ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“どうにもならない” 生きづらさって?

2016-07-29 07:37:50 | 病状
 あるときAAの古参の仲間から、「生きづらさ」がAAの『回復のプログラム』ステップ 1に当たる言葉であって、依存症特有の病的な衝動に駆られて自制不能な状態のことだと教わりました。「生きづらさ」漢字を当てはめるとしたら「生き辛さ」になるのでしょうか。自助会AAのミーティングでよく取り上げられるテーマの一つです。AAのミーティングに参加したての頃は、この言葉の意味があまりピンときませんでした。

 「・・・づらい」となっている言葉でよく使われるものに「動きづらい」「使いづらい」などがあります。「(うまく)・・・しにくい」「・・・するのに不自由(を感じる)」と同義でしょうか。「生きづらい」が、「生きて行くのが辛い」あるいは「生きにくい」であれば、それは自明の理で、「生きている以上は、(生きるのに)苦労が伴うのは当たり前」としか考えていませんでした。ですから、「日常生活に、とかく不自由を感じる」ぐらいの意味にしか思っていなかったのです。

 AAの『回復のプログラム』ステップ 1にはこうあります。
「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」

             (下線、筆者;原文では、our lives had become unmanageable)

 当初は、 思い通り=自分本位 と解釈し、自分本位の意なら、上で述べたように自明の理ではないかと思い込んでいました。「思い通りに・・・いけなくなっていた」が「どうにもならなくなった」の意とは分からなかったのです。言葉は決して一義的ではなく、解釈も様々と思い知らされました。改めて読み返してみて、どうやら修飾語の “どうにもならない” の方が主眼だと気づきました。

 単に、身体が「飲まないでは(やって)いられない」体たらく、退職後に陥ったアルコール依存症末期の状態はまさにこんなふうだったと思います。連続飲酒状態でアルコールが体内を絶え間なく回っていたこともあって、逆説的ですが、“どうにもならない” 精神状態に追い詰められているとはあまり自覚していませんでした。酒を買ってきてはチビチビ飲むのを繰り返してさえいれば、それだけで精神的には癒されていたのです。当時、酒を切らしたことはありません。寝覚めにいつも感じていた身体の不調も、飲み始めさえすればアルコールの麻酔作用で紛れていたのだと思います。

 ただ、専門クリニックを受診せざるを得なくなった最末期・断酒直前の1ヵ月は、さすがにちょっと違いました。朝布団から立ち上がるのに相当難義していましたし、着替えの際にボタン嵌めがうまく出来ないとか、便意を催すやいなや堪えきれなくなって粗相してしまう始末でした。ブラックアウトの繰り返しから記憶も斑(まだら)状態で、突然の失神・転倒にも襲われていました。もはや介護なしでは “どうにもならない” ほど身体がいうことをきかなくなっていたのです。私は、この時期が “身体的な底着き” だったと考えています。

 専門クリニックにかかり急性期の離脱症状を手当てしてもらった後、ほぼ自力で酒を断たねばならなくなっても、“どうにもならない” という心境ではなかったと思います。断酒直前・直後の過酷な末期症状に懲りたことと抗酒剤の脅しが十分に効いて、飲んだら今度こそ死ぬという恐怖感に駆られていました。そのためイライラすることはあっても、あからさまな飲酒欲求は湧いて来なかったのだと思います。
「何としても断酒を続けなければいけない!」「また飲んだらどうしよう?! 飲まずにいなければいけない!」などと怯えてばかりいたのですが、見方を変えれば、この怯えこそがアルコールに囚われていた立派な証でもあるのです。私はこの強迫的な心理状態を「・・・なければならない病」と呼んでいます。いずれにしても、この程度のことでは “どうにもならない” 生きづらさの渦中で踠(もが)いていたとはとても言えません。

 ところがその一方で、断酒中に性的妄想に駆られAV動画に耽っていた時期があり、その時期こそここで言うところの “どうにもならない” 生きづらさの事例だと思います。
 ― PCをログオンしたら、AV動画サイトに真っしぐら
 ― ひとつの作品を観終えたら、画面の誘導通りに次の作品へ
これが自室にこもってAV動画に耽っていた時期の状態でした。明らかにクロス・アディクション(cross‐addiction:多重嗜癖)そのものです。断酒を始めて5ヵ月目ぐらいから顕著になりました。「やってはいけない」そんな思い(意志)も虚しく、機械的・自動的にやらされている “どうにもならない” 状態でした。身体的にはすっかり回復していたので、精神的な辛さは一際でした。

 私を駆り立てていたのは単なる性欲ではありません。かつても同様の経験が何度かあり、煽られるまま実際にSexをやってみましたが、それで満たされたり癒されたりしたことはなかったのです。ですから単なる性欲でないことは実証済みです。

