ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“物忘れ” ― 単なる健忘? それとも認知症?

2016-01-29 08:57:06 | 病状
 このところ「物忘れがひどくなった」とか「物覚えが悪くなった」と思い知らされることが多く、ついつい “記憶障害” に関することをこのブログのテーマに選んできました。もちろん、アルコールの置き土産 ―― PAWSの一つとして考えてみるためです。今回も “もの忘れ” についての私の考えを整理し、併せて心構えと対策について考えてみようと思います。

 “物忘れがひどい” というと、連想してしまうのが “痴呆” = ボケです。老年期を迎えた私にとって、何が脅威かと言って、“痴呆” ほど脅威に感じるものはありません。

 “がん” 、“脳卒中” 、“心筋梗塞” 、これら成人病は文字通り老年期に起こりやすい病気ですが、脳が正常に機能している限り私には怖くはありません。激しい痛みや身体的不自由を余儀なくされるでしょうが、正常な脳でその苦しみや悩みを正常に訴えられる状態であれば、それなりの手当てが受けられ、まだしも辛抱できると思っています。私はそういう覚悟でいます。 “痴呆” になったら、自分が何をやらかしているのかも分からなくなると言いますから、理性的(?)な私としては、これほど恐怖に駆り立てるものはないのです。

 それでは私が持っている知識を整理してみます。私が医者に直接聞いたりネットで検索したりしたものを情報源としています。

 まず、“痴呆” 、認知症、健忘、といった言葉について整理しておきます。“痴呆” には蔑視の意があるとして、厚生労働省により平成16年(2004)に変更され、現在は認知症が正式な病名です。健忘症については、医学用語ではありません。健忘の “健” は、甚だの意で、健闘の “健” と同じ意味だそうです。健忘とは、記憶の喪失が限定的で、比較的限られた事項や一定の期間に限り現れる症状のことで、広範囲にわたって全般的に生じる記憶の低下ないし記憶減弱とは区別されるといいます。私のように “物忘れがひどい” 状態のことは健忘と言うのでしょう・・・ネ?

 次に、病的異変に気が付いたのは “誰” なのかについてです。これが実に重要なことなのだそうです。病的異変というと、普通は本人が自覚するものと思いがちですが、精神科領域では本人に病気という自覚がないことの方が多いそうです。このことを “病識がない” と言い、これを一番の特徴とするのが精神病の典型とされる統合失調症だといいます。ちなみに、漠然と病気と感じているにすぎないことを “病感” というそうです。

 驚くべきことに、本物の “うつ病”(大うつ病 / 大うつ病性障害)も患者本人には “病識がない” のだそうです。内科を受診し、検査しても原因が分からないままに、精神科に回されて来て初めて “うつ病” と診断される ―― これが通常の例だと聞きました。

 つまり、これといって直近に思い当たる原因やキッカケがなく、眠れない、食欲が湧かない、身体が怠くて疲れやすいなどの身体的不調が主な悩みと訴える例が普通であり、気力が湧かなくて億劫なことからどうしても仕事に行けないなど、同時に自覚している症状が精神的異変のせいとは思いもしないのだそうです。

 別離や失敗、喪失などをキッカケに、その直後から気分が落ち込むことは普通によくあることですが、それを悩んで本人が精神科を受診しに来る単なる “抑うつ状態” とはチョット別と考えた方がいいようです。(この辺は難しく分かりにくいです。)

 認知症も “病識がない” のが特徴だそうです。認知症の患者本人は周りに迷惑をかけている認識(自覚)がないのです。患者本人に自覚がないので、周りの人々にはやりたい放題の困った行動と映ってしまうのだそうです。周りの人々の方が迷惑を蒙り、困り果てた挙句に本人に付き添って精神科を受診させる ―― これが患者に “病識がない” という本当の意味だといいます。

 困っているのは本人自身なのか、それとも異変に気が付いた周りの “誰か” なのか? 困っている主語は患者以外の周りの人々なのです。統合失調症については誰でも頷く当たり前のことですが、認知症を考える際にも実に重要なことだそうです。逆に言うと、本人自身が病気と自覚している限り、認知症までは進行していないということになります。

 昨夜の食事の内容を忘れたというのは物忘れで、たった今食事したことも忘れるというのが認知症 ―― よく知られている認知症の譬(たと)えです。食事にまつわる記憶の有無以外には、今日が何月何日か思い出せない、物の名前が出て来ない、簡単な計算ができなくなった・・・など、最近はTVの健康番組でもよく取り上げられていますから、誰にも身近な問題として関心が高まってきています。

 それで従前には躊躇していた精神科の敷居が低くなって、物忘れが心配になった本人が精神科を受診する例が増えているそうです。その結末はもうお分かりと思います。一通りの検査を行った後に下される診断は、「まだ認知症になってはいない」です。

 断酒を始めて1年半ぐらい経ったときのことと思います。お湯を沸かすほんのチョットの間、タバコを吸いにヴェランダに出た途端、湯沸ししていることを忘れてしまい、ヤカンの空焚きを何回か繰り返したことがありました。それまで目に映っていたものから視線が変わると、新たに見えたものに気を取られてしまい、本来なら次にすべきことをもう忘れてしまうことが他にも頻発していました。それで、物忘れの酷さを医者に相談してみたのです。その時念頭にあったのはもちろん認知症です。

「それで、その後はどういうふうに心掛けていますか?」
「お湯を沸かすときは、ガスレンジに張り付いたまま離れないようにしています。」
「原因と結果が認知できていて、その対策も立てられているので大丈夫ですよ。認知症の心配はありません。原因も結果も分からず、もちろん対策など立てられないというのが認知症です。」

 自分の異常に気が付いていること、防止対策を実行していることが大切なのだと教えられました。私としては、自分の異変に “気づき” 、医者に躊躇なく相談できること、そのことの方がむしろ肝腎要と考えています。何か変(?)ぐらいでは医者に相談もできない、というのが普通ではないでしょうか? “何をどう相談したらいいのかさえ分からない”、断酒して間のない頃のまだモヤモヤの残る脳ミソではこれが本音だと思うのです。

 物忘れを自覚したとき、どんな対策を心掛けるべきかについて考えてみようと思います。

 “廃用症候群” というものをご存じでしょうか? 入院などによって過度な安静状態が長期間続くと、筋肉が痩せ衰えたり関節の動きが悪くなり、全身の身体能力や精神状態に悪影響をもたらす症状のことです。“廃用性認知症” という言葉もあるそうで、脳機能への悪影響は明らかです。要は、使わないまま放置しておくと、脳も機能が衰えて使い物にならなくなるということです。

 脳の記憶機能に好影響を及ぼす刺激ついては、以下のことが知られています。


 ○ 手や耳などの器官を刺激して記憶したものは長く保持されやすい
 ○ 軽い運動は脳の血流をよくして記憶を司る海馬の脳細胞を増やす
 ○ 歩くことは前頭葉の働きを活発にしてくれる


 このような知見に準じてでしょうか、次のような提案をよく聞きます。いずれも脳に刺激を与えて好影響を及ぼすそうです。

 ○ 頭をフル回転させながら手指を動かす囲碁や将棋がよい
 ○ 歩くにしても、歩数を数えながら一定の間隔で歩むコースを横にずらす
  とか、計算しながら歩くのがよい
 ○ 役作りを考え、相手の表情を読みながら手指を動かし、言葉(声)も発
  する麻雀がよい


 私が実行していることは、道のゴミ拾いをしながら毎日一定距離(約4km)を歩くことと、ほぼ毎日ブログの原稿作成のため頭を捻ってキーボードを叩くことの二つです。それと、血小板凝集抑制薬シロスタゾ-ルを毎日服用しています。この薬は狭心症の再発を防止するのが目的ですが、脳梗塞の再発を減少させる効果も確認されており、認知症の進行を遅らせる効果も期待できそうだと言われています。今後、私がどうなるかは請うご期待です。

***********************************************************************************
 周りの人々の方が大変な迷惑を蒙ることではアルコール依存症も同じです。が、アルコール依存症では振戦などの離脱症状を本人が自覚していますから、“病識がない” 病気ではありません。“否認の病” と言われているだけあって、ただ単に、本人が認めたがらないだけの話です。外聞の悪さという社会的な事情と、酒害を矮小化させがちなアルコールによる記憶障害が原因ではないか、と私は考えています。

 アルコール依存症からの回復にも “気づき” が大切だとされています。異常な飲み方のキッカケは “なに” だったのか、その理由は “なぜ” だったのか、ひいては自分の性格の歪みが “どこ” にあるのか、それらに “気づく” ことが回復に欠かせないと言われています。


 ○ 酒を断って2年間ぐらいはドライドランク状態中であることに
   “気づく” こと
 ○ 思い込みから偏った受け取り方をしているかも知れないと
   “気づく” こと
 ○ 価値判断が鈍くなっていることに “気づく” こと
 ○ 感情の動揺に “気づく” こと


 “気づく” ことによって歯止めがかかり、視角を変えて考えてみることも出来るはずです。“気づき”=自覚するということは、認知症への用心のためにも、アルコール依存症からの回復のためにも、とても大切なことなのですね。
  “一歩引いて 一息ついて 一歩引いて”
 

特集「廃用症候群」については、こちらをご参照ください。


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生活は体に出る?

