ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“偽善”と“嫉妬”と“言論の自由”の不自由 ― 辛口の批評家、山本夏彦(下)

2016-04-29 16:06:53 | 世相
 言論の自由など、世に潜む偽善を喝破した山本夏彦の随筆が好きです。飄々とした氏の毒舌をダシに常日頃考えているところを書いてみました。今回は第二弾です。

 山本夏彦(1915~2002)は、江戸趣味の風流が残る旧き良き東京の常識と西欧的な良識を体現していた人物で、辛口の随筆家として戦後日本の世相の風刺と真の常識を説いた人です。かつて雑誌『室内』の発行人兼編集者でもありました。

 SNSが登場するまでは、情報操作はメディアの独断場でした。山本夏彦は “言論の自由” に潜む偽善についても、飄々とした毒舌でメディアの操る巧妙なカラクリと独善的な体質をズバリ突いています。“言論の自由” とは、こんなにも不自由なものかと皮肉っています。


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  事実があるから報道があるのではない。
  報道があるから、事実があるのである。

  情報は人を左右する。人はそれに左右されたがる。

  この世は自分で考える一握りの人と、
  その力がなく、すべて他人の考えを自分の考えだと勘違いする
  大ぜいの人とから成っている。

  情報というものは、本来ひとを支配したがるものだと私は承知している。
  すなわち説得したがる。説得力のない情報は、情報でないといわれる。
  そして読者は進んでそれに説得され、支配され、オウム返しに同じことを
  言いたがる存在だと思っている。

  言論の自由とは大ぜいと同じことを言う自由のことである。・・・
  それは流行であり、風俗である。

  悪口をいうときは、日本中が同じ悪口をいう。
  口々に言うことを、「言論の自由」という。

  臭いもの身知らずといって、臭い同士がかぎあっても臭くはない。
  それゆえに私は、常に政府を悪玉にして、
  大衆を善玉にする新聞の紋切型を好まない。
  それは間違いであるばかりか、危険である。

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 これが山本夏彦の見ていた言論界の “言論の自由” で、かつても今もあまり変わりありません。

 モノ言わぬ多数派という言葉があります。多数派はめったに声高な主張などしません。他方で、“言論の自由” を盾に、見た目には抗いがたいキレイ言(主張)を声高に叫び、事を荒立てようとする少数派がいます。メディアも “言論の自由” を盾に少数派意見を大々的に報道するのが常です。そして、さも多数派意見のように持ち上げます。それに反論しようにもその機会を提供せず、メディアは黙殺するか、さもなくば非難の大嵐で封殺しようとさえします。これが、メディアが少数派を多数派に仕立て上げようとするカラクリです。少なくともメディアたるもの、こんな風潮を助長するのは間違いです。こんな倒錯した考え方は、権利ばかりを擁護する戦後民主主義がもたらした悪しき風潮だ、と私は考えています。

 週刊誌などは読者の嫉妬心を糧に生きている、と当の言論人として述べた人がいます。読者の嫉妬心を煽る目的で、事実の一部だけを切り取って誇張し、スキャンダルとすることが常道のように思えます。糧を得るため、また読者を引き寄せるためには、それも手段として採らざるを得ないのでしょう。山本夏彦も、言論もしょせんはビジネスと述べていました。雑誌や新聞など書かれたものは、読み直しがきくのでまだ仕掛けだと見破ることができます。だから許せるというわけではありませんが、せめて新聞ぐらいは、小細工を弄して読者の感情を徒に煽るのは邪道と自覚すべきです。ただゝゞ事実を事実としてそのまま報道することこそが本分のはずです。不都合な事実を伏せるなど小賢しく振る舞うことなく、事実そのままの報道に徹する、この姿勢だけは守っていただきたいものです。

 私の懸念は、TVのおしゃべり主体の番組が、偽善だらけのキレイ言だらけ、ウソばっかりに染まっているように思えることです。特に民放ですが、最近のTVのニュース報道番組は一層週刊誌化したのではないでしょうか? 私は反権力というのも嫉妬心と同根ではないかと考えています。権力(政治家・政府)やセレブ(有名人?)への視聴者の反感を煽るだけが目的の、政治絡みのニュース報道番組が横行しているように思えてなりません。TVには、読み直しがきく書かれたものとは違い、その場限りで刹那的ともいえる特性があります。その特性をいいことに、政治的な洗脳が目的だけの、ことさら煽情的な企画を乱発していると思えるのです。(もっとも、“数打ちゃ当たる” これも道理ですが・・・。)自分たちの都合だけで情報を取捨選択して仮説の立証を図るなどは、自然科学の領域なら明らかに捏造・改竄にあたります。もしも制作・編集側が、反権力を傘に嫉妬と自惚れからやっているのだとしたら言語道断です。

 明らかに不審と思われる疑惑が事実として確認され、その結果として重大な事態がもたらされたということであれば、事実に基づいた報道として正統なものです。ところが、現実には憶測や言葉狩りとでも言うべき報道が横行しています。安保法制の改正や放送法を巡る論調を例にとれば、発言のごく一部を切り出しては戦争法だの “言論の自由” への弾圧だのと揚げ足とりに血道を上げ、眼前の差し迫った国際情勢には頬被りしたままです。徴兵制など将来にわたって蓋然性のないことを憶測だけで危険と決めつけ、世論を思惑通りに誘導しようとする意図が透けて見えました。メディアは、自在に世論を操作できるなどと自惚れ、驕り高ぶってはいけません。

 コメンテーターの人選など番組の舞台設定にも問題があります。批判側の自分たちこそが正義だと物知り顔で言い立てる人物ばかり揃えていたようです。批判というよりは、非難する役の人物だけが並び、対立する側の意見は捻じ曲げた上おざなりに触れる程度でした。対立する意見への時間配分でバランスを欠くのはもっての外です。コメンテーターはあたかも芸能タレントと同じで、何ら変わるところがありません。正義を振りかざしてはキレイ言を並べ、その場にいない対立側を非難する姿にはイカガワシささえ感じられます。笑いを誘うシャレもオチもなく、たちの悪いトーク番組同然の後味の悪さで、パネル表示もまるでプラカードのようにしか見えませんでした。明らかにニュース報道番組を騙った質の悪い娯楽番組そのものです。それならそれで、せめて “報道娯楽” 番組と正式に銘を打ってほしいものです。

 こうなった文化的背景として、ディベートという土壌が日本になかったことが一因かもしれません。本来ならば、放送局側の思惑通りの論客とそれに対立する側の論客を揃え、ディベート場面を見せるべきなのです。予備校でディベートの講師をしていたと言う人が、「ディベートで勝つのは嫌な(性格の悪い)奴ばかり・・・」と言っていました。相手の間違いばかりを論(あげつら)い、もっぱら揚げ足を取ることに集中するのだそうです。ディベートというのは和を重んじる日本の精神風土とは対極にあるものなんですね。

 放送局側からしたら、馴れないディベートでは番組として調和を保つことは難しいでしょう。時間内にシナリオ通り運ぶとは限りません。視聴者としては、多様な意見を踏まえた上で自分の立ち位置を決めたいのが本音です。公共放送のNHKは、『日曜討論』のようなショボイ番組ではなく、臨機応変に司会のできるキャスター(アンカー?)を立て、視聴者の希望を叶えるべきだと思います。

 そこで提案ですが、複数の論者を擁してディベートさせ、その実況から即席のアンケートで人気投票させ、さらにその調査の集計結果に基づいてその後の討論を展開させるというのはどうでしょう? NHKではこれと似たような番組をときどきやっています。2時間ぐらいの放送枠が必要でしょうが、これなら民放でもスポンサーが付くのではないでしょうか?『朝までテレビ』などは論客が高齢の常連ばかりで、深夜放送でもあるので体力的にも問題です。

 ニュースキャスターとしての役割も重要です。過去に政権を退陣させたなどの実績にモノを言わせ、いまだにニュースキャスターとして胡坐をかいている人々もいます。ニュースキャスターの多くは、大なり小なり戦後民主主義に育まれてきた人々です。いつまでも過去の実績と戦後民主主義にしがみついたままでは新しい時代に対応できません。むしろ有害です。

 戦後民主主義は、偏った自虐史観と偏った平等主義、偏った平和主義を特徴とする偽善的な政治思潮です。GHQが行った占領政策のうち、日本人洗脳計画として採られ、隠密裏に実行された政策にWar Guilt Information Program(WGIP)がありました。プレスコードという報道規制は以前から知られていましたが、その大元であったWGIPの存在も近年になって確認されています。そのWGIPの成果が戦後民主主義思潮だと考えられています。日本はあまりに長くこのWGIPという占領政策の負の遺産に牛耳られてきたのではないでしょうか。

 時代の流れで国際情勢や国内事情は変わります。それらの変化で政治的な思潮も変わるものです。報道を担うニュースキャスターは国際情勢や国内事情の新しい流れに明るいリアリストでなければ務まりません。新しい時代の流れと国際情勢の現実に目を据えて、そろそろ戦後民主主義から脱却すべき時だと思いませんか?

 今では、SNSで誰でも情報を発信できる時代になりました。ド素人の私もその恩恵に与ってこのブログを発信できています。もはや情報は、メディアだけが一手に握り、自在に操作できるものではありません。自在に情報操作しようとしても直ぐにバレる時代になりました。かくも信頼のおけないTVですが、それでもクーデターを起こすときは、いの一番にTV放送局占拠を狙うものだそうです。TV放送はそれほどに権力を握っている機関です。それを自覚していないのはメディアだけです。繰り返しになりますが、せめてニュース報道だけは、周辺情報までも丁寧に取材し、対照とすべき事実も品揃えした客観的報道に徹してほしいと願っています。それこそが視聴率稼ぎの金儲けだけではない報道の矜持のはずです。玄人のやるべきビジネスです。

 TVに限っていえば、私はすべての番組を娯楽番組として見ることに決めました。もちろん報道番組も含めてのことです。そもそもの初めからTVは娯楽だった、このことに今さらながら気付いたからでもあります。私の懸念と憤慨は幼稚なためなのでしょうか? 山本夏彦氏をダシに、いつも以上に気合を入れて書いてみました。


 出典をメモしていなかったので引用元を挙げていませんが、どの作品を読んでも類似の警句に出会えること請合います。


こちらの記事もご参照ください。
『人間は平等』は正しいですか?


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“偽善”と“嫉妬”と“言論の自由”の不自由 ― 辛口の批評家、山本夏彦(上)

2016-04-22 18:07:34 | 世相
 世に潜む偽善を喝破した山本夏彦の随筆が好きです。飄々とした氏の毒舌をダシに常日頃考えているところを書いてみました。

 山本夏彦(1915~2002)は、江戸趣味の風流が残る旧き良き東京の常識と西欧的な良識を体現していた人物で、辛口の随筆家として戦後日本の世相の風刺と真の常識を説いた人です。かつて雑誌『室内』の発行人兼編集者でもありました。

 アルコール問題から私が家族と別居生活を強いられた40代前半に、たまたま作品を手にして出会えた人物です。旧き良き東京弁を想わせる文体が小気味よく、独居中の侘しさを紛らわしてくれました。思惑違いとなった人生に、ともすれば落ち込みがちの気持ちをも励ましてくれたものです。

 舌鋒鋭い辛口で世相を笑い飛ばすのが山本夏彦の神髄です。その批評の小気味よさに、いつも “わが意を得たり” と膝を叩いては溜飲を下げていました。

 読者から「どの作品を読んでも、同じことが書いてあるだけ・・・」と言われたことに苦笑いしていた人だけに、批評する目はブレることなく首尾一貫していました。世相にザックリ鉈(なた)を打ち込み、問題の本質が虚偽と偽善にあると笑い飛ばす警句の数々をご堪能ください。もちろん虚偽・偽善とは嫉妬を後ろ盾としているもののことです。いずれの言葉も読んだとき「これだ!」と私の琴線にふれたものばかりです。


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  私たちは偽善が大好きで、偽善なしではいられない。
  この世は偽善に満ちたところで、偽善は必要なもの・・・

  言葉はいつわるためにある。

  私はこの世は、ウソでかためたところだと思っている。
  そしてそれでいいと思っている。
  ウソはどこまで必要か、人はどこまで虚偽を欲するか、
  私はそれを知りたいと思っている。

  正義と嫉妬とは必ず結びつく。
  この世はやきもちから成っている。

  私が正義をほとんど憎むのは、自分のことを棚に上げて
  初めて正義だからである。

  正義は言うものにあって、言わぬものにない。しかもウムを言わせない。

  持てるものから奪い、もたざるものに公平に分配するのは正義だ
  というのは社会主義の正義で、その根底にあるのは嫉妬である。
  嫉妬は常に正義に変装してあらわれる。

  大衆というものは、常に手前勝手なものである。
  ケチでヨクばりで、ウソつきのくせに
  正直者だと思いこんでいるものである。

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 言葉というものは、使う方も受け取る方もそれぞれ手前勝手に解釈していいもののようです。耳触りのいい言葉ほど使い勝手がよく、多くはキレイ言です。そんな言葉の裏には偽善が潜んでいます。偽善が装うキレイ言には正面切って抗うことができません。決まって、現実から目を逸らさせるのに一役買っているものです。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」前者は日本国憲法の前文に、後者は日本共産党の綱領中にある言葉です。どうみてもこれらは私たちが大好きな偽善そのものです。

 国境は、元々仲がよくない国同士だから引いているのです。国境を接する近隣の国々とは、捏造した虚偽の歴史を盾に日本への誹謗中傷に明け暮れする国、隙あらば日本の領土を掠め取ろうとする国、日本の領土を不法に占拠している国、日本人拉致という国家犯罪を犯したばかりか弾道ミサイルの標準を日本に合わせている国、このような油断ならない強面の面々です。どう見ても敵意剥き出しで、とても “公正と信義” など期待できそうもありません。

 日本共産党の綱領にある “平等で自由” と聞くと、誰しも富の平等な分配など結果平等のことだと都合よく解釈すると思います。よくよく考えてみると、誰でも平等に持てるのは “権利” と “義務” と “死” の三つだけに限られます。“人間は皆平等” などはキレイ言の偽善です。よほど強権的な社会主義社会でない限り結果平等など実現できません。せいぜい機会均等な社会を目指して、その実現に励むのが現実的だと思います。

 若い頃、私も一時左翼思想に傾いた時期がありました。山本夏彦に出会った私の40代前半といえば、冷戦が終わったばかりの時代でした。世界情勢の劇的変化に興奮したものですが、「社会主義には正義がある、資本主義にはない。若者は正義に魅せられる。(山本夏彦)」という言葉にもいたく納得させられました。偽善はいつかバレルものです。これらの例のように、世の中は嫉妬と偽善が渦巻くものと看破した山本夏彦の言葉は、当時のうつうつとした私の胸の内をも明るく照らしてくれたものでした。

 普通、“民主” という言葉を聞けば、私たちは多数決を意味する民主主義のことと、勝手なイメージに囚われます。ところが、共産党の民主集中制とは上意下達のことだそうですし、民主党の民主は各人が勝手に自分の意見を述べていいという意味だったようです。

 かくも言葉は便利かつ適当(テキトー?)なもので、自分たちに都合よく変身させてもいいものなのです。解釈するのは人の勝手で、意味を確認しなかった方が悪いのです。キレイ言を鵜呑みにしてしまい、無邪気に惑わされてしまうのは、言った者の思う壺です。

 偽善は凶器にもなりえます。自分を棚に上げ、異なる意見を葬るには最適の武器です。最近のことですが、大阪の市立中学校の校長が全校集会で「女性にとって最も大切なのは子どもを2人以上産むことで、仕事でキャリアを積む以上に価値がある」などと述べたことが問題になりました。地元の教育委員会に、女性の “人権” を貶めるものと抗議の声が寄せられ、校長の進退問題になったそうです。私などは、人としてあるべき道理をありのままに説いたもので、校長の見識は至極真っ当なものと考えています。女性の “人権” 擁護などと、見た目に抗いがたいキレイ言の主張には裏に偽善が潜んでいます。

 誰もが反対しにくい言葉にはイカガワシさがあります。耳触りのいいキレイ言で固めた偽善を前に、その虚偽を突き、反論するには勇気とド根性が要ります。巧妙なキレイ言だけあって、正面切っては抗いがたいのです。こんな言論の自由など不自由そのもので窮屈です。“ウソも方便” は潤滑剤として使うべきで、謀略などに使う輩にはバチが当ってほしいものです。

 山本夏彦は一方で、 “生とは意識そのものである” と、こんなやるせない胸の内をも覗かせています。

  
  人には本来年齢がない。女は永遠に十七である証拠だ。・・・
  まことに歳月は勝手に来て勝手に去る。私たちの内部は永遠に年を
  とらないのに、外部だけとるのは納得できないことである。

                            (山本夏彦)

 私にはなぜかこの言葉がストンと腑に落ちました。そしてまさしく、「若いときの感性のままに、ブレない生き様こそが人の信用で、モノを言うのは結局ブレない生き様だけなのだ」と思えたものでした。・・・が、その後の生き様は、ややもすれば変なプライドだけがブレないままで、とんでもない無様な生き様に身をやつしていたと思えてなりません。

 出典をメモしていなかったので引用元を挙げていませんが、どの作品を読んでも類似の警句に出会えること請合います。


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飲まないでいる方が楽 ― これが新しい生き方?!

2016-04-15 07:33:17 | 病状
 「(酒を)飲まないでいる方が楽ですね・・・」断酒歴が長い人ほど体験談でよく口にする言葉です。
楽(?)酒を断って間もないころは、聞いてもピンと来なかったのですが、断酒歴2年半となって私にも実感できるようになりました。“肩の荷が降りた” とでも言うのでしょうか、文字通り楽になりました。そう実感できていることを挙げてみます。


  ○ 頭がすっきりし、清々しい気分でいられることが圧倒的に多く
    なった。
  ○ ごく自然に屈託なく笑えるようになった。
  ○ 思い立ったら、ためらわずにすぐ行動に移せるようになった。
  ○ 腹を立てたり、イライラしたりすることがほとんどなくなった。
  ○ 「(断酒など)~しなければならない」という囚われから自由に
    なった。
  ○ 署名を求められても、緊張して固まることがなくなった。
  ○ 周囲がよく見渡せ、自分自身をも突き離して見ることができるよう
    になった。


 アルコール毒性の悪影響を長く受け続ける器官は間違いなく脳だと実感しています。しかも、脳への悪影響は断酒後も思いの外なが~く続くようなのです。私の場合、悪影響と思われるはっきりした自覚症状として、大きいもので二つありました。

 ひとつは妄想と言ってもいいもので、“憑きモノ” か “物の怪” とでも呼びたくなるような面妖なものでした。ここでは “憑きモノ” と呼ぶことにします。振り返ってみると、“憑きモノ” は習慣的飲酒が始まって以来ずっと纏わりついていたようです。

 精神的に重大なピンチに見舞われたときなど特に、そのピンチが強いストレスとなり、決まって性的衝動を駆り立てるような妄想(?)に化けて膨らんだものです。が、普段はぼんやりと大人しくしていました。好みのモノ(?)には即座にハマルように仕向け、好みに合わなければ自動的に悉く等閑視する、こんな病的とも言える偏屈さに、“憑きモノ” が仕向けていたようなのです。

 私自身、特定の好みに変に執着しがちなので、何かに囚われているようだと薄々気付いてはいましたが、なぜピンチのときに限ってやみくも(一途?)に突き進んでしまうのかは分かりませんでした。一事が万事、モノの見方も相当偏っていたのだと思います。

 もう一つは、脳にいつも薄物のヴェールを被っているような感覚です。薄物のヴェールを被った感覚と一緒に、いつも頭が重くどんよりとしていました。脳のシビレた感じと表現した人もいます。手や足の指先がシビレた感覚は、アルコール依存症者に共通して見られる症状で、ビタミンB1欠乏性の抹消神経障害として知られています。これと同じようなシビレを脳に感じていたのです。手足のシビレは断酒とビタミンB1の点滴補充のお蔭で消えましたが、脳のシビレ感は断酒後も残ったままでした。

 これら二つの症状は、断酒を始めて10ヵ月後ほぼ同時にすっかり消えてなくなりました。例えて言えば、溜まりに貯まった重い澱が弾け去り、頭がすっきりと澄んだ感じでしょうか。まさしく “憑きモノ” が落ちたという表現がピッタリの神秘的で奇妙な体験でした。

 あるいは、囚われから解放されたという意味でこんなふうにも表現できます。それまでは、狭くて暗い洞穴の中に一人でいて、小さな穴の口から外の世界を覗いていたような窮屈な感覚であったものが、急に外の世界の真っ只中で、周りを自由に見渡せているという感覚です。意外なことに、同時にアルコール絡みの強迫観念も消えていました。

 ですから、アルコール絡みの強迫観念も含めたこれら三つの症状は、皆同根の病理由来のものだろうと気が付いたのです。依存症に導いた総元締とでもいう意味です。これでやっと囚われの身から解放された、というのが実感でした。

 このことがきっかけとなり、自分自身を突き放し、少し離れて冷静に振り返って見ることができるようになりました。

 断酒3ヵ月後ぐらいから、ハシャギ過ぎや胸にザワザワ感などが時たま出るようになり、おかしな症状だと薄々気付いてはいたのですが、誰にも言わず黙っていました。身体が快方に向かっていることばかりに気を取られ、おかしな症状は回復に伴う一過性のものにちがいないと思い込んでいたので、具体的に何をどう相談したらよいかも分からなかったのです。

 “憑きモノ” が落ちた後は、その神秘的で奇妙な体験そのものも含め、諸々のおかしな症状について、気軽に医師に相談できるようになりました。AV動画に夢中になったこと、その挙句の果てに場面の展開を叙述したことまでも話ました。

 それを聞いて医師は、“憑きモノ” が落ちたのは著述作業による “言語化” の成果だろうと説明してくれました。モノごとを書くという作業が、認知行動療法の一つの “言語化” に当たるということを初めて知りました。

 今ではときどき、一方的にしかモノを見ていないことにハッとするときがあります。偏った見方だと、ふと気付くことがあるのです。穴倉から外を覗いているような窮屈な見方だった飲酒時代に比べたら、逆説的ながら、むしろ視野が拡がった証だろうとみています。

 今でもまだ見方が偏っていると思えてならないのですから、“憑きモノ” に囚われていた頃は、どんなにひどかったのか自分でも想像つきません。面白くないことがあると気持ちをぐっと押し殺し、重苦しい気分をいつも酒で紛らわしていたのでしょう。大なり小なり、それが繰り返される悪循環の毎日だったのだと思います。

 感情を司っているのも脳です。その脳がこんな状態でしたから、感情の現れ方もどこかぎごちなかったのだろうと思っています。「自然な感情が戻ったように思える」これも体験談でよく聞かれる言葉です。怒りやイライラはストレートに出て来ても、それ以外の感情の出方が「不自然だったように思う」というのです。その代表的な感情が、恐らく笑いではなかったかと察しています。

 固まった重い心では笑いなどあり得ません。ほぐれた心であっての笑いです。私も、落語を生で聴きに行ったとき以外、腹から笑えたことなどなかったように思います。体験談を聴いていると、今では思わず笑ってしまうことがよくあります。話し手が深刻に話しているにもかかわらず・・・です。適当な距離を置いて聞けているからだと思います。笑い声を耳にすると、話し手の方もほぐれた表情になるのが不思議です。

 これからも、まだまだアルコールの後遺症(?)は続くものと思っています。意図した言葉がなかなか出て来ず、回転の鈍すぎる頭との我慢比べが続いています。心理的ストレスの受け止め方も、まだまだ敏感すぎるような気がしてなりません。

 少しぐらいのストレスなら、柳に風と受け流すようでありたいと思っています。イライラや落ち込みなど大ブレすることなく、しなやかに復元できる心、すなわち平常心です。いつも平常心でいられるための手がかりは次の新3Kです。


  空気を読む(状況を把握する)
  風を読む(未来を推測する)
  心を読む(心理を分析する)

                  (ひきたよしあき氏のFB記事より)

 上の二つの「・・・を読む」を、人によっては周りに迎合する意と解釈するかもしれませんが、私はそうは読みません。「察知できるように予め備えよ」という趣旨と理解しています。ものごとを適正に評価し的確に判断するためには、比較対照すべき知識が多ければ多いほどよいと考えています。

 心掛けとしては上の新3Kがうってつけです。老いた今からでも遅くはない、より強いストレスに備えて、できるだけ多くの知識の習得に努めようと思います。それがリハビリとしても有効だろうと思うのです。

 さて最後に、断酒後には「新しい生き方が必要になる」とよく言われます。ともすれば、「新しい生き方をしなければならない」と思いがちですが、私はそうは思いません。無理に意識しなくても、「新しい生き方に自然になれる」と思えるようになりました。“肩の荷が降りた” のですから、自然に周りがよく見えているはずです。それを一層広く見るよう努めさえすればよいだけの話だと思っています。
 “事実を事実としてありのままに受け止め容れる”


こちらの記事もご参照ください。
アルコール依存症の回復イメージ
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観光立国へ、個人でも貢献できること ― 路上のゴミ拾い

2016-04-08 17:35:54 | 世相
 希望とは “よりよい状態を期待して、その実現を願うこと”(新明解国語辞典)

 今回書く内容は、希望というより、あるいは夢の類かもしれません。前々回の「老いた今こそ希望に挑戦」の続編のつもりで読んでいただきたいと思います。こちらの方が実は本音です。

 昨今の日本は、想定以上の外国からの観光客で、いよいよ観光立国だと沸き立っています。観光キャンペーンは日本人独特の “おもてなし” です。オリンピックを招致できたのもこの “おもてなし” のキャンペーンが好評を博したからだと浮かれています。確かに “おもてなし” も日本の素晴らしい長所に違いありませんが、同じぐらい外国人に受けていることもあるようなのです。

 大規模災害時でも黙々としかも整然としてとる人々の行動、渋谷のスクランブル交差点で見せる整然として澱みない人々の流れ、そしてゴミの少ないきれいな街中など、これらは外国人が信じられないと驚く日本の光景です。いわば普段着姿の日本への讃辞だと思っています。このように外国人が驚愕し称讃する日本のイメージというのは、つまるところ秩序を重んじる人々の住む国ということのようです。これらの光景から受けた強烈な印象が彼らの中にイメージとして定着しつつあるのだと思います。

 日本人は秩序が大好きな国民性です。生真面目で意外性に乏しい、おもしろみに欠けるとも見られそうですが、世界に誇るべき長所だと考えています。我々日本人にとって、秩序をほどよく保つことは何ら特別に構えることではなく、普段通りに振る舞えばよいだけの話のはずです。“秩序を重んじる人々の住む国”、このイメージが壊れることなく外国人観光客に持ち続けてもらいたい、これは日本人なら誰もが願うことではないでしょうか?

 人は生きている限り、お金を使うこととゴミを出すことが付きものです。大勢の人が行き交うところ、集まるところには間違いなくゴミも散らかっているものです。アルピニストの野口 健氏によれば、あのエベレストでさえもゴミだらけ、富士山だって登ってみると文字通りゴミの山だそうです。

 国内の繁華街はまだマシな方かもしれませんが、そのすぐそばの歓楽街のゴミの散らかり様ときたら半端ではありません。幹線道路を見れば、沿線の道端や道路脇にはペットボトルやアルミ缶、弁当の空箱、タバコの空き箱・吸い殻、菓子袋などお決まりのゴミが大量に散乱しています。住宅街にしても住民の意識次第で様々です。普段気付かないふりをしているだけで、まともに目を向ければ目を覆いたくなるようなひどい惨状があちこちに見られます。大勢の外国人観光客が集まる所にも間違いなくゴミが散らかっていることでしょう。

 “もったいない” も立派な日本的精神です。こんな無残な光景を目の当たりにしたら、まさしく “もったいない” ですよね? こんな状態を無策のまま放置していては観光立国が泣きます。笑止千万です。秩序が念頭にあるのなら、観光立国の鍵を握るのは、案外 “ゴミの少ないきれいな街中” の維持ではないかと私は考えています。特に、マナーがよく素質が高いリピーターを増やすには一番の策ではないかとさえ考えています。

 “類は友を呼ぶ” といいます。清潔が保たれているところには、マナーを弁えた人々が集まりますし、治安もよくなります。逆にゴミの散らかったいかがわしいところには、いかがわしさを求める人々が集まるものです。人の嫌がることをするのが好きという手合いもいるそうですが、論外です。

 辛口の随筆家として知られた山本夏彦氏はかつて、日本人は内(うち)、つまり家の中に対する意識と家の外に向ける意識とでは、まるっきり対応が変わってしまうという趣旨の話を書いていました。家の中はきちんと片付けられてお行儀もよいのですが、家の外へ一歩出た途端、どんなぞんざいなことでも平気でやらかしてしまう気質のことです。

 平気で道にポイ捨てする人でも、客人を迎えるときの家の中はきれいに片付けていると思います。誰もが心掛ける “おもてなし” の基本中の基本で、どこの家庭でもやっている暮らしの流儀だからです。・・・であれば、日本の国土全体を内と見做すように意識を変えさえすればいいのでは? 「内の中をきれいにしよう!」これで “ゴミの少ないきれいな街中” を維持する課題の解決策になりそうです。普段、家でやっている暮らしの流儀をそのまま国の内まで拡げればよいだけの話です。

 手始めとして何から手を付けるべきでしょう? 官の方には観光インフラの整備とせいぜいキャンペーンを張ってもらうぐらいが関の山と思います。「日本の伝統美 ゴミの少ないきれいな街でおもてなし!」とでもキャンペーンを打ってもらい、少しでも国民の意識改革に役立てば良しとしましょう。官に頼むよりも、まず我々住民がそれぞれ身近な所からボランティア(奉仕)精神で手を付けるべきだと思います。地味で手間がかかる地道な活動は住民の奉仕を通じてしか得られないと思うのです。

 秘策はレジ袋や水漏れ防止用の小ポリ袋の活用にあると思います。どちらもスーパーなどでは原則タダでもらえるもので、畳めばガサばりません。これらをゴミ入れ用として、いつもポケットやハンドバックに持ち歩くだけでいいのです。ゴミを見かけたら、どこでも拾えるようにしておくのです。私は外出する度に小レジ袋か2~3枚の小ポリ袋をポケットに入れて持ち歩いています。片道30分の行程で、およそ小ポリ袋1枚分ぐらいのゴミが拾えます。これを駅のゴミ箱に引き取ってもらっています。道を行き交う人々が私の奉仕活動を見て温かく声をかけてくれるようにもなりました。

 最近の人々は便利なことに馴れすぎたせいなのか、ゴミはゴミ箱へという意識が希薄になっています。無神経なポイ捨ての横行などはその現れだと考えています。ポイ捨ては伝染します。さらなるポイ捨てを呼びます。落ちているゴミに釣られてマネする人が出て来ます。こんなことを外国人観光客へ簡単に伝染させてはいけません。そのためにも、道にポイ捨てするような不埒なマネを許しておくわけにはいかないのです。

 最初は気恥ずかしく恰好が悪いと思うかもしれません。本当は尻拭いをさせている人の方が恰好悪いのです。まず、一人々々が奉仕の精神を発揮し、人前でゴミ拾いの範を示すことです。ゴミを拾う人の前でポイ捨てをする人はいません。できる範囲内で奉仕活動を実践しさえすれば、まわりの人々を感化し、進んでゴミ拾いに加わってくれる人も出て来るはずです。活動の輪は必ず拡がります。

 外国人観光客は客人です。観光目的の客人にゴミで散らかった日本の内を晒し、失望させてはいけません。ゴミが散らかっていない、きれいな普段着の日本にお客様をお迎えし、さすがと称讃してもらおうではありませんか。これこそ心のこもった “おもてなし” です。私はこれも実現可能な夢=希望だと思っています。

 私が期待しているのは同年輩の高齢の方々です。完全退職後の、無聊を託っている方々です。何もすることがなければ、“廃用性老化症” にまっしぐらとなりかねません。ゴミは道に毎日出ます。だから毎日でもやることがあります。「人々の見ている前で黙々とやる」、これがコツです。これで周りに知ってもらえます。遥かに生き甲斐があり、元気な人生を請け合いますよ。

 たかが一年ぐらいの経験のくせに偉そうなことを・・・とお思いでしょう。まあ、ムキになればなるほど人は引くもの、・・・ということも弁えているつもりなので、これぐらいで終わりにします。

 ご参考のため、私の “路上のゴミ拾い” 七つ道具を再びご紹介しておきます。コトを始める際は、その日どこまでやったら切り上げるのか、予め決めておくことをお勧めします。

  ● 軍手
  ● 火バサミ
  ● レジ袋(可燃ゴミ用、不燃ゴミ用各2枚以上:大・中の方が
    便利)
  ● スーパーの商品水漏れ防止用小ポリ袋(犬の落し物用3~4枚)
  ○ 大き目の袋(予備品持ち歩き用)
  ○ 黄色のウィンドブレーカー(交通事故防止用)
  ○ 麦わら帽子


以下の記事もご参照ください。
老いた今こそ希望に挑戦
自分で始末をつけられる生き方
 

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“生き残る” ― この言葉に想うこと(隠居の雑感)

2016-04-01 17:57:32 | 自分史
 “生き残る” という言葉は、年頭の挨拶でもよく出て来ました。どんな文脈だったのか忘れましたが、「生き残りを賭けて・・・」とか「生き残るために・・・」とかです。いずれも社員の士気を鼓舞するだけが目的だったように思います。状況説明をサラッと流すだけで、なぜ奮起して欲しいのかがほとんどないに等しかったように覚えています。

 檄を飛ばすなら、それなりの理由と具体的な目標があってしかるべきだと思っていました。だから、単なるスローガンか・・・とただ呆れるばかりで、大抵の人も「またか・・・」という白けた気持ちで聞いていたと思います。年頭恒例の呪文のようで、後味の悪さだけが記憶に残っています。

 “生き残る” という言葉は本来、追い詰められた際の悲壮感に溢れた言葉で、本気の覚悟と気迫がこめられるべき重い言葉のはずです。それなりの根拠と具体的な目標があってこそ説得力と迫力とが伝わってきます。要の部分が抜けていたので言葉に重みが感じられず、ええかっこしいの薄っぺらなものとしか聞こえませんでした。本気度がないと見られたら、使い方によっては「勝手にしたら・・・」とか「余計なお世話」としか受け取られかねません。

 先日の朝、目覚めの一服をしていたとき、ふと「イキノコ(生き残)・・・」という言葉が浮かんできました。「生き残りを賭けて」だったのか「生き残るため」だったのかも分かりません。結構こんなことがよくあります。どちらにせよ “生き残る” 以外の言葉はないはずなので、なぜこんな言葉が浮かんで来たのかとても不思議でした。

 現在の私は悲壮な覚悟が要る心境ではありません。完全退職後でも何とか暮らせる年金があり、生活費を何とかしなければと稼ぐことに汲々しているわけではありません。「断酒を続けなきゃ・・・」とか「再飲酒したらどうしよう・・・」とかいうアルコールに囚われた強迫感も薄れ、ごく自然に飲まないで過ごす日々が順調に続いています。ですから “生き残る” という言葉に違和感を覚えたのです。そこで思い出したのが昔会社であったエピソードで、“生き残る” がよく使われていた上述の場面だったのです。

 よくよく考えてみると、よくぞここまで生き残れたものだと思うばかりです。幼児期には、よく高熱を出し、波がうねるように天井が歪んで見えたりしたものでした。高校1年生の時には、扁桃腺摘出術後の出血が止まらず、医者が対処に慌てたほどでした。壮年期の狭心症発作では、冷や汗まで出る強い狭心痛で一歩も動き出せなかったこともありました。アルコール依存症の末期には、ブラックアウトの繰り返しと失神発作でさすがに死を意識しました。命にかかわるような、身体に起きた病的異変だけでもこれぐらいあります。

 事故や災害でも肝を冷やしたことがありました。御巣鷹山に墜落した日航機に運よく乗り合わせていなかったこと、阪神大震災の地震当日に倒れて来た洋服箪笥の下敷きになったこと、自転車で走っていた最中に前輪が外れて投げ出されたこと、甲子園球場の観覧席最上段から足を踏み外して転げ落ちたこと・・・などです。

 そんな死の瀬戸際を経験したにもかかわらず、思い通りにいかないことに悲観し、身勝手にもいっそ死んでしまいたいと思ったこともありました。ですから、「生き残った」というよりも、むしろ「生き残らせてもらっている」と表現した方が、今の私の正直な胸の内なのです。

 思えば楽しみで飲んでいた酒が、いつしか美味くもないのに飲まざるを得なくなったのも、“生き残り” を賭けた仕事の重みに耐えかねたからではなかったか・・・そう思えてなりません。

 サラリーマンの勲章は高い給料を得ることです。高給を得るには昇進しなければなりません。昇進するには仕事に成功しなければなりません。無理してでも成功しなければ・・・私のプライドはそれらを求めて止まなかったのです。自分の器がどれだけのものか、薄々気付いていながら顧みようとしませんでした。

 アルコール依存症となって死の縁まで経験し、断酒を経てやっと、素面の頭でサラリーマン人生から完全に引退したのだと悟りました。もう競争すべき舞台はありません。上を目指して頑張る必要もありません。せっかくの命です。与えられた寿命が尽きるまで、もはや粗末になどするつもりはありません。粗末になどしようものならバチがあたります。

 夢の中でこんな想い出が巡っていたのでしょう。それで起きがけの頭に「イキノコ(生き残)・・・」という言葉だけが残っていたのだと思います。朝の清々しさが透き通った内省を授けてくれました。

 “生き残る” などむやみに使う言葉ではないと自戒していたつもりでしたが、二男の結婚披露宴でつい使ってしまいました。かれこれ7年前の話です。「結婚生活とはsurvival game、生き残りを賭けた戦いだと思っています。・・・」

 ともすると、若い時には恋愛と称し、実のところ性欲に駆られて結婚まで一気に突き進んでしまいがちです。元々他人同士が一緒に暮らして行くうちに、生活の流儀・作法の違いで両人の間に軋轢や葛藤が生じることはままあり得ます。それが恋愛結婚の現実です。こんなハズではなかった・・・というのが定番で、かくして性格の不一致・・・に至る話がわんさかあるわけです。

 その一方、仲人を介した見合い結婚では、両人の生まれ育った生活レベルや生活環境やを加味して仲介するのが常道です。だからこそ、生活を一緒にして生じる軋轢や葛藤を高確率でうまく避けられるだろう、というのが大方の見る見合い結婚なのです。

 二男は恋愛結婚です。お目出度い披露宴の席なのに、両家を代表してこんな白けることを諄々述べる人はいません。人生は山あり谷あり、油断のならないものです。油断したらすぐ足元を掬われるのが世の常です。

 私の思いは、若い二人と彼らの仲間にただ一言伝えたかっただけです。「結婚生活は文字通り生き残りを賭けた戦いだ」と。わざとらしく重みのある言葉を使う、ええかっこしいの会社のお偉いさんとは一味違う言葉のつもりでした。

 それでも酔っ払いの戯言だと白けた人もいたとは思うのです。が、それも世の常、仕方ありません。何とか生き残って来た自負があったればこそ話した言葉のつもりでしたが、その重みと迫力は結局のところ受け手だけが感じ取れるものだから・・・です。



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