ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その4)新薬の臨床開発最大の山場とは?

2014-10-28 19:36:55 | 自分史
 ここでは、新薬の臨床開発の最も難しい場面を紹介しておきましょう。

 治験薬はいくつもの治験を経て医薬品になります。臨床開発の最終段階では、既に患者に広く使われている市販の医薬品と比較する治験を行い、市場に受け入れられる資格の有無が検証されます。これを比較検証試験といいます。臨床開発最大の山場です。

 従来品よりも有効性に優れ、安全性でも変りなければ市場に受け入れられる資格ありとなるのは当然でしょう。あるいは、1日1回の服用だけで1日3回の服用と同程度の効果があれば、忙しい患者にとって簡便で飲み忘れも防げることから、市場に受け入れられる資格ありとなりますよね。このように市場に受け入れられる資格=長所のことを臨床的有用性と言います。

 医薬品として国に承認されるとは、市販の従来品と比較した検証試験の結果を見て、治験薬に臨床的有用性があると国が承認することです。

 臨床開発担当PMとしての重責は、研究会組織の代表世話人と幹事役の選定以上に、比較検証試験の対照薬の選定があります。

 対照薬とは検証試験で比較する相手のことで、似たような薬理作用を持ち、同じ適応症(効能効果)を持っている薬であることが必要です。さらに、新薬を開発する側から言えば、対照薬は市場で評判の高い “売れている薬” であることが重要で、同時に治験薬が “勝てる相手” でなければなりません。対照薬に勝つ=優ることが即ち商品としての付加価値となるわけです。

 ですから、臨床開発を始める前に対照薬を慎重に選定し、いくつかの治験をやりながら治験薬が対照薬に “勝てるための用法・用量” を模索して決める、このことが臨床開発そのものとなります。相手として不足のない土俵(?)まで治験薬の用量を引き上げていくわけです。用量が高いほど薬の効果は強く出ます。

 検証する目的で通常採用される試験方法に二重盲検比較試験法があります。

 二重盲検というのは、X薬とY薬を比較する時、使用する薬が医師も患者もどちらの薬か分からない秘密のままの状態で服用して貰うことを言います。日本では治験を依頼している製薬会社ですら、どちらの薬か分からない状態で行いますから三重盲検というのが実態です。
 
 盲検化というのは、外見の形状や色、重さ、味、稀に匂いまでも、どちらの薬か区別がつかない状態にすることです。

 対照薬は別の製薬会社ものですから、こちらの希望通りに製剤化したものを製造して貰えません。そこで通常はダブルダミーという方法を採用します。対照薬の製造会社からは、商品そのものと商品に酷似したプラセボ(偽薬:有効成分を含まないもの)を有償で提供して貰います。二重盲検の場合、2種類の薬とそれぞれのプラセボを組み合わせて盲検化するわけです。

 新剤型薬LAの二重盲検の場合を例としてみますと、患者が実際に受け取る薬剤は次のようになります。
 X薬のLAはカプセル剤です。Y薬の普通製剤は錠剤です。患者は一見2種類の薬からなる薬剤のセットを渡されます。
 LA服用群の患者には、朝服用分としてLAの実薬のカプセルと錠剤のプラセボ、昼・夕服用分として錠剤のプラセボのセットが渡されます。
 これとは反対に普通製剤服用群の患者には、朝服用分としてLAのプラセボのカプセルと錠剤の実薬、昼・夕服用分として錠剤の実薬のセットが渡されます。
 どちらの患者も説明を受け同意した上で、一見2種類の薬を1日3回服用することになるのです。

 治験に参加した患者全員が服用を終了し、それらのデータが完全に固定されて後、初めて各々の患者が使用した薬がX薬かY薬か、そのどちらだったのかが明かされます。これをkey open(開鍵)と言います。開鍵して初めて結果が明らかになり、X薬とY薬の優劣が判明するのです。

 臨床開発が丁半賭博のような博打的性格が非常に強いと言ったのはこのことです。ですから、開鍵の場に居合わせる臨床開発担当PMは鼓動が速くなり、資料も読めなくなるほどの緊張状態で、生きた心地がしません。会社経営に直結しますから社長を初め経営陣も固唾を飲んで結果報告を待つだけです。結果報告は “勝った” か “負けた” かのどちらかです。

 医療用医薬品はすべて、このような客観的検証を経て世に出て来ます。新薬開発には何十億、何百億円もの開発費が必要です。そんな莫大な開発費を賭けた合法的賭場から生まれて来るのが医療用医薬品なのです。開鍵直後に飲む酒は勝っても負けても不思議と酔えないものです。

 比較検証試験の結果、新剤型薬LAは、目標としていた適応症の内、高血圧症については成就でき、代表世話人が異なる狭心症は無念の結末となりました。代表世話人の実力の違いをまざまざと見せ付けられた次第です。検証試験を無事済ますと承認申請資料を作成して国に承認申請し、後は国の下請け機関による承認審査待ちとなりました。


 アルコール依存症へ辿った道筋(その5)につづく



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!
にほんブログ村 アルコール依存症
    ↓    ↓
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルコール依存症へ辿った道筋(その3)生き残りを賭けた最初の本格的な仕事は・・・?

2014-10-18 06:11:29 | 自分史
 まず、医薬品の臨床開発業務に関する用語を簡単に説明しておきます。

治験薬
国から未承認の医薬品の卵のことで、国に届出ることで仮免許=治験で臨床的に患者に使用可能となる、例外的に認められた薬のこと。
治験
国の承認を得るために実施する臨床試験のこと。医療現場では、医師が同意を得た患者に治験薬を実際に使用し、その結果得られる安全性(副作用など身体への不都合の有無)と有効性(病気を改善させるか)を調査します。手続きとしては、製薬会社が国に届出をした後、第三者機関による実施の承認を得て、製薬会社が医療機関(病院)と医師と三者契約を交わして実施されます。通常、ひとつの治験は医療現場側との契約開始からデータ回収終了までに実地で1年程度を要します。
臨床開発
治験計画の企画・立案、国へ治験の届出、医師へ治験依頼、治験の契約締結、治験中の実施状況の情報収集(特に安全性情報)、治験データの回収・解析、その解析結果を総括報告書にまとめることが一つひとつの治験の通常業務。複数の治験を実施し、さらにそれらを簡潔にまとめた概要を作成して、国への承認申請資料を作成します。これらが臨床開発業務の柱です。

 私が34歳、N先輩がグループリーダーになったころ、私にも本格的なPMの仕事が回ってきました。それまでは比較的暇なプロジェクトを兼務していましたが、今度は専任です。自社開発治療薬1号品Cの作用持続時間を長くし、1日1回だけの服用で十分とした新剤型薬(改良品)LAの臨床開発で、後発薬(ジェネリック)対策のプロジェクトでした。特許が切れて後発薬が市場に出る前に国の承認を得、発売まで漕ぎ着けることが課せられたノルマです。

 対象となる臨床分野はN先輩がかつて格闘していた高血圧、狭心症という同じ循環器領域です。改良を加えただけの新剤型薬でも臨床開発に要する人手と時間の手間は本格的な新薬と何ら変わりません。治験の依頼先となる病院数は全国で総計100余にもなる大規模なもので、経験豊富な専門医師を相手にコミュニケーション力をはじめ、度胸と体力と細心の注意力が要求されます。許された時間はあまりなく、逼迫していました。会社で生き残るために、失敗が絶対に許されない仕事でした。

 実施チームのメンバーは実質3人だけです。経験したことのない強烈な重圧が懸ってきました。散々苦労した大学入試の入試前夜や当日朝の緊張など比ではありません。失礼、大学入試とは全く質が違いますよね。

 新剤型薬LAの対象となる臨床分野はかつてN先輩が格闘していた高血圧、狭心症という同じ循環器領域でしたので、具体的な業務上の指導があるものと期待していました。最も期待していたのが対象領域の医師の人脈情報です。

 研究会を組織するにあたって、最も相応しい代表世話人(chair)と幹事役の中心メンバーは誰かが最重要ポイントです。これが決まれば、治験を実施する病院がほぼ決まります。まず幹事役に関連病院を紹介してもらい、営業部門と相談して調整し、決定するだけでよいことになります。ここがシッカリしていれば、よほどのことがない限り依頼先から断られることはまずありません。

