ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

正義こそ胡散臭い

2017-01-31 05:25:06 | 雑感
 正義を盾に、“キレイ事” を振りかざして、人を批判することこそイカガワシイ。

 普遍的な価値観とされる平等とか、人権とか、反戦・平和とか、これらを大上段に振りかざす批判は偽善だと考えています。自分のことは棚に上げ、他人を誹謗するのに血道を上げる輩です。

 正義は誰もが抗えない盾です。正義を装う “キレイ事” は他人を詰るのに恰好の矛です。正しい本音を言わさないための口封じです。食うに困らない身分でいられるからそんなことができるのです。

 唯我独尊、自己愛(うぬぼれ)、底意地の悪さがプンプン臭います。弱者のためにやってあげている、上から目線の冷たい高慢さ。彼らの本音は人より上でいたいという我執です。食うに困らない自己中の輩は何とも罪な人たちです。

 かく言う私も同じ穴の狢かもしれません。ただ、言葉に伴う行動こそが人の正体を証してくれると信じるのみ。

 因みに、私としてはポリティカル・コレクトネスなどクソ喰らェー! 公の立場にない私には無縁のことです。時流に悪乗りですかねぇ、これは?


 好き勝手なことを書いてスッキリしました。たまにはこんな鬱憤晴らしもいいものですネ。因みに次の記事もご参照ください。

『人間は平等』は正しいですか?
“偽善”と“嫉妬”と“言論の自由”の不自由 ― 辛口の批評家、山本夏彦(上)


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“安物買いの銭失い”

2017-01-27 07:05:23 | 雑感
 靴を買いに行って思わずこの諺を思い出してしまいました。ゴミ拾い用として使っていた靴のつま先が、笑うようにパカッと開いてしまい、買い換えるしかなくなったのです。トレッキング・シューズ仕様の、ディスカウント・ストアで買った安物でした。ゴミ拾いでは水たまりに入ることがあります。件の靴は、浅い水たまりぐらいならまぁまぁ大丈夫だったので、できれば同じように防水の効いた靴を望んでいました。

 その昔、値段の安さにつられて買った靴を捨てたことがあります。踝(くるぶし)付近にドイツ軍の黒十字のような紋章が刻印されてあり、踝に当たるぐらい丈の深いものでした。奇抜なデザインは似合わないと一瞬思ったのですが、ズボンの裾に隠れて見えないだろうと踏んだのです。試し履きしてみると案の定、縁が踝に当たったのですが、その内に馴染んでくれるものと高をくくったのでした。そんな虫のいい口実を考えてまでも、値段の安さにはとんと無力でバカ丸出しになるのが私です。結局、厚手の靴下を履いても、靴は馴染んくれることはなく、渋々捨てるしかありませんでした。

 立ち寄った靴屋はかつてと全く同じ店です。苦い思い出があったので、いつになく慎重になれました。応対してくれたのは女性店員。これは幸先よいと思いました。数少ない成功体験では、飽きが来ない買い物は決まって女性店員のお勧め品だったのです。

「売れ残りの在庫扱いみたいな安いのでイイんだが・・・。雨の日でも
 靴下がビショビショにならないヤツが欲しい。」
品定めをするに当たって、ある程度の防水効果があることと、予算内であることを曲げてはいけない絶対条件と腹積もりしていました。

「実は、ここと同じチェーン店でさっき出してくれたのがそんな
 ヤツでネ。定価の半値ほどの安さで気に入ったんだけど、足幅が
 狭くて残念だった。編み上げ靴なら、サイズが多少大きめでも
 何とかなるけど、足幅だけは何ともならないからねぇ。」
「完全防水はむずかしいと思いますよ。トレッキング・シューズなら
 そこそこ期待できますが、ここでは置いてないし、それに値段が
 高いですよネ。メッシュ地は雨に弱いですし、・・・
 他にご希望は・・・?」 

 実はその日、件のディスカウント・ストアーを含め他に3つの店を事前に見て回っていました。店員との掛け合いはリハーサル済みのハズでした。それなのにゴミ拾いにも履く予定などと、言わなくともいいことは話し、肝心の水たまりでも大丈夫という要件は、先に釘を刺された手前、さすがに言い出せませんでした。

「それじゃ、ご希望に近いモノをお持ちしてみます。」
彼女は、これはと思うモノを持ってきてくれました。編み上げ仕様の黒い合成皮革製でした。
「合成皮革なら雨にも強いですし、防水スプレーをかければ十分イケ
 ますよ。シンプルなデザインなので場所を選びませんし、黒は
 どんな服装にも合いますしネ。いかがですか?」
こんな塩梅で丸め込まれ、結局雨の日用としてその店で買うことになりました。 

 案の定、後になって思い出しました。以前、合成皮革製品でも雨で靴下がビショビショになったことがあったのです。ただ本革製品のように、靴本体はボロボロにならずに済んだだけマシという程度でした。今回はどんな結果となるのでしょうか? あまり期待するのは止めて、別途ゴム長も買うことにしましょうか?

 身につける物の買い物で成功した例(ためし)があまりありません。特に着る物については値が張ってもハズレばかりです。それなりに値の張る物は、それなりに飽きが来ないとは知っているつもりです。が、飽きが来ない物は他の誰かに選んで買ってもらった物ばかりで、残念ながら自分一人で選んだ物では希です。この歳になるまで散々苦い経験を積んできたのですから、モノの見方もそれなりに養われてきたハズですが、成果は芳しくありません。

 身につける物のセンスは、やはり生い立ちが絡んでいるのでしょうか。貧乏人根性丸出しの小金惜しみだけではうまくいかないこと、今回も痛感させられました。願わくは、人を見る目と物の目利きの目とは別物で、正の相関などないことです。所詮、生きている人は、生きている間に七変化しないとも限りません。そう考えさえすれば、どうでもいいことではあるのですが・・・。



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“何事もありませんように!”

2017-01-24 07:00:45 | 雑感
 これ何だと思います?
 なんと、初詣にした(する?)願い事(お祈り)だそうです。
 新聞の投書欄にありました。
 “家内安全” などよりよっぽどいい、のだそうです。

 せめて “異変など何事も・・・” と、私ならしたいところです。
 異変ならば、ほぼ100%不吉な変化を意味します。
 本当に何事もないよう望むなら、生きていては叶いません。
(まさか、“どうぞ死なせてください” と受け取られでもしたら、
 元も子もありません。)屁理屈好きの偏屈のせいか、それとも我欲だらけの野暮の拘りなのか? 余計なお世話と知りつつ、ついつい気になって仕方ありませんでした。

 それにしても大災害続きの今日この頃です。固定観念に囚われない本音の発想は、何かとコセコセ欲を掻くよりも、よっぽど目の付け所の筋がイイ!



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HALTにご用心!

2017-01-20 05:40:52 | 病状
 HALTとは、空腹感(hunger)、怒り(anger)、孤独感(loneliness)、疲れ(tiredness)の頭文字を並べたもので、再飲酒を促す危険が大と自助会AAが戒める状態のことです。今回は、このHALTをテーマとしてみます。
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 つい、やっちゃいました。1月3日の正月早々、癇癪を起こしてしまったのです。

 ことの発端は夕食の“すき焼き”でした。前夜から長男一家が、年始がてら久々に孫を連れて泊まりがけで遊びに来ていました。大勢なら鍋、これが我が家の定番です。鍋物では野菜類の切りくずがどうしてもテーブル上に散らかってしまいます。案の定、こぼれたエノキの切りくずが目に止まったので、つい鍋に放り込んでしまいました。妻がそれを見咎めキツイ一言。

「ダメダメぇ、そんなことしたらダメでしょッ!」と鍋からサッと取り去りました。 
「エノキだよ。何で俺のやることが一々気にくわないんだ!?」 とつい声を荒げてしまいました。一瞬その場が凍りつきました。

 これにはいくつか伏線がありました。まず、その日は何やかんやで昼飯抜きだったことです。

 AAの定例ミーティングまで大分時間があったので、ちょっと靴屋を覗いてみようとしたことがケチの付き始めでした。ほんの1軒だけのつもりが、結局、靴屋を3軒も回ることになってしまったのです。しかもついその気になって、よせばいいのに遠くのディスカウント・ストアーにまで足を伸ばしてしまいました。その最後の1軒はミーティング会場から4km弱離れたところにあり、それでとうとう立ち食い蕎麦屋にも寄れないほど時間がなくなってしまったのです。

 ミーティングには何とか間に合ったのですが、その日は年初めの開催とあって超大入りの満員で、補助椅子に座るハメになりました。いつもならお茶菓子を自由に口にできたのに、手を伸ばすことも儘ならず、それで結局、何も口にできなかったのです。帰り道、コンビニでドラ焼き1個をやっと口にできたのですが、甘い物は少しだけだと却って食い意地を煽ります。靴屋回りの疲れに加え、あれやこれやで知らずしらずイライラが募っていたようなのです。

 家に着くとすでに夕食の準備が整っていました。外出から帰ったばかりでは、その場の会話の流れが直ぐには掴めないものです。この時もまさしくその通りで、まるで私一人がつんぼ桟敷に置かれたような気分になってしまいました。この孤立感も伏線になったのだと思います。

 そんなときに起きたのが冒頭の出来事でした。妻は日頃、何かにつけ子供を軽くあしらうような物言いを私にします。そんな妻に知らずしらず蟠(わだかま)りが溜まっていました。周りが皆身内ということからも緊張感を欠いていました。それでつい妻の言いぐさにカチンときてしまったのでした。

 思えばこの日は、私としては珍しく、同時に疲労と空腹に見舞われた日でした。そこに孤立感まで加わったのですから、後は推して知るべしです。なるほどHALTは危ない、と実感しました。殊に周りが身内だけだと、“一息ついて 一歩引いて” など、どこかに吹き飛んでしまいます。しかし、かくも見事にお膳立てがそろっていても、私は大丈夫、酒に手を出すなどしませんでした。念のため。

 この記事が書けるまで実質2週間の猶予が必要でした。ことが起こってから気持ちの整理がつくまで、どうしても時間がかかってしまいます。何時いかなる時も “平常心” を保つ。このゴールはまだまだ先のことと思い知らされた一日でした。



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あの日 1995年1月17日

2017-01-17 06:54:22 | 自分史
 1995年1月17日(火)午前5時46分、兵庫県南部地震(M7.2、最大震度7激震)が発生。死者6,434人、倒壊・焼失家屋15万余棟。 当時、戦後最悪といわれた阪神・淡路大震災の始まりでした。

 今日であの日から丸22年経ちました。あんな激震クラスの地震では最初、地震などとはとても思えません。生半可な揺れではない、とにかくメチャクチャな揺れなのです。あの日もドーンという音が聞こえ、何か大爆発でも起こったのかと思ったものでした。

 2年前、断酒を始めて丁度1年3ヵ月。やっとアルコールが抜け切ったばかりの頭で地震当日の出来事を書きました。書き出すや、地震当日のことが鮮やかに蘇って、それがとても不思議でした。夢中で一気に書き上げたことを覚えています。

 今でも思い出すのは緊迫した周囲の空気と、何よりも奇妙に醒めていた自分の意識です。自分に起こったことなのに、自分は当事者ではない感覚です。当事者でいながら第三者のよそ者の目で見ているような、奇妙な感覚でした。目の前に危険が迫っているのに、その危険を認めようとしない正常性バイアスの真逆で、恐怖の感情さえも封じ込められた、とても冷静な目だったのです。だからこそ、地震直後の出来事を克明に覚えていられたのだと思います。

 息子たちと言葉を交わしたり、会社へ電話したり、ヘリコプターの爆音が喧しかったりで、この感覚はいつの間にか普通の感覚に戻っていました。今の私は、“醒めた頭で 醒めた目で” 物事をありのままに見ようと努めている毎日ですが、あの日の感覚こそその完成型ではなかったかと思えるほど不思議な体験でした。

 昨年も、熊本地震をはじめ台風による洪水被害など、各地で大災害がありました。大災害に遭った人は皆、おそらく同じような奇妙な感覚を体験したのではないか、と私は密かに考えています。ひょっとすると、大災害の被災者にしかわからない感覚なのかもしれません。とは言っても、当たり前のことながらこんな経験はしないに越したことはありません。


 今回は、2年前に書いた大地震当日についての手記を添付しました。是非、非常事態で私が味わった奇妙な感覚を共有してみてください。


アルコール依存症へ辿った道筋(その16)阪神大震災、地震の当日
私自身、経験したことのない大災害の現場に居合わせているという自覚はありましたが、日常とは全くかけ離れた、異質な世界となってしまった現実を、第三者のように醒めた眼で眺めていました。恐怖感も湧かず......



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感謝の気持ちの反対は?

2017-01-13 05:42:10 | 自分史
 『ひこばえ倶楽部』という読者投書欄が産経新聞にあります。
25歳以下の年齢制限があり、主に高校生以下の子供たちが投稿しています。真っ当で素直な考えの投稿が多いので、いつも読むのを楽しみにしています。

 だいぶ前のことになりますが、その欄に中学生の投稿がありました。『感謝の反対は当たり前』という見出しで、日常の心がけを書いた投稿だったと思います。母親からそのように教わったそうです。この言葉には目から鱗の思いをしました。

 中学生といったら最も難しい年頃です。テーマの捉え方もさることながら、母親の諫めを素直に語る姿勢にいたく感心したものです。同時に、どんなきっかけで母親がそのように教えたのかにも興味津々でした。相も変わらず余計なお世話の私の癖です。ところがしばらくして、次のようなことを考えてしまいました。

 思えば、結婚生活の破綻は相方を “空気” のように感じたことから始まったようです。やってもらうのが “当たり前” と見做し、感謝の気持ちを忘れたままでいたのが危険信号だったのです。私たち二人の破綻はこれが始まりでした。 

 世の例に漏れず、私も仕事にかまけてばかりで妻を “空気” のようにしか感じていませんでした。しかもそれが “当たり前” の夫婦の姿だと思っていました。異変に気づいたときは既に遅く、事態は取り返しのつかないことになっていました。6年間の別居生活を経て、一応元の鞘に収まってはいますが、それから16年経っても、一旦割れてしまった茶碗を元に戻す作業が続いています。

 『感謝の反対は当たり前』は立派な警句です。人にやってもらえることが “当たり前” なのは、実は一対一の関係にしか当てはまりません。しかもそう思えるのは、二人が幸せの安定期にある時だけに限ります。幸せとは幸せだと気づいていないこと。何とも皮肉なことです。

 幸せを鈍感にさせるのは油断や慢心です。“当たり前” ではなくなった時が二人の仲に相当ヒビが入ったときなのです。油断や慢心とは “当たり前” と見做す心のことなのですね。

 普段、やってもらって “当たり前” と見做していることに手抜きが感じられたら、超多忙のせいか、意図的な意地悪か、いずれにせよ異変だと察知すべきです。そして、相方へ率直に語りかけ尋ねるべきです。“当たり前” と見做せること自体が、実に有り難い貴重なことなのです。少なくともこの自覚さえあれば必ず態度に出るハズです。そんな自覚さえもないとしたら、ひどいしっぺ返しを喰っても、それこそ “当たり前” なのです。

 以上は、感謝の気持ちを言葉で口にすれば済むだけの話です。感謝の気持ちを口にするなんて恥ずかしいなどと、暢気に言っていられる場合ではありません。感情のこじれを放置していた頃の自分を改めて振り返り、ついこんなエラそうな屁理屈を捏ねてしまいました。

“親しき仲にも礼儀あり” 
偏屈でひねくれ者の私としては、精々こんなところで手を打ちたいというのが本音です。投稿した中学生のような素直な感性は、遠の昔に錆び付いてしまったようなのです。

 最後に例のごとく余計な一言を。
やってあげていることが自分で “当たり前” と思えているなら、何ら問題ありません。心おきなくご随意にお続けください。



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老化現象? それともPAWS?

2017-01-10 05:28:40 | 病状
 最近、手足の協調運動機能(?)が覚束なくなったと気になっています。しかも手や足ばかりか噛み方でも可笑しなことを経験しています。

 特に、片手で複数の物を持っているとき、その中の一つを指だけでうまく操ろうとすると覿面にしくじります。片手でドアの鍵を開けようとして一緒に持っていた物の方だけ落としてしまったり、レジ袋二つの一方を指だけで外そうとして両方とも落としたりということがよくあります。逆も真なりで、持ち物をもう一つ増やそうとして持ち物すべてを落としたりもします。このように笑うに笑えないドジばっかり踏んでいます。

 物との距離感を間違うことも多くなりました。ゴミ拾いの作業中、ゴミにばかり気を取られて額に木の枝が当たったり、仕切り石や小さな切り株に躓いたりしています。口の中でも同様に、普通に噛んでいながら、なぜかたまに舌まで噛んでしまうこともあります。こんなこと、以前はありませんでした。

 これらがいつ頃からなのかよく覚えていませんが、1年ぐらい前からでしょうか。単なる老化現象なのか、それとも “身体的協働性に問題” という、アルコール急性離脱後症候群(PAWS)にある一つの症状なのでしょうか? “身体的協働性” の意味がよくわかっていないのですが、勝手に当てはめてみました。
 以上些細なことですが、闘病記録の一つとして残しておきます。

***********************************************************************
【急性離脱後症候群(PAWS)】
 症状は、断酒開始後3~6ヵ月目で最も強くなり、6ヵ月~2年で回復する。
  ○ 思考プロセス障害(脳の働きにムラがある、頑なで諄(くど)い思考、因果関係を理解
    できない)
  ○ 情動障害(情動の揺れ)
  ○ 記憶障害(短期記憶の障害)
  ○ 睡眠障害
  ○ 身体的協働性に問題
  ○ ストレス感受性に変化(おそらく認知障害“認知のゆがみ”の意味:筆者追記)
                  (アルコール依存症専門クリニック教育資料より)



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自分独自の座標軸を持っていますか?

2017-01-06 08:19:20 | 病状
 回復とは常に平常心を保つこと、と今まで何回か述べてきました。年の初めに当たり、再び平常心について考えてみます。

 平常心獲得というと、普通は荒行・苦行などの精神修業を思い浮かべると思います。今回は、平常心獲得のイメージを精神的な根性論ではなく、合理的(?)なイメージとして描いてみたいと思います。結論を先に言えば、自分独自の座標軸を持って、常に自分の立ち位置を確認できるイメージのことです。

 ここに至ったきっかけは三つあります。
一つ目は、怒りの兆しをリアルタイムで察知できると、それを超えて感情が暴走しないという体験です。
二つ目は、自助会AAの『アルコホーリクス・アノニマス』第6章にある記述です。
三つ目は、ゴミ拾いの奉仕を継続してきた経験からです。

 ひとつ目の感情の察知については、文字通りの意味でしかありません。怒りを一方に、その対極に喜びを置いた一本の座標軸をイメージすると、原点に当たる両者の中間点が心の落ち着きになると思います。僅かでも原点からどちらかに動けば、その動きが微妙な体感の変化(兆し)として瞬時に察知できるようです。このことで、 [怒り] ― [喜び] という感情の座標軸を持つことができました。

 座標軸のイメージをはっきり気づかせてくれたのは二つ目の『アルコホーリクス・アノニマス』第6章の次の記述です。
「新しい自由、新しい幸福を知るようになって・・・(中略)・・・
 心の落ち着きという言葉がわかるようになり、・・・(中略)・・・
 自分の経験がどれほどひとの役に立つかがわかるようになる。」
いずれも「・・・わかる(知る)ようになる」という文脈になっていて、それぞれの状態になれるのではなく、どんな位置にいるのか認識できるようになるという意味に取れます。

 この文脈の意味するところをAAのミーティングに当てはめてみると、次のことにも気づかされました。ミーティングで各メンバー(仲間)の語る体験は、海図上で目印とすべき灯台のようなものということ、つまり、私独自で設定した対人関係座標軸上の貴重な位置情報でもあり、同時に私自身の立ち位置をも教えてくれるものということです。それからというもの、作為のない事実を正直に語ってくれる仲間が貴重な道標と思えて来ました。これが二つ目のきっかけでした。

 三つ目のゴミ拾い経験ですが、始めた頃はポイ捨てした人物像の方にばかり意識が向かい、イライラ・カリカリの連続でした。こんな不快だらけの状態ではとても長続きなどしません。そのうちポイ捨てした人物への怒りが薄れ、ゴミが単なる不用品という見方ができるようになりました。慣れというよりも、先入観を排したモノの見方・考え方に変わったのだと思います。

 ゴミが汚物の場合もあります。他人の汚物に接し続けたことがモノの見方・考え方を鍛えてくれたのだと思います。 [用] ― [不用] という座標軸上で、ゴミがどの位置にある物質か合理的に見れるようになったという意味です。ゴミ拾いを継続したお陰で、私流の [快] ― [不快] という感情的な座標軸にもう1本 [用] ― [不用] という理性的な座標軸が追加されました。

 世間の常識や、様々な情報、特にTV CMによって形作られた、いわば他人任せで御仕着せの座標軸は五万とあります。あたかもカー・ナビに従うように、物事に出会う度に自分を右だ左だとそれぞれの指示に合わせようとしたら、堪ったものではありません。たとえ自分を見失ったとしても、これなら当たり前のことです。

 自分独自の座標軸を持ってさえいれば、その時々の物事との距離が合理的に測れます。逆に言えば、物事を介して常に自分の立ち位置が確認できることになり、自分を見失うことはあり得ません。

 以上が、いつも平常心でいられることとは、自分独自の座標軸を多様に備えていることと考えるに至った経緯です。平常心を保つということと、己を知るということとは同義と考えています。自分の半生で体験してきたことを座標軸上にきちんと位置付け、他人の体験も貴重な目印として座標軸上に位置付けていけば、自分の立ち位置がはっきりわかるようになれます。もし座標軸が足りなければ、追加すればいいだけのことです。

 こんなふうに座標軸作りを続けていたら、メディアから流れる報道にもCMの宣伝コピーと同様の作為が自然に透けて見えるようになりました。人の作る物ですから、それなりの思惑が裏に込められていてもやむを得ないことです。自分独自の座標軸を持ったら、こんなふうに見えて来るのも自然なことと思います。 

 他人に左右されない生き方を目指すと少し変人扱いされるようです。それも慣れてくると大きな問題ではなくなります。独自の座標軸を持った自律した人生。どうです、かっこいいと思いませんか?

 肝腎なことを言い忘れていました。どうやったら独自の座標軸を持てるかですが、感情に走る自分を離れ、自分自身をも客体化して眺められるようになることです。

 その参考にと性懲りもなくここで余計なお節介を一つ。
事実をありのままに見る鍛錬には、他人の残した汚物を始末してやるのが一番です。他人の汚物は、不潔とか、だらしないとかいった先入観の塊です。そんな汚物に直に接して慣れてくると、先入観で一杯となったモノの見方までも同時にキレイさっぱり始末してくれるようです。どうぞ皆さんも思い切ってお試しください。



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大晦日に見た夢

2017-01-03 08:11:39 | 病状
 滅多に夢を見ない私が久々に変な夢を見ました。大晦日の朝方のことです。
***********************************************************************
 月1回の受信日とみえ、どこかの繁華街に出かけていた。
まだ時間があるからと、途中でサロンのようなところに入った。

 中には元の会社の部下や患者仲間、自助会AAのメンバーもいた。
どういうわけか、小さなグラスが運ばれてきて飲むよう勧められた。
周りは皆ニコニコしながら見ていた。飲んでみたら酒らしい。
それでも別に何ともなかったのでお代わりして飲んだ。
すると、周りの空気が急によそよそしくなった。
「あ~ぁ、この次は4年の断酒表彰だったのにぃ~」と、どこからか声がした。

 気まずくなったので、席を立って受付に行き靴を受け取った。
受け取った靴はブーツ状で、履いてみると右足が入らない。
よく見ると他人の靴だった。なぜかもうすでに外にいた。
靴を脱いで、取り替えてもらおうとサロンの受付に戻った。
元部下のS女史が応対してくれたが、(私は)肝心の靴を持っていなかった。
どうやら脱いだまま置きっ放しにして来たらしい。S女史に付いてきてもらった。
脱いだ場所を探してみても靴は見当たらなかった。
何やら抗争事件があったらしく、辺りは乱雑に散らかり不穏な空気が流れていた。
ともかく逃げることにした。・・・

 ここで一旦目が覚めた。再び眠りに就くと続きがあった。

 逃げる途中で大きな電話ボックスが目についた。外がガラス張りで
何台もの電話機が据えられ、何人もが同時に入れる造りになっていた。
今時こんな所があるのかと不思議だったが、ともかく中に入ることにした。

ガラス越しに外を見ると、さっきの抗争事件に関わったのだろう、
見知った顔が警察に連行されていた。しかし、誰だか思い出せなかった。
まだ17時前だったので、SLIP(再飲酒)したことを告げようと
クリニックに電話をかけることにした。
(専門クリニックの受付は12時半までのハズだが・・・)
それがどこを探しても電話番号を書いた診察券が見つからない。
次第に焦ってきた。・・・ ここで目が覚めた。

***********************************************************************
 断酒してからというもの、見る夢は決まってSLIP(再飲酒)絡みです。その前日は年末・年始の休みでいつもと違って妻が家におり、「鬼のいぬ間に・・・」ができません。図書館も休館日で閉まっていました。いつもなら、ゴミ拾い作業を終えたら家でゆったり寛ぐか、図書館で暇つぶしをするかのどちらかです。そのどちらもできなかったので、久々に “空白の時間” を味わってしまいました。それを無意識に脅威と感じていたのかもしれません。

 その日の朝は、目覚めた後いつものように朝のルーティン・セレモニーを済ませ、忘れない内にとこの原稿を書きました。そして、年の瀬最後のゴミ拾いに出かけました。日の出直後のぴんと張った空気の中で、思いの外作業が捗ったこと捗ったこと。きちんと原稿を書き上げたことで、よほど気分をよくしたのに違いありません。気分というのは気まぐれで、結構単純なものです。

 それにしてもせっかくの4年の断酒表彰がパーになるのに、SLIP(再飲酒)をバカ正直に専門クリニックに告げようとしたとは、夢の中とは言え我ながら苦笑いするしかありません。年の締めくくりとしては、いい夢だったと思います。



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巧妙で、不可解で、手強い者

2017-01-01 15:36:47 | 雑感
新年 明けましておめでとうございます

 初詣に西宮神社をお参りしました。“家内安全” を祈りました。
その帰り道、こんなことを考えてしまいました。

 自助会AAでは、 “巧妙で、不可解で、強力なもの” と脅しているものがあります。
まるでモノノケのような譬え方。アルコールのことです。
さらに、「人はアルコールに無力で抗っても無理」と決して思い通りにはならないものと自戒するよう諭しています。
これらの言葉にずーっとモヤモヤしていました。何かに似ているのです。

 「はじめチョロチョロ 中パッパ 赤子泣いてもふた取るな」じゃないですが、
 「はじめポカポカ 中パッパラパー 頭痛けりゃ迎え酒」
これがアルコール。
 「はじめナヨナヨ 中アツアツ 赤子できたら?」これは何でしょう?
“強力なもの” を “手強い者” とすればよりシックリきます。
 「(男は)無力で(女に)抗っても無理」という点も共通します。

 世の中の平和には、古来こんな掟が効いているようなのです。要は、“家内安全” のためには無条件降伏しかないのです。
山の神を立てていたら決してバチは当たりません。逆も真なりですから、ご用心!

 今年も写真ナシの拙いブログ記事ですが、皆様どうぞよろしくお願い致します。



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