 迫りくる危機から目を背けていたいという潜在意識が仕向けるものらしく、シェルター(shelter )へ逃避させようとする本能的な情念とでもいうのでしょうか。シェルターに相当するのが実態不詳の性的モヤモヤ(妄想)であり、それに向かわせるのも性的衝動としかいいようがありません。今やっちゃいけないと理性が阻もうとすると、一層燃え上がるのです。天邪鬼というか、へそ曲がりというか、とにかく理性に刃向う御しがたい情念でした。私はこれを “性的妄想” と呼んでいます。

 この “性的妄想” は、私にだけ負わされた宿命なのか(?)とかつては訝っていました。振り返ってみると、どうやら精神的に窮地に立たされたときに限って憑りつくもののようです。もう後のない大学浪人2年目、担当化合物の新薬承認の成否を決める検証試験の佳境時、継続断酒の成否が掛るPAWS(ドライドランクなど)の好発時期、これらはいずれも私が “性的妄想” に憑りつかれた時期です。現実を直視し続けるのが怖く、無意識の内にシェルターに逃げ込もうとしたのだと思います。

 この “性的妄想” が抜けたのは断酒して10ヵ月後のことです。まさに “憑き物が落ちた” という表現がピッタリの体験でした。AV動画に嵌り “どうにもならなく” なった挙句、最後の頃の作品20本以上は途中で画像を停めては再生を繰り返し、その仔細を叙述し続けていた結果でした。実に神秘的で不思議な出来事でした。

 叙述という行為は、認知行動療法でいう “言語化” に当るそうですが、“憑き物が落ちた” のは “言語化” が効いた成果だと考えています。同時にアルコールの後遺症(脳のシビレ感)も消え、やっとアルコールが抜けてくれたと実感できました。このことから、アルコールの毒性は酒を断った後も相当長く続くものと思い知らされました。この “憑き物が落ちた” ときを私は “精神的な底着き” と考えています。

 思い起こしてみると、精神的なピンチが近づくにつれ、決まってアルコールに頼り、その酔いでストレスを紛らわすのが習い性になっていました。それが重大な危機であれば、なおさら頼り切っていたのです。アルコールには理性を麻痺させる作用があります。窮地から逃避しようとする本能を “性的妄想” にまで増幅させたのは、このアルコールの作用だったのだろうと思えて仕方ありません。

 「“性的妄想” の黒幕はアルコール」、これが私の立てた仮説です。“憑き物が落ちた” 体験をした後、幸いなことにこれまで危機的ピンチに見舞われたことはありません。酒を飲まないで普通に過ごせるようになった今、この仮説の実証を強いられる機会など二度と来ないでほしいと願うのみです。


**********************************************************************************
 いかがでしょう? “どうにもならない” という言葉の含意が、病的な衝動に駆られ自制不能状態を意味しているのが分ってもらえたでしょうか?

 人によっては衝動の矛先が性的なものではなく、賭け事や自殺企図・希死念慮、果ては他害や、破壊行動などの例も十分あり得ることと思っています。自傷行為や無差別な通り魔的傷害・殺人、爆発物造りなどは、この “どうにもならない” 衝動が誘因なのかもしれません。警察沙汰で明るみに出るのは氷山の一角だろうと考えています。

 もうお気づきのように、 “どうにもならない” は「強迫的な思考 ― 行動パターン」に苛まれている状態のことで、心の奥に潜む自己防衛本能と深い関係がありそうです。たとえ意にそぐわないことでも、どうしてもつい人に迎合してしまう癖も含まれるそうです。意外にその裾野は広そうですね。



いつも読んでいただき、ありがとうございます。
ランキングに参加中です。是非、下をクリックして順位アップに応援お願いします!
クリックしますと、その日の順位が表示されます。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ
    ↓    ↓
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありのままの事実を ありのままに・・・

2016-07-22 18:56:59 | 病状
 毎度おなじみ、“路上のゴミ拾い” の話です。今回は “ゴミ拾い” で拾った貴重な教訓の話をします。

 私がやっているゴミ拾いの場は、もちろん公道の歩道と公園です。その中でも手を抜けないのが人のよく集まる場所です。公園、ショッピングセンターやコンビニ周辺、信号機のある交差点、バス停、この順に集中力を按分していますが、ランキング上位の場所では期待(?)を裏切られることはまずありません。

 ランキングトップの公園については、利用者の行儀(マナー)の良し悪しがゴミの散らかり具合の決め手のようです。私は、広さが中規模以下の普通の公園だけを守備範囲としていますが、行儀の悪さで札付きの公園もあれば、あまり散らかっていない公園もあります。普通の規模の公園であれば、広さや利用者数とゴミの散らかり具合とはあまり相関しないというのが私の経験則です。


***********************************************************************************
 7月の最初の土日は、梅雨が明けたと思えるぐらいの暑い日でした。初日の土曜日には、ゴミ拾いで7時間も頑張ってしまい、さすがにバテて家に戻るなりバタンキュウとなってしまいました。妻からもキツイお咎めがあり、自分でもやり過ぎたと反省しきりでした。

 翌日の日曜日は、前日に作業を済ませていた札付きの公園を除外し、午前中だけで終えるつもりでした。午前7時半に始めた前半の行程は、2週間ぶりに巡回したコースにもかかわらず、想定内で終えることができました。この調子でいくと、後半も無難に作業が終了できそうでした。獲らぬ狸の何とやらで、思惑通りにはいかないのが成り行きというものです。そう思い知らされました。

 あと1時間もすれば、予定していた全行程が終えられると見積もった矢先、出くわしたのが人糞です。久々とは言え、5回目ともなれば馴れたもので、息を止めたまま難なく始末してのけました。「まだ何かあるかもしれない。」過去4回の経験では、なにがしかの出来事が付きものだったのです。運不運は別にして、やはり “うん” は付いて来るようです。

 その後はしばらく無難に過ぎ、この日の最後の山場、バス通りに面した公園に差し掛かりました。以前はひどい状態でしたが、最近はほぼ毎日立ち寄ることにしているので、かなり行儀がよくなった公園です。

 公園の出入り口近くにトイレがあり、そのトイレの周辺を起点に作業を始めるのが私の手順になっています。取り掛かって直ぐに、いつもと違うことに気付かされました。最近はめったにない菓子袋のようなクズが、そこここに散らかっていたのです。そして、トイレの陰の方、広場の方角からは、「キャー、ハッハッハー」と黄色い歓声が聞こえて来ました。

 広場を見ると、10人ほどの若い男女が輪になって遊んでいました。どうやら風船ボンボン(水ヨーヨー)をボールに見立てて、キャッチボールをやっているようなのです。まるで浜辺でビーチボール遊びをやっているようなノリでした。

 ソフトボールのように下手から緩く放っているのですが、うまいことキャッチし損ねると、水の入った風船が割れて、服がビショ濡れになります。案の定、太腿の辺りをビショ濡れにしている娘(こ)もいました。ある意味、ロシアンルーレットの引き金(?)のような緊張感があるのでしょうか。その緊張感が堪えられないらしく、「上から投げるのにしよぅよ~!下からじゃなくてぇ~!」という黄色い声も聞こえてきました。より一層のスリルを求めた “おねだり” みたいに聞こえました。

 問題は彼らの足元とその周辺にありました。空のペットボトルやら、ビールの空き缶やら、おつまみ袋のクズやらがそこら中に転がっているのです。吸い殻とおぼしき白いモノも点々としていました。彼らは、そんなことを気にするふうでもなく、そのど真ん中で遊んでいました。目を覆いたくなるほどの惨状です。さすがに腹に据えかねましたが、それでもチラチラ横目で彼らを見ながら、広場の縁の方から周囲を巡るように、黙って作業を進めることにしました。

 広場の隣にはブランコや、滑り台、砂場など幼児向けの区画があり、広場との境に低い石垣に囲まれてクスノキの大木が何本か立っています。普段は、木々の立っている広場の境にゴミが散らかっていることなどめったにありません。その木々の地面にも、そこかしこ空容器と吸い殻が散らかっていて、広場と同じ惨状でした。悪ふざけにも限度があるはずです。もう黙っておれなくなりました。

 若い女連れの若い男たちというのは、男同士お互い妙に虚勢を張りたがるところがあります。傍から下手に注意でもしようものなら、イイところを見せようと、食って掛かる手合いが必ず現れます。そうなると集団心理に火が着き、自分の本意とは裏腹に、打って変わって手に負えなくなる恐れがあるのです。すでにアルコールが入っているのなら尚更です。だからこそ、クレームをつける際は話の切り出し方がとりわけ大事で、念には念を入れて慎重にならざるを得ません。

 「ちょっとぉ~、あんたらなぁ・・・、か?
  いや、待てよ。ちょっとぉ~、君たちぃ・・・か?
  いや、おいっ、・・・かなぁ?
  まさか、すみませーん・・・、はないよなぁ?!」 どう声を掛けたものか、迷いに迷ってしまいました。

 その時です。「待てよ、彼らが散らかしたという証拠はあるのか? 行為そのものの現場を見たのか?」自問自答から引き出した答えはノーでした。状況証拠はあり余るほどあるのに、決定的な場面を目撃していなかったのです。冷静になってみれば、彼らに「証拠があるのか」と開き直られたら、グーの音も出ない状況だったのです。危ういところで踏み止まることができました。

 私は黙々と作業を続け、ジワリジワリ彼らの領域に近づいていきました。するとどうでしょう、彼らは幼児向けの区画の方へ静かに移動して行ったのです。一緒にゴミを拾ってはくれなかったものの、彼らも十分自責の念を持っていて、少なくとも私の邪魔にならないよう配慮したことが分かりました。私はそのまま作業を続け、小ざっぱりしたいつもの公園の姿に戻すことができました。

 結局、拾い集めたゴミは、空のペットボトルと空のアルミ缶だけに限ってみても、30本を下らなかったと思います。ペットボトルのラベルを剥がすのに手間取り、この公園での作業に小一時間ほど要しました。私が公園を立ち去る際、彼らは元の場所に戻ってきて、タバコを一服したり、同じ風船ボンボン(水ヨーヨー)遊びを続けていたりしていました。帰り道、昼食をとってから自宅に戻ったのですが、時計は午後1時半を回っていました。

 彼らは歳の頃20歳ぐらいでしょうか。犯人と決め付けるわけではありませんが、公共意識の乏しさには怒りを越えて哀れみさえ覚えてしまいました。状況証拠でしかないと気付くまでは、「注意もできない臆病者の意気地なし!」と自分の不甲斐なさを責めてもいましたが、ありのままの事実を踏まえた実証的な状況判断が大切なのだと再認識できました。今では、黙々と作業を続けたことで、彼らに公共意識とは何か、そのお手本を実地で見せられたと自負しています。よく自制できた自分に少しばかり誇りも感じています。

 翌日、いつものように件の公園に立ち寄ってみました。もしや元の木阿弥になってやしないかと不安があったのですが、目にしたのは普段通りに秩序が保たれた状態でした。どうやら収穫もそれなりに大きい日だったようです。


***********************************************************************************
 もしも、ブツブツ文句や悪態を呟きながら、あなたの足元を掃除する人がいたら、・・・? これじゃ誰でも不愉快になるに決まっています。“ゴミ拾いの鉄則は黙ってやること” これが私の流儀です。その日は、私の流儀が間違っていなかったと再確認できた日でもありました。


いつも読んでいただき、ありがとうございます。
ランキングに参加中です。是非、下をクリックして順位アップに応援お願いします!
クリックしますと、その日の順位が表示されます。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ
    ↓    ↓
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「酒が おいらの 人生だ」

2016-07-15 06:58:07 | 自分史
 表題の言葉は、孫の一人から贈られた “ぐい飲み” に記されている言葉です。“ぐい飲み” は湯呑み(茶碗)ぐらいの大きさで、50歳代の終わりごろに誕生日のお祝いで貰ったものです。以前はこれで焼酎のお湯割りを飲んでいました。当時、孫が私のことをどのように見ていたのか、この言葉がよく物語っていると思います。

 私は長年TVに毒されて、家族とは笑顔が溢れ仲の良いものだというイメージに囚われてきました。たとえ諍いがあっても、じきに仲直りできるハズで、後に尾を引くことはあり得ないのです。少年期の頃から、TVのCMやホームドラマの映像で繰り返し見せつけられ、眼に焼き付けられたイメージです。世の中の家族は、そんな姿が普通なのだと、身体に沁み込んでしまっていました。

 恐らく孫たちの世代でも、家族に抱くイメージは似たようなものではないかと懸念しています。現実はそんなキレイ事では済みません。かつての私などは、思惑の違いや言葉足らずの行き違いから、ともすればケンカになりやすい現実の方が間違っていると思いがちで、キレイ事のイメージの方が、あるべき本当の姿と思っていた時期もありました。そんなことを考えるにつけ、親世代が酔っ払った末に親子で修羅場を演じた現実の姿を、孫たちがどう見ていたのか気になってしまうのです。

 孫たちとは長男の息子たち二人のことで、“ぐい飲み” を贈ってくれたのは年上の孫です。孫たちが遊びに来るのは、大抵は連休のときで、連泊するのが普通でした。長男はまだ車を持っていなかったので、その都度妻が車で送り迎えをしていました。その当時、30年以上勤めたサラリーマン人生は、不本意ながら、早くも “上がり” を迎えていました。休日といえば何をすることもなしに、午前中から公園の東屋で発泡酒をチビチビやるのがすでに習慣になっていました。

 孫たちが来る日と分っていても、この楽しみは止められません。抑え気味ではありながら、孫たちと顔を合わせる頃にはかなり出来上がっていたと思います。初日の夕食は、酒が入っていてもまだ和気藹々としたものでした。長男も私同様の呑み助で、飲み出したら止まらないところもよく似ています。そのため、初日は無難に過ごせても二日目ともなると、酒が入った席特有の、つい本音(?)同士がぶつかることもありました。

 どういう経緯(いきさつ)だったのか覚えていませんが、酒を飲みながらの夕食のとき、老後の介護の話から一悶着起したことがあります。
「お前らの世話など受けたくない。そうなったら、その前に自分で始末をつける」と、私はつい口を滑らしてしまいました。息子たちに介護など頼まずに、公的介護で何とかしたいという思いを話したつもりでした。大分酒が入った長男はこれを聞くと、
「何ぃー!?」バァーンと卓を強く叩き、怒り出しました。どうやら親子の縁を切るつもりだと勘違いしたらしいのです。叩いた時の衝撃で手指を傷めたのもかまわず、怒りがどんどんエスカレートしたようで、とんでもない方向へ話が飛躍して行きました。
「孫たちとも縁を切るつもりか? それなら一人で田舎に引っ込めよ!」
特に、「田舎に引っ込め」は私の半生を全否定する言葉です。それを分っていて敢えて口にしたのです。抗っても無駄とは思いましたが、一応縁を切るつもりで言ったのではないと抗弁してみました。が、酔っ払いの爺の話などもう聞いてはくれません。
「孫たちが可哀そうだと思わないのか? 孫に謝れ!」とまったく引きません。仕方なく孫たちを別室に連れて行き、改まった顔で「おじいちゃんは、お前たちを決して見捨てたりしないから、安心して・・・」と宣言せざるを得ませんでした。事情が呑み込めない孫たちは、ただ神妙に聞いていました。

 酒席では、些細な行き違いからよく口論となります。酔ったもの同士、それぞれが性急に白黒付けたがる思考に陥り、それぞれが同じように一方的で強圧的な物言いになってしまいます。相手の言うことは曲解するばかりで、聴く耳など持たないのです。体験談でよく耳にする、アルコール依存症の家庭の姿そのものです。その後も同じように酔っ払った末の悶着があり、長男も車を持つようになったので、孫たち一行は日帰りとなりました。酒の上の無用な諍いを避けるためでもありました。

 こんなこともありました。完全退職後、連続飲酒状態になってしまい、アルコール依存症が一層進行した末期に近い頃のことです。すでに記憶が断片的でもあり、今でも多少の躊躇いがあるのですが・・・。

 その頃の私は、毎日風呂にも入らず、シーツに匂いが染みついた敷布団を敷きっぱなしで、自室に一人で引き籠っていることが多くなっていました。室内は、発泡酒の空き缶の詰まったいくつものレジ袋が散らかったままでした。まるでゴミ屋敷のような有様で、“臭いもの身知らず” を地でやっていたのです。

 襖を隔てた隣のリビングにいても、恐らく悪臭プンプンだったのだと思います。「何度注意しても聞いてくれない」、この状態に困り果てた妻は、孫たちの姿を見れば、さすがにシャキッとするのではと思いついたのでしょう。連絡を受けた長男が、孫たちを引き連れ駆けつけてくれました。孫たちが部屋に顔を見せるや、鼻をつまみ、顔をしかめて「ワッ、臭せぇーっ!」の大合唱でした。そう言われたら、さすがの私も少しは正気に戻らざるを得ません。長男の指図通り、シーツを取り換え、布団を上げ、部屋を片付け、窓を開けて部屋の空気を入れ換えました。妻の作戦は見事に当たったのです。

 下の孫は早起きです。私が引き籠りになる以前は、起きたら直ぐ私の部屋に来て、朝食までの間一緒に時間を潰していたものです。私の引き籠りを目の当たりにした後は、さすがにそれはなくなりました。酒を断ってから2年ほど経ったある日、久々に日帰りではなく泊りがけで遊びに来てくれました。私の顔つきが元に戻ったからでしょうか、朝起きたら直ぐ私の部屋に来て、以前のように朝食までの間一緒に時間を潰してくれました。下の孫にとっては普段通りにしたまでのことだったのでしょう。こんな些細なことでも、私にはありがたい励ましに思えました。

 孫たちは、私がアルコール依存症になった後で生まれました。彼らはアルコール依存症の祖父の姿しか知りません。大人しく静かに飲んでいた姿や、酔った末に父親と諍いしていた姿、酒の毒に侵された末の無様な姿、まさしく “酒がおいらの人生” そのものの姿です。「酒に飲まれたおじいちゃんは間違っている。やっぱり酒は毒だ!」と彼らが考えてくれたなら、醜態を晒した私の姿もそれなりに意味があったと思っています。

 TVで見る和気藹々の家族のイメージも、些細なことから感情的にぶつかりやすい家族の姿も、どちらも本当の家族の姿なのです。どちらか一方が正しいのではなく、その両方を具えているというのが現実です。孫たちには、この現実をバランスよく受け入れ、ありのままの事実をありのままに受け入れる現実主義者であってほしい。そう願わずにはいられません。

 今回は、かつて長男とあった諸々の諍いが思い起こされました。気掛かりなことといえば、長男がすでにアルコール依存症の境界域(精神依存)になっているのでは(?)という懸念です。

 一旦この病気になってしまったら、家族や肉親が何と言おうと聞きません。
「俺はアル中なんかじゃない。酒なんかいつでも止められる!」と虚勢を張るのが定番で、そう思い込ませるのはアルコールの仕業です。自ら進んでアルコール専門の精神科を受診し、断酒に導いてもらうことが絶対に必要です。その前に、家族から見放され、内科医からも匙を投げられることも必要条件です。それがなければ、自ら進んでアルコール専門の精神科なぞ受診しようとは思いません。せっかくアル中の生き標本を目の当たりにしてきたのですから、「断酒などチョロイものだ」などと、長男にはユメユメ思わないで欲しいものです。


いつも読んでいただき、ありがとうございます。
ランキングに参加中です。是非、下をクリックして順位アップに応援お願いします!
クリックしますと、その日の順位が表示されます。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ
    ↓    ↓
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大人の条件 ― 人格の違いを弁えた人付き合い

2016-07-08 17:25:49 | 自分史
 先日、NHKの番組『プロフェショナル 仕事の流儀』で、スゴ腕の保育士の仕事ぶりを放送していました。番組の主人公は野島千恵子氏という大阪のベテラン保育士で、主役は5~3歳の幼児たちでした。野島氏の保育はユニークで、幼児たちに一から十まで指図などしません。年長組の5歳児1人と年中・年少組の幼児たち数人で構成するグループ単位で保育しています。年長の5歳児にリーダーシップを執らせ、グループ内の年中・年少組の幼児たちにまとまった行動を執らせる保育です。これこそ自分で考えさせる教育の原点ではないかというのが番組のテーマでした。

 野島氏は「人は人の中にあってこそ、人間として成長する」をモットーに、幼児たちの教育に当たっているそうです。正確な文言をメモしそびれてしまいましたが、趣旨としてはほぼ間違いありません。「人は、年長の人を見習い、自分で(行動の)好き嫌いを判断し、あるときは反発からケンカにもなる。そんなとき、自分の気持ちや考えを相手に伝えられるのは言葉でしかない。」これが幼児期にコミュニケーション能力を育もうとする野島氏の仕事の流儀です。

 リーダーシップを任せられた年長の子は、それなりに苦労を味わうようです。自分から出した提案に、いつでもすべての子が従ってくれるわけではありません。年下の子の中には、自分の意にそぐわないと、反発から暴力に訴える場合もあるようです。暴力(ケンカ)は、年下の子がいきなり年長の子を打(ぶ)ったり蹴ったりで始まるようです。言葉による宣戦布告など、そこにはありません。いきなり暴力を受けた年長の子は、びっくりして泣き出します。ケンカになったときが野島氏の出番となります。まず、暴力をふるった子に、根気よく理由を言葉で説明するよう促します。そして最後には、言葉で謝らせるところまで持って行くのです。頭から教え込むばかりが教育ではない、目からウロコの思いでした。

 暴力を受けた年長の子は、年下の相手の子が自分の意の儘にならない別の人格なのだと、否応なしに学ばざるを得ません。親子兄弟だけでいる日々なら、意識することのない他人との人間関係です。好き嫌いを判断する考え方や、行動の仕方から、それぞれに現れるのが人格です。幼児期に、人それぞれが互いに異なる人格の持ち主だと体得できることは、社会生活を送る上でとても貴重なことです。子供同士だけでやる集団の遊びが、人格の違いを体得する上で大切なことなのだと納得させられました。

 就寝時刻が過ぎていたので、番組を最後まで見ることなく眠りに就いたのですが、二重の意味で “気づき” のあった番組でした。人格の違いなどというものは、生身の他人同士が身近に付き合い、ぶつかり合ってこそ体得できるものなのです。小説や映画などからも理屈では理解できるとしても、決して体得などできるものではないのです。さらに、幼少期の私の生い立ちと、結婚生活が破綻した因縁についてまでも、大いに気付かされました。

 小学2年までの私はひどく病弱で、入退院を繰り返してばかりいました。子供同士が何人か集まって、息遣いが聞こえるぐらいの近さで共に遊んだことはあります。が、その機会はあまり多くはありませんでした。当然、子供同士それぞれの思惑がぶつかった末の、ケンカなどした思い出はありません。屋外で遊ばない分、専ら家の中で、プラモデルを作ったり、本や雑誌を読んだりして過ごしていました。小学3年以降も、こんな過ごし方にあまり変わりがなかったと思います。

 こんな生い立ちを振り返ってみると、幼少期の私には、人格の違いを学ぶ絶好の機会が不足していたのだと思い当たりました。記憶力のよい幼少期の内に、知識を丸暗記させるぐらいの押し付け教育も必要ですが、ガキ大将を頭に集団で遊ぶのも、他人同士が付き合う術を学ぶ、絶好の場として欠かせないことなのです。“鉄は熱いうちに打て” 身につけるべき教育には、受けるべき最適の時期があることに気付かされました。

 元々、別々の人格を持つ赤の他人同士が一緒になるのが結婚です。「本人(夫)は遊んでばかりのくせに、近所の買い物以外、気持ちよく一人で外出させてくれなかった」、「一人で外出したら、頻繁に連絡を入れないと機嫌が悪かった」、「実家への帰省にすら、文句タラタラだった」、「何かにつけて、頭ごなしに文句ばっかりだった」等々、結婚に破綻した女性たちからよく耳にする元夫への不満です。何かにつけ自由を束縛されていた女性たちの恨みが込められています。

 私も元夫の方々と似たり寄ったりで、程度に差はあれ “同じ穴の狢” だったと思います。相手が異なる人格の持ち主などとは気にも止めず、自由を束縛しようとする欲求は、付き合い始めて間もない男女間ではよくある傾向です。しかも、その傾向は男性の方がより強いようです。しかし、そんな傾向はそのうち失せるのが普通で、長く続くようなら精神的に未熟な証というのが世間の相場です。(もしいつまでも長く続くようなら、明らかに病的異常です。)

 彼女らの言葉で鮮やかに思い出されたことがあります。「私たち元々、真っ赤な赤の他人だったのよね!」夫婦間に隙間風が吹き始めた頃、妻から突き付けられた言葉です。さすがにハッとさせられました。妻が自分とは異なる人格の持ち主で、赤の他人などとはそれまで考えたこともなかったのです。恋愛という、美名を騙った性欲に目がくらみ、一心同体だとばかりに熱々のままに結婚。人格の異なる相手などということはウヤムヤにしたまま、日々の流れ任せに生活を共にしていたのです。恐らく上の言葉を口にする以前までは、妻も似たようなものだったのかもしれません。

 人格が異なる他人との付き合いでは、適当な距離感(間合い)を取るのが大人です。人格の違いを弁えず、適当な間合いが取れないようでは、大人としては未熟な証です。少なくとも私は、ガワ(外見)だけ大人に見えて、頭の中は幼児のままの未熟な大人だったようです。他人と適当な間合いが取れない未熟さから、自分本位の考えを修正できず、つい万事思い通りに成るものという考えに囚われていたのだと思います。そんな考えでは、世の中でうまく行くわけがありません。自分の思い通りにならないなら、その不平不満を酒で紛らわす。こんな悪循環から家庭崩壊へと辿ってしまったのだと思えてなりません。

 「いいか、結婚する相手は、自分とは異なる人格の人だということを忘れるな。」
つい最近、FBか何かで偶然目に止まった言葉です。このことを弁えていなかったばっかりに、結婚生活では苦い経験をしてしまいました。「結婚生活は生き残りを賭けた戦いだ」より、よっぽど為になる言葉です。単なる心構えではなく、まだゝゞ未熟さを残す息子への、父親からの実践的な人生訓です。

 野島氏の保育所(園)では、年が変わるごとに、それまで年下だった子がグループリーダーを引き継ぎ、異なる人格の間でリーダーシップを学ぶ伝統を繋いで行くのでしょう。赤の他人同士が、人付き合いの “いろは” を学ぶ立派な人生道場です。それと同じように、結婚を間近に控えた息子が引き継ぐべき、父親からの言葉もあっていいはずです。「(結婚する)相手は、自分とは異なる人格の人だ・・・」は、父から息子に引き継ぐに相応しい言葉です。結婚生活を長続きさせる一家の秘伝となるはずです。息子には言いそびれてしまいましたが、孫には将来、直接私の口から伝えたいと思っています。それまで長生きできればの話ですが、・・・。



いつも読んでいただき、ありがとうございます。
ランキングに参加中です。是非、下をクリックして順位アップに応援お願いします!
クリックしますと、その日の順位が表示されます。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ
    ↓    ↓
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キッカケと転機

2016-07-01 20:26:01 | 病状
 あのとき生き方が変わったと、振り返ってみて初めて気付く “時” があります。“転機” のことです。今回は、断酒を始めた以降に訪れた “転機” について述べてみます。

 まず、断酒せざるを得なくなった転機から始めます。

 断酒を始めるキッカケとなったのは身体的 “底着き” でした。入院介護を受けなければ、もうどうにもならなくなった状態でいながら、一般病院のERからも匙を投げられ、強制退院させられました。自宅に戻ると妻から「あなたの介護なんか、私できないからね!」と見放され、精神科病院行きを通告されました。精神科病院行きの通告は、アルコールで弛みきった精神にカツを入れてくれました。一般病院側から積極的な助言があったと後で分かったのですが、この妻の一言が転機となりました。このお蔭でアルコール専門クリニックの受診を潔く決意し、断酒を始めることができたのです。

 「断酒を続けなければ・・・」と「(酒を)飲まないでいこう」とでは、意味が同じようでありながら、実は心の持ちようが違います。片や、飲酒欲求の裏返しとも言えるアルコールに囚われた心理状態で、恐怖心に駆られた強迫感からものです。断酒を始めた後も相当長く続きました。もう一方は、自発的な気持ちから湧き出した心境です。その心境の変化をもたらしたキッカケは精神的 “底着き” でした。

 断酒を始めて5ヵ月後ぐらいから性的妄想が酷くなり、AV動画に嵌ってしまいました。精神的にピンチだと思い込んで、強いストレスを感じていたからだと思います。もうどうにもならなくなって、ヤケクソから放映内容を叙述し始めました。途中で何度も何度も画面を止めながら、20本以上の作品について、その詳細を叙述し続けた結果、あたかも “憑きモノが落ちた” かのように妄想が消えたのです。同時にアルコールが抜けたとも実感できました。断酒してから10ヵ月後に起きた、神秘的で不思議な体験でした。

 この体験が転機となり、アルコールが遺していった離脱後の諸々の症状に気付かされました。そして何よりもビックリしたのは、酒を飲まないでいることの方が普通に思えるようになったのです。回復したとさえ思えてしまったのですから、この心境の変化には驚きました。

 以上のように、断酒せざるを得ないと決心させられたのは、身体的 “底着き” と妻の一言ででしたし、アルコールの本当の怖さ、即ち脳に及ぼすしつこい毒性に気付かされたのは、“憑きモノが落ちた” この体験に他なりません。これらが酒を飲まない生活を続ける上で転機になったのだと確信しています。


***********************************************************************************
 そうそう、自律的に生活リズムを立て直すに至ったキッカケについても触れておきます。専門クリニック頼みの他人任せから、自分自身で自分の行動スケジュールを立てられるようになったキッカケです。それは路上のゴミ拾いを始めたことでした。

 実は、血糖値が上がらないよう自己管理しようとしたのが本当の目的だったのです。断酒を始めてからというもの、甘いものが病的なぐらい手放せなくなりました。糖尿病の指標とされるHbA1c が8%を超えるようになったので、危機感から散歩を思い立ち、専門クリニックの近くで始めました。専門クリニックのすぐ近くには神戸港の観光名所が集まっています。時間が空いたとき、そこを繰り返し散歩しているうちに、吸い殻をはじめ、路上のゴミの散らかり様が気になりだしたのです。つい路上のゴミを拾い集め始めたのですが、それを処分できる場所はコンビニのゴミ箱ぐらいしかありません。しかもゴミ箱は店内に置かれていました。さすがにゴミ袋を店内に持ち込んで処分するのは憚られました。

 そこで思いついたのが私の住んでいる地元です。私の地元ではゴミの収集パイプラインが埋設されていて、何時でもゴミの処分が出来るのです。「よし、地元でやろう」これが地元で路上のゴミ拾いを始めることになったキッカケでした。

 通院のある週日には、自宅から駅まで片道2 km 強の道のりを、毎日往復しながらゴミ拾いを始めました。そして休日にも、4時間ほどかけて自宅近辺でもやることにしたのです。これは程よい運動になりました。このお蔭で2ヵ月ぐらい経ったら、HbA1cが7% を切るまでになれたのです。同時に “空白の時間” をどう逸らすかに悩まされることもなくなりました。一日一日の行動スケジュールばかりでなく、休日を含めた一週単位の行動スケジュールをもきちんと立てられるようになったのです。

 路上のゴミ拾いにも転機がありました。

 ゴミ拾いを地元で始めて1ヵ月ほど経った頃、家庭ゴミの大きな袋がカラスに食い千切られて、生ゴミが無残に散らかっている場面に出くわしました。ゴミの収集パイプラインが張り巡らされている地域なので、家庭ゴミの大きな袋が放置されてあること自体異常ですし、カラスの狼藉の痕というのは惨憺たるものです。おまけにカラスと思しき鳥の死骸までも、ご丁寧にこれ見よがしに転がっていました。この光景にはさすがに腰が引け、見て見ぬふりを決めようかとも思いました。
「待てよ、これは試されているのかもしれない。本気かどうかの試練なのだ」と思い直しました。一旦自宅に戻って、大き目のレジ袋を4~5枚持ち帰り、火バサミと軍手でそれらのゴミを詰め替え、パイプラインの投入口から処分したのです。「自分以外に誰がやる? 自分が始末人のアンカー(最終走者)なのだ」、と覚悟を決めた大きな転機でした。

 もう一つ忘れられない出来事があります。人糞です。ごくまれにではありますが、道端や道端近くの茂みの陰におわせられます。止むにやまれずの緊急事態で、粗相が窺われる場合もありますが、ごく自然の姿で鎮座している場合もあります。犬のフンとは大きさも匂いも硬さも明らかに違い、取り扱いが難しいシロモノです。1年2ヵ月で6回出くわし、その都度今でも腰が引けています。たかがゴミ拾いなのですが、キレイ事の慈善気分では、さすがに出来るものではないと心底思い知らされました。

 最初の2回は、通院途中で装備を持っていなかったので、見て見ぬふりを決め込みました。それでも今は、始末人のアンカーだと自負していますし、ビニール製小袋を携行するのが習慣になっていますので、何処だろうが見つけ次第始末をつけています。(ちなみに、ビニール製小袋は、スーパーで商品の水漏れ防止用として無料で入手できるものです。)

 どうやら未受診の同病の方がご近所に住んでいるらしいのです。本人が病気だと自覚し、自身で善処できるようになるまでの奉仕だと思っています。かつて私自身がしでかした数々の酒害を思い、せめてもの罪滅ぼしのつもりでやっています。

 「真実の奉仕というのは、すべて汚物を通して行われるべきなのであり、
      極言すれば他者の『うんことおしっこ』の世話をすることだ。」(曽野綾子)



ランキングに参加中。是非、下をクリックして順位アップに応援お願いします!
クリックしますと、その日の順位が表示されます。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ
    ↓    ↓
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする