ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その20)離婚届と手紙の交換?

2015-02-27 18:29:21 | 自分史
 こんな言葉があります。
「男は浮気した女の肉体に嫉妬し、女は浮気した男の心に嫉妬する」。
当時の私が抱いていた男女関係もこんな類いのものでした。以下は、私に当時取り憑いていた妄想の一端です。

         *    *   *   *   *
 エロス=性愛の領域は、相手が独立した人格と認める日常とは全く異なった精神領域にあります。日常では他人という人格は自分の思い通りにならない存在との認識が普通です。ところが性愛では違いがある人格は邪魔です。黙殺出来る程度の相違の方が良いのです。“臍下三寸は別人格” とはうまく言ったものです。

 性愛の領域では、相手が自分好みの体型をしていて、自分の欲求を思いのままに受け入れてくれ、愛撫に反応してくれ、快感をストレートに表してくれることが一番よい相性となります。いわば異性が生きた愛玩ペットであることが最高なのです。

 男も女もお互い相手の性器を前にすると、人格の違いなど全く気にしない異質の意識へとスウィッチが入り、恥も外聞もかなぐり捨てて異質の行動を採るようになります。まさに異次元の別世界へワープ(warp)する感覚です。

 AVも含めた性風俗の根強い人気は、男性に共通するこの異次元の別世界へワープしたい意識があるからです。その業界に働く女性も同じ意識を共有しているから、たとえ相手が初対面でも大して抵抗もなく従事できているのです。

 性愛は日常の善悪を超越した世界です。一心同体が唯一の目標となる共同幻想、共同妄想なのです。性ホルモンという物質に操られた本能によるものです。日常はその対極にあるいわば理性優勢の世界です。

 日常と性愛とは日々共存していますが、そのうち日常の方が圧倒的に優勢となってしまうのが結婚生活です。日常が優位な精神状態でなければまともな経済活動はできません。稼ぎがなければ結婚生活は必ず破綻するのです。

         *   *   *   *   *
 手紙を見つけた時の私は、妻が別の性愛の世界に移り去ってしまったこと、つまり “寝取られた” ことに衝撃を受け、その事実が受け入れ難かったのだと思います。妻の心に嫉妬したわけでもなく、妻が愛しかったからでもありません。自分流に築き上げてきた性愛の世界を K にあっけなく壊されて無くなってしまったことに嫉妬して怒り狂うこととなったのです。

 妻という存在は独立した人格で、独立した人格は自分の思い通りにはならない、だからこうなる事態も当たり前、と判断できる日常の理性は全く頭になかったのです。このように通俗的としか見えない怒りの感情にも合理的な不合理があります。

 妻と K の二人が息子たちを巻き添えにした罪も許せませんでした。信用していた母親に自分たちは裏切られたと思ったに違いありません。旅先で長男は一人離れて行動していたそうです。私の築いた家族は私の知らないところで文字通りバラバラにされていました。大人の分別を欠いた二人の狼藉に腹が立ったのです。

 その翌々日だったと思います。昂ぶった気持ちを鎮めるためもあって、気晴らしに市内をサイクリングしに出掛けました。交差点では舗道と車道の境が段差になっていますが、その段差の衝撃で前輪が支軸から外れてしまいました。15~20分ほど走ってからのことで、スピードを出していたら身体が前方に飛ばされてしまう危ういところでした。車が通りかかっていたら間違いなく人身事故でした。

 車輪と支軸がナット圧だけで繋っているという簡単な構造だったからで、近くにたまたま自転車屋があったので緩んだナットを締めてもらいました。その時は人為的な細工の可能性など思い浮かばず、ナットが緩むこともあるんだと余り気に留めずにいたのです。

 手紙の発見から7日ほどしてからのことです。会社から帰ってみると、室内の雰囲気がどこか違うことに気付きました。調べてみると、例の箱とは別にしていた手紙が皆持ち去られていたのです。箱の方はそのまま残っていました。自転車の前輪外れも意図的な事件だったかもしれないと思われ、心底背筋が凍る恐怖にかられました。

 不安で居たたまれず親友の Y に電話し、殺されるかもしれない恐怖を伝えました。K と妻のコトの経緯を洗いざらい打ち明けました。この Y と、かつて大学受験のとき合宿した T、それと K の三人を私は親友と思っていました。翌日 Y が東京からわざわざ駆けつけて来てくれました。

 「有朋自遠方来、不亦楽乎」論語のこの言葉がぴったりの頼もしい援軍に映りました。二人で酒を飲み、愚痴をこぼすことが出来て、私はやっと落ち着きを取り戻したのです。酔いの勢いで深夜に本宅マンションを見てもらいにも行きました。往復とも徒歩行ですから2時間以上かかりました。酔って気が大きくなっていなければ、とても出来るものではありません。Y は快く付き合ってくれました。

 泥棒みたいに勝手なマネをされたことに腹の虫が治まらず、翌日妻に電話で抗議しました。

 いの一番に不在時に無断で部屋に入り込み、勝手に手紙を持ち去ったことを詰(なじ)ってやりました。妻は、部屋に入れるのは鍵を持っている長男だけで自分はやっていない、勝手にものを持ち去ったと言うなら自分(私)こそ大切なプライバシーそのものをコソコソ盗んだではないかと反論して来ました。そこで私は自転車のナット緩みの件も持ち出し、私を殺(や)ろうとしたのではないか問い詰めてみました。当然、妻の応えはそんなことは知らないと冷やかに言うだけでした。

 こうなったら不毛の水掛け論です。つまらない論争になったと思い電話を終えました。妻への不信感は拭えないままでした。離婚はもう避けられないと考えていました。

 離婚に同意すると妻に伝えたのは翌月になってからでした。さらに1ヵ月して協議離婚に同意する覚書を交わしました。

 覚書では、管理費・光熱費・電話料金を私が負担するままとし、二男が高校を卒業するまで本宅マンションに住み続けることを容認、というのが主眼でした。が、文案中に書き込んだ “不義密通” という離婚原因の言葉に妻が強い拒否反応を示し、削除を求めてきました。なぜ拘るのか興味がありましたが、何も言わず削除に同意しました。

 “不義密通” とは掟破り(違法行為)のことです。覚書が文書である以上、文言の削除はそれを認めないという意思表示です。妻としては、心底本気だったと言いたかったのか、責任と原因はむしろ私にあると言いたかったのか、そのどちらかだったのでしょう。“不義密通” という文言を入れたのは、口惜しがる私の心の卑しさだったのです。

 K が自殺したと Y から連絡があったのはそれから間もなくだったと思います。このことを妻には伝えませんでした。正式な離婚届の提出はさらに1年半後のことでした。妻の捺印済離婚届用紙と物々交換で K の手紙の残り全部を妻に返却しました。


 別居後の私が清廉潔白であったわけでは決してありません。私も性愛相手を捜していました。別居したからこそ猛烈な性的欠乏感を覚えたのだと思います。アルコールで増幅された性的妄想が再び手引きをしていました。

 金銭だけを介する風俗は無機質で味気ないと思い、夕食を毎日とっていた食堂でアルバイトしていた中国人の女医とか、会社の受付の女子社員や、仕事で使っていたスナックのママなどが手短な物色先でした。そのうちスナックのママが相手をしてくれましたが、結局高くつきました。

 ママのスナックでアルバイトをしていた中国人ホステスが客の上着からお金を抜いていたことが発覚し、ママがその分を補填して客に返金したという事件がありました。返金してもらった客が店に戻って来なかったので、困ったママは私に会社の同僚分を要求してきたのです。女は結局、万事がお金だと思い知らされました。そう口惜しがる男も何のことはない、同じ穴の狢(ムジナ)なのです。

 “現代人の神はお金である” と見事に喝破した人がいました。ナンダカンダ御託を並べてみせても、キレイ事で済まないのがこの世の中です。全能の神、お金。私は全面的に同意せざるを得ません。


 今振り返ってみると、自宅マンションの購入や、仕事での成功(社長賞受賞)、昇給実現、息子たちの私学への入学など、ささやかながら目に見えて幸運が続いていました。結婚以来、抱き続けてきた理想が形になったのです。

 これらの目に見える小さな幸せに妻共々無邪気に舞上がってしまい、心に隙が出来ていたのでしょう。慢心からの落とし穴にまんまと嵌ってしまいました。平常心を失っていたので頭を冷やせと天からバチが当たったのだと思います。自宅マンションの購入が象徴的なので、悔恨を込めて “マイホーム舞上がり症候群” と名付けてみました。

 どんなときでも平常心でいられるには経験の積み重ねが必要なのです。良いことにも、困ったことにも、経験の引き出しからしか対応策は見出せません

 そういえば別居当時よく空を飛んでいる夢を見ました。私が体外離脱した幽体となって空を飛んでいたのです。スーパーマンのように水平に飛ぶのではなく、立ったままの姿勢で垂直ジャンプするような飛び方でした。なかなか思い通りにならない現実から飛躍したいという願望の表れだったのでしょうか? 幽体が体外離脱するというのは臨死体験でよく出て来る話で、その体験記が一時雑誌に連載されていました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その21)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その19)震える手紙?

2015-02-21 06:18:27 | 自分史
 旧GCP査察で指摘された心電図データの記載不一致の調査を終え、調査結果を提出したのは阪神大震災の年の4月になってからでした。震災の復旧工事は本格化しており、ライフラインも復旧していました。

 調査結果を提出後、当局とはヒアリングと称する面談が2ヵ月に1回ほどありましたが、なかなか新Ca拮抗薬Pの承認審査再開には至りません。会社の方もGCPが国際標準に合わせ強化されるという情報を聞きつけ、臨床開発部門の組織改革にやっと重い腰を上げ始めました。

 そんな年の9月のことです。私は44歳、息子たちは長男が高校3年、二男が中学1年になっていました。息子たちが通っていた中高一貫校では年に一度秋口に体育祭があります。その年は金曜日の祝日が開催日でした。

 体育祭の当日、別居してからしばらく経っていたこともあり、震災後の本宅内をふと覗いてみようという気持ちになりました。自分の名残がどう扱われているか知りたかったのです。気まぐれ半分でもあり、家には誰もいないハズという事情が大きかったと思います。

 四畳ほどの広さの部屋に二つ並んでいた本棚は、一つが洗濯機の横の狭い所に移動させられ、半分が私の本棚、もう半分が物置棚になっていました。もう一方は元通りのまま部屋にありましたが、息子たちの本やら漫画ばかりで、私の集めた書籍などどこにもありませんでした。アルバムはありましたが、私が写っていた家族写真や海外出張時に私が撮った写真が一枚も残っていませんでした。息子と一緒に写っていたはずの写真ですら私の部分が切り取られていました。私を思い出させる物すべてをここまで徹底的に抹消しようとするのか、と心底驚きました。

 胸騒ぎがしたので以前夫婦で使っていた妻の寝室も覗いてみました。会社の友人からの結婚祝いのお返しの博多人形が残っている他は、私に関係するものは何一つ置いてありませんでした。ふと見上げると、整理タンスの天板の上に焼き海苔などを入れる金物の箱があることに気が付きました。私が同居していた頃にはなかったものです。奇妙に思いそれを降ろして蓋を開けてみると、中に夥しい数の封書が溢れんばかりに詰まっていました。宛先はもちろん妻宛でした。

 送り主は、名前が書いてあったかどうか忘れましたが、筆跡から友人の K と分かりました。精神が病み上りで離婚したばかりでもある予備校以来の友人です。

 1通取り出して読んでみると一見して恋文でした。ここで読み続けるものではないと咄嗟に判断し、一刻も速く持ち去るのが一番とワンルームの自宅に持ち帰ることにしました。

 帰宅するなり急いで手紙を読みました。手紙の日付や消印から別居直後の4月から10月までの7ヵ月間に送られて来たものでした。この期間に計78通あり、毎日投函しているときもあれば、一日2通のときもありました。明らかに病的で異常です。とても普通のこととは思えませんでした。

 膨大な数の手紙の大筋は大体以下のようなものでした。
離婚を煽動した黒幕はKだったこと。K と妻とは離婚騒動が始まる前から性交渉があったこと。離婚騒動中にあった頻繁な妻の外泊がKとの逢引きだったこと。私の追い出し(別居)に成功した後で本宅玄関の表札と鍵を変えるよう K が勧めていたこと。別居後の私の心の隙を突くように正式な離婚届を妻から催促させ、さらに K が手配して結婚相談所から私宛に入会案内パンフレットを送らせたこと。別居から1ヵ月半ほどして二人だけでグアム旅行をしたこと。さらに5ヵ月経った後にニューカレドニア旅行をし、抽選に当ったと偽って息子二人をも同伴したこと。以上でした。

 手紙はニューカレドニア旅行直前までで、その後の消息を伝えるものはありませんでした。かつて寝物語に囁いた私の戯言が “瓢箪から駒” となっていたとは思いもしませんでした。結婚前の関係は “焼け木杭に火が付き易い” という諺どおり現実になっていたのです。日付と主だった要点を手帳にメモし、特に決定的に重要なことが書かれていた手紙は箱とは別にしておきました。

 なぜ妻があれほど悪鬼のように豹変して大胆に離婚を迫って来れたのか、離婚理由にswappingを挙げて来たとき、なぜ私の提案していた K の名前が出て来なかったのか、その謎が分かりました。

 前年の初冬に会って以来、ずっと気になっていた長男の荒んだ眼つきの謎についても原因が分かりました。あれはニューカレドニア旅行から帰った直後のことで、荒んだ眼は明らかに大人たちに反抗している眼だったのです。“天国に一番近い島” のはずが、皮肉にも地獄だったのです。

 なぜ、阪神大震災のときに家を飛び出し、自転車で友達の家を泊まり歩いていたのか。なぜ、震災後に茶髪に染め、言動や態度に素直さが消えて愚連(ぐれ)てしまっていたのか。なぜ、妻のことを “飯炊きオンナ” と呼ぶようになっていたのか。このときになってやっと納得できました。

 驚きと怒りで極度に気持ちが昂ると手が震えることを初めて経験しました。手紙を読んでいて文字通り手がブルブル震えたのです。手紙に夢中で夜になったことにも気付きませんでした。日付と主だった要点を手帳にメモし、特に決定的に重要なことが書かれていた手紙は箱とは別にしておきました。

 どうしたものか悩みましたが、まず K に秘密がバレたことを分からせるべきと思い至りました。電話の受話器をとって、震える指で K の電話番号をダイヤルしました。(当時すでにプッシュホンが電話の主流でしたが、私の電話は借り賃の安いダイヤル式でした。)電話に出た K は初め素知らぬふりを装っていました。

 「おぉ、久し振りぃー、どうした?」
 「お前らのやっていることは全部手紙で分かった。・・・そんなに(妻が)欲しかったら熨斗(のし)を付けて全部くれてやる!」
 「ちょッ、ちょッ・・・」と K は何かを言いかけましたが、構わず私は受話器を置きました。手の震えはしばらく治まりませんでした。

 K は恋愛や性交渉の経験が乏しいウブな男とは違います。どの手紙にも赤裸々な性欲が一貫して綴られていました。男というものは、切羽詰まったときには手短なところから手を着けるのが普通です。K は手短な妻に手を着けたのでしょう。それだけ精神的に追い詰められていたのだと思います。まともな神経で書ける手紙の数ではないのです。精神の病がまだ治り切っていなかったのか、あるいは再発していたのかは分かりません。手紙にはウブな男と老獪な男の両面の心情がそのまま綴られていました。

  妻にしてみたら、母子家庭のように置き去りにしていた夫の態度に鬱憤を募らせ、我慢ならなかったのだと思います。夫の私は仕事に追いまくられ、そのストレスから酒浸りで精神が病み、あたかも歩く傲慢のようでした。家庭を顧みることもなくなって、何やら浮気の気配もさせていたのです。

 そんなことから、どういう行為が際どいことなのか? どの一線を越えたら危ういのか? その行為によってどのような報復が待っているのか? 払わねばならない代償は? これらの問題にまでは頭が回らず、見境がつかなくなっていたのでしょう。ただゝゞ K の純情ともみえる熱い心情に共鳴してしまったのだと思います。

 そこまで妻を追い込んだ当時の私はアルコール依存症の特徴をよく現していました。酒に酔った頭では、歩き方も、話し方も、話す内容さえも、本人はちっとも変だとは思わないのです。だからこそ周りの人々は戸惑い、辛い思いをし、そのうち無視して遠ざけるようになってしまうのです。

 それにしても私が囚われた怒りとは何だったのでしょう。親友と思っていた男から妻を奪われた怒り、まさかの妻の裏切り、このような至極通俗的な感情からだったのでしょうか?


アルコール依存症へ辿った道筋(その20)につづく



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大地震へ、日常出来る備え

2015-02-14 08:07:28 | 雑感
地震災害が発生したら、すぐさまテレビなどメディアが飛びつくのが防災グッズなどの紹介です。その時は視聴者の方も紹介されたものをその通りに備えようとしますし、実際備える人もいるでしょう。

大抵の人は避難するとき直ぐに持ち出せるよう食料も備えた防災グッズをリュックにまとめておくと思います。1週間から長くて1ヵ月ぐらいは身近なところに置いておくでしょうが、そのうち押入れや収納庫、納戸などに片付けるのが関の山になっていませんか?これではあまり意味がありません。

地震発生時に重要なことは瞬時に身を守ること、次いで外に逃げ出すことです。阪神大震災級の大地震ではこんなふうになります。

不意に身体がふわっと浮き、次いで上下左右に身体が猛烈に揺す振ら
れます。
もし立っていたとしても、何かに掴まらなければ立っていられません。
とても動くことなどできません。
身の回りのタンスなどの大型家具が倒れて来ます。
テーブルや棚の上にあるものは間違いなく飛んで来ます。テレビさえ
も飛びます。
床はガラスの破片などで足の踏み場もなくなります。
下手をするとドアが開かなくなることも覚悟しておかなければなり
ません。

阪神大震災で被災した体験から、日頃の心構えさえあれば、こういう
時に備えておくことでその場で咄嗟に出来ることがあります。
是非とも知っておいて貰いたいことをお示しします。

毎日寝る前にできる大地震への備え
● 手の届くところに厚手の靴下・スリッパ
 ガラスの破片などから足裏を守ることが大切です。枕元とか手の
 届く範囲内
に厚手の靴下かスリッパを置いておき、足裏の安全を
 確保してください。靴下は重ね履きする方がよいでしょう。
● 浴槽の残り湯を捨てない
 断水すると一番困るのはトイレです。1回のトイレでバケツ2杯分
 の水では足りません。ワンルームマンションやビジネスホテルのユ
 ニットバスのように小さな浴槽でも結構な容積の貯水槽です。
 毎日、残り湯をトイレ用の生活用水として確保しておきましょう。
タンスの側には寝ない
 タンスはとても重い家具です。地震のとき凶器となります。倒れ
 て来て下敷きになったら生命の保証がありません。特に重い和タン
 スや整理タンスは危険です。タンスのない寝室でお休みください。
 寝室にタンスを置いておくべきではありません。寝ているときに
 襲われたら、布団などで頭や身体を保護してください。

常備しておくべき物
大地震では電気、水道、ガスというライフラインが停まってしまい
ます。ライフラインこそ生命を繋ぐ大切な命綱です。ライフラインが
停まった場合の予備手段をいつも心がけておくべきです。必要最少限
のものだけ挙げました。
 
感震ブレーカーの設置
 地震で停電しますが、しばらく経つと電気が再開されます。阪神
 大震災では地震から2時間ぐらい経ってからあちこちで出火し、
 大規模火災へと拡がりました。通電後に電気機器から出火したのが
 原因と見られています。通電火災に備え「感震ブレーカー」を設置
 しておくと安心です。設置していない場合でも、最初の地震が治ま
 ったら必ずブレーカーを下ろすことが大切です。
● 乾電池
 震災時には被災地外でも乾電池が品切れになり、入手できなくなり
 ます。使用しないままに使用期限切れ覚悟で備蓄しておくことを
 お薦めします。保管場所を決めておくことが大切です。
● バケツ
 トイレを流すにも、給水を受けるにもバケツは必須です。給水を受
 けるには給水用ボトルやゴミ棄て用ビニール袋(ゴミ袋)も有用
 です。保管場所を決めておくことが大切です。
● 携帯用ガスコンロ・ガスボンベ
 説明は不要でしょう。ガスボンベは常時予備を確保しておくべき
 です。保管場所を決めておくことが大切です。
● サランラップ
 サランラップで食器を覆い、食べ物を直に食器に触れさせないこと
 で水洗いをせずに済みます。保管場所を決めておくことが大切で
 す。
● 懐中電灯・携帯ラジオ
 これも説明は不要でしょう。懐中電灯は出来るだけ各部屋に備えて
 おくことが大切です。

以上です。普段身の周りにあるものに限定しました。これだけでも
十分安心できます。

大津波への心構え
東日本大震災で猛威を振るったのは大津波でした。津波の破壊力の凄
まじさには息を飲むばかりでした。報道を見て私が脅威を感じたのは
建造物を破壊する津波の力ばかりでなく、たとえ50cmほどの浅い津波
であっても物を運び流す水の力でした。

映像では自動車や自販機が笹船のように流されていました。自動車に
はガソリンが積んであり、衝突で発生した火花がガソリンに引火して
辺り一面火の海になっていました。

高い建物に避難できたとしても周り一帯の火災で窒息する危険もある
のです。道は水没していますから逃げ道はありません。

自販機などの漂流物で圧死することも想定されますから治まるまで
無闇に外に出られません。海面よりもそこそこ標高のある土地でも、
周りが低地で水没することが想定される所では陸の孤島となりかね
ません。
時間が許す間に高台に避難することが鉄則と考えさせられました。

地震発生から3日以内に間違いなく自衛隊が各指定避難所に救助に
駆けつけて来てくれます。それまでの辛抱です。



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アルコール依存症へ辿った道筋(その18)被災地では・・・

2015-02-07 07:18:32 | 自分史
 避難先のホテルに滞在中、出張続きの合間の休日には徒歩10分程のコインランドリーで朝洗濯をしていました。一見して被災地から避難してきたと分かる人々も来ていて、精神的にクタビレてはいるものの、洗濯が出来るだけでもマシという安堵した気持ちが表情から読み取れました。実際、順番待ち後に洗濯機や乾燥機を回し始めると、しばらくは新聞や雑誌を読む寛いだ時間が持てたのです。来る日も々々新聞は震災記事で満載でした。

 洗濯のために往復する道は歓楽街のど真ん中を通ります。朝の歓楽街は飲食店から出たゴミ用容器や食べ物の残りクズ、吐瀉物などがあちこちに散らばり、それらにカラスが群がっていることもあります。電飾で装ったケバケバしい夜とは打って変わって、朝は雑然としていて気怠ささえ感じさせます。このような場の空気は、精神的にも身体的にも元気を取り戻すためにはあまり相応しくない環境でした。

 ホテルの方も安普請で、部屋同士を仕切る壁が薄く、隣室の咳払いや放屁の音まで聞こえて来る始末です。これではプライバシーなど有り得ません。震災10日目には神戸の青木まで阪神電車が運転を再開し、私の住む阪神西宮まで電車が通るようになりました。それで休日には、洗濯を済ましてからワンルームの自宅に戻ることにしました。悲惨な状態ではあっても、やはり阪神地域への愛着が強かったからです。被災地にいた方が、ホテルにいるよりも心身共に落ち着くことが出来そうだと思ったのです。

 阪神西宮駅に降り立って、初めて駅周辺の被害の壮絶さを目の当たりにしました。西宮神社(戎神社)への参道でもある規模の大きな中央商店街一帯は倒壊した建物だらけで、立っているものといえば屋根を残したアーケードだけでした。見るからに無残な姿で、賑わいがあった面影などどこにもありません。商店街の脇にある飲食店界隈も倒れ掛かった電柱や建物が並び悲惨な状態でした。火災こそ発生しなかったものの被害は甚大でした。

 商店街のアーケードに吊るされていた当時の時計が、地震発生時の時刻を指した状態のまま今も記念碑的に残されています。駅前南側ロータリーの南向かい、ダイエーの敷地の一角に現在でも見ることができます。

 戎神社では、国の重文の大練塀(おおねりべい)という築地塀が崩れ、境内の夥しい数の石灯籠も軒並み倒れてしまいました。本殿は大丈夫だったものの、拝殿の柱が倒れて全壊、社務所も全壊だったそうです。ワンルームの自宅まで徒歩12分ほどの道も、倒れ掛かった電柱で迂回せざるを得ない区画もありました。

 地震からほどなくして会社の災害援助隊が、裏六甲から車で神戸に入ったという話を聞きました。阪神間の幹線道路はどこも車両規制があり、大渋滞で簡単には神戸に入ることができなかったのです。

 会社の災害援助隊の報告によると、被災現地は報道に勝る大変深刻な状況だということでした。災害報道では通常、周辺は大したことがなくても、最も酷いところを中から選んで写していることがあります。そのため報道を額面通り受け取れない場合もあるのです。その一方で、被災から間もなくして神戸元町の中華街・南京町では早くも営業を再開したという明るいニュースもありました。

 この目で実際に被災地の最悪の状態を見てみようと、ワンルームの自宅から神戸の中心地、三宮と元町方面へ二度足を伸ばしてみたことがあります。電車が不通のままだったので、最初は歩きで途中まで、二度目は自転車で片道15kmほどの距離を往復してみました。

 国道2号線を神戸方面へ進むと、どこも同じ異様な風景がどこまでも続いていました。目にする建物でまともなものは殆どありません。自分の視界に映っている街が傾いているのか、あるいは自分自身の身体が傾いているのかが分からなくなる不思議な体験でした。どの光景を一コマとっても報道された映像そのものでした。すでに損壊したビルの解体作業が始まっていて、大型重機や電動ドリルの騒音が喧しく、辺りには粉塵が舞っていたと思います。

 三宮や元町方面へは徒歩だと往復8時間ほどかかるのですが、食料や飲料をどこで調達したのか覚えていません。コンビニは営業していたと思います。復路は二度とも国道2号線より山側、JR神戸線と阪急神戸線の間を通る山手幹線という幹線道路を通って帰りました。山手幹線の沿線の風景は一見して遥かに軽い被害だったことに驚いたものです。

 こんな最中に呆れた悲喜劇もありました。神戸の中心部からやや西の方、須磨付近で阪神高速に誤って入ってしまった乗用車が、橋桁が落下した部分から転落したという事故の報道があったのです。神戸では阪神高速の橋桁があちこちで落下し、通行止めとなっていることは報道で周知のことでした。私のように被災地を一目見てみようと県外から来た野次馬が、日常的習慣の意識のままに無意識に引っ掛かってしまった落とし穴だったと思います。

 被害が集中した被災地の様子は私が目にしただけでもこのような惨状でした。壊れた街は一度解体し、その後再建しなければなりません。それらの作業は一斉に始められるものではなく、復興するまで一筋縄にはいかないだろうと思われました。

 あの時から20年経ちました。私が現在通院しているアルコール依存症専門クリニックは元町の繁華街のひとつ、南京町の西外れにあります。当時を知る地元の人なら今でも分かるのかもしれませんが、近くの元町商店街を含め周辺のどこを探しても、今では震災の爪痕を見つけることができません。クリニックのビルも震災後に建てられたものです。

 私の地元の被害が酷かった西宮中央商店街では、地主と借地権者(家主)と店子の権利関係が複雑に混み入っていたため、再建まで相当長い年月を要しました。再建した商店街には高いビルが並ぶようになりましたが、震災前の活気ある賑わいは戻って来ていません。


 ワンルームの自宅近隣の被害状況も見て回りました。その日常生活の様子についても触れておきます。

 倒壊した家屋は至る所にありました。その残骸に連絡先を記したダンボール紙が置かれていた所もありました。被害の程度に関わらず、ほとんどの飲食店は仮店舗を構えるなりして何とか営業を再開していました。

 阪神西宮の方角から時計回りに60度ほど北側に回転させた同距離のところにJR西ノ宮駅があり、駅前の国道2号線沿いあるコープ神戸の大型店舗も営業していました。大概のものは揃えていたので、酒やら食料やら一切合切の生活用品を買い求めることができました。

 コインランドリーが併設されていた銭湯は煙突が倒れてしまい、建物も半壊状態でした。洗濯のため利用していたのですが、利用不能です。洗濯をどうするかが緊急課題となりました。幸い避難先で済ましていたので当面は問題ありません。この洗濯問題もライフラインが復旧する頃には、更地になった所にプレハブ造りのコインランドリーが出来、一件落着となりました。ワイシャツを出していたクリーニング屋は建物が全壊でしたが、少し離れた所で仮店舗を構え営業していました。

 これで食料、酒、洗濯という生活する上での問題は解決となりました。私にとって残る問題はガスと水を必要とする風呂だけでした。妻と息子たちは車で10分ほどにある天然温泉を利用していたそうです。

 誰もが生きることに必死で生活することに懸命だったのです。耳よりな情報をお互い交換し合い助け合って生活していました。

 ワンルームの自宅での夜、ビールが切れて酒屋の自動販売機に行くと、販売機の影の暗がりに男が一人しゃがみこんでいました。同じ場所で何回か見かけたので、ある時声をかけてみました。「いつも、ここで呑んでいるんですか?お幾つですか?」男は52歳の独り身と答えました。聞くと「失業してしまい・・・、震災になってこの方、何もすることがなくってやる気が出て来なくて・・・」呑んでばかりいるとのことでした。

 私と同じように直ぐ近くのワンルームに住んでいて、たまに昼間でもふらついた足取りで歩いているのを見かけました。髪がバサバサで182cmの大柄な身体が酷くみすぼらしく見えました。見るからにアル中そのものでした。

 経験者となった今からみると、やる気が出ないということはビタミンB群不足が相当進んでいる証拠です。震災3日目に会社から電話で呼び出しがなかったら、私もこんな風になっていたのだろうと思いゾッとしました。定年退職後によく嵌りやすい恰好の落とし穴と後で身を以て知りました。ほどなくして、その男の姿を見かけなくなりました。入院したのか亡くなったのか分かりません。

 地震発生から54日後の3月12日にガスと水道が同時に復旧しました。早速、非難先のホテルを引き払いワンルームの自宅に戻りました。3月20日には東京でオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こり、メディアの関心は震災から離れて行きました。

 4月になってからだと思います。JR神戸線が全線復旧して神戸の鷹取や長田まで行けるようになったので、電車の窓から線路南側の被災地を見てみることにしました。現地はまるで空爆を受けた跡のようでした。焼け残ったビルがポツンポツンと建っているだけで真っ黒に焼け焦げた廃墟が広がっていました。その光景にはただ息を飲むだけでした。


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