒会では一般に、本名・住所などの連絡先を登録し、毎月一定額の会費を徴収します。いざという時は自宅訪問もしてくれるというのが売りですが、それだけに縛りもきついと聞いています。

「それならAAの方がいいのでは? AAは、ほとんど縛りのないイイカゲンなところ。本名など名乗らなくていいし、会費も要らない。精々ルールと言えば、出されたテーマに沿って話すことと “言いっぱなし聞きっぱなし” ぐらいなもの。めんどくさくなくていいですよ。」さらに続けて、
「ミーティングの雰囲気は、世話人のチェアによっても変わります。だから、女性がチェアをやっているグループなんてどうですか?」と、阪急西宮北口にあるグループを紹介してあげました。

 丁度その時、名前を呼ばれて私が診察室に入ることに。彼女との話はここまででした。

 アルコール依存症者には元々依存気質が強いという共通項がありますから、AAに馴染めさえしたら彼女も後は回復へ一本道のはずと考えてのこと。少々お節介が過ぎるかとも思いましたが、これも “我田引水” の人助け(?)でした。



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『万引き家族』を観て

2020-01-28 06:44:06 | 雑感
 先日、ヒューマンライツシアター主催の映画『万引き家族』を観てきました。無料の上映会だったのでほとんどがシルバー世代の観客でしたが、150名の定員に満たない入りは意外でした。

 私にとって、この映画を観るのは2回目です。初回に観たときも台詞に負うところが大の映画と思っていました。それでいながらつい聞き流していた場面も多々ありました。

 今回は日本語字幕がついていたので、前回の反省から聞き漏らすまいと頑張ってみたのですが、意外に聞き取れてない台詞が多かったことにビックリでした。難聴が始まっているシルバー向けには日本語字幕もアリと思いました。

 さて、映画は中盤まで、和気藹々とした情景が淡々と進みました。が、“婆”・初枝(樹木希林)が亡くなってからは一転して波乱に富んだ終盤に入りました。

 中でも特に、“やまと屋”(?)という雑貨屋での一コマが強く印象に残りました。

 この雑貨屋、侘しすぎるくらい狭い店構えで、本来なら万引きするには忍びないタバコ屋を兼ねた小さな店舗です。柄本明演ずる爺さんが雑貨屋の主人でした。

 そのお店で “妹” のゆり(じゅり?)が、指で万引き成功のお呪いをした後、小さなフィギアの入った小袋を引きちぎって持ち逃げ。それを見た “兄” の翔太も後を追って逃げ出そうとしたとき、主人の爺さんが翔太を呼び止め、チューチュー・キャンデー2個を翔太の手に持たせてこう言ったのです。

「いいか、妹にはやらせるな!」
何もかも知った上で噛んで含めるような言葉でした。

 後日再び “兄妹” が“やまと屋”に行ってみると忌中の簾が垂れ下がっていました。忌中の意味がわからなかった翔太でしたが、爺さんの言葉は深く胸に突き刺さったままでした。

 “万引きとは誰の物と決まっていない物をちょろまかすこと”、と “父”・治(リリー・フランキー)に刷り込まれていた翔太です。幼い頃からの刷り込みは根が深く、それに気づかせるのは至難の業です。頭からどやしつけなどしたら逆効果になりかねません。

 それだけに爺さんの心遣いと言い方が、翔太の心にモヤモヤした気持ちを芽生えさせ、遂には万引きは悪事という意識に変えさせたのです。

 これが転機となってスーパーでの万引き補導事件に繋がり、一気に家族離散へと見事に展開して行きました。一見さりげない場面ながら、実に味のある構成だと思いました。

 その味のある渋い演技を見せてくれたのが柄本明です。台詞が2つ3つしかないチョイ役ながら、映画の展開には欠かせない役どころを見事に演じ切っていました。

 最後に、他の役者陣に一言。
自ら前歯を抜いて臨んだ樹木希林の存在感は圧倒的でした。
心根の優しいちょいワル女・信代をリアルに演じた安藤サクラも見事でした。
リリー・フランキーが演じた治のべらんめい調は、軽く浮いた感じが過ぎました。

 かくも役者の力量が十分に発揮された映画でした。



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ボケ老人同士、傷を舐め合う

2020-01-24 06:41:07 | 老化現象
 今回は新年早々、AAのミーティングであった粗忽なお笑い話を。

 ミーティング会場の教会には開場の15分前に着きました。いつも2,3人たむろしている外のベンチには、世話人のチェア以外誰もいませんでした。

 チェアは普段、自ら声かけなどしない人ですが、珍しく笑みを浮かべて私にこう声をかけてきました。

「ホントにボケてしまったらしいよ!」
「えっ、また何で?」
「なに、1時間早く来てしまったんだ。来たら誰もいないからオカシイとは思ったんだが、いくら待っても誰も来やしない。
 それで今日は一人だけかと半分諦め、仕方なく一人で会場のセッティングをやったんだ。
 どうにか終わって、壁の時計を見てやっと気づいたんだ。あちゃー、1時間早かったと。ドォーッと落ち込んだよ。」

 笑ってばかりじゃ失礼だと思い、私も粗忽な失敗談を話すことに。

「3年ほど前、十日戎のお参りに行ったときのことですが、いつも買う福笹を買い忘れたことがあるんですよ。」
「ほぉ?!」
「お参りに行く道すがら、すれ違った人が皆福笹を手に持っているのに、新しい福笹とは見なかったようなんです。
 私も、前の年の福笹を納めようと手に持っていたので、頭から自分と同じだと思い込んでいたんですね。
 お参りを済ませて、そのまま西宮から元町の専門クリニックに向かったんですが、電車の中でも福笹を持っている人が多くいて、それで買い忘れたことに初めて気づいたんですよ。
 改めて翌日買いに行きましたがね。」

「まぁ、そんなこともあらぁ~な!」この話がどれだけ慰めになったのかわかりませんが、チェアも苦笑いしていました。

 実は私のこの話、以前本当にあった話です。何か別のことで頭が一杯だったらしいのですが、今となってはすっかり忘れてしまいました。多分チェアも同じで、きっと別のことを考えていたにちがいありません。

 さて、時間になったのでミーティング会場に入ってみると、机も椅子も並べ方がぞんざいでした。チェアの話通り、怒りにまかせてやったことが見え見え。皆で手分けして直しました。

 チェアは、私より5歳年長です。いつも達観しているように見えるチェアですが、こんな粗忽なところもあるんですね。親近感を覚えました。



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血は争えない

2020-01-21 05:59:14 | 雑感
 先月、突然のしぶり腹に襲われ、間一髪で下の粗相を免れた私です。以来、外出の時は少し神経質にならざるを得ないのですが、今度は孫息子が同じような事態に陥りました。

 孫息子というのは次男のところの二番目の息子のことです。次男には息子が3人いますが、先日の連休初日、次男夫婦と爺婆とで孫たち3人を連れ、車で神戸の王子動物園に行って来ました。

 王子動物園に着いたのは9時過ぎ、朝早かったのでお客は疎らでした。2時間ほどかけて園内を巡り、11時半頃には園を後にしました。そのまま予約していた回転寿司へ。40分ほど賑やかな昼食を共にしました。

 その帰り道、車に乗って5分ほどしたら二番目の孫息子が「お腹が痛い!」と言い出しました。母親によると、どうやら“しぶり腹”が始まったらしいのです。トイレに行きたいというサインなのに、当人はそんな関係があることをまだ自覚していないそうです。

 案の定、しばらくして「トイレ行きたい!」と言い出しました。さぁ、大変です。住宅街を通る道なのに、どこにもコンビニが見当たりませんでした。

 この辺りの道は少し入り組んでいて説明が難しいのですが、Yの字の下にAの字が繋がっている道路地図を想像してもらえば理解しやすいと思います。Aの字が南の海側、Yの字が北の山側を表わします。

 さて、Aの字の左辺からYの字に繋がる手前部分、道が左に緩くカーブしているところまで来たとき、遂に「もう我慢できない!」となりました。やむを得ず、急遽Aの字の頂点で右折することに。

 右折を始めたそのときです。道の先、Yの字の三叉路右側にコンビニが見えました。それで元の道に戻ることにしたのですが、Aの字の横棒から再び左辺の道へ戻る信号の待ち時間が長いこと。ジリジリ、ハラハラ、ドキドキとはこんな時の気持ちを言うのでしょうか。

「大人用の下着ならコンビニでも買えるけど、子ども用の下着ってコンビニに置いているの?」最悪の事態を想定して車内でこんな会話が飛び交いました。

 ジリジリしながらもやっとコンビニ前に到着。次男に連れられて二番目の孫息子、決死の形相で走ってトイレに飛び込みました。走れただけまだ余裕があったようです。それを見た一番目の孫息子、自分も催したらしく後を追って行きました。

 まぁどうにか事なきを得たのですが、一連の症状の出方は私にそっくりで、先行きが手に取るように読めました。思えばそうなる条件が揃っていたのです。

 長く歩いたときや食事を済ました後などは、腸の蠕動運動が活発化して便意を催すと言われています。この日は、動物園で2時間も歩いた後でしたし、お寿司を腹一杯食べた後でもあり、条件が2つとも揃っていました。

 しぶり腹は体質のせいで、それが少し過敏に現われたものなのでしょう。その体質というのは、恐らく私の遺伝と考えればわかりやすいのです。

 “血は争えないもの” お陰でその思いを強くしました。さて私の方はと言えば、寿司屋でちゃっかりトイレに寄っていたので冷静なものでした。



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阪神・淡路大震災から丸25年

2020-01-17 05:45:37 | 雑感
 今日は、兵庫県南部地震で阪神・淡路大震災が始まった日です。あれから丸25年が経ちました。

 あの震災を実体験した一人として何も触れないわけにはいきません。今回は、今から5年前に書いた記事を二つご紹介します。少々長い記事ですが、どうかご容赦ください。

 その一つは、地震発生当日の出来事を書いたものです。地震当日は、こんなふうに始まりました。あのときの光景は今でも忘れられません。

 夜明け前の暗闇の中でした。ドーンという爆発音のような音と同時に突き上げられるように体がフワッと浮き、猛烈な揺れが襲ってきて目が覚めました。
 二重になっていたアルミサッシの内側の引戸が左右に激しく動き、動きに同調してガッチャガッチャとガラスが砕ける音がしました。
 猛烈な揺れで脇にあった洋服ダンスの扉の片方がバーンと開いてしまい、そのまま倒れてくるのが見えました。
 咄嗟に頭から布団を被ったのと、洋服ダンスが顔と胸に覆い被さったのとはほぼ同時でした。・・・
(2015.1.23投稿)

 こんな場面を想像し、当時の緊迫した空気を少しでも感じていただければ幸いです。

アルコール依存症へ辿った道筋(その16)阪神大震災、地震の当日

1995年1月17日(火)午前5時46分、兵庫県南部地震(M7.2、最大震度7激震)が発生。死者6,434人、倒壊・焼失家屋15万余棟。当時、戦後最悪といわれた阪神大震災の始まりです。......



 もう一つは、被災者として私の実体験から得られた教訓をまとめたものです。

 大げさなものを特別準備するのではなく、日常生活の中で簡単に備えておけることのみを列挙しています。どうぞご参考にしてください。


大地震へ、日常出来る備え

阪神大震災で被災した体験から、日頃の心構えさえあれば、こういう時に備えておくことでその場で咄嗟に出来ることがあります。......




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相方と立場が逆転

2020-01-14 06:14:18 | 雑感
 今さらですが私はアルコール依存症者です。ですから、我が家にアルコール類の瓶など置いていません。多少はお酒をたしなむ相方は缶ビールを冷蔵庫の隅に隠していますが、私は見て見ぬ振りをしています。

 そんな我が家に異変が起きました。正月に遊びに来ていた長男が、ウィスキーの飲み残しを置いて帰ったのです。飲み残しと言ってもダブル1杯程度で、私にしたら飲み残しにも当たらない量でした。もちろん彼が帰った後、私には目に毒だったのでサッサと処分してしまいました。

 そもそも相方は、長男にと缶ビールとチューハイを買い置きしていました。長男の方も心得たもので、自分用にと栓を開けたシーバスの飲み残しを持参して来ていたのです。私の前では流石に飲まなかったのですが、私が自分の部屋に引上げてから飲んだようでした。

 さて、長男たちが帰って2日後、部屋にいた私に相方が声を掛けてきました。

「ちょっとぉ~、台所に置いてあったウィスキーの瓶、捨てたのぉ~?」
「あぁ、捨てたよ」と、根が真面目な私はバカ正直に応えました。
「ちょっとだけ残っていたでしょう? 楽しみにしていたのにぃ~」

 さもさも惜しげな言い方だったので、止せばいいのに私はむかっ腹を立ててこう返してやりました。
「そんなに飲みたかったら自分で買ってくれば!」

 それでも相方は余程悔しかったらしく、
「あ~ぁ、捨てたのかぁ~?! 楽しみにしてたのになぁ~!」と、いかにも未練タラタラ、かつての私と立場が完全に逆転していました。

 しばらくして私はやっと気づきました。千載一遇(?)の惜しい機会を逃したらしいのです。むかっ腹など立てずに「ごめん、あれ飲んじゃった!」と、機転を利かせていたらと悔やまれました。

 ウソも方便で、少しでも心に余裕があればきっと面白い展開になったはずだったのです。こんな後悔なら何度でもしてみたい、そう心底思いました。



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孫息子、カルチャーショックの父親に煽られる

2020-01-10 06:04:50 | 雑感
 元日に長男が、息子1人(私から見て孫息子)を連れて我が家にやって来ました。前回に続き、今回もこのときの話です。

 その日の夜、すき焼きを囲んでの夕食時に長男が、孫息子に向かってこんな話を始めました。

「毎日ダラダラしてないで、少し外国にでも行って刺激を受けてきたらどうだ?」
「別に、そんなことはないと思うけど・・・」と孫息子。
「外国に行ってみるとよくわかる。東南アジアなんて遅れてると思ったら大違い。日本よりも遙かに進んでいてビックリした。皆、英語は普通にしゃべれるし、ガイドしてくれた人の日本語がうまいこと! 留学でもしたのかと聞いてみたら『日本には行ったことがない』と言っていた。スゴいよネ?!」

 どうやら長男は最近、会社の仕事でカンボジアやタイに出張したらしく、かなりのカルチャーショックを受けて帰って来たようなのです。

 現地で見聞きした熱い話がしばらく続き、それを黙って聞いていると遂にその矛先が私の方に向いてきました。
「こう見えてもこのお爺ちゃん、米国出張したことがあるんだよ。それでも何かにつけ保守的な人だから、外国へ行って見て来いなんて言いもしなかった。」

 “保守的な人” まさしく図星で、言葉がグサッと胸に突き刺さる思いでした。そして、さらに鼻息荒く続けました。

「先に考えてばかりで、結局、何もしないんじゃなくて、・・・ここは一発やってみろよ!」と孫息子に。これはむしろ私に追い打ちを掛けたようなもので、私は完全に参ってしまいました。

 今年、長男は43歳になります。43歳と言えば、離婚話が勃発して私が已む無く別居し始めた2年目に当たります。息子に海外遊学を勧める余裕など当時どこにもありませんでした。

 止せばいいのに、そのことを長男に言おうとしたら、すかさず「それとこれとは問題が違うでしょう」と、バッサリ。

「まぁ、旅慣れているお婆ちゃんと一緒でもいいから、先ずツアーにでも行ってみろよ。・・・どこでもいいから」と、長男はどこまでも鼻息荒く、孫息子を煽り続けていました。

 これを聞いた相方はまんざらでもない様子。韓国狂いだった彼女は最近、韓国詣でから切り替えてカンボジア、ペルー、フィンランド、カナダ、南アフリカまでも足を伸ばしています。

 大学1年の孫息子はと言うと、夜更かしばかりで朝寝坊、バイトの傍ら4人でバンドを組んでドラムを叩いているそうです。今回の話で父親に散々煽られ、これからの自分の生き方をどう切り開いて行くのか? 孫息子の今後が楽しみになりました。

 “父親の背中を見て子は育つ” と言いますが、父親の生き方を見た息子が少しずつ軌道修正しながら生きていくという意味なのでしょう。これも世代交代の一つの姿。そんなことを考えさせられた元旦でした。



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人は子を持って親になり、子は独立して親戚になる?

2020-01-07 06:57:54 | 雑感
 元日の昼過ぎ、長男が、大学生の息子1人(私から見て孫息子)を連れて我が家にやって来ました。もう1人の孫息子、中学2年の方はサッカーのクラブチームのスペイン合宿へ、嫁さんの方は実家へ帰省? と、いうことで珍しく2人だけでの来訪でした。

 このところ年々思うことですが、彼らが年初に遊びに来てくれる度、子が独立するとはこんな感じなのかと妙な違和感を持っています。

 何か目に見えないバリアーがあってとかく気を遣い、どうにも居心地が悪いのです。その違和感たるや、血の繋がった親戚を迎えているような感じ(?)とでも言えばいいのでしょうか。赤の他人を迎えるのとはちょっと違う感覚です。

 こんなふうに感じるのは私だけでしょうか? と言うのは、私には息子たちに負い目があり、その所為で妙な遠慮があるからかとも考えていました。

 彼らが思春期のとき、私は仕事に忙殺されていた上、家で素面(しらふ)でいたこともありませんでした。精神的に切羽詰っていましたから、彼らの話を聞いてやる余裕もなかったのです。その挙げ句に別居となり、家族関係が崩壊してしまいました。

 その当時のやましさというか、後ろめたさというか、良心が咎めるのは否定できません。ところが今回この違和感は、息子たちが完全に独立した証と見る方がいいと考えるに至りました。

 長男が結婚して独立してから早20年、次男の方も同じく11年になります。それぞれが息子たちに恵まれ、自立した所帯を営んでいます。私と違い、彼らには何の負い目もありません。独立した人格として堂々としています。当たり前と言えば至極当たり前の話です。

 ちなみに息子たちは、我が家に帰って来るなり居間に寝転がってうたた寝などをしています。どう贔屓目に見ても遠慮の欠片さえありません。

 さて、人の親となって初めて親心を知るという意味の言葉に、“子を持って知る親の恩” という言葉があります。

 私としてはこれよりも、“人は子を持って初めて親になり、子は独立して親戚になる” の方が実感に近いと思うのですが、皆さんどう思います?

 今年の正月松の内は穏やかな日々が続きました。例年通り今年も災害はあるでしょうが、どうか最少限の被害で収まって欲しいものです。



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当てのない浮浪者にどう向き合えば?

2020-01-03 07:29:27 | 世相
 かれこれ4週間前の話です。私は、JR三宮駅前のロータリー南側、元 そごう、 今は阪急の北側を通る2号線をミント神戸方向に歩いていました。さすがに日陰は寒いものの、ロータリーに面した南側の歩道は日当たりがよく、冬の日差しが暖かく感じられる日でした。

 ここの歩道にはバス停が3つばかり並んでいて、バス待ちの人が数人佇んでいました。その中で一人、ロータリーの塀に凭れている老人が妙に目を引きました。

 なぜかその老人、とてもバスを待っているふうには見えませんでした。ボサボサ髪が肩まで掛かって身なりも粗末でしたが、そんな人はどこのバス停にもいます。ところが、のんびり塀に凭れていた彼には、日向ぼっこを誰にも邪魔されたくないという雰囲気が漂っていたのです。

 目を合わせないようその老人の前を通り過ぎ、その先にあるロータリーの出入り口の信号が赤になったので、怖い物見たさに後ろを振り返って見ました。

 すると、何と彼の老人、ズボンの左側が膝までずり落ちていて、赤いパンツが丸見えになっていました。しかも本人には、それを気にする素振りなどまったくなかったのです。

 彼の老人の姿を見て、かれこれ20数年前、同じ冬の寒い日に見かけたある光景を思い出しました。私がまだ40代の現役時代だった頃のことです。

 大阪の会社近くに東横堀川が流れていて、その東側に一方通行の狭い通りがありました。昼休みにその道を歩いていると、北の方から一人の人物が歩いて来るのが見えました。

 脂ぎってボサボサの長い髪に伸び放題のヒゲ、垢まみれでボロボロに破れた服の上に広げたダンボールを羽織り、左右それぞれの足に靴かサンダルの片方を引っかけ、それらをズルズル引きずって歩いていました。

 彼は真っ直ぐ前を向いていたものの、その目はどこか虚ろでした。食べる物にもこと欠いた低栄養のせいでしょうか、生きる意欲もすっかり萎えてしまっていたようでした。

 髪と髭が黒々としていたことからまだ若いとわかるぐらいで、まぁ歳の頃は30代末だったのでは? 見るからに浮浪者そのものという外見で、まさしく貧乏神の囚われ人、まぁ贔屓目で見ても死に損ないの仙人といった風貌でした。

 余りに悲惨な姿形は人の目を背けさせ、周りに何も言わせない雰囲気があります。見ていた私はと言えば、アルコールで頭のイカレた自分の将来を見せつけられたようで、思わず腰が引け唯々黙って彼を見送るだけでした。その後も2、3回、彼を見かけたのですが、そのうちパッタリ姿が見えなくなりました。

 さて、三宮で見かけた老人ですが、大阪でかつて見かけた人物ほど酷くはなかったものの、同じように他人を拒む雰囲気がありました。ただし彼の老人には、験担ぎの赤パンツを穿くだけまだ与しやすさもありました。私が少し勇気を振り絞りさえすれば、声をかけるなど何かできそうとは思ったのですが、私はそのままその場を後にしました。

 かくも今の私には、人にお節介するのも悪くないという気持ちがあります。当てのない浮浪者を見かけたときどう手を差し伸べるか、それがこれからの課題になりそうです。

 現に、行政関係や教会関係などに慈善団体があります。そこにどう彼らを繋げたらいいのか、そのルートが私にはわかりません。目出度く年が明けたことですし、今年はそのルート探しでもしてみましょうか、ネ?



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