 しかし、N先輩からは大雑把な一般的助言しか得られませんでした。それが当初は不満でした。オピニオンリーダーの世代交代がすでに進んでいたので、肝心の医師の人脈部分が変わっていて、もはや指導できなかったのです。それは無理もないことと、仕事を進めていくうちに納得できました。結局、営業部門の上級幹部も交えて相談し、当時の最高権威と考えられていた超大物医師を代表世話人の候補に選び、口説き落としに成功しました。これで新剤型薬LAの臨床開発は半分以上成功したに等しいものでした。

 治験の依頼先の病院数が全国で総計100余に上り、それらを少人数でカバーするのは文字通り大変な仕事です。全国に散らばる支店にも臨床開発に協力してくれるスタッフが配置されてはいましたが、自分たち臨床開発部門の管轄ではなく、営業が主眼の各支店長の管轄でした。ここぞという時は必然的に自分たちで出向かざるを得ず、出張が多くなりました。

 面談の約束をとってから行動するので、同じ地域の医師に会うにしても、どうしても都合がつかず別々の日になってしまうこともザラにありました。面談時刻の関係や別の面談先との調整で宿泊した方が効率的な場合以外は、全国どこでも可能な限り日帰り出張が原則でした。月曜日に出社し、翌日から出張、次の出社が翌週の月曜日ということがしょっちゅうでした。

 出張続きだったことから、溜まった内勤業務をこなすため休日出勤が度々必要になり、土日が全部つぶれたこともありました。正直、体力的にも精神的にもキツイ仕事でした。二日酔いで身体がだるくてシンドイ時には、医師との約束のない日であれば、ズル休みを決め込むことがありました。医師との約束は絶対です。二日酔いは大体朝10時過ぎぐらいになると身体がシャキッとしてきます。ズル休みなどしたことのない妻からは不審の眼で見られ、嫌味を言われていました。

 医師は超多忙です。医師との面談は最初の1~2分が勝負です。相手の勘所を押さえることに全神経を集中し、相手に合わせた話し方で簡潔に訪問目的を伝えます。これに成功した後は、10分ほどの時間で肝心の依頼事項を正確に伝え了解してもらいます。運がよければさらに30分~1時間ほど時間をもらえることもあります。そんなときは、親しい医師仲間の近況を報告したり、他社の治験薬の開発状況を聞き出したり、医学的に難しくて分からない点をじっくり相談したりするのです。

 やや前屈みの姿勢でゆったりと和やかに構えながら、そのくせ一言も聞き漏らすまいと耳をそばだて神経を張り詰めての会話です。これが臨床開発の大事な仕事のひとつです。これが出来るようになれば臨床開発スタッフとして晴れて一人前となります。相手の医師が歓迎してくれるようになったらシメタものです。

 日帰り出張では、仕事を済ました達成感や解放感と興奮した神経を鎮めるため、帰路の車中ですぐに缶ビールです。1缶では済みません。帰宅しても再び一人で飲み直しです。そのうちビールだけでは満足できなくなり、ウイスキーの水割りも追加するようになりました。

 アルコールに耐性が出来たんですね。心配になった妻が、ウイスキーの瓶にマジックでその日の残り量の所に印をつけるようになりました。そのマジックの印の間隔はだんだん広くなって行きました。宿泊が伴う場合は、現地のスタッフと飲食しながら情報交換し、ホテルに戻って一人になってからも再び部屋で缶ビールの飲み直しでした。飲酒が習慣化してしまっていました(習慣的飲酒)。

 体重が70Kgを超え、最悪の時には75 Kgにまでなりました。入社時はたったの58 Kgだったのです。検診で血圧もじわじわ上がり始めていました。仕事のストレスで神経が緊張し続けていたこととタバコの吸い過ぎが原因だろうと考えていました。肝機能の悪化ならばアルコールが原因と察しがつきます。肝機能は正常でした。血圧の上昇がアルコールによるものなどとは夢にも思いませんでした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その4)につづく


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!
にほんブログ村 アルコール依存症
    ↓    ↓
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルコール依存症へ辿った道筋(その2)素面の頭で会社勤務時代を振り返ると・・・?

2014-10-13 13:07:38 | 自分史
 自助グループAAの定期ミーティングで「人付き合い」というテーマの日がありました。しばらくの間、このテーマが釣り針のようになぜか心に引っ掛かり続けました。

 一方で、毎日通院しているアルコール依存症専門クリニックの教育プログラムで、自分の飲酒原因を他者のせいにする「他罰的」という心の障害についての講義を聞いている時、頭の中がピカッと光ったのです。継続断酒8ヵ月目のことです。製薬会社勤務時代の先輩のことが鮮やかに蘇ってきました。

 「他罰的」の講義はその時が初めてではありません。それまでも何回か聞いてはいましたが、私には心当たりがなく、自分には無関係なことだと思い込んでいました。

 「他罰的」という言葉に「人付き合い」という言葉が一緒になって、会社勤務時代のどうにも思い通りにいかないくなった時のことを思い出させてくれたのです。そのどうにもならない原因を苦し紛れに年齢の近いN先輩に転嫁したことがあった、それが「他罰的」に当たるのだろうと思い当たりました。N先輩は私の羨望と嫉妬の対象だったのです。先輩には濡れ衣のような、迷惑この上ない話だと思います。ずっとモヤモヤしていたことが、ひとつ晴れました。

 新聞記事や成書では、退職後は在職中の地位の話題など会社時代に関することをあまり引きずらないよう戒めています。私はその戒めを守っていました。それに加えて、会社勤め時代の酒に纏わる事柄があまりに後ろめたく、あまり思い出したくない記憶であったことから、無意識に内に封じ込め、すべて触れないようにしていたかったのかもしれません。


 その製薬会社には25歳の時に入社しました。最初から臨床開発部門に配属されました。新入社員としては異例でした。普通はまず営業部門に配属というのが当時の人事の慣例でした。臨床開発部門に配属されたのはたったの3人です。会社は当時中堅どころで、社長の号令で医療用医薬品(治療薬)の新薬を自社開発しようと歩み始めたばかりでした。社長は30歳代と若く、中庸ということが嫌いで業界のシガラミとは無縁の人物でした。

 私が29歳の時、会社は自社開発の治療薬1号品Cと治療薬2号品Mの商品化にほぼ同時に成功しました。会社としては本格的な治療薬の臨床開発が初めてのことで、全くの経験不足のために、特に治療薬1号品Cは相当テコズリました。そこで臨床開発の責任者のPMを更迭し、アシスタントPMだったN先輩をPMに据え変えた上で、専門家医師団の方も大物医師をトップに据えた研究会組織に組み替えて、やっとものにした化合物でした。

 大物医師というのは、研究者でもある医師のサイフを握っている人物、すなわち科学研究費補助金(科研費)の選考に強い影響力を持つ人物のことです。その次に大物とされるのは、専門領域の学会の重鎮ということになります。

 医師の世界は、各大学とも教授を頂点として教室・医局から関連病院まで強固なヒエラルキー(ピラミッド型階層組織)を形作り、指揮系統が明確なものです。これらのネットワークが専門領域内の力関係や協力関係を強力に支配しているのです。どのボタンを押せば世の中がどう動くのか、このネットワーク通りに動くのが医者の世界です。逆にこれを弁えていないと必ず失敗する、恐ろしく狭い世界でもあります。このネットワーク情報が医師の人脈情報です。新薬開発業務の重要なノウハウのひとつです。

 N先輩は年齢で3年、社歴で5年しか離れていない私と同年代の人物で、地方の国立大卒でした。在学中は馬術部に所属し、自嘲気味に馬術学部卒と自称していました。なかなかのイケメンでプライドの高い人でした。20歳代後半から30歳代初めの若さで大した業績を上げたのです。この実績からN先輩はアレヨアレヨという間(と、私には思えました)に昇進・昇格し、人事権のあるグループリーダー、さらにはグループの担当部長職になって行きました。そして私が30歳代半ばには直属の上司となったわけです。

 それでも新入社員のころ、当日出張しなければならないことを職場でボヤいていたN先輩を見ていたので、先輩の上げた成果と昇進・昇格は当然自分にもできることだと思っていました。自社開発の治療薬2号品MのPMは臨床開発部門のトップ、正開発部長職になり、後に専務にまで登りつめました。これぞ臨床開発畑からの典型的立身出世物語です。

 新薬の開発では、特に臨床開発が肝腎要で、成功か失敗かしかありません。丁半賭博のような博打的性格が非常に強いのです。この点、通常後継化合物のある基礎研究開発(創薬)とは異なります。臨床開発の責任者は博才のある人物こそが適任と製薬業界では冗談か真か(?)、結構真面目にそう考えられています。

 私が本格的な臨床開発業務に取り組み始めたのは34歳の時からです。この年に起きた歴史的大参事についても触れておきます。

 この年の夏(1985年8月12日)、羽田発大阪行の日航機がダッチロールしたあげく御巣鷹山に墜落し、520名の乗客乗員が死亡した大事故がありました。

 東京出張から帰りの日でした。三島を過ぎた付近で、私は缶ビールを片手に新幹線の窓から雲行きがひどく怪しい空を眺めていました。いつもは見える富士山は見えませんでした。私が寛いで缶ビールを飲んでいたちょうどそのころ、日航機が垂直尾翼を吹き飛ばされてダッチロールしながら上空を飛行中だったのです。猛烈に揺れ続ける機内で人々が囚われた恐怖は如何ばかりのものだったでしょうか。その日航機で帰る可能性もあったのです。

 大阪の会社では、東京出張中で連絡がとれない社員がいることに大騒ぎになっていたといいます。帰宅して初めて会社から連絡があったことを知り、無事に帰れたことにホットしビールを飲み直しました。嬉しくて飲む、悔しくて飲む、不謹慎ですが、私のいつもの飲酒パターンです。このころはまだ飲酒コントロールが出来ていて、飲み出したら止まらない、というものではありませんでした。年一回の健康診断や体調がすぐれない時などには1週間程度の酒断ちはまだ出来ていました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その3)につづく



ランキングに参加中。クリックして順位アップに応援お願いします!
にほんブログ村 アルコール依存症
    ↓    ↓
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルコール依存症へ辿った道筋(その1)アルコールとの馴れ初め―プロローグ

2014-10-06 20:56:15 | 自分史
酒と煙草はカッコイイ大人の男のシンボルだった。

 生まれ育った東北・岩手の農村では酒が当たり前のもてなしで、寄り合いの場合に漬物と一升瓶の酒が出るというのはごく普通のことでした。郵便局員などが保険の集金に来たときなど、文字どおりのアカの他人へ応対する場合のみお茶が出たのです。

 小学校に上がる前に、そのような寄り合いで父に勧められ酒を初めて口にしました。アルコール特有の刺激を舌と食道に感じ、脳ミソが真綿で包まれたようなモワーッとした感覚を覚えています。少しハシャイダぐらいで、ひどく酔っ払うことはなかったと記憶しています。顔が赤くなるのではなく、あまり変わらない体質だったようです。

 虚弱体質だったこともあり、小学校の中学年ころから養命酒を勧められ常用するようになりました。1~2年ぐらい続いたでしょうか。それを見た周りの大人たちは、将来辛い洋酒を好むようになるだろうと言っていました。

 ビールは中学生の時に初めて飲みました。独特の苦みに閉口したことを覚えています。それでも、度々ビールを口にするようになってからは抵抗なく飲めるようになっていきました。大学受験を控えていた高校生のころには、受験勉強に疲れた深夜、部屋の隣の台所にあった梅酒をコップに1/3ほどくすね、隠れて飲むことが時にありました。頭が解放されるような感覚が快く感じられました。当然勉強はそこまで、寝酒ですね。

 大学浪人1年目の時に急行列車で上京する際、座席が向い合せになった老女がビールを飲んでいる自分をみて、「酒を飲める人は偉くなれるよ」と言ってくれたことがありました。人付き合いにあまり苦労しないだろうという意味だったのでしょう。悪い気はしませんでした。私は上昇志向が強かったため、この言葉はむしろ心地良いものでした。田舎出の立身出世ですからね。自分に都合の良い言葉だったら、簡単に頭に刷り込まれてしまうのが私の若いころからの性癖です。

 洋酒のCMも影響したかもしれません。サントリーのウイスキーのCMでは開高 健、山口 瞳ら(?)がそれぞれ単独で出演していたように思います。瓶から氷の入ったグラスにウイスキーが注がれる音。煙草を燻らせ、グラスのウイスキーを一口飲む。グラスの中の氷が音を立てた。文化人というのはこういうカッコいい寛ぎの時間を持つものだと、これも頭に刷り込まれてしまいました。

 大学浪人1年目の入試が近づいたころ、予備校の寄宿舎の勉強机の書棚には、受験参考書とともにウイスキーとブランデーの瓶を並べて悦に入っていました。あのカッコイイ文化人の真似です。タバコも浪人仲間につられ吸い始めていました。初めの内は頭にクラッと来て、煙を口からフーッと吹き出す。それが良かったんですねぇ。銘柄はハイライトでした。この年、速いテンポながらどこか感傷的な『悲しき天使』(メリー・ホプキンス)が大ヒットしました。好きでしたね。

 高い合格確率圏内にあったことを良いことに、目前の入試という現実から眼を背け逃げていたんです。気の緩みとその後ろめたさから、入試直前にはえもいわれぬ不安と緊張感が募っていました。その挙句に入試前夜、一睡もできなかったのが祟り、敢無く討死でした。自分の受験番号が載っていない合格発表を見た帰り道、寄宿舎近くの海に一人で行ってみました。晴れた日なのに夜のように暗く、冷たい風の強い早春の浜辺でした。

 予備校の寄宿舎仲間は全員が合格しましたが、自分が合格するのにはもう一年要しました。

 19歳の二浪の時には寄宿舎を出てアパート住まいを始めました。寄宿舎で働いていた同い年の娘と初めて関係を持ち、週末にちょくちょく自室で会うようになってしまいました。彼女は高校を中退し、親元から離れて寄宿舎の賄い係りをしていました。寄宿舎の食堂で彼女に目をつけ、そのうち彼女と目が合って気持ちが伝わるようになっていたのです。入試に失敗してから二人の距離が一気に縮まりました。それで寄宿舎を出た方が便利と思ったのです。

 二人とも心に傷を負い居場所がないところが共通していました。心に傷手を負っていながらも、身体の方は溢れんばかりの若さですから、あとは推して知るべしです。初めての若い女性の肉体に耽溺してしました。互いに傷口を舐め合うように夢中で何回も求め、何回も果てました。

 こんな具合ですから、資金調達の必要からアルバイトも時々しなければなりませんでした。またもや大学受験という現実からから眼を逸らせ、不安にまかせてただ逃げ出したかったのに違いありません。眼前の重いストレスを紛らわすため、傷手を負った心のShelterを性に求める私の依存癖の始まりでした。

 自分一人だけが浪人という不安定な身分に相当焦っていました。酒もときどき自室で飲んで気持ちを紛らわしていました。飲みながら遣る瀬なさに泣いてしまったこともあります。お金がなかったこともあり深酒はナシです。それだけは自重していました。この年の重大事件、三島由紀夫の割腹自殺事件の時も、予備校でではなく自室にいてニュースで知りました。

 そんなふうに本業であるべき受験勉強に集中するでもなく、ただただ不安定な生活を送っていました。それでも、志望コース別成績順位と偏差値が決まる試験日には、定期的にシッカリ予備校に通いました。公開模試もあったので試験は頻繁に行われていました。蓄積があったので基礎科目の成績はほとんど落ちることなく、高い確率の合格圏内にはどうにか留まっていました。

 入試直前の3ヵ月間、友人と一緒に選択科目を合宿勉強しやっと合格することができました。その友人は前年すでに合格し在学中でしたが、どうしても医学部に進学したくて在籍したまま再受験に挑戦したのです。私を激励することが真の目的だったのかもしれません。

 合宿中、勉強の息抜きに公園でブランコを漕ぐことに嵌り、それが日課みたいになりました。坐ったままブランコを思いっきり漕いで勢いをつけ、そのまま飛び出して危険防止用の囲いの柵を飛び越えるという遊びもしました。成功したら合格、験を担ぐみたいなものです。危険この上ない行為です。だからこそ、二人とも必死だったと思います。間もなく、二人とも難なく成功できるようになったのですが、試験に合格したのは私だけでした。浪人中に受験勉強を死にもの狂いでやったのはこの合宿中だけだったような気がします。もちろん、合宿中は酒も女もナシでした。

 これが私の幼年~青年期の飲酒体験です。アルコール依存症へのプロローグです。このようなウォームアップ期間があったので、成人して飲酒する際は全く躊躇もしないし、危ないイッキ飲みもしませんでした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その2)につづく


『悲しき天使』(メリー・ホプキンス 1968)はこちら

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!
にほんブログ村 アルコール依存症
    ↓    ↓
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする