ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その26)奇妙な同行二人?

2015-04-24 20:15:02 | 自分史
 入社が3年先輩のYoさんは大学の同窓ですが、頗る人物評の悪い人でした。メガネを掛けエラの張った、見るからにガリ勉タイプの風貌をしていました。

 入社して2年間研究所で製剤研究業務に携わった後、国際関係部署に移って自社開発治療薬2号品Mの海外展開プロジェクトに加わり、そのまま海外勤務となった経歴の持ち主です。その間、統一前の西ドイツに臨床開発連絡事務所を開設したぐらいで特に目立った業績はない、というのが社員間の一致した見方でした。しかし、是非とも海外展開を図りたい社長の目から見たら、海外経験のあるお気に入りの使える人物であったわけです。

 社長臨席の御前会議では、聞き取れないぐらいの声で淡々と意見を述べるだけでした。それが、我々社員だけの場になると、机上の空論としか思えない理屈を捏ね出し、話しているうちに自説に酔って次第に興奮して来るという性癖を持っていました。空想小説ばりの自説を滔々と述べ、他人の意見を全く聞かないのです。

 社長のお気に入りということが事態を一層始末の悪いものにしていました。社員の中には彼を演技性(劇場型)人格障害者とレッテルを貼った人もいました。この年の春に転勤で去ったN先輩が以前から最も嫌っていた人物でした。

 一緒に仕事をしてみないと人物というのは分かりません。それまで私は彼と一緒に仕事をした経験はありませんでした。ただ、入社して2週間ほど社員寮の3人部屋で相部屋生活をしたことはありました。
「この会社はオーナー社長のワンマン経営だから、偉くならなきゃ何もできない会社だよ」 この言葉が印象に残ったぐらいで、それだけの関係でした。ですから社内の風評とは別で、特別変わった印象を持っていませんでした。
         *   *   *   *   *
 那智に行こうと思っていると会社で同僚に話していると、それを聞きつけてYoさんの方から一緒に行こうと言って来ました。後方支援部隊のトップになる話をまだ知らなかったのと、別段断る理由もなかったので同行することにしました。

 那智駅からは当然徒歩行を予定していました。当時はまだ和歌山・新宮行の夜行の普通電車がありました。拝観指定時間も考慮するとこの夜行列車で行くのが最善で、他に選択肢がありませんでした。そんな事情に加え実は夜行列車で久々の旅情に浸りたかったのが本音でした。大学時代に夜行快速電車と普通電車を乗り継いで東京駅から奈良駅まで行ったことがあったのです。もちろん貧乏学生ゆえの節約のためです。

 勤労感謝の日の前夜、夜11時過ぎに新大阪駅発のその電車に乗りました。座席は4人掛けのボックス席でした。途中の天王寺駅から和歌山駅間は快速区間で、最終の快速電車ということから朝の通勤ラッシュ並みの混み方でした。和歌山駅で乗客の大半が降りて行きました。それでも御坊までは和歌山からの乗車組も含め結構乗客がいましたが、御坊から先はほとんど私たちだけの貸切り状態でした。

 私は新大阪の始発時から缶ビールを飲み始めていました。和歌山駅からは向いの座席に脚を伸ばし、御坊を過ぎたらいつの間にか眠っていました。まだ暗い5時前、目覚めたときには終点の新宮駅に着いていました。乗り過ごしでした。那智に引き返す一番電車は5時少し過ぎだったでしょうか、5時半前にやっと那智駅に降り立つことができました。外はまだ真っ暗でした。

 那智駅から一番札所の青岸渡寺(熊野那智大社)までは10km余の行程です。那智川に沿った緩やかな上り道を歩いて行きました。那智川は小川に毛の生えた程度の川幅の狭い川です。’11年8月の台風12号による紀伊半島豪雨で氾濫し、山あいにある途中の井関地区や市野々地区で人的被害が出ることになるとは信じがたい穏やかな川でした。

 残り3~4km手前から大門坂という、両側に杉の巨木が並んだ熊野古道の石段を登ることが出来ます。当然、大門坂を選びました。大門坂を抜け、土産物屋の並ぶ狭い急な石段を登り抜けたところに左に熊野那智大社、右に青岸渡寺が同じ敷地内にありました。

 駅から歩き始めてこの方、次第に頭の中が真っ白になって余計なことを考えなくなっていました。Yoさんも同じだったろうと思います。黙々と歩くだけの2時間半ほどの行程を私の言う通りに素直に従ってくれました。

 境内に着いたのは早朝の8時前でした。肌着にビッショリ汗が染みこんで、Yoさんは早速着替えをしていました。準備に抜かりのない人だと感心したものです。私は着替えを準備してなかったので、タオルで額と首筋と背中を少し拭くだけでした。汗を吸った下着が背中にベッタリ貼りつくのが気持ち悪く、やがて濡れた汗の冷たさで寒ささえ感じました。それでも、気分は言いようのない達成感で満たされていました。

 人影がまばらな境内から遠くに見える白い那智の滝は、手前の三重塔の朱色と背景の杉(檜?)木立の緑が好対照となって荘厳な絵画そのものでした。遠く離れた滝からかすかな轟が聞こえていました。境内から見渡す滝の眺望と静寂な雰囲気にすっかり魅せられてしまいました。Yoさんもさすがに感動していました。

 私は、まず西国三十三ヵ所霊場納経帳を買い、納経帳に付いている般若心経を唱えて拝礼しました。納経帳に朱印をいただき、ついでの勢いで杖も買ってしまいました。

 願い事は“家内安全”とCa拮抗薬Pの早期承認、それと“無病息災”としました。別居生活が5年目となっていて、崩壊してしまった家族を再び元に戻して一緒に生活するのが望でした。ただし、アルコール依存症なのに“無病息災”はどう考えても無理筋ですが・・・。

 ただゝゞ参詣することだけをめざし、脚を棒のようにして歩く動と、一転して般若心経を一心に唱える静の対照の妙が堪りませんでした。ぜひとも巡礼はやり遂げなければならないと思ったものです。

 那智の滝は、落差133m一段の滝としては日本一で、熊野那智大社の別宮の御神体だそうです。杉(檜?)の巨木が並んだ石段の参道を滝壺まで下って、水しぶきを降らす滝を間近に見物した後、帰りはバスで紀伊勝浦駅に向かいました。

 勝浦では魚市場近くの食堂がすでに開いていて、まだ午前中なのも構わず本場のマグロの刺身を肴に早速ビールにしました。ビンチョウマグロだったので本場のマグロにしては期待外れでしたが、寝不足と歩き疲れで心地よい酔いでした。何ら警戒心もなく問われるままに社員の人物評まで話してしまいました。Yoさんは特に異論をはさむでもなく、時に相槌をうち、上機嫌で耳を傾けているようでした。

 そのまま何事もなくひと時が過ぎ、昼ごろの特急電車で帰路につきました。電車内では座ると直ぐに爆睡です。気が付くと私は終点の新大阪駅に一人で着いており、酔って夢うつつのボンヤリとした頭のままでホームに降り立ちました。まだ明るさの残る夕方でした。

 ワンルームの自宅に着いて再びビールを口にし、せっかく買った杖がなくなっていることに初めて気が付きました。これもいつも通り、またまた後の祭りです。一日中Yoさんと行動を共にしてみて、社内の芳しくない風評は一体何なのだろうと不思議に思ったものでした。


 年の瀬の12月に入って、二番札所の紀三井寺、三番札所の粉河寺、四番札所の槙尾寺まで一日で一気に巡ることができました。

 大阪泉州の槙尾寺には拝観指定時間の締切が迫っていため、和泉府中駅から寺の麓まで渋々タクシーを利用しました。槙尾寺は、境内に入ると急な登りで狭い山道の参道しかなく、30分ほど歩く以外に手段のない唯一の札所です。他の札所にはどこかに車の通れる参道があるのですが、ここだけは日頃の脚力が問われます。もちろん汗ビッショリになるので着替えのためのシャツも必要です。槙尾寺からの帰りはバスを利用しました。槙尾寺は最寄りの和泉府中駅から14~15kmもあるのです。

 その後、西国三十三ヵ所巡礼は番外札所も含め36ヵ所の全札所を3回巡ることになりました。すべて最寄りの鉄道の駅から歩いて寺に向かい、寺からの帰りも原則駅まで歩きました。その中でも槙尾寺が最も長い行程だったと思います。

 4巡目も始めたのですが、狭心症を発病してしまい、山道の登りを続けるのは危険と判断して20番札所の京都西山・善峰寺までで中止しました。4巡目は、4番札所から20番札所までの全行程を寺から寺へ歩きで繋いでいたので残念で堪りません。古道地図を頼りに一日最長で40mkぐらいを平気で歩いていましたから・・・。

 今になって考えてみると、西国三十三ヵ所巡礼に夢中になったのは、始めたら止められないというアルコール依存症に特有の行動パターンだったのかもしれません。


アルコール依存症へ辿った道筋(その27)につづく


参考)西国三十三ヵ所巡礼のURL:http://fishaqua.gozaru.jp/temple/saikokutemple.htm
   西国三十三所古道地図のURL:http://www.saigokuws.com/chizu.html


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アルコール依存症へ辿った道筋(その25)厄の火の粉は祓わにゃならぬ~♪

2015-04-17 06:47:44 | 自分史
 再飲酒してしまってからも隔週の日曜日にあった表装の受講を続けていました。講習は昼過ぎの時間帯にありました。午後の時間帯は深酒した場合にアルコールが切れてくる時間帯です。

 表装の表・裏生地の切り取りには力と神経を使います。定規を添えてカッターナイフで力を込め生地を切り取る際に、いつの頃からか手指の震えで上手く出来ないことがよく起きるようになりました。緊張すると余計に力が入り、それで震えが益々酷くなるのです。明らかに振戦でした。掌もじっとりと汗ばんでいたと思います。

 さすがに周りの誰かに気付かれはしないかと気になり始めました。そのうち表装すべき肝腎の書の作品が調達できなくなり、(いい口実が出来たと)秋口になって仕方なく(?)受講を辞めることにしたのです。グレープフルーツ・ジュースとの交互作用の指示事項回答を提出した頃のことです。1年10ヵ月の講習で仕上げた作品は仮表装1本と本表装4本でした。

 飲酒再開後にこのようにはっきりと振戦の顕在化を自覚するようになって、休日ことに土曜日には必ず外出しないと危ないと考えるようになりました。

 幸いなことに週日の勤務時間内ではまだ振戦を自覚しないですんでいました。連休明けの月曜日は仕事リズムに戻るのが遅いと感じてはいましたが、仕事に何ら支障はありませんでした。翌日の出勤を意識して日曜日には深酒を自重していたのです。

 ところが、出勤がない連休初日の土曜日は最も気が緩みがちで、昼食時からビールが始まり酒量が多くなっていました。表装の受講は深酒後の連休二日目にあたり、前日の過ごし方が振戦の原因だろうと気が付いたのです。

 とにかく外出しなければいけないということを口実(?)に、夏になると有給休暇を採ってまでもせっせと高校野球を観戦に甲子園球場に通いました。

 以前、甲子園球場の近くに住んでいたこともあり、夏の休日には無料で自由に出入りできる外野席にちょくちょく行っていました。仕事が忙しくなって暫く行けない時期がありましたが、家族と別居するようになって野球観戦を再開したのです。

 ウグイス嬢の場内アナウンスの響き、大観衆の耳を聾するばかりの歓声、球場内を包むムワッとした熱気、これら全てが快く、私の夏のお気に入りでした。

 8月上旬の朝は午前5時前にはすっかり明るくなっています。球場の開門が7時なので、5時半には家を出て50分ほど歩いて球場に向かいました。

 球場前の国道43号線高架下で入場券発売まで30分以上列を作って待ち、7時に入場券を買い、7号門から一斉に入場して一目散に走り、銀傘下バックネット裏のNHK放送席近くに陣取りました。ファールボールが飛んで来ることは決してなく、直射日光に曝されることもない特等席です。

 第一試合開始の8時半までには持参したビールで出来上がってしまい、第二試合の途中からは酔いと暑気で意識が朦朧のままに居眠りタイム、第三試合から再びお目覚め観戦というのがお決まりのコースでした。

 ビールをさらに補給しながら、つい第四試合までお付き合いしてしまった帰り道、急な排泄欲求に堪えきれなくなって敢無く粗相してしまったのもこの時期だったと思います。公園の水道で応急処置をし、下半身を濡れた下着のパンツ一枚だけになり、暗がりを選んで歩いて帰るハメになったことがありました。それでも球場で消費するビールの量は控えめで、夏の暑い日中に酒浸りで部屋に引き籠っているよりはマシでした。


 西国三十三ヵ所観音巡礼は御利益があるという話は以前から聞いてはいました。近畿地方がその舞台で、四国八十八ヵ所遍路に匹敵する行程距離を誇り、平安朝時代から続く歴史ある古寺巡礼コースです。

 巡礼成果の朱印の掛け軸が話の発端だったでしょうか、表装の受講生に朱印を掛け軸にしようとする人がいました。その人から巡礼行の具体的な自慢話を聞いたのだと思います。受講生はほとんど50歳代以上の方々で、共に関心のある話でした。

 私は46歳となっていたので厄年は明けていましたが、まだまだ厄が取り憑いている気分が残ったままでした。西国三十三ヵ所観音巡礼はどの番号の札所から始めてもいいと聞きました。でもやっぱり一番札所から始めるのが自分にピッタリのやり方と思えました。ガイドブックを買って一番札所が日本一の滝で有名な那智の青岸渡寺であることを確かめ、秋になったら厄払いを始めようかと考えていました。

 秋になって、どこかで土門拳の室生寺五重塔の写真を見たのでしょう、西国三十三ヵ所観音巡礼の前にまず奈良の室生寺を訪れてみようと思い立ちました。土門拳は当時すでに鬼籍に入った人でしたが、室生寺を題材とした作品集『古寺巡礼』は有名でした。

 室生寺までは近鉄室生口大野駅から歩いて約2時間半、8km余の山道のハイキングコースです。杉か檜かは覚えていませんが、薄暗い木立の中を辿る石ころだらけのコースで東海自然歩道の一部になっていました。鬱蒼とした木立の登り道を抜けきったところが峠の頂上になっていて、突然開けた眼下に山あいの室生の里が見えました。暗い鬱陶しさから明るく解き放たれた気分でした。

 下りの桑畑の間を抜けると寺の前に着きます。短い太鼓橋を渡って仁王門から室生寺の境内に入ると、広くはないうねうねした上りの参道の左右交互にお堂が配置され、登りきった所に五重塔があります。いかにも山寺らしい伽藍です。

 弥勒堂、金堂、権現堂に安置されている仏像はどれも国宝や重要文化財(重文)で、特に金堂に祀られている中尊釈迦如来立像(国宝)、十一面観音像(国宝)、地蔵菩薩立像(重文)、薬師如来立像(重文)、文殊菩薩立像(重文)、十二神将像(重文)が群立している様には圧倒されました。

 十二神将像以外の仏像は、かなり名の通ったお寺であっても、それぞれが本尊として安置されていても不思議ではないぐらいで、むしろその方が普通のように思えます。また、博物館では一体々々が独立して展示されるのが当たり前です。

 そのような展示を見慣れた眼には、狭いところに密集して無造作に並べられているとしか見えない金堂の仏像群に違和感がありました。京都の三十三間堂もここ以上に夥しい仏像群が安置されていますが、三十三間堂ではどれもが観音像で秩序が感じられるのです。

 金堂からさらに石段を登り奥まったところに五重塔が建っています。五重塔は小柄で華奢な女性を彷彿させる瀟洒な造りでした。塔の姿とたたずまいが女人高野と呼ばれる所以とも思えました。

 周りを檜の巨木に囲まれ、柱や梁の朱と庇や壁の漆喰の白とが檜の緑に映えて色彩的にも唸らせるものがあります。土門拳の作品は五重塔の静かで優美なたたずまいをよく伝えていると感心しました。

 ’98年の台風で檜の巨木が倒れ塔左側の庇屋根が潰されました。支柱で補強されてはいましたが、それでも塔自身は倒壊などしていませんでした。私が最初に訪れたのは台風の前年でしたが、台風の翌年にも訪れていて台風被害を目の当たりにしていたのです。

 室生寺からの帰りも徒歩行としました。その日は往復で17~18kmぐらい歩いたでしょうか。駅に着くなり缶ビールを買い求め、電車の中でも構わず飲んで古寺巡礼の心地よい疲労感を楽しんでいました。室生寺を訪れて古寺巡礼の味を占め、いよいよ那智行きを決めたのです。


アルコール依存症へ辿った道筋(その26)につづく


参考)室生寺HPのURL:http://www.murouji.or.jp/


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アルコール依存症へ辿った道筋(その24)えっ、新GCPで治験追加?

2015-04-10 20:33:07 | 自分史
 世界標準の新GCPの法制化の議論が確定し、’97年3月に省令として発出されました。日米欧の三極で協議(ICH)して決めたものとなっていますが、実質的には米国主導で出来上がったグローバル・スタンダード(ICH-GCP)です。
 ICH-GCPでは、ひとつの事柄(例えば治験責任医師)について立場を変えた複数の視点から繰り返し何度でも記述するという体裁が採られていて、治験実施体系が執拗なまでに徹底した形で規定されています。新GCPはこのICH-GCPを法律文にしたものです。
 法律文を理解しやすくするため中央薬事審議会が答申GCPというものを発出しています。理解しやすくした翻訳文の答申GCPであっても、アングロサクソン文化特有の記述構成のままで、日本文化の特色でもあるさらりと淡泊で程よい曖昧さは全くありません。新GCPからみると旧GCPは大甘で無邪気で幼稚なものでした。


 会社でも新GCP施行少し前から臨床開発業務の分業化が具体化されました。

 モデルとなったのは米国で臨床開発を担っていた子会社のシステムです。従来一人で何役もこなしていた臨床開発業務を細分化し、新GCPに則した専門職種として独立させました。分業化された職種ごとに「何時・誰が・何を・どうする」を規定する標準業務手順書(SOP)作りもしました。こうして責任を明確に分担させる体制を整えたのです。

 新しい職種、メディカル・ライティング(MW)の部署も新設されました。治験実施計画書や、治験完了後に義務付けられた治験総括報告書などの必須文書の記述作成を専門とする著述家(?)集団です。職種代えで私がMWを取り仕切ることになったのもこの時期です。臨床開発の前線部隊から後方支援部隊へ、私としては初めての異動となりました。

 後方支援部隊というのは私たちのMW室の他、統計解析担当の生物統計室(BS)、治験データ(CRF等)管理のデータ・マネジメント室(DM)、文書の和文英訳担当の科学文書室、それと治験薬管理室のことです。これらの業種は開発品目を問わず共通する臨床開発業務で、新GCP施行に伴いこれらの業務の受託を専門とする臨床開発受託業者(CRO)も現れ始めた時代でした。

 この組織改革を実行したのは異動で着任した常務のYa氏と役員待遇のYoさんでした。

 常務のYa氏については研究所長から臨床開発部門トップへの横滑り人事なのは明らかでした。自社開発治療薬1号品と2号品両方の創薬リーダーを務めた人物で、アクが強いものの海外留学経験もあり実績は誰もが認めるところでした。

 一方のYoさんは私の3年先輩でしたが、海外勤務経験もあり社長のお気に入りの一人でした。当初は常務のYa氏の補佐役だろうぐらいに思われていました。ただ、この二人の仲が悪いことは皆知っていました。それでお互いをお目付け役にしようとする社長の思惑かと勘繰ったものです。

 もう一人、しばらくして私たちの直属の上司になる定年間近のKa氏も異動してきました。

 この組織改革を機に異動で離れたのが感情的に色々あったN先輩と臨床開発部門のトップ・専務のK氏です。

 N先輩は医薬営業部門の販促戦略責任者として東京へ転勤となりました。会社を揺るがした市販後使用全例調査データ捏造事件の騒動からすでに5年半が経っていました。特別専任プロジェクトを組んだ市販後使用全例調査は依然として続いていました。「絶対に諦めるな」という社長の信念と、使用患者が細々ながら続いていたことで、承認取り消しを申請できずにいたのです。このことがあってか、当時N先輩の歩く傲慢の影が大分薄れてきていました。

 専務のK氏の常任監査役への降格も決まり、N先輩の異動から少し経っての異動となりました。この10年来因縁深い上司だった二人が更迭されたのです。

 何のことはない、臨床開発業務の分業化は臨床開発部門の一大組織改造案を具体化するその第一歩だったのです。

 実は、Yoさんの進言を入れて臨床開発部門を前線部隊と後方支援部隊に大きく二つに分けることが決まっていたようなのです。Yoさんの思惑通りになり、後方支援部隊トップへのレールが敷かれたものと思います。

 Yoさんが実際に後方支援部隊のトップとなったのはそれから約1年後のことになります。CRO業者のように、他社の業務をこの後方支援部隊に請け負わせようと、まさか本気でYoさんが目論んでいるとは思いもしませんでした。

 国立大学を舞台としたデータ捏造・改竄事件の横槍で課せられた旧GCP信頼性調査結果報告書の提出と同時期に、新薬調査会の2回目の指示事項回答も提出しました。

 この2回目の指示事項回答についてのヒアリングを受けた際、新Ca拮抗薬Pが水に難溶であることから、1日1回服用への懸念が当局から出されたというメモが手帳に残っています。薬の物性からすると長時間にわたって効力が持続するはずがないというニュアンスだったと思います。

 「えっ、今頃になって何を言い出すの・・・」とムッとしたことだけしか覚えていません。呆れるほど淡泊な質問をしただけで単細胞そのままの反応です。
 「どういうことですか?」
 「まぁ、別に・・・今言った通りのことです。」

 用法の妥当性に関する見過ごせない疑念のはずです。当然、この時すかさずその真意をもっと確かめておけば良かったのです。今になって思えば“逃がした魚は大きい”、結局のところ後の祭りとなりました。いつものことながら肝腎のときになると、決まって意識がポッと飛んでしまい、念押しをコロッと忘れてしまうのです。

 この回答提出から2ヵ月後、3回目の新薬調査会指示事項が出て来ました。

 3回目の指示事項のハイライトはグレープフルーツ・ジュースとの飲み合わせ(交互作用)の問題についてでした。これには基礎研究データで回答したのですが、2ヵ月後の4回目の新薬調査会指示事項では遂に、交互作用について治験を実施し、ヒトのデータを提出せよとの要求になりました。

 当時、新Ca拮抗薬Pと同系統の降圧薬はグレープフルーツ・ジュースと一緒に飲むと、作用が強く出ると知られるようになっていました。今ではグレープフルーツ・ジュースの薬剤交互作用としてよく知られています。ホテルでの朝食時に、降圧薬をグレープフルーツ・ジュースで飲んだところ、頭痛が酷かったという報告が発端でした。薬物代謝酵素の研究が進んだことによる時代が要請した指示事項です。

 「えっ、またぁ治験?新GCPでやるのは面倒なのに・・・本当に面倒臭い」、これが本音でした。新たに追加治験を実施しなければならなくなった、この指示事項が禁酒を破らせた引き金でした。

 会社として初めての新GCPに則した治験です。臨床開発部門の最優先課題として治験実施計画書の作成から治験総括報告書の作成終了まで、すべて新GCP遵守で実施することになりました。私は新人MWとして、PL(治験責任者:以前のPM)代行も兼ねて会社初の新GCP治験の立ち上げに取り組みました。

 新GCPでは治験実施計画書の見出しの付け方を始めとして、その構成や盛込むべき内容まで詳細に規定しています。その規定を具体化したお手本がない状況では、いまいちピンと来ませんでした。

 同じ内容を治験実施計画書のあっちの章にもこっち章にも重複記載してしまう破目になりました。これに懲りてテンプレート(雛形)作りが新部署の初仕事になったのですが・・・。関係する全部署が集まって何度も試行錯誤の議論を重ね、治験実施計画書の最終案作成には2ヵ月ほどかかりました。従前なら2週間でも十分お釣りが来るところです。臨床開発部門挙げて最優先で進めたのですが、結局ナンダカンダで指示事項回答提出まで5ヵ月を要しました。

 これが真酷劇(?)の序章でした。後に大問題となった1日1回服用の妥当性を照会してきた指示事項は、この4回目の新薬調査会審議ではまだ出て来ていません。この時期、当局内では大きな変化が進行中だったのです。


 飲み屋でソファに座っているときに、初めて突然意識を失って床に崩れ落ちたのはこの頃のことと思います。

 追加治験の実施が決まってしまい、その憂さ晴らしにハシゴ酒の末に行きつけのスナックに入ったときでした。再飲酒した勢いで、かつて部下だったM君が一緒でした。M君がトイレに立ったまでは覚えていますが、気が付くと床に倒れていたのです。怪我はなく、辺りにグラスの破片が散らばっていました。私としてはチョット飲み過ぎの失態だったぐらいの感覚でした。

 これが定年退職後の連続飲酒で何度も経験することになる一過性の失神・顔面転倒の最初の出来事でした。請求書の額は高かったそうです。M君が会社の交際費で落としてくれました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その25)につづく



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“空白の時間(とき)”と折り合う

2015-04-03 20:57:44 | 病状
 “空白の時間” ってご存知ですか? 断酒を始めたアルコール依存症者が、手持ち無沙汰でソワソワ、イライラ、何とも落ち着かない気分に襲われることをいいます。どうしたらよいのかまったく見当がつかないので、ついお酒で紛らわそうと酒に手が出そうになります。それが断酒の決意と葛藤することになり、さらに悪循環を来すのです。

 そんなときには即行動に移すことです。優先すべきは先ず脚を使い出掛けること、次いで手を使って書くなり弾くなり描くなりすることです。じっとしたまま頭の中だけ堂々巡りの悪循環に陥ることだけは止めてください。

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 断酒後には “新しい生き方” が必要になってくる。よく言われることです。こう言われたら戸惑いを覚えるアルコール依存症者が多いのではないかと思います。飲酒に耽っていた頃と断酒後の生き方とは当然違うでしょうが、完全に心を入れ替えて別人のようになるなど、断酒前後に不連続な断絶を期待されるのは患者にとって荷が勝ちすぎます。

 恐らく “新しい生き方” として想定される断酒後の変化は価値観の変化と時間感覚の変化だと思います。

価値観の変化
 アルコール依存の進行に応じて、患者の価値観に変化が起きるとよく説明されます。ピラミッド構造を想定してください。アルコール依存がない当初は、最上部の高い価値階層に家族や仕事が位置し、その下の価値階層に友人・同僚、会社、サークル、趣味などがあり、底辺の価値階層に嗜好としての酒やタバコや香水などが置かれます。ところがアルコール依存の進行に伴い、酒の地位が上方に移動し、ついには酒だけが最高の最上層を占めるに至るというのです。この説明は、第三者が患者の行動を観察し続けた結果、患者が依存を強める間に辿った行動の変化を心理的な価値観の変化と捉えたものです。

 患者本人の心理では、いつの間にか酒に飲まれた状態に陥って、次第に酒なしでは一日も過ごせなくなっただけのことです。価値観が変わったなどとは自覚していません。もはやお金をお金だとも思っていないのです。素面の頭なら節約も考える大切なお金が、飲まずにはいられなくなったら、酒との物々交換に必要なモノに過ぎなくなったのです。

 価値の判断は理性が行います。断酒の継続で身体的健康を回復し理性が戻りさえすれば、イライラなどの精神的依存がたとえ残っていても、理性で “最初の一杯” を抑えることは可能です。「最初の一杯」は必ず「次の一杯」を呼ぶ “地獄の一丁目一番地” であると常に自戒し続ければよいのです。“新しい生き方” として、価値観を変えるのに特別な努力は必要なさそうです。

 それではアルコールによる時間感覚の変化はどのように理解したらよいのでしょうか?

意識の中の時間感覚は変化する
 時間には時計の刻む物理的時間と人間の意識の中を流れる時間の両面があります。通常の物理的時間に対照的な概念として、ここでは人間の意識の中にある時間を感覚的時間と呼ぶことにします。また、時間の意識には時ばかりでなく、必ず置かれた場(状況)の意味合いも含まれるので含蓄のある “とき” とします。精神的・心理的状態如何によって、時間の経ち方は意識の中では長くも短くも感じられる、これが感覚的時間です。死ねば感覚的時間は永遠に止まります。感覚的時間が止まること、即ち死です。逆も真なりで、生きているとは感覚的時間を自覚できていることです。

物理的時間の変化
 飲酒習慣が進行する時期ごとに一日の物理的時間配分を円グラフで表すと、患者の時間配分の変化を視覚的によく理解することができます。円は一日24時間全体を表します。円そのものの大きさで個々人の行動量や思考能力を表すこともできます。したがって、アルコール依存症で行動量・思考能力が劣化した状態は小さな円で、逆に断酒後の素面のときの状態は大きな円で表すことが可能です。こうして断酒による行動量・思考能力への影響をも円の大小で表現できるのです。

 物理的時間に占める仕事や、家庭での食事・団欒、睡眠、趣味、飲酒などの割合は、夏休みの宿題でやらされた一日のスケジュールのように円グラフに示すことができます。飲酒習慣の進行とともに飲酒の占める面積は拡大・増加し、飲酒以外のものはその分狭められることになります。

 飲酒習慣の初~中期段階では、酒の種類をアルコール濃度の高いものに変えて早く酔うこともできるので、飲酒の占める時間の割合はほとんど変わらないでしょう。ところが次第に身体がアルコール濃度に鈍感になる(耐薬性)と、酒量が増えたにもかかわらず、その分いたずらに時間が過ぎたことに無頓着になってきます。大して時間が経っていない感覚なのに、実際に飲酒の占めた時間の割合は次第に大きくなってきます。

 最終段階の連続飲酒ともなれば、一日のほとんどが飲酒時間で占められるようになってしまいます。仕事に出掛けられなくなり、朝から飲酒の放縦な生活になってしまいがちです。飲酒を続ける中で生活の秩序と規則正しいリズムは崩れ、動くことが面倒になって引き籠るようになります。それがさらに生活の秩序と規則正しいリズムを崩す悪循環となって、最終的には “ゴミ屋敷”  住まいの “引き籠り” となってしまいます。価値判断が働かず、“どうでもよくなった” のです。こうなってしまうと行動量・思考能力が低下した分、円グラフは小さな円で表されることになります。

 断酒は飲酒時間が円グラフに占めていた部分を切り取ってしまう行為であり、その跡に生じるのが物理的 “空白の時間” です。

 常習化していたもの(こと)を失ったときには喪失感と空虚感とが必ず襲ってきます。かつて他人と対面し間が持たないときには、酒を縁(よすが)として頼っていました。その縋(すが)っていた酒がないと、てきめんに不安や焦りを感じます。断酒によって飲酒の時間が失われたにもかかわらず、患者は快適だった飲酒習慣をそのまま引き摺っているのです。断酒後には、馴染みの居酒屋・立飲み屋・ラーメン屋に立ち寄る時刻や、新幹線や在来特急での移動時、夕食時などになると、決まって口寂しさや喪失感で間が持たなくなります。そのとき口寂しさや喪失感と共に襲ってくるのが飲酒欲求です。私たち患者は「再飲酒すると元の木阿弥で、生命にかかわる」と教育されているので、その場面に襲ってくる飲酒欲求に怯えることになります。「やはりまだ酒に取り憑かれているのか」と2~3ヵ月間ほど、あるいはもっと長い期間にわたって怯え悩み続けることになるのです。

感覚的時間の変化
 アルコール依存が進んだ状態になると、多量のアルコールが体内を循環している酩酊時と酒が切れた覚醒時との間の感覚的時間の変化は次のように考えられます。

 まず酩酊時によくあることとは・・・。飲み仲間とたわいない会話に夢中になるとか、あぁでもない・こうでもないと堂々巡りの議論をするとか、突拍子もないアイディアが幾つも湧いたもののその湧いたという記憶だけしか残っていないとか、唯々放心して飲み続けていただけとか、果ては酔いつぶれて寝ていたとか、こんなところだろうと思います。これらは酔った本人の感覚的時間ではほんの短時間の出来事でしかありません。思いのほか(物理的時間が)長時間費やされても、酩酊状態の感覚的時間ではほんの一瞬のこととなります。「いつの間にぃ・・・、モウこの時間かぁ?まぁ、もう一杯だけ・・・」という経験が誰しもあったと思います。この感覚はあたかも(酒以外の)何かに集中していたかのようです。

 一方、アルコールが切れた時の感覚的時間では、ほんの短時間であっても経つのがとても長いと意識されます。誰しも待たされる時間は長いと意識するものですが、私の場合は酒が切れてくると堪え性がなくなり、する仕事が何もなければ分単位の時間がとてつもなく長いと感じました。たとえ17:20までが就業時間であっても、何もする仕事がなければ16:30~17:00になったら待ち切れなくて職場から逃げ出し、いつもの立飲み屋に一目散に急いだものです。就業規則が定める就業時間の規定など眼中からなくなっていました。

 断酒を始めて3ヵ月ぐらい経つと、一日がとてつもなく長いと感じるようになりました。幼少期の頃に一日が長いと感じたのと同じ感覚でした。ちょうど精神安定剤の服用を中止した後のことでしたので、精神安定剤の中止も関係があるのかもしれません。これも断酒10ヵ月後にはほとんど気にならなくなりました。断酒後に時間の経つのがひどく遅いという感覚は恐らく誰しもが経験することと思います。

 感覚的 “空白の時間” とは、何も予定がない時に、たとえ短時間でもとても長く待たされていると感じる断酒後の経験のことです。待ち切れない時のイライラ・ジリジリ・ソワソワという苛立ちに加え、理由なく襲われる胸のザワザワや気持ちの空回り、遣る瀬無さ(やるせなさ:何処かに逃げ出したいけど何処に向ったらいいか分からない不穏な気分)、持って行き場のない不吉で不穏な気持ちが伴います。一過性の情緒(情動)不安定です。(自分の思い通りにならないときにも同じ気分や感覚に襲われます。)酒を飲まずにはいられない気分なので、恐らく飲酒欲求と混同している場合が多いと思います。決まって一人でいるときで、次の予定を立ててないときに襲われる心理状態で、物理的 “空白の時間” の口寂しさや喪失感とは異質のものです。離脱症状が主に身体的依存の現れであるのに対し、一過性の情緒(情動)不安定は精神的依存の現れと考えています。

 私の場合、一日がとても長いと感じる感覚に加え、断酒7~10ヵ月後には一過性の情緒(情動)不安定を4~5回はっきり自覚しました。情緒(情動)不安定はせいぜい5~15分ほどしか続かない一過性のものです。無聊を突然襲ってくるのが普通で、何も予定を立ててないときは、“空白の時間” が襲って来るのではと、決まってその影に怯えるようになりました。毎日通院の週日には問題ないのですが、何も予定を立てていない休診日には途方に暮れてしまいます。気の利いたアイディアが浮かんで来るでもなく、時間の経つのが遅いばかりで、不穏な気分が募ってきます。いつまでもグズグズ逡巡したままで腰を上げることができないでいました。

 心は保守的です。長年アルコールの酩酊状態に馴染んだ意識では、時間とはあっという間に過ぎるものという感覚の方を常態と勘違いしているらしいのです。時間は速く経つものと馴染んだ意識は、なかなか短期間に変えられるものではありません。だから、一人でいるときはいつも情緒(情動)不安定に襲われるのでは、と不安で心が落ち着かなくなるのです。一度情緒(情動)不安定を経験すると、断酒して間がない頃は “空白の時間” が近づいてくる影に怯え、それ以降の時期には実体のなくなった “空白の時間” の亡霊に長期間にわたって悩まされます。だからこそ、アルコール依存症者は長く断酒していても、何も予定を立ててないと、一人でいることが悩ましく苦手なのです。

 結局、“新しい生き方” の課題は時間感覚の劇的変化にどう対応するかだと思います。断酒してアルコール依存症から回復するには、“空白の時間” と折り合う必要があります。

“空白の時間” と折り合う
 物理的 “空白の時間” と折り合うには、依存症前の元々の行為・行動で、あるいは新しい行為・行動をも加えて、ジックリ時間を懸けて “空白の時間” を埋め合わせすればよいのです。たとえば “空白の時間” の口寂しさを炭酸飲料やお茶・コーヒーで紛らわせれば、喪失感も同時に気にならなくなります。私は甘味と炭酸の欲求に逆らえず、1年間ほどカロリー・ゼロのコーラ1日1.5~2Lを飲んで凌ぎました。その後はコーヒーなどで普通に過ごすことができるようになりました。また、どのような状況だと物理的 “空白の時間” に襲われるのかが簡単に想定できるので、心の備えをしておくことも可能です。危ないと想像されるなら避けて近づかなければよいのです。「何もすることがない、どうしよう」と頭の中で堂々巡りし、じっとしたままで行動しないのは最悪で、物理的 “空白の時間” は変わらないままです。アルコールは理性を司る脳の前頭葉を委縮させると聞きますが、断酒を続ければ1年程度でも機能回復するそうです。素面を維持し、生活の秩序と規則正しいリズムを守り、予定を立てて行動しさえすれば、物理的 “空白の時間” を埋め立てる能力は着実に強くなります。

 次に、とてつもなく長いと感じる感覚的 “空白の時間” とどう折り合えばよいのでしょう?人が意図的に行動しているときは例外なく集中している時間です。集中しているときには時間が速く経ちます。明確な目的・意図をもって能動的に行動しているときには “空白の時間” など忘れてしまいます。逆に、他人に指図されて仕方なくやるのでは時間はとてつもなく長いと感じます。まさに感覚的 “空白の時間” です。脳を活発に働かせ、決めたことを行動に移すことです。「よし、こうしよう!」と決めて即実行に移すことが大切です。 “行動に移す” とは、明確な目的・意図をもって能動的に行動すること、すなわち脚を働かすこと、手を働かすこと、頭を活発に使うことです

 あくまでも毎日を規則正しい生活リズムで過ごしていることが前提ですが、毎日々々、前日に翌日のスケジュールを考えておくことをお勧めします。朝起きたら順を追ってそのスケジュールの詳細を詰めるのです。患者自助会の例会に毎回進んで出席する。面白いコースを見つけ毎日定時に散歩を楽しむ。清掃ボランティアとして定期的に道のゴミ拾いをする。絵画を毎日描く。取材しつつ俳句・川柳や短歌を毎日詠む。ネットでブログを立ち上げて定期的に日頃の考えや思いを投稿する。自分史を綴る。等々スケジュールに組み込んで行動に移すのがよいと思います。ただし、仕事へ復帰するのを焦ってはいけません。また、他人と会う予定の時には、話の切り出し方やその後の話題の展開をシミュレーションしてみることです。商談に臨むときの心構えと同じと思えばよいのです。私はブログに週に1回の頻度で主に自分史を投稿しています。自分の過去とあれこれ対話していると、あっという間に1週間が過ぎてしまいます。胸に収めていた心の深層の悩ましいものの正体が見えてきてスッキリしますよ。

 漫然とテレビを見ていること、ボンヤリと過ごすこと、じっとして動くことなく堂々巡りの悪循環に陥ることだけは避けましょう。意識的に “行動に移す” ことが習慣化できれば “空白の時間” が気にならなくなるでしょう。

 “新しい生き方” の鍵は、“時間感覚は行動することで変化するものと納得する” ことと、明確な目的・意図をもって予定を立てて “行動に移す” こと、この二つです。何のことはない、動物として生まれたヒトの宿命と思えばよいのです。


本ブログ中の『“心の落ち着き”が分かる』、『回復へ―アル中の前頭葉を醒まさせる』も併せてご参照ください。


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