ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“耐性” “進行性” “否認”

2016-09-30 19:33:32 | 病状
 “耐性” “進行性” “否認” これがアルコール依存症(アル中)の医学的特徴を言い表す言葉です。たとえよく意味が分からなくても、この病気の厄介で手強いところが感じられると思います。今回はこれをテーマとしてみます。

“耐性”
 耐性とは薬を使用している内に効き目が弱くなることを言います。依存性薬物に共通する属性です。耐性は、ベンゾジアゼピン系睡眠薬では一般の人にもよく知られています。断酒を始めて暫くの間処方される精神安定薬ジアゼパムは代表的なベンゾジアゼピン系薬剤です。アルコールをはじめニコチン、カフェインといった日常的嗜好品の成分でも耐性が確認されています。医薬品を開発する際、耐性が認められた候補品は、依存性も確認されると即開発中止とするのが普通です。同じ効果を得るには量を増やさねばならず、依存性が一層強まり他の毒性も出やすくなるためです。

 お酒で言えば、日常的に飲むのが普通になり、酒に強くなって酒量が増加することが耐性の形成となります。耐性となっているか確かめてみるのは簡単です。晩酌を缶ビールでやっている場合を例にしてみます。毎晩の量では飲み足りないと感じ始めたら、試に瓶入りウイスキー(焼酎、日本酒でも可)に切り替えてみてください。最後の一杯でその日の〆としたら、残ったウイスキーの所にマジックで印をつけてください。印の間隔が拡がるのに1~2週間もかかないこと請け合いです。アルミ缶では開けた本数しか見えませんが、瓶に印をつけると酒量の微妙な増加が誰の目にも一目瞭然となってしまいます。おもしろくないことがあった日など、ポーカーフェイスで家族に隠し通そうとしてみても効果覿面、バレバレです。

 お酒に弱かった人が、強くなったと自信が出てきたら、すでに耐性となっていること間違いナシです。耐性となったら精神依存の段階に入ったものと、潔く断酒を決行すべきときです。お酒が最も楽しい時期と重なりますが、私の経験からしてみても、この時期なら自分の意志だけで断酒ができたろうと思えるのです。厚労省が健康に害がないと勧める純アルコール量20gは、酒呑みからすれば飲んだ内に入らない、ほんの僅かな量です。これぐらいがどうにか依存症にならないで済む安全量のようなのです。

“進行性”
 アルコール依存症は進行性の病気と言われています。進行性の病気というと、普通、放置しておけば死に至るガンのような病気、つまり治癒のない病気のことを思い浮かべると思います。気づいたときは手遅れの場合が多く、病状が悪化するばかりで、決して後戻りのない病気のイメージです。アルコール依存症もまさにこのイメージ通りの病気です。禁断症状(離脱症状)に気づいたときはすでに手遅れで、酒を断たない限り決して後戻りのない病気です。

 アルコール依存症は静かに進行します。高血圧を指摘されることが多い以外、飲んでさえいなければ見た目では病状の悪化など分かりません。昼間、手が震えて字が書けない、掌が汗でびっしょりなどの離脱症状が出ない限り、飲まないでいると健常人と変わらない小康状態を保っていられます。本人は酒量が増えたことぐらいしか自覚できません。

 一緒に飲んでいて誰でも気づくことと言えば、ピッチが異常に速くなること、手酌で飲み始めること、お開きとなっても中々酒を止めないことぐらいです。「もう一杯だけ!」が何度も続き、挙句の果てに待ち切れず手酌で飲むことに・・・。傍からは、呂律が回らず諄い話し方の完璧な酔っ払いの出来上がりにしか見えないのですが、そんな人目もお構いなしに手酌をしてまで飲んでいる姿を見ると、「あさましい」やら、「意地汚い」やら、どうしてもそう思えてしまうものです。(その成れの果てが一人だけで行く立ち飲み屋通いで、こうなったらすでに秒読み段階の危機的状況に入っています。)

 唯一、本人が進行性に気づけるのは暫く禁酒期間をおいた後です。人間ドックに備えて1週間禁酒した場合などが恰好の例となります。検査を終えてひとまず安心とお酒を手にすると、普段の量では物足りなくてより多く飲んでしまうことに気づくはずです。恐らく普段の1.5倍から2倍ぐらいまで酒量が一気に増えるのではないでしょうか。明らかに病状(耐性?)が進行したのです。ブレーキがあまり効かなくなっていますから、一旦増えた酒量は減ることはありません。(まあ、自分の意志で1週間も禁酒できるということは、依存症がまだ完成していない証でもあるのですが・・・。)

 しばらく遠ざかった後、再開したら一気に量が増えてしまうのはタバコを含め薬物依存症に共通することのようです。酒量が増えるだけ脳や肝臓などの障害も進行することになります。アルコール依存症に特有な点は、再飲酒して初めて本人が気づくところだと思います。普段は気づかずにいますから、“遮蔽された進行性” と呼んだ方がむしろ実態を正しく表しているように思えます。

“否認”
 アルコール依存症は否認の病とも言われています。否認はアルコール依存症に特異的で、断酒を阻む最大の要因と考えられています。

 アル中に対する世間のイメージは最悪です。アル中の実態をよく知らなくても世間体の悪さは誰でも知っています。「意志が弱い だらしない」というのが世の一般的イメージです。元々イメージが最悪なのですから、誰でも自分がアル中などと認めるわけがありません。

 酔っている間は、アルコールの麻酔作用のため知覚(感受性)が鈍くなり、記憶も覚束なくなります。自分がどんなに酒臭いか自覚することなどありません。手の震えを隠すため朝酒を飲んでから出勤したという仰天話もあります。たとえ千鳥足でも、まともに歩いている気でいます。体調が多少悪くても、飲みさえすればシャキッとします。すべてにおいて自覚に乏しい状態になってしまうのです。

 全く記憶が欠落してしまうブラックアウトもよくあります。ブラックアウトの状態では、どんな悪事をはたらいても、後で他人に言われでもしなければ分かりません。よっぽどヒドイ怪我をしたとしても何が原因だったのか心当たりがないのが普通です。覚えていることと言えば、直前まで酒を飲んでいたことぐらいです。要するに、傍で見ているほど自分の異変に気づいていないのです。

 これらに加え、アルコール依存症ではコペルニクス的転回でモノの受け止め方・考え方に変化が起きます。「酒を飲んだ自分が悪いのではない。周り(の人)が悪いから飲まざるを得なかったのだ」と飲酒の誘因を他に転嫁する他罰的思考のことです。自己防衛本能による自衛的発想とされています。

 否認とは、“耐性” と “遮蔽された進行性” が土台を作り、世間の一般認識や自身の知覚鈍麻、さらに他罰的思考という感受性の偏りが巧みに絡み合って、しっかり心に刻まれるのだと思えてなりません。根は思いの外深く広く張るようです。飲み過ぎが体調不良の原因と薄々気づきはするものの、諸悪の根源がアルコールにあるなどとは思いも付きません。ましてや、自分がアル中などとは決して認めようとしないのだと思います。

 私たち断酒継続中のアルコール依存症者は、時に自分たちの過去を自嘲気味に揶揄することで自戒を重ねています。
「(酒を飲むためなら)言い訳をする。嘘をつく。他人のせいにする。」
酒の虜となった思考パターンを的確に言い尽くした言葉です。これだから、家族、友人、職場での信頼を失くし、さらに人間関係の悪循環が続くのです。一旦崩壊した人間関係の修復は決して甘いものではありません。

 心身両面でよっぽど辛い目に遭わない限り、「アルコールを上手くコントロール? 節酒で? そんなの絶対に無理!」と “酒に無力” を全面的に承伏するのは至難の業です。もし依存症が進行し、酒に取り憑かれて “どうにもならなくなった” ときには、人に助けを求めるしかありません。そして、アルコール専門医に連れてってもらうことです。アルコール専門医にしか断酒直後の急性期離脱症状には対処できません。そうでもしなければ、本当に取り返しのつかないことになってしまいます。


 再飲酒(SLIP)を何度も繰り返している患者仲間が、苦笑いしながらこんなことを言っていました。
「SLIPを繰り返していると、どう対処したらいいのか心得たものなんですよ。マズイんですけどねぇ・・・」
ひょっとすると、SLIP耐性というものもあるかもしれません。こうなってくるとアルコールの手強さよりも、人間のしたたかさの方に軍配を上げたくなります。


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【参考】「健康日本21」が推奨する純アルコール20g相当の酒量の目安 
   ○ ビール 500 mL(中瓶1本)
   ○ 日本酒 180 mL(1合)
   ○ 焼酎 90 mL(半合)
   ○ ワイン 240 mL(ワイングラス2杯まで)
   ○ ウィスキー・ブランディー 60 mL(ダブル1杯)
  【アルコール量計算式】
   [アルコール量(g)]=[酒量(mL)] × [アルコール濃度(%)/100]
               × 0.8(アルコール比重)
  ※長期大量飲酒:2日間の休肝日に関わらず、純アルコール60g以上を10年以上飲酒
   することをいう

アルコール依存症の進行プロセス」も併せてご参照ください。



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人生の “棚卸し” は個人史年表の作成を第一に!

2016-09-23 15:12:25 | 病状
 記憶というものは何とも当てにならないものです。嬉しかったときの記憶は、機会が少ないだけあって、まず間違えることなどないのですが、その逆の場合は・・・。

 断酒を始めて3~6ヵ月ほど経った時期のことです。断酒当初に服用していた精神安定薬ジアゼパムや眠剤を早々中止したためか、素面の頭で否応なしに自覚させられたのは記憶障害でした。直近のことでも覚えられず、すぐに忘れてしまうのです。これでは断酒直前・直後のあの酷い “底着き体験” も忘れてしまうに違いないと本気で恐れました。

 「再飲酒を防ぐには、酒害体験を決して忘れないこと」と専門クリニックから厳しく指導されていました。そこで、断酒直前までに経験した諸症状や、断酒後の予想以上の体調回復、さらには病的飲酒のキッカケが一体何だったのかなど、思い付くまま書き始めました。再飲酒しないと決めた覚悟を忘れないためには、先ず正確な事実を記録するしかないと考えてのことでした。専門クリニックの教えを自分なりに肉付けしようとしたのです。

 個々の出来事(症状)を記述するだけの間はさほど問題なく進みました。連続飲酒中はブラックアウトの頻発で斑な記憶となっていて、発生時期の特定に随分手こずったのですが、残っていた記憶はまだまだ大丈夫でした。時には身体の方が、忘れていた症状を思い起こさせてもくれました。途切れとぎれの記憶を辿り、どんな心境のときに酒の助けを借りたのか、それらの共通項を分類することもやってみました。

 このような作業の継続でそこそこ内省が進んだと思えた時期に、アルコール依存症となった経緯の総括をしてみようと文章化を試みたことがあります。何せ反省すべき対象が失敗だらけの後ろめたい憂鬱な思い出ばかりです。よほど記憶がしっかりしていないと、罪責感に囚われて一方的な自己卑下ばかりになる恐れがあります。そもそも総括とは諸々の出来事すべてを時系列に沿って取り上げ、それらの因果関係を吟味した上で書くべきなのですが、それを一切省いて感情の赴くままに書いていました。そのときの出だしの一文が、出だしとしては避けるべき恰好の一例になると思います。
「アルコール依存となった最も大きな要因は、自分の人間としての度量の狭さと怯懦ではなかったかと思う。」

 この一文が総括した上の結論部分ならば、これはこれでよいのかもしれません。書いた当時は、こんなものでも仮そめながらも心の安らぎが得られました。だが、これから総括し始めようとする際の出だしの一文としてはお粗末です。正直言って最悪の部類に入るのかもしれません。後に続けるべき内容が制約され、書き続けるのがとても難しくなるからです。

 この一文に続き、案の定、仕事上職場で感じていた不満の原因がすべて自分自身の至らなさにあったなどと、クドクド繰り返されていました。
―― 自分には思い切って仕事を部下に任せられるだけの度量が不足していたとか、教育も含め部下に対する管理能力が低かったとか、仕事で精神的に余裕がなかったため家庭崩壊を招いたとか、云々。
責任ある仕事を手探りで進めていた頃の、見るからに自信喪失状態で途方に暮れていた胸の内を吐露しただけのものでした。断酒してまだ間がなく、まだ精神状態が酒でボロボロのままだったのだと思います。罪責感から自分を責めてばかりで、冷静さを欠いているように読めました。

 総括という観点からみると、感情に流された挙句の偏頗な見方一辺倒というのは問題です。上で述べたとおり総括する際の鉄則は、主要な事柄すべてを時系列に沿って漏らさず取り上げ明らかにすることです。かつての極左集団では定番だったように、自己批判して自分の非を認める(粛清される?)だけでは総括になりません。

 断酒を始めて10ヵ月経ったある日、“憑きモノが落ちた” 体験をしました。長い間悩まされていた性的妄想から解放され、アルコールの残滓も抜け切ったたように感じました。この出来事の大分前に、患者仲間の話に触発されて自分史の執筆が頭の片隅にありました。そんなこともあって、この体験を転機にいよいよ自分史を書いてみようと思い立ちました。テーマは “アルコール依存症へ辿った道筋” としました。本格的な総括のつもりでした。

 書き始めて間もなく、事実関係の時系列がハッキリしないことに気づかされました。

 例えば、マイナス感情に囚われた当時の誘因を探してみようとすると、似たような状況があれもこれもと複数浮かび上がり、それらの思い出が互いに重なり合って区別がつかなくなるのです。しかも記憶がおぼろげなだけに、それらが同じ時期に立て続けに起こったかのように思い違いもしていました。かつて社会を騒がせた事件も、時が経つにつれ強い思い込みが加勢して、記憶にある出来事と実際に起こった時期との間に思いの外時間的隔たりがあったりもするのです。

 客観性を欠いた思い込みは、判断を誤るばかりか感情的な側面だけを一層増幅させかねないと怖くなりました。また上で述べたように、読み返してみた総括文では思い込みの強さばかりが目につきました。それで、偏った切り口ばかりでなく、より広い背景状況を醒めた目で捉え、多様な要因をさらに明らかにしなければならないと考えました。

 これらの課題に応えようとすると、出来事の時間軸と各時期の周辺状況の両方が一目で見えるものが必要です。その解決策として思い当たったのが個人史年表の作成でした。何とも迂闊でしたが、こんな当たり前のことにやっと気づいたのです。私の人生の佳境期となる40歳代の記述に入ろうとした矢先のことでした。

 個人史年表は、当時のビジネス手帳やメモ帳、手紙類、会社の給与明細と人事資料、新聞の切り抜き、講習会の領収書、三十三ヵ所巡礼納経帳、巡礼ガイドブックなど、手元に残っていた有りとあらゆる史料(?)に当って作成しました。特に重視したのは日付です。まるでアリバイ捜査のようでした。客観的なこの年表のお蔭で、過去を冷静に振り返ってみることができ、感傷に耽るだけの自己満足から距離をおくことができました。

 “酒害体験を決して忘れない” 酒を飲まないで生きて行くためのモットーとしては無難です。日々ただこれだけを闇雲に唱えていても、時が経るにつれ意識も次第に薄れてきます。やはり “なぜ” 酒に縋らねばならなかったのか、その時々の前後の出来事や周りの状況を正確に把握しておくことが大切です。改めてそう思いました。
(“なぜ?” ― 精神の安定を乱す ”過度の緊張もしくは興奮”。これが私なりに辿り着いた上の疑問に対する解答です。)
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 自助会Alcoholics Anonymous(AA )の『回復のプログラム』ステップ4にはこうあります。
「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った。」
 “Made a searching and fearless moral inventory of ourselves.”

 “棚卸し” とは在庫明細のことです。私なりには、自分で抱えている問題すべてを整理して見える化することと理解しています。AAに参加するようになってしばらくは、「・・・それを表に作った。」という部分の翻訳に疑問を感じていました。

 在庫明細は表をイメージしますから、機械的に翻訳しただけの失敗作と見做していたのです。酒害体験を箇条書きの表にして一体何の意味があるのか? 酒害体験の諸々は、叙述することでこそ言語化の効果が期待できるハズなのです。箇条書きでは言語化の効果など期待できっこないと固く信じていました。

 それが今では、「事実関係を正確に把握するため、まず個人史年表の作成を第一に始めなさい。」このように読み取れるようになりました。人生の “棚卸し” には個人史年表の作成が欠かせません。意外に逞しくしっかり生きて来たものだと、自分の生き方に誇りを持てるようになりました。


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“底着き” は2度ある ― 再び “精神的底着き” について

2016-09-16 09:36:41 | 病状
 私自身「“底着き” は2度ある」などと聞いたことはありませんでした。もし、“底着き” を何度も経験したとでも言おうものなら、それは真の “底着き” を経験していない者の戯言で、よくある思い込みや勘違いと見做されるのが落ちです。

 にもかかわらず私は、断酒を継続して10ヵ月後のちょうど今頃、2度目の “底着き” を経験したと公言して憚りません。“精神的底着き” と呼ぶことにしており、断酒開始前後に経験した “身体的底着き” に続き2度目の “底着き” になります。断酒と向き合う上でこれが転機となり、以後、断酒にばかり囚われていた心境から脱して “酒を飲まないでいる方が自然(普通)で楽” と思えるようになりました。この経験を断酒歴1年未満の方々と是非共有したいと思い、今回再びテーマに取り上げることにしました。

 2年前のちょうど今頃、私には画期的な出来事が3つありました。ひとつはこのブログに投稿し始めたこと。二つ目は “キツーイ” ドライドランクに見舞われ、すぐにネットで調べてその詳細を知ることができたこと。もう一つは、俗に言われる “憑きモノが落ちた” とも言うべき経験をし、それが言語化の成果だと知ったことです。

 ブログの開設は、後の二つがキッカケだったと思います。その一つドライドランクですが、症状を現場で即座に自覚できたのは初めてのことでした。それだけに印象が強烈で酷く動揺しました。忘れない内にとすぐさま記事にまとめ、このブログに投稿したほどです。ネットで調べた特徴から、それまでに幾度となく経験していたことにも気づきました。

 一方の “憑きモノが落ちた” 体験については、日にちが特定できないものの2年前のこの時期のことに間違いありません。主治医に言語化の成果と教わったことでひとまず安心してしまい、アルコール依存症から回復するのに有効とされる言語化の方にばかり意識が向かってしまいました。

 納得がいく説明がつくと、すぐ安心してしまうのは私の習性です。日が経つにつれ、この体験が重大な意義を持つことに気づかされ、“底着き” の一つに間違いないと結論づけるに至りました。こうなるまで1年ほどの時間を要しました。

 繰り返しになりますが、当初、私の関心事は言語化でした。言葉で気持ちを表現することによって悩みを解消することを言語化と言い、書くことが最も効果的だと教えてくれたのは主治医でした。言語化が回復への認知行動療法の一つということも知りました。すべて “憑きモノが落ちた” 体験を相談したお蔭です。以来、認知行動療法の実践と酒害体験の記録を兼ねて、自分史『アルコール依存症へ辿った道筋』の執筆に取り掛かることになりました。誤魔化しが一切効かない自分自身との対話が始まりました。

 一連の叙述作業のお蔭で、さまざまな新しい経験を積むことができました。それらの内、主なものをいくつか挙げてみます。


 (1)なぜアルコール依存症になったのか、その経緯と要因を詳らかにする
    ことができました。
 (2)まるで傍から自分自身を客観的に見ているかのように、自分の気持ち
   (感情)の変化がリアルタイムで自覚できるようになりました。(変
    化を自覚するだけで結果的に感情の自制が可能となります)
 (3)想起障害のために頭(考え)が混乱する思考プロセス障害を身を以て
    体験してしまいました。(あまり知られていませんが、これらは断
    酒後に経験する遅発性の急性離脱後症候群:PAWSと呼ばれているも
    ので、ドライドランクとほぼ同義です)
 (4)脳機能の回復プロセスを想像しては、自分なりの仮説を立てて知的楽
    しみと安心を得ることができました。


 “精神的底着き” と言うほどの過酷な経験はなかったにしても、相当の長期間断酒を継続できた後、初めてアルコールが完全に抜けた実感があったと話してくれた人がいます。“精神的底着き” の有無にかかわらず、断酒を継続できていると誰にも必ず画期的な心境の変化が訪れるようです。繰り返しになりますが、
“酒を飲まないでいる方が自然(普通)で楽” と思える心境の変化のことです。要は、それが早いか遅いかの違いだけです。“精神的底着き” を経験する方が早く変化が訪れるだけの話だと考えています。

 ここで話を男性に限定すると、アルコール依存症となったからには、他にもギャンブル依存とかセックス依存とかにクロスアディクション(cross‐addiction:多重嗜癖)を持っている可能性が高いと思います。私自身がそうだったからと言うわけではありませんが、アルコールは自身の持つ嗜癖への衝動を増幅させる作用があり、断酒しても相当長期間にわたって残存するようです。つまり、酒を断っても賭け事や性的なものへの病的衝動は依然として残っており、その上に断酒に囚われた強迫観念が却って強いストレスとなって、一層衝動が煽られる懸念があるのです。特に、断酒1年未満が危険だと考えています。

 回復のプロセスからみると、断酒1年未満の方は移行期にあり、一過性のドライドランクを初めとした情動不安定な時期にあります。これにめげてはいけません。むしろ、本格的な回復段階に入った証と考えた方がよいのです。「~し(で)なければならない」という強迫的心理状態に囚われたままの方には、是非私の経験を参考にしていただき、もう暫くの間辛抱してもらいたいと願っています。


参考のため、当時の模様を綴った記事の抜粋をお示しします。是非ご参照ください。
この記事では【アルコール依存症の回復プロセスと心構え】についても触れています。
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“身体的底着き” の後から “精神的底着き” も・・・(下)

(前略) どうにもならない状況だったので、しばらくして仕方なしに始めたのがAV動画作品の品定めでした。しかも場面展開ごと要点をすべて書き出した上での批評でした。
・・・(中略)・・・ 半ばヤケクソで始めた行動でしたが・・・、20本以上の作品に試みたころ、驚くべき心境の変化が訪れました。エロティックとか、卑猥とか、性的興奮が刺激される感覚がすっかり消え失せ、単にヒトの生物学的生殖行為、つまり交尾の客観的映像記録としか見えなくなったのです。
 さらに驚くべきことは、長年溜まりに溜まったモヤモヤしたものが消えてなくなり、平穏な心理状態になれました。同時に、真綿のような薄物のヴェールで長年脳が覆われていた感覚も消えました。正確を期すると、いつもと違う感じがしたので、
「そう言えばちょと前まで、ずっとシビレのような変な感覚があったなぁ~」と初めて気付いたのです。“憑きモノが落ちた” とはこのことかと思いました。何とも摩訶不思議で神秘的とも言える体験でした。継続断酒を始めて10ヵ月後のことでした。
 この出来事があってからというもの、アルコール依存症の回復は一体何が目安となるのか、回復するまで他にどんな離脱症状を覚悟しておくべきかに関心が向くようになりました。一時的に、早くも回復したのかと錯覚したほどだったのです。断酒に囚われてばかりの状態から明らかに闘病意識が変化し始めていました。医師の診察を受ける都度、手を変え品を変え何を目安に回復と診断するのか質問攻めにしたものです。
 意識の変化と一体のものかもしれませんが、この体験が転機となって、まるで傍から自分自身を客観的に見ているかのように、気持ち(感情)の変化がリアルタイムで自覚できるようにもなりました。たったこれだけのことで結果的に感情を自制できてしまうのが不思議です。ドライドランクを初めとした急性離脱後症候群(Post Acute Withdrawal Syndrome:PAWS)をはっきり自覚するようになったのはこの時期からでした。“正気に戻る” とはこんなことかもしれません。
・・・(中略)・・・
 「AV動画など性的なものに全く興味がなくなってしまった」と主治医に相談したところ、一言「年齢(とし)のせいで、老いて枯れたんじゃないの!?」と冗談半分に言われてしまいました。そこで、“憑きモノが落ちた” と実感するに至った経緯を詳しく話すと、恐らく “言語化” の効用だろうと説明してくれました。叙述作業に集中したことで、前頭葉の機能がフル回転し活性化した結果だということです。

                                続きを含め全部見る
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次の記事も併せてご参照ください。
どうにもならない “生きづらさ” って?
“身体的底着き” の後から “精神的底着き” も・・・(上)


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アル症の心理的減感作療法:“ゴミ拾い” の意外な効能?

2016-09-09 08:26:45 | 病状
 藪から棒ですが、減感作療法というものをご存じでしょうか? 小児のアレルギー性鼻炎や気管支喘息、食物アレルギーなどの内、原因物質(アレルゲン)が同定され、アレルギー反応によると確定診断された患者に特化した原因療法のことです。

 微量のアレルゲンエキスを定期的に繰り返し皮下注射か舌下投与することで身体に馴染ませ、体質改善を図るというのがそのあらましです。もちろん、アレルゲンエキスはアレルギー反応を起させないぐらいのごく微量から始めるのは言うまでもありません。

 アルコール依存症は免疫・アレルギー系の病気ではありません。アルコールという依存性薬物で脳がイカレてしまった病気です。専門の医療従事者なら誰でも、アルコール依存症に減感作療法を試みるのは愚の骨頂で、有害以外の何ものでもないことを知っています。たった一口酒を飲んだだけで連続飲酒状態の元の木阿弥となった患者を山ほど見ているからです。再飲酒した経験のあるアルコール依存症者も “最初の一杯” がどんなに危険か身に染みて分っています。たった一口の酒で嫌というほどヒドイ目に遭ってきたからです。

 “飲酒欲求” がテーマのミーティングで、私は面白いことに気づきました。ゴミ拾いをしていると、酒類のゴミにも出くわします。それらの始末のつけ方で酒に未練があるのか試されているのだと気づいたのです。

 酒類のアルミ缶やビンは、飲みかけの場合ほど道端の低い塀の上や公園のベンチにちょこんと放置されているのが普通です。しかも容器の1 / 3以上残っている場合が結構あります。ほとんど空の状態であれば、地面に転がっているだけなので直ぐに察しがつきます。飲み残しがあると確認するや、私は即座に残りを排水溝か地面に捨ててしまいます。一時辺りにアルコールの臭いが充満しますが、止むを得ません。排水溝か地面に捨てさえすれば、酒も単なる液体でしかありません。このやり方に至ったのに実は伏線がありました。

 夏の初めのことです。駅からの帰り道、国道脇の歩道を歩いていて思いがけないモノを見つけました。この国道には騒音対策のため、車道と歩道の間に遮音塀を備えた緑地帯が設けられ、緑地帯と歩道は低い煉瓦塀で仕切られています。その低い煉瓦塀の上にワインボトルが1本置いてあったのです。瓶には七分ほど赤ワインが残っていて、ご丁寧に紙コップも添えられていました。こんなことは初めてでした。一瞬、「もったいない」が頭を過ぎりました。が、キャップを外し瓶を逆さにすると、中味を地面に撒くように捨てました。キャップを外そうとしたとき、以前聞いた話を思い出したのです。

 それはアルミ缶の廃品回収業をしていた人から聞いた話のことです。仲間にアル中の人がいて、アルミ缶に残っていた僅かなビールを「もったいない」と口にしたのが災いし、再発してしまったと言うのです。酒に意地汚いアル中の性です。酒乱タイプの人だっただけに周りの仲間が大変迷惑したそうです。酒が入って暴れ出したら手が付けられなくなり、木刀を持って警察に押し掛けた武勇伝の持ち主だそうなので、いかほどの迷惑だったのか察しがつきます。かつて朝から発泡酒をしていた頃、話題の人物とは公園の東屋で一緒だったこともあり、話を聞いて肝を冷やしたものでした。

 この出来事があって以来、酒類のアルミ缶やビンの置かれ方から飲み残しがあると察しがつくと、容赦なく中味を捨てることにしました。私の場合、今ではそれが条件反射的な反応になっています。

 炭酸系飲料のアルミ缶のプルトップを開けるとプシュッという音がしますが、その音を聞くと身体が反応してしまうという話を体験談でよく聞きます。それだけ条件反射的に身体に染みついているのです。私は断酒開始以来ほぼ毎日ノンカロリー・コーラを飲んでいるので、アルミ缶を開ける音を聞いてもそんなストレス反応はありません。

 このことから・・・
「同じ行動の繰り返しで身体が馴染みさえすれば、条件反射的に余計なストレスを受けるのが少なくて済むのではないか、酒を繰り返し捨てる行為にもそれが当てはまるのではないか?」と考えるに至りました。ある意味、アルコール依存症の “心理的減感作療法” になり得ると考えたのです。それで専門クリニックの主治医に尋ねてみました。

「ゴミ拾いをしていると、酒の飲み残しがよく見つかります。片っ端から中味を捨てて始末しているのですが、これってアル中の減感作療法に繋がりませんか?」   
「減感作療法ねぇ、AAの創始者の一人、ボブが試にやってみて無効であると結論付けた。これでアルコール依存症の減感作療法はとっくに片が付いているんですよ。」

 「話の切り出し方次第で医者がどう反応するかが決まる」、臨床開発をやっていた現役時代、散々苦い思いをして身に染みて分っていたはずです。にもかかわらず “心理的” の一言がうっかり抜け落ちて舌足らずになってしまいました。話の切り出し方を完璧に間違えたのです。主治医は、さすがに医者だけあって、減感作療法という言葉の方に反応してしまいました。シマッタと思っても後の祭です。もう取り付く島もありませんでした。

 お天道様の見ている下で嗅ぐアルコールの臭いは決していいものではありません。酒の飲み残しを捨てるにしても、影に隠れてコソコソやっては危険かもしれません。明るい戸外でやるからこそ変なストレスにならずに済んでいるのだと思います。酒類ゴミの始末は、私にとって断酒環境へのほど良い刺激となり、不要なストレスを軽減する有効な “心理的減感作療法” となっているようです。

 私が推奨するゴミ拾いの効能を掲げておきます。

 ◎ ゴミを単なる不要なモノと見る認知機能の改善
 ● 糖尿病(高血糖)の改善
 ● 社会奉仕とその成果が見える満足感
 ● 運動不足の解消
 ● 無聊(“空白の時間”)の解消(いつでもどこでも実行可能)

 第一に挙げるべき効能は、モノの見方に変化が期待できることと考えています。ゴミ拾いを始めた頃は、ゴミをポイ捨てした人物に対する怒りを抑えることができませんでした。公共心の欠けた無神経さ、始末を人任せにする身勝手さ、甘ったれた根性、人目に付かないよう隠せばよしとする性悪さ、怒りの矛先はゴミに向けたものではなく明らかに捨てた人物に向かっていました。

 それが慣れるにしたがって怒りが嘆きに変わってきました。そして今では、嘆きも大分薄まってきています。何に慣れたのでしょうか? ゴミを単に不要なモノと見ることに慣れたからだと考えています。

 今回ご紹介した飲みかけの酒類ゴミの件についても、単に不要なゴミと見做せるようになった好例だと考えています。
 “ありのままの事実を ありのままに受け止め入れる”



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“今日一日” に想うこと

2016-09-02 08:14:11 | 病状
 “今日一日” は自助会Alcoholics Anonymous(AA )の代表的な標語です。他の断酒会が拡大解釈の余地のない雁字搦めの「一日断酒」を標語にしているのに比べ、後に続く副助詞「ぐらい」、「だけでも」、「ずつ」、「も」によって微妙(大い?)に意味が変わってくる言葉です。副助詞の使い方によってその時々の気分が表現され、変幻自在に変わりまくる自分の心が今どんな状態かを測るバロメーターともなり得ます。

 臨床開発をしていた現役サラリーマン時代、ズル休みしようとした日によく頭を掠めた言葉が「“今日一日” ぐらい」でした。

 大抵は医者との面談約束もなく、重要な社内会議もない日でした。「明日は気の重い予定が何もない」、それをいいことに前夜は深酒するのがお決まりでした。朝目覚めると背中の怠さと悪寒、口の渇き、喉のイガラッぽさなどカゼによく似た症状に見舞われるのも定番でした。すでに出勤時刻から大幅に遅れていました。そんなときです。「どうせ急ぎのない内勤業務だ。“今日一日” ぐらいカゼで仕事を休んでもいいだろう」という悪魔の囁きがあり、目出度く(?)有給のズル休みとなったのです。カゼによく似た症状が実はアルコールの離脱症状の一つと知ったのは断酒後のつい最近のことです。

 ズル休みと決まったら、後は一本道です。タガが外れて昼からビールとなり、緊張感を欠いたまま夜まで飲酒が続きました。翌朝も同様のカゼ症状に見舞われ、連続欠勤の悪循環となったこともあります。家族と別居していた独居時代には、診断書ナシでも許されるギリギリ5日間の連続欠勤(有給)も3回ほどしています。すでに出勤拒否と引き籠りの域に入っていたようでもあり、“うつ” 病のハシリではなかったかと思えて仕方ありません。

 単に仕事を一日先送りするだけと軽く考えた結果の「“今日一日” ぐらい」です。どうでもいい思いつきです。遅刻でもよかったハズなのです。軽い思いつきだったはずが、単なるサボリを越えてしまい、立派な “うつ” 病の芽とも成り得るのです。魔が差すというのか、ふと心に芽生えた隙が生活リズムばかりか精神(秩序)の安定をも大きく乱しかねないという好例だと思います。

 断酒を始めて10ヵ月ほどは、「“今日一日” だけでも断酒を続けなければ」と気が張っていた日々でした。別の言い方をすれば「“今日一日” 一日ずつ頑張るんだ」、こんな気持ちで必死だったと思います。「酒が欲しい」など、あからさまな飲酒欲求は全くなかったのですが、内実は四六時中再飲酒の影に怯え、明らかにアルコールに囚われた虜そのものでした。

 転機は “憑きモノが落ちた” 体験でした。アルコールの残滓がしつこい性的妄想となって、長いこと悩まされていました。それがある日を境に弾けて消えてしまったのです。「“今日一日” だけでも」の強迫感も同時になくなってしまいました。断酒を始めて10ヵ月後のことでした。

 この出来事があった後、“今日一日” がテーマとなったAAのミーティングで連想された言葉がありました。
 Today is an another good day.(今日一日 また良い日だ)
これは高校時代の英語の教科書にあった言葉で、思いもかけず昔々の言葉がなぜか浮かんできたのです。自然に連想されたことなので、そのときの私の心境を映したものだと思います。昨日も今日もさらに明日も再(また)と、なぜか近未来につながるニュアンスまでもこの言葉に感じられました。近未来までも、ということが不思議でした。

 さらに別の機会にはこんな言葉も浮かんできたものです。
 “Que Será, Será、Whatever will be, will be ・・・”(♪ケセラセラ~、なるようになる~)
成るようになるんだから、先の分からないことにくよくよジタバタしても始まらない。こんなふうに思えることこそ実は平常心ではないかと考えています。アルコールから完全に吹っ切れた気分ってこんなモン、・・・と分かってもらえる例ではないでしょうか。

 “今日一日” には、その日その日に区切りをつける意味もあります。それをこう語った人がいました。
「“今日一日” この言葉には今日この日だけと区切る所がある。昨日を引き摺ったり、明日まで今日のことを引き摺ったりしないで済むところがよい。」
また断酒歴7年目の人で、自らの経過を振り返って心境の変化をこう語った人もいました。
「最初の頃は “今日一日” の辛抱と解釈していたが、その後は “今日一日” を大切に・・・と変わってきた。」
ベテランメンバーの次の言葉はオマケです。
「今日一日だけ断酒で我慢すればよいだけでなく、+αで “気づく” ことがあるとよい。一日々々の生活リズムの立て直しから始めるのが一番なのだが・・・。」

 「“今日一日” ぐらい」は危険の兆しです。心に隙が生じている証です。何かを口実に先送りしようとしているときの決まり文句です。8月は、連日の猛暑やオリンピックの中継放送を言い訳に、集中力を欠き原稿執筆を先送りしていました。これはそんな日々を嘆いていた私自身の反省と今後の戒めでもあります。

 逆に “今日一日” なら、積極的な気分になれます。今のところ「“今日一日” 頑張ろう!」という気分ですから、この勢いを忘れないでいたいものです。戒めが必要な場合でも、せいぜい「“今日一日” 大過なく・・・!」ぐらいなものですから、用心しながらでも前に進めそうです。

 雁字搦めで厳しい「一日断酒」よりもさまざまな含意を帯びた緩やかな “今日一日” の方が重宝するようです。改めてそのよさに感心しています。ただ、 “今日一日しか(残って)ない” などと、投稿締切に追われることだけは避けたいものです。



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