2016-01-22 17:38:06 | 雑感
 “性格は顔に出る 生活は体に出る” 

 前回に引き続き、FBに掲載された『おっちゃん、おばちゃんのゆるゆる倶楽部』に出ていたオモシロ警句です。この警句に刺激されて思い付いた言葉遊びの続きです。前回は “顔” でしたが、今回のお題は生活状況や生活水準が滲み出ているとされる体(カラダ)です。どうかお付き合いください。

 生活状況や生活水準というと、その人の健康状態や、置かれている経済状態をまず思い浮かべると思います。前回の “顔” の例に倣って、体(カラダ)についても以下の二つの観点から考えてみようと思いました。
 ○体つき(発育状況や栄養状態が分かる外見:体格)
 ○身なり(人前に出るときの服装と髪型:恰好)

 健康状態は “体つき” から判断できますし、経済状態はズバリ “身なり” から判断すると思います。これらに加え、その人の立ち居振る舞いや、身のこなし、持ち物なども判断材料となるのでしょう。

 こう考えてはみたものの、主な修飾語を思い浮かべてみると、実際は身体全体を総称した言葉 ―― “姿” を想定して修飾語を考えていることに気付きました。普段、相手の健康状態や経済状態、文化程度や身に着けている教養までも、私たちが判断するのはその人の “見た目” = “姿” 全体からです(当たり前!)。

 そんなわけで、“体つき” や “身なり” の観点から修飾語を考えてはみたのですが、実際には被修飾語として “姿” を想定し、多くはこれに繋がる修飾語になってしまいました。そうする方が、体(カラダ)という言葉に繋がる場合に比べ、修飾語の多くが無理なく浮かんで来るのです。

 健康状態や経済状態を暗示するイメージを大きく 頑健 、老病 、富裕 、貧相 、品格 、清潔・不潔 、体格そのもの 、その他 の8つに分類し、それぞれに当てはまりそうな修飾語を該当する分類に列挙してみました。今回も私が2か月がかりで何とか思い付くことのできた言葉たちです。

 今回ここに掲載した修飾語についても、“~い” で終わる形容詞や、“~な” で繋がる形容動詞を原則としました。キリがなくなるので、動詞そのものや名詞を動詞化したサ変動詞の使用は出来る限り避けるようにしました。擬態語の使用は最小限としたつもりです。擬態語を禁じ手とすると、全く対処不能になります。いかに擬態語が重宝か見直してしまいました。


【頑健】
  (引き)締まった、逞しい、丈夫な、頑丈(そう)な、頑強(そう)な、
  屈強(そう)な、日焼けした

【老病】
  ヨボヨボな、老いぼれた、貧弱な、ひ弱な、弱々しい、(ガリガリに)
  やせ細った、やつれた、ぶよぶよした、ぶくぶくした、浮腫(むく)ん
  だ

【富裕】
  押し出しの(が)よい、恰幅のよい、羽振りのよい、おしゃれな、ふく
  よかな

【貧相】
  うす汚れた、薄汚い、しどけない、くたびれた、だらしない、落ちぶれ
  た、みすぼらしい、地味な、肩を落とした、俯きかげんな、みっともな
  い、汗みずくな

【品格】
  品のよい、上品な、おしゃれな、落ち着いた、礼儀正しい、おっとりし
  た、肩を怒らした、ふんぞり返った、しゃちほこばった、隙のない、
  派手な、野暮な、粗野な、がさつな、ふしだらな、だらしない、しどけ
  ない、みっともない

【清潔・不潔】
  若々しい、溌剌とした、小奇麗な、こざっぱりした、きちんとした、
  汗臭い、きたない、うす汚れた、うす汚い

【体格そのもの】
  大柄な、小柄な、太った、やせた、でっぷりした、貧弱な、ほっそり
  した、がっしりした、きゃしゃな

【その他】
  おとなしい、荒々しい、勇ましい、用心深い、きびきびした、忙しない、
  シャキッとした、背を丸めた、隙だらけな、背筋をピンと伸ばした、
  いそいそ(と)した、そわそわした


 結果的にみると、“体つき”の描写から生活状況を表現できることは稀で、健康状態や高齢を象徴する描写の場合に限られるようです。

 ここに挙げた修飾語の多くは、やはり “身なり” ―― 服装や恰好についてのものでした。実際に言葉で書くときは、着ているモノや、持ち物について具体的に描写すると思いますから、体に関する修飾語は最後の締めという位置づけになると思います。

 今回も語彙の貧弱さをつくづく思い知らされました。人物の姿を、顔の描写も含め、生きいきと描写できたら表現の幅は格段に広がると思います。私は会話下手で、会話場面のセリフ作りが苦手です。生きいきしたセリフ作りのコツが会得できるようになり、人物描写を生活臭がするぐらいまで磨けたら、自分史の改訂版にでも挑戦してみようかと考えています。現状では、何時になったら実現できるやら分かりませんが・・・。



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性格は顔に出る?

2016-01-15 09:09:11 | 雑感
 “性格は顔に出る 生活は体に出る”

 これは2ヵ月ほど前の昨年10月20日、FBの『おっちゃん、おばちゃんのゆるゆる倶楽部』に掲載されていたオモシロ警句です。この言葉にいたくシビレてしまいました。私たちは他人の顔つきを見て大凡の性格を診たてているのだと看破しています。確かにこの警句通りだと気づかされました。そこで、性格や生活を示唆する顔や身体の修飾語にはどんなものがあるのか、それぞれ列挙してみようと思い立ちました。

 まず今回は、性格を暗示する顔の修飾語にはどのようなものがあるのか、から始めてみようと思います。ズバリ直接的に性格を示す言葉を含んでいては面白くありませんから、できるだけ使わずにやってみようと思ったのですが・・・。ところがいざ構えてみると、これが中々難しいのです。性格そのままを表す言葉はすんなり出て来るのに(当たり前!)、性格の暗示にとどまった表現となると微妙なのです。

 まず手始めに、顔そのものから何が分かるのかについて確認してみます。次の二つの観点(要素)から判断するのではないでしょうか?
 ○顔立ち(生まれつきの顔かたち:外形) 
 ○顔つき(心情を表す顔の様子:表情)
この他に素振り(気配が感じられる顔色・動作)や、顔色(健康状態)で持ち主の具体像が浮かんでくるのだと思います。

 性格というのは、つまるところ何が好きで何を悪む(嫌い)か ―― その人の好悪の感情性向のことです。人は他人の顔つきを見て心情を読み取り、感情が変化する様子から性格を判断するというのが普通ではないでしょうか? 顔立ちそのもので性格が分かることはあまりありません。その一方で、顔つきからはその人の心情が窺えます。平たく言うと、感情こそが顔に出ます。まぁ、顔立ちの印象から性格に当りをつけ、会話をしながらその時々の顔つきの変化を見て、性格を確認するのだと思います。

 そこで、顔つきで分かる心情を大きく 歓・喜・朗、 怒・恐・驚、 安・穏・楽、 悲・憂・困、 理・知・冷、 怪・訝・疑、 品格、 作為的表情、 その他 の9つに分け、それぞれに当てはまりそうな修飾語を該当する分類に列挙してみました。一部に顔立ちも含まれています。私が2か月がかりで何とか思い付くことのできた言葉たちです。

 ここに掲載した修飾語は、“~い” で終わる形容詞や、“~な” で繋がる形容動詞を原則としました。(原則とは、2割程度までの例外を許容範囲とすることだそうですが・・・。)性格そのもの示す言葉を使用しないというのも原則で、どこまで守れたかはっきりしません。正直言ってバンバン出て来ます。それでも必要最小限にとどめたつもりです。性格そのものの言葉に「~そうな」を付けた修飾語、たとえば「陽気そうな」、「凶暴そうな」、「薄情そうな」「意地悪そうな」などが相当しますが、それらは( )内に括って表示しています。


  【歓・喜・朗
    晴れやかな、浮かれた、晴々とした、張りきった、溌剌とした、弾け
    た、清々(すがすが)しい、輝かしい、にこやかな、上機嫌な、楽し
    げな、嬉しそうな、(朗らかな)

  【怒・恐・驚
    険しい、強張った、厳(いか)つい、厳めしい、きつい、殺気立っ
    た、苛立った、勇ましい、ふてぶてしい、憎たらしい、むっつりし
    た、ふてくされた、強面(こわもて)な、尖った、緊張した、引き
    攣った、慌てた、おどおどした、不機嫌な、眼つきの悪い、苦虫を
    噛み潰した、不満げな、悔しげな、ふくれっ(面)
    (気難しい、ひにくれた)

  【安・穏・楽
    和やかな、穏やかな、寛いだ、円満な、柔和な、にこやか、呑気な、
    物静かな、晴れやかな、ほほ笑んだ、おっとりした、安らいだ、爽
    やかな、落ち着いた、満足げな、(温厚そうな)

  【悲・憂・困
    浮かぬ(ない)、さえない、くすんだ、憂い、沈んだ、やつれた、
    くたびれた、陰鬱な、小難しい、頬がこけた、渋い、蒼白な、蔭り
    のある、物思わしげな、思いつめた、辛そうな、落ち込んだ、情け
    ない、悲しげな、寂しげな、つまらなさそうな

  【理・知・冷
    凛々しい、精悍な、冷たい、冷ややかな、引き締まった、キリッと
    した、整った、溌剌とした、(利口そうな、利発そうな、賢そうな)

  【怪・訝・疑
    胡散臭い、にやけた、不気味な、抜け目ない、怪しい、不審な、訝し
    い、怪訝(けげん)な、薄気味悪い、隙のない、油断ならない、
    (意地悪な、ニヒルな、ひねくれた、冷たい)

  【品格
    上品な、垢抜けた、粋な、爽やかな、品のない、間抜けな、締まり
    のない、卑しい、にやけた、しどけない、下卑た、だらしない、脳
    天気な、田舎臭い、鄙びた、泥臭い、粗野な、荒々しい、渋い、つま
    らない、(地味な、派手な、軽薄な、野卑な)

  【作為的表情
    思わせぶりな、もったいぶった、しかつめらしい、厭味ったらしい、
    澄まし(顔)、涼しい、神妙な、剽軽な、ふざけた、おどけた、
    したり(顔)、得意げな、(落ち着き払った)

  【その他
    愛嬌のある、無邪気な、あどけない、おぼこい、生意気な、お茶目
    な、堅苦しい、無表情な、のっぺりした、ぼんやりした、掴みどころ
    のない、大人びた、老け(顔)、(真面目な、無愛想な)


 いかがでしょうか? 語彙が貧弱なもので、この程度しか思いつきませんでした。分類についても、私の独断ですから、他にも適切なやり方があると思います。

 直に顔を見て性格に当りをつけるのは比較的簡単ですが、言葉で描写するのは大変です。画家がデッサンするように、小説家は他人の顔の表情や仕草をメモし、人間を描写する力を鍛錬するそうです。私たちも電車で向かいの席に座っている人や、道ですれ違った人の表情を言葉でデッサンしてみませんか? そんなとき、今回の試みがアンチョコ代わりに重宝できたらいいなと考えています。

 “目は口ほどにモノを言い” といいますが、顔も負けてはいません。顔はその人の性格の一端を明かしてくれているはずです。他人の顔を見たとき、どんな修飾語で描写するのが相応しいか一緒に考えてみませんか? 私のお気に入りは “胡散臭い” です。



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リハビリのつもりが何時の間にか趣味に・・・

2016-01-08 08:34:51 | 言語化
 このブログへの投稿は週1回の頻度で行っています。毎日投稿できているブロガーをみていると羨ましくて仕方ありません。記憶障害と想起障害に苦しむ私としては、どうしたらこんな風にいともたやすく出来るのだろうと悩ましい限りです。

 私の場合、一昨年の9月(断酒11ヵ月目)からブログを始めていますから、今回で73回目の投稿ということになります。毎回の投稿作業はテーマかモチーフが閃いたときがスタートです。テーマやモチーフが閃いたとしても、浮かん来るのはおおよその趣旨だけで、論旨展開は思いつきそのままの乱雑そのものです。ですから、最初の2~3日は論旨展開の組み立てと、主だった言葉の肉付けに費やします。残る3~4日かけて論旨展開の再考と言葉の吟味ということになります。それでも初稿はかなり粗雑なものでしかありません。適切な言葉や表現が浮かんで来ないために、もどかしい思いのまま何日間か待つだけのことも少なくありません。

 そもそものブログに手を染めることになった切っ掛けは、アルコール依存症専門クリニックの教育プログラムでした。断酒を決意し、回復に向け飲まない生き方を続けようとするなら、酒害体験を忘れないことが絶対に必要だというのです。さらに、アルコール依存症者は、他人に認められたいという “承認欲求” が殊の外強く、その欲求不満が難題ともいわれました。

 それらの課題解決にヒントを与えてくれたのが患者仲間の体験談でした。専門クリニックでは週一回、患者仲間の体験談を聴く定例会があります。その定例会で、自分史を書いてみようと語った患者仲間がいたのです。自分史(?)、その話を聴いてこれだと思いました。自分史を綴ることは、酒害体験すべてを記録として残すことになり、それを人に読んでもらえるようブロブに投稿すればよいのではないか。回復へのリハビリとしてピッタリで、まさに “一石二鳥” だと考えたのです。私の職歴からいっても、文章を書くことに何ら抵抗はありませんでした。

 実はかつて、私自身も定年退職後には自分史でも書いてみようかと思ったことがありました。ただ、自分史などという厖大なものを書き続けるには、芯となるモチーフが欠かせません。何をモチーフとすべきか分からないまま、定年退職を迎えてしまいました。

 繰り上げ返済を続けたお蔭で、58歳で住宅ローンを前倒しで完済できていました。息子二人もそれぞれ独立できていました。墓地も住いの近くに購入済みでした。年金と預金の蓄えで、無理して働かなくても老後の生活はどうにか暮らせそうでした。二度目の狭心症も経験しました。これといって定年退職を機にやりたいことはありませんでした。・・・ 最早やるべきことがなくなっていたのです。こんな状況ですから、勢い無聊を酒で紛らわすだけ、そんなサンデー毎日に一直線となりました。自分史を書くなど、どこかに吹き飛んでしまっていました。

 こうしたわけで、専門クリニックの定例会で語られた患者仲間のアイデアは渡りに船でした。サラリーマン現役時代のいやな思い出はいつでもアルコール絡みでした。アルコール絡みの、マイナス感情に囚われた生き様をモチーフにするのなら、自分の半生を綴るのにピッタリだと思ったのです。

 それと同時にか、暫くしてからかは忘れましたが、私と同様にアルコール問題に悩んでいる多くの現役世代のことについても考えました。恐らく本人自身は気づかずに、またたとえ薄々気づいていても、誰にも悩みを打ち明けられずに独り悶々と苦しんでいるに違いありません。

 “一人で抱え込むよりも(周りを)抱き込む” 仕事の効率を上げるためにも、精神衛生の上でも、仕事の流儀として最善の策と考えています。この仕事の流儀をアルコールの悩みにも応用して貰えたら、少しでも人の手助けとなれるかもしれないと考えたのです。アルコール問題は、一人で悩んでいても、独力では決して脱することが出来ない問題です。私の体験が、一人でも多くの人を救えるきっかけにでもなってくれれば、・・・そう考えました。

 ブログへの投稿を決行したのは、憑きモノが落ちたと実感してからのことです。体験談を聴いて自分史を思い付いてからというもの、酒害体験を書き溜めてはいたのですが、アルコールの軛が投稿の決行を邪魔していたようにも思えます。謂わば正気に戻ってみて初めて、アルコールの軛の諸々に気づかされたと言った方がピッタリかもしれません。書き始めて間もなく、次のような原則を守るように心掛けました。


 ○ 事実関係の客観的な記録を残すことを優先し、単に感情を吐露
   する場にはしない
 ○ 常に “なぜ?” 、“本当?” と自分自身に問いかけながら書く
 ○ 書いた言葉がそのときの気持ちや考えに合致するまでとことん
   表現にこだわる


 自分に正直に向き合い、自分が思っていることを出来るだけ掘り下げてみようと考えました。そのために書く分量の目安は、毎回A4サイズでおよそ2ページ半(約3600字)を原則にしています。原則とは8割方守られることを意味します。もちろん例外もアリ・・・です。

 「話すことや、書くことこそが、考えることそのものだ」と言った人がいました。声にして出すか、文字に書いて目に見えるようにするか、とにかく一度自分の外に考えを出してみることが大事だと言っているのだと思います。

 私は、このことが “言語化” だと理解しています。考えが、自分の頭の中だけで堂々巡りをする ―― このような循環思考のままでは、たとえ考えているつもりでも何も生み出しません。一旦言葉にして外に向かって発し、自分から離してみなければ、悶々としたまま澱のように溜まっていくだけです。書くということは自分自身との対話です。決して循環思考ではありません。

 アルコール依存症者は二者択一的な白黒思考に支配され、認知の歪みが指摘されています。“言語化” は認知の歪みに焦点を当てて、認知を修正しようとする認知行動療法の一つです。“言語化” には、前頭葉を活性化して海馬との連携を深め、アルコール依存症からの回復を促す効用があるとも考えられています。

 アルコール依存症から回復に導くもう一つの鍵は、生活の “秩序とリズム” の維持にあると考えています。ブログへ投稿を始めるようになって、投稿することが一週間の生活サイクルの構成要素となり、さらに一日の一定時間をブログの原稿作りに費やす毎日となりました。ブログ作成が生活リズムの一端を担うまでになったのです。

 アルコール問題からのリハビリを目的の一つとして始めたブログのはずですが、いつの間にか趣味としても無くてはならないものに変わっています。アルコール依存症になっていなかったなら、ブログへの連載など想像すらできないことです。アルコールに溺れたせいで死の縁まで経験しながら、その置き土産を糧に実りある第二の人生を歩む ―― こんな皮肉なことってあるのでしょうか?

 記憶障害や想起障害については、ブログに投稿するようになって、その深刻さを実感させられました。

 公表し始めて改めてその酷さに気づかされました。原稿作成は毎回が難義の連続です。が・・・、書いている分には読み直し、書き直しが何度でも可能ですから、まだ対処の仕様があります。読み直しを繰り返して書き直してみても、まだ言葉に違和感が残ったままのこともあります。そんなときにはどうしたものか途方に暮れるのですが、・・・。

 “熟成には時間をかけて寝かすもの、想い続ければ言葉もそのうち浮かぶもの” ・・・と自分に言い聞かせています。これが、私が言うところの “言語化” 作業です。



“言語化” については以下の二つの記事もご参照ください。
“心の落ち着き(serenity)が分かる”
 http://blog.goo.ne.jp/19510204/e/4b907543497d4fdd39a81ff727208335

“回復へ―アル中の前頭葉を醒まさせる”
 http://blog.goo.ne.jp/19510204/e/ddae0e4381793bed7cd7607a548fe937

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あなたは “脳組”? それとも “肝組”? (下)

2016-01-01 05:46:12 | 病状
 “肝組” のアルコール依存症者の末期が肝硬変とすれば、 “脳組” にとっての末期はアルコール性認知症でしょうか。その認知症の初期症状が記憶障害だということは広く知られています。

 記憶を司っているのは海馬と呼ばれる部位で、脳の奥 大脳辺縁系にあります。タツノオトシゴによく似た形状だそうです。感覚器官から集まって来た情報にタグを付け、分類・整理してくれる機能があり、主に直近の短期的記憶を保存しているといいます。海馬で分類・整理された記憶はその後、大脳皮質のしかるべき部位でそれぞれ長期記憶として保存されているのだそうです。海馬はアルコールの麻酔作用を受けやすく、緊張で分泌されるストレスホルモンの一つコルチゾールで委縮しやすいともいわれています。神経細胞は再生しないとされていましたが、海馬では細胞再生があることも確認されています。

 飲酒時代、深酒した時に起きたのが一過性の記憶障害 ブラックアウトでした。記憶の保管庫である海馬が大量の飲酒で麻痺し、短期的な記憶が出来ない状態のことで、急性アルコール障害とされています。

 専門クリニック初診直前1ヵ月間ぐらいの私の記憶は前後の脈絡もなく、部分的にしか残っていません。記憶が欠けた時期には、息子との待ち合わせをすっぽかしたり、予約していた大腸内視鏡検査を反故にしたりしていたようです。まったく覚えがないですし、日付や曜日の認識も薄かったようです。

 辛うじて思い出せる記憶は断片的で、その出来事が一体何時のことであったのかも正確には分からないままです。周りの人から聞いた話や書き残していた記録から、辛うじて時期を特定できるありさまです。それでも推理でカバーし切れない部分がどうしても残ります。そんなことから以前、この状態をパーツが所々欠けたジグソーパズルと表現したことがありました。

 連続飲酒でアルコールの飽和状態になっていましたから、断続的にブラックアウト状態が続いていたのだろうと考えていますが・・・。こんな状態が続いたままだと痴呆(アルコール性認知症)にまで行ってしまうのだと主治医が説明してくれました。さすがに背筋がゾッとしました。アルコール依存症になると、ビタミンB1欠乏が原因のウェルニッケ・コルサコフ症候群を経てアルコール性認知症へと辿るルートばかりでなく、深酒によるブラックアウト頻発でアルコール性認知症にまで行き着く本道もあるのですね。ブラックアウト恐るべし、侮ってはいけません。

 断酒を開始すると快方に向かうことの方が多いのですが、数少ない新たな異変として自覚させられたのが記憶障害です。急性離脱後症候群(PAWS)の一つと言われている障害です。最初の頃は、直近の記憶がすぐ消えてしまうことから自覚させられましたが、しばらくすると意図する意味は分かっているのに、すんなり言葉となって出て来ないという想起障害も自覚するようになりました。

 記憶障害は体験談を語るときに際だっています。途中から論旨を忘れて話が飛んでしまったり、無意識に話を端折り過ぎたりして、論理の展開が支離滅裂になるのは毎度のことです。最も伝えるべきことを、コロッと忘れてしまうのですから話になりません。与えられたミーティング・テーマにぴったりの(体験)エピソードがなかなか浮かんで来ないこともしょっちゅうです。ミーティングが終わる頃になってやっと思い出せたりしています。

 会話を交わしている際は、言葉に詰まることはありますが、話が支離滅裂になることはまずありません。相手がいるお蔭で、聞き直しや相槌が入りますし、何よりも言い直しができます。それで話が逸れなくて済み、記憶障害など素知らぬ気分でいられるのだと思っています。まぁ、元々「アレが・・・、アレして・・・、アレを・・・、」で何とか会話が成り立つのですから問題になるわけがありませんが・・・。

 もっと情けないことにも気づかされました。客観的な状況判断の衰えとでもいうのでしょうか、当事者として現場にいながら半分上の空で、その場の状況や自分の心の動きが同時進行的には把握できていないことです。元々感受性が鈍いせいなのか、それともアルコールの毒性(中枢神経麻痺?)の残滓が原因なのか? ドライドランク状態のときが典型的でした。

 AAの定例ミーティングで、出席仲間の体験談すべてに鼻白んでしまったときがありました。そのときのテーマは「どうやれば、(断酒が)うまくいくのか?」でした。発表者の多くは、再飲酒に繋がりかねない “空白の時間” を作らないように例会に出続けるという類のものでした。「そんなことは当たり前で、何かより新しい、画期的なことはないのか?」と私には白々しく聞こえてきました。「こんな程度なら、ひょっとして独力でも断酒が続けられるかもしれない・・・」と憤懣やる方なかったのです。明らかに異常だったのですが、その異常に気づいたのはミーティングが終わり、もやもやしたまま帰宅してからのことでした。ネット検索した結果、ドライドランクに特有の自信過剰と初めて知ったのです。異常だと気がつくまで1時間程度の時間が経っていました。

 人との会話中、無闇やたら浮かれ調子でいたことが多々ありました。相手が話し上手というわけでもなく、波長が特別に合うというわけでもないので、普通ならば自分の奇妙さに直ぐピンと来るはずなのです。その場を離れて初めてハシャギ過ぎに気づく、そんなことがしょっちゅうでした。会話の最中にあっては、ただ今日はちょっと頭の回転がイイかな(?)ぐらいにしか思わなかったものです。

 AV動画に憑りつかれていた際も、それに気づくまでに結構長い期間を要しました。暇さえあれば動画サイトにアクセスせずには済まなくなり、初めて何かオカシイと異変に気づいたのです。その後、どうにも離れられなくなっていることに困り果て、ヤケクソで画面を叙述し始めました。その膨大な言語化作業の末に、突然憑きモノが落ちたと体感できたのです。正気に戻って初めて、それまでの諸々の異常に気づかされました。アルコールの毒性が妄想として残っていて、それがAV動画に駆り立てていたのだと悟ったのです。

 今の私にとって、“気づき” とは、ハンパない事後になって初めて理解できることを意味します。旧式の蛍光灯と同じで、間をおかないと気づかないままでいます。大事であればあるほど瞬時の閃きで即座に理解できることは稀です。これは果たして断酒後に始まったことでしょうか? 渦中にありながら事の重大さにピンと来ず、価値判断が即座にできなかったことが飲酒時代にもあったと気づきました。

 アルコール依存症と宣告された直後の47歳の時、新薬の申請資料について当局と突っ込んだ話し合いをしていたときのことです。当局が新薬の特徴にかかわる際どい問題に触れ、根拠データが不十分だと暗に仄めかして来たのです。当局が明かした懸念に対し、即座に的確な応答ができませんでした。オウム返しに確認しはしましたが、当局の真意を問い質すまでには至りませんでした。結局、当局の本音を聞き出せないままに終わったのです。後になって気づいたものの、文字通り後の祭りでした。

 素面で酔ってなどいませんでしたが、緊張していたのでしょうか? それともアルコールが体内から消えても作用は残ったままだったのでしょうか? ちゃんと話を聞いていたのに、半ば上の空で意識が飛んでいたようにも思えます。視野が狭まり多角的な見方ができなくなっていた状態は酔ったときと同じなのです。

 アルコールはその麻酔作用で思考回路を麻痺させると同時に、ストレスホルモンのコルチゾール分泌をも亢進させます。記憶機能の要・海馬はこの両者の影響を受けやすい部位です。海馬の記憶機能と、多角的な思考回路の両者が麻痺した状態では、AならばBだけという超短絡的な思考回路しか機能しないのではないでしょうか? 短絡的な思考回路だけでは二者択一的な判断だけとなり、バランスの取れた(価値)判断はできなくなります。アルコール依存症者に多い思い込みと白黒思考はこれが原因なのかもしれません。

 “気づき” には単に記憶ばかりでなく、事の軽重を量る価値判断が深く係わっていると思えてなりません。当事者として現場認識が鈍いということは、価値判断が鈍いことと同義に思えるのです。

 価値判断は、情動(感情)を司る扁桃体が記憶を司る海馬と連携して行われるのだそうです。確かに価値判断には比較すべき対照事案が必要で、対照事案は記憶の中にしかありません。さらに対照事案を動員するには多彩な思考回路が必須です。アルコールがこれらのネットワークを障害し、機能不全の状態が長く残るのだと思います。しかもその回復には相当の時間を要しそうなのです。

 事が重大であればあるほど思考回路が固まってしまい、適切な価値判断が即座にはできなかった経験 ―― 患者同士で話し合ったことはありませんが、こんな経験は多くのアルコール依存症者に共通しているのではないでしょうか? どうやら感受性が鈍いのはこのあたりに原因がありそうです。AならばB、またはCかD・・・という複眼的思考のネットワークが、酒を断った後でも多くのアルコール依存症者で損なわれたままだからと思います。

 アルコール依存症は “否認の病” とも言われています。 “否認” するのは記憶障害や価値判断の鈍さと関係していると思えてなりません。記憶は時間が経つと矮小化されるか美化されます。酒が原因での不始末が記憶としては些細なものとしか残らないのも、記憶障害や価値判断の鈍さの所為かもしれません。記憶や価値判断が健全に保たれていることは人間としての矜持を保ち続けることに繋がります。アルコールの慢性毒性は人間としての矜持を損なうものかもしれません。本当のアルコールの怖さはここにあります。

 海馬は再生するそうですから、今後は言語化を実践して前頭葉を鍛え続け、多様な思考回路を回復させるだけです。回復できるまでは、思い込みや白黒思考に陥らないよう、 “一息ついて 一歩引いて” ・・・気づくまでには時間がかかる・・・です。


PAWS(急性離脱後症候群)―― 断酒してボケが始まった?」もご参照ください。


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コメント (5)
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