ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その23)禁酒腰砕けで再飲酒

2015-03-27 18:23:59 | 自分史
 ボーナスが懸った医者との約束ですからすぐに禁酒を実行に移しました。

 アルコール依存症と診断が下されたのは46歳の誕生日を間近に控えた正月でした。その日から夕食時には必ず付物だったビールも焼酎のソーダ割りも我慢することにしました。

 口寂しさは中国茶で紛らわせました。会社の近所の食堂で夕食をとることが日課になっていて、そこでアルバイトをしていた中国人の女医が内臓脂肪を洗い流すのに中国茶がよく、脂肪肝にはよく効くと勧めてくれたのです。何にでも油を使う中華料理の本場の医者が勧めるのですから素直に信用することにしました。専門は循環器だと言っていましたが・・・

 中国茶というと半発酵のウーロン茶を連想しますが、彼女が勧めたのは龍井(ロンジン)茶という日本茶と同じ不発酵の緑茶で、中華食材専門店でしか扱っていません。彼女に店を教えてもらい買い求めました。緑茶といっても日本茶の黄緑色とは違い番茶のような褐色がかった色をしたお茶で、中華レストランのサービスで出て来るお茶です。中華風急須も買い求め、ビール代わりに始終飲みました。

 禁酒して1~2週間はなかなか寝付かれず、眠りの浅い(不眠)日々が続いたことは覚えています。中途覚醒があったのかは覚えていません。多分あったと思います。寝汗もあったでしょうが不快で目覚めた覚えがありません。痺れた頭で寝不足の朝を迎えたのでしょうが、よくあることで記憶に残っていません。国道43号線の騒音で毎晩鍛えられていたこともあって、多分そ の内に馴れたのでしょう。変な夢も見たのでしょうが、悪夢に悩まされたなど特別嫌な記憶は全くありません。

 のど飴が無性に欲しくなって始終口にしていた時期がありました。断酒後に特有の病的甘味欲求に当る症状なので、この時期のことかもしれません。とにかく断酒後に特有の症状については全般的にあまり記憶に残っていないのです。

 表装の講習がない休日には散歩する距離と時間を長くするようにしました。

 春になって陽気がよくなってからは、奈良の桜井~天理間16km余の “山の辺の道” を4~5回歩いたと思います。『日本書紀』にその名が残る古道で、由緒ある神社あり・万葉集歌碑あり・古墳あり・天理教本部ありの変化に富むハイキングコースとして人気です。程よい起伏のある長い距離を歩くと、途中から頭の中が真っ白になってゴールまでの残りの距離がどれだけかの問いしか浮かばなくなり、雑念が全く消えてしまうのが爽快でした。その内の1回は二男と一緒に歩きました。二男は中学3年になっており、会話が難しい年頃でしたが、ゴールに到着したときは二人とも達成感で一杯でした。

 長男は一浪してやっと私立大学に入学できた年でもありました。仲が良く見えた両親が、いつの間にか険悪な間柄となって離婚騒動が勃発。母親に騙されて父親を別居に追い込む片棒担ぎもさせられ、挙句の果てに見知らぬ男と母親の見え透いた海外旅行にも付き合わされた。これで人間不信となったのでしょう。愚連(グレ)て落ちこぼれの高校生活を送り、案の定現役では大学入試に失敗していました。

 別居してからこの間、私がきちんと説明せずに渡していた本宅用の生活費も自分一人で勝手気儘に使っていたようです。これが “お金は天から降ってくるもの” という誤った金銭感覚を身に着けさせてしまった元凶です。ずっと後になって、大学にはほとんど行くことなく中退していたことも知りました。3年間の授業料は全て無駄だったのです。

 金遣いの荒さや頻繁なお金の無心に気付いたときは全てが後の祭りでした。別居工作のカラクリとその不始末を知らなかったとはいえ、一言いうべきことを言わなかったことは、悔やみきれない私の一生の不覚です。普段、諄(くど)いぐらいしつこく念を押す性格なのに、肝腎のときにその一言を忘れるのが私です。何事も詰めが甘いのです。何時もこの調子で後になって悔やんでばかりです。長男の金銭感覚は学生時代の私自身を彷彿させ、間違いなく私の血を継いでいると確信させられました。

 手帳のメモによると、禁酒3ヵ月目の休日に長男が通う大学キャンパスを見学に行っています。その帰りにホッとした所為か思わず一度飲んでしまい、その1ヵ月足らず後に本格的な再飲酒・泥酔となっています。追加の治験実施を指示する調査会指示事項が出たことに大変なショックを受けた当日夜のことです。もう一息でいよいよ承認取得だと期待が大きかった分、その反動 ―― 心に空いた空洞も大きかったのです。なんともアッケナイ、無残な腰砕け状態でした。

 結局、懸命に取り組んだつもりだったにもかかわらず、禁酒は4ヵ月足らずしか続けることができませんでした。それでも休日には一日中酒浸りになるのだけは避けようとしていました。再び飲酒する日々になっても “山の辺の道” ハイキングの快感が忘れられず、暑い日を避けて奈良詣でを続けていたと思います。月一回の通院は再飲酒を期に止めてしまいました。

 妻との離婚届の件は、酒を断って素面になったこの時期に、会社の仕事仲間に立会人の署名をもらい正式に役所に提出しました。誕生日が過ぎ46歳になっていました。別居していた件は会社でも半ば公然の秘密で、こそこそ隠し立てせず生きる方がよいと考えたのです。人事部に離婚した旨を届けたとき、これで社内全部に知れ渡るのだと覚悟を決めました。踏ん切りをつけたことで気持ちが随分軽くなったことを覚えています。

 酒を断っていたこの時期、こんなことも書き記していました。『にんげんだもの』が代表作として有名な書家で詩人の相田みつをの作品に嵌っていましたので、その影響もあったのだと思います。

 悪行は他者の痛みを慮る心が無いことから始まる
 豊かであることとは心のゆとり、決して経済力ではない

 たまに遊びに来させていた二男に “他人の痛みの分かる人間になれ” というのが口癖でした。別居後一人になって自省し、阪神大震災の被災者の後姿を見て自分への戒めとしていました。はるか後年に、結婚披露宴の新郎挨拶で二男がこの言葉を父親からもらった戒めとすると聞いたとき、さすがに胸が熱くなりました。

 “心のゆとり” については、当時は負け惜しみというのが本音だったと思います。今では、いつ・いかなる時でも “平常心を保つ” ―― 心の余裕のことと諒解しています。
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 実は初めてアルコール依存症と診断されたのが45歳11ヵ月という早い時期だったとは全く記憶にありませんでした。自分史を書き始めて、朧げな記憶を整理しようと手帳をひっくり返し年表を作ってみて、初めてこの時期に診断されていたことに気が付きました。

 診断されていた事実をここに書いてみて、最初の内は何故記憶になかったのか分かりませんでした。アルコール依存症ではないとひたすら自己暗示をかけていたのか、それとも振戦が他人にはっきりと見られた出来事がずっと後になってあったせいなのか、そのどちらかだろうと漠然と考えていました。

 2週間ほど経って本当の理由にふと思い当ったのです。生活基盤の “稼ぎ” の確保、つまりは家族を守り抜くためでした。会社にアルコール依存症と知られたら、会社は絶対に黙っていることはありません。職を解かれ、入院加療を命じられることは火を見るより明らかでした。患者の命を預かる新医薬品を開発しているのですから、アルコール依存症患者を担当から外すのは当然です。その結果、ボーナスどころか昇給さえも以ての外となるのは必然となります。家族を路頭に迷わせたくなかったのです。診断された事実をひた隠しにしようと心に決めていたので、どうしても思い出せなかったわけです。

 会社には脂肪肝であることを前面に出し、歓迎会や、仕事帰りに飲み仲間との一杯引っ掛けも脂肪肝を理由に控えることにしました。それでも、新Ca拮抗薬Pのチーム・スタッフだった課長補佐のA君の送別会に出ないわけにはいかず、ウーロン茶で必死に堪えたことを覚えています。

 アルコール依存症とバレる恐れのある肝腎の振戦の方は、署名が必要なときには書類の紙を預かり、他人が見ていないところで署名するなど細心の注意を払いました。

 他人に指摘された場合に備え、弁明のためにアルコール性離脱症状以外の振戦として原因不明な本態性振戦というものがあることさえ調べ上げていました。そんなことはすぐ嘘とバレるのが見え見えなのですが至って真剣でした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その24)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その22)あなた、アルコール依存症です

2015-03-20 21:27:33 | 自分史
 家族と別居することになって以来、私の心にポッカリと大きな空洞が空いていました。別居直後から、休日の朝には徒歩15分ぐらいにある近くの戎神社にお参りを続けていました。別居状態を出来るだけ速く解消したいという神頼みが本音でしたが、散歩に出かけることで朝から飲酒の引き籠り状態を避け、身を持ち崩すことがないようにすることも目的でした。参拝の都度、御神籤を引いて一喜一憂していました。

 阪神大震災前だったでしょうか、およそ100回分の御神籤が貯まった段階で吉凶別の枚数を試しに数えてみました。すると、大吉から凶までどれもほぼ同数で、確率どおりに引いていたことが分かりました。やっぱり科学的法則が働いていると納得し、見事に興醒めしてしまいました。その後も朝の参拝は続けました。もちろん御神籤はナシです。

 衝撃的な手紙を入手し、その後に離婚騒動が一応の決着をみても、私の心にはポッカリと大きな空洞が空いたままでした。会社勤務している週日の酒量に変わりはなかったのですが、休日前夜と休日当日の酒量が増えました。そこで休日の酒量を控えめにしようと次に始めたのが表装です。

 表装は書や墨絵を掛け軸や衝立・襖にする伝統的工芸技術です。買い物先のコープ神戸の建物内で、日曜日に表装の講習が行われていることを広告で知り、2週に一回の講習を受講することにしました。大学病院でデータの捏造・改竄が発覚した旧GCP違反事件の報道から間もない年明けのことでした。

 表装の受講には書や墨絵の作品が必要です。手元に二男が小学5年生のときに書いた『希望の春』という習字の作品がありました。厚めの台紙にセロテープで留めただけのミニ掛け軸風になっており、気に入っていたので別居する際に貰い受けてきたものです。たばこのヤニで黄ばんで哀れな姿になっていました。この二男の作品をキレイにしようというのがもう一つの表装受講の動機でした。

 講習を受け始めて3ヵ月ほどで二男の作品は紙生地の仮表装という掛け軸に仕上がりました。たばこのヤニで黄ばんだままでしたが、私にとって装い新たな『希望の春』でした。私には書や墨絵の才がないのですが、会社の書道の達人に作品を書いてもらい、その後の1年半ほどで絹地の本表装を4本ほど仕上げることができました。

 当局から治験データの信頼性を自主的に担保せよという指示が出た45歳の年の暮れ、人間ドックで脂肪肝を指摘されました。手帳を引っくり返してみてそのメモが見つかったのです。父方の叔父が若くして亡くなった原因がアルコール性肝硬変と聞いていましたし、脂肪肝が肝硬変に進行する初期段階であることも知っていました。6~7年にわたる習慣的飲酒がタタっていよいよ脂肪肝になったのか、と観念せざるを得ませんでした。

 当時、自覚症状としてあったのは、深酒した翌朝に肩甲骨の下付近の背中が重苦しく感じ、起き上がるのが酷く辛いということだったでしょうか。目が覚めたときの背中に根が張ったような重苦しさは、飲み過ぎのときに決まってあったことで、それでちょくちょくズル休みしたこともありました。血圧もじわじわ上がっていましたが、160/95mmHg以上という高血圧の当時の診断基準までは達していませんでした。

 自覚症状としてはもう一つ、振戦がありました。これも手帳でメモが見つかったのです。普段文字を書くのに違和感がなかったにもかかわらず、その年には時節柄年賀状の宛名書きや添え書きの際、たまたま手指の振戦に気がついたのです。筆圧に小刻みな強弱が生じ文字がヨレヨレして上手く書けなくなっていたのです。

 これがアルコール性離脱症状として手指の振戦を自覚した初めての時でした。普通でも酒の飲み過ぎで手が震えるという話を聞いていたので、私はことの重大性に気づかないふりを決め込みました。否認です。

 手帳のメモによると、脂肪肝の疑いで精密検査を指示されたことから、年が明けてから近くの県立病院を受診しました。そのときのことです。

 「あなた、アルコール依存症のようですね」主治医が私の手の振戦を診てそう告げたのです。
 「本来、この病気でここでの入院加療は許されていませんが、私の裁量で1ヵ月ぐらいなら入院できますから、入院したらどうですか?」と聞いてきました。

 診察は午前中で、手が震えている自覚がなかったのですが、プロの医者にははっきりと見えたのでしょう。主治医は肝臓が専門の副院長でした。

 私自身アルコール依存症という言葉は知っていました。しかし、廃人状態になったら精神科で3ヵ月程度の入院加療が必要であること、振戦や幻視などの禁断(離脱)症状が発現すること、この程度の知識しかありませんでした。

 アルコール依存症の特徴というのは・・・


 ● 時間や場所を弁えない “異常飲酒”
 ● “最初の一杯” で抑えが効かなくなり、必ず “次の一杯” にいって
   しまう “飲酒コントロール喪失”

 ● 断酒するしかなく、再飲酒したら元より酷い状態になる “進行性の病気”
 ● 回復することはあっても治癒することのない “不治の病”


 「ブレーキが壊れた自動車を長年車庫に入れておいたとしても、そのままで再び走らせたらブレーキは壊れたままだった。」この譬えが象徴的ですが、アルコール依存症はたとえ酒を断った状態を続けていても、飲酒コントロールを喪失したままの病気です。

 再飲酒は命取りとなりかねないのです。アルコール依存症のこの最も重要な特徴は知りませんでした。廃人とはどういう状態のことか、離脱症状とはどのような症状がどういう時に発現するのか、これらについての知識も曖昧でした。普通の病気と同じように、脂肪肝が治れば少しぐらいならまた飲めるようになるだろう、と正直軽く考えていました。

 あの時にアルコール依存症についてもっと教えてもらっていたら・・・。その当時の離脱症状はそう酷くなかったので、あるいは進行を止められたかもしれません。ただし当局との神経戦真っ只中の当時、アルコールなしで仕事の重圧に耐えられたか、というと自信がありませんが・・・。

 主治医に1ヵ月の入院と告げられたとき、真っ先に浮かんだのは “ボーナスが危うい” でした。手取り額でみると、ボーナス分は年収の半分を占めるというのが会社の給与体系だったのです。1ヵ月の入院はボーナスがゼロを意味します。ボーナス・ゼロは何としても避けなければならない、これが咄嗟に下した結論でした。

 「仕事の関係で入院は無理なので、禁酒をしてみます。」
 「脂肪肝の方はお酒を控えて運動するようにすれば大丈夫だから、お酒は絶対に控えるように・・・」

 主治医はこう言って引き取ってくれました。ボーナスが懸った医者との約束ですからすぐに禁酒を実行に移すことにしました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その23)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その21)神経戦中の流行カゼGCP

2015-03-13 21:47:26 | 自分史
 旧GCP査察の結果、課された全例の心電図データ確認調査の報告書を提出してから半年が過ぎて、やっと新薬調査会による承認審査が再開されました(阪神大震災の年の10月)。

 新薬調査会というのは当時の厚生省が諮問する中央薬事審議会内の新薬の承認可否を審査する委員会のことです。承認申請からすでに1年半が過ぎていました。普通ならば3~4回の審議を経て、大きな問題がなかったら、そろそろ承認までの日程が見えてくるぐらいの時間が経過していました。新薬調査会の2回目の審議では臨床開発領域への重大な指示事項はなく、指示事項の大半は基礎研究領域に関するものだったように思います。

 個人的には離婚騒動に一応の決着をつけ、2回目の指示事項回答をも提出してほっとしていた年の瀬に、高血圧の治験でデータの捏造・改竄が発覚したという旧GCP違反事件が新聞・テレビで報道されました。またもや思わぬ横槍が入ったのです。

 報道によると問題となった医療機関は四国と九州にある二つの大学病院で、そのどちらも申請中の新Ca拮抗薬Pの治験先でした。その少し前にも消化器領域で治験にまつわるデータの捏造・改竄事件が報道されたばかりで、当時某新聞社が躍起になって治験関連の不祥事を漁っていたようです。よく覚えてはいませんが、どの事件も内部告発だったようです。

 ここで事件の背景となったGCPと当時の治験事情について触れておきます。
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 治験はGCPに沿って実施されます。国際標準の現GCP(医薬品の臨床試験の実施に関する基準:ICH‐GCPに準拠)が求めている大きな柱は患者の人権保護とデータの信頼性の2本立てで、それぞれ更に細分されて次の4つが原則となっています。治験実施計画書が第三者機関で審査され承認されていること。治験が患者の同意のもとで治験実施計画書通りに実施されていること。得られたデータに信頼性があること。これらのことが日付のある記録文書で担保され第三者が検証できること。この4つの原則は旧GCPでも基本的に同じでした。

 自然科学の本質は再現性にあります。治験も自然科学の端くれです。治験の再現性は治験関係の記録の完備によって担保されるのですが、このことを理解していた医師はほとんどいなかったと思います。

 次に当時の治験事情についてです。まず問題とされたのがデータの捏造と改竄でした。大学病院の常勤医師は出先の病院でも非常勤で診療している場合がよくあります。高血圧ぐらいでわざわざ大学病院を受診しようとする患者は稀で、一般病院やクリニックを受診するのが普通でした。内緒で出先の病院で治験を実施し、大学病院のデータとして提出してくる場合があったのです。

 捏造と改竄を区別するのは難しいですが、データの捏造というのは大抵が出先で実施したというこのケースです。またデータの改竄というのは併用薬の有無や日付が事実と違う場合などでしょうか。

 さらに当時、治験に関して二つの点で疑惑の眼が向けられていました。

 一つ目は人権に関するもので、患者の同意にまつわる疑惑です。治験へ参加してもらうに際し患者に同意を取った上でのことか否かです。説明した上での署名という文書同意が主流になりつつありましたが、説明も同意も口頭だけというのがまだまだ多く残っている時代でした。「今度、新しい薬が出たので使ってみようと思いますが、いいですか?」これが口頭同意のときに医師から患者にされる説明の定番でした。医療事故が起こった場合によく問題とされました。

 二つ目は治験研究費という名目の謝礼に関するものです。治験実施に際して契約書は医療機関と交わすのが普通で、諸経費も含め治験研究費は医療機関に支払われます。ところが、中には依然として医師個人と契約を交わす事例もあり、治験研究費が医師個人の収入となる場合もありました。ウソかマコトか治験で御殿を建てたと噂された医師もいたほどです。治験は医療機関内の他のスタッフの支援が要るチームプレイなので、嫉妬がらみで人間関係のトラブルになることもあったようです。

 これら患者同意と研究費にまつわる疑惑の二つが内部告発を招く要因となっていました。
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 メディアで報道されたその日の午後、会社の当局担当S氏に電話が入り、報道された大学病院の参加した治験について、治験実施計画書やCRF(患者データ)のコピーなど関係書類をファックスで当局に直接送るよう依頼がありました。当局の対応としては珍しい緊急事態でした。

 急遽計78枚にのぼる資料を整え夕方までに当局宛ファックスしました。当局からは、会社側がその後にすべき対応は事件の報告書作成後に決定すると、当局担当S氏に連絡があったそうです。 ということは実地調査を経てからしか動きがないことになります。

 当局が問題施設の大学病院を実地調査したのは翌々月のことでした。さらに6ヵ月後になって、やっと会社に問題施設の確認調査が指示されました。事件が相当深刻だったことを意味していました。

 指示を受けてすぐに確認調査を実施しました。大学病院であった捏造・改竄とは次のようなものでした。出先の病院で実施した治験のため大学病院にカルテがなかった事例、実際に併用していた薬剤の記載がなかった事例、治験終了日の日付よりも延長して治験薬を使用した事例などでした。

 その報告書を提出した2ヵ月後に出て来た指示は、承認申請資料中の治験データの信頼性を自主的に担保せよというものでした。つまり治験データに捏造・改竄がないかを自主的に確認せよということです。

 調査対象治験と調査方法は会社側で自主的に決めてよいことになりました。自主的にというところがミソで、法的根拠がないので会社側は当局の “言いつけ” に黙って従ってほしいという当局十八番、お得意の「誠意を見せて欲しい」でした。応じなかったら承認審査を進めないという意志表示です。刑事事件としての報道が発端ですから、当局としても座視しているわけにいかず、厳しい対応を取らざるを得なかったのだと思います。事件の報道から10ヵ月経っていました。

 この時いかにも当局らしい発言もありました。信頼性確認調査にあたり承認申請を「一旦取り下げてくれるとありがたい」と言って来たのです。これは当局側の審査期間の算出法が独特だったからです。

 当局側の審査時計は承認申請を受理したときから動き始め、申請者側に指示事項が発出された瞬間に一旦止まり、申請者側から回答を受理して再び動き始めるのです。取下げは時計の消滅を意味します。

 当局の発言から、刑事事件に係る特別調査期間は当局側の審査時計に組み入れられると受け取りました。当時の公表審査期間は当局の審査時計での経過時間でした。現在はどうなっているのでしょうか?

 当局担当S氏の情報網では、同様の指示を受けた会社が計6社あり、同じ宿題を課せられたもの同士集まって協議することになりました。当局の要求は法的根拠のない旧GCP絡みの理不尽なものという点では一致しましたが、海外の本国から外圧を掛けるという外資系会社の仰天アイディア以外、妙案は出て来ませんでした。具体的調査方法では微妙に違う各社の思惑が働き、協議事案にも上がりませんでした。結局決まったのは指示通りに応じることだけでした。

 信頼性確認調査が承認申請中の会社にだけ課せられることにも納得いきませんでした。これを当局に抗議したところ、当時治験進行中であった会社についても承認申請後に同じ信頼性確認調査を課すという回答だったので、渋々引き下がらざるを得ませんでした。

 こう決まったからには躊躇しているヒマはありません。一刻も早く治験データの信頼性確認調査を済ますため、いかに治験数を絞り込み、作業量と時間を節約するかが課題となりました。

 まず対象とする治験範囲と具体的方法を詰めました。旧GCP絡みの問題であることを根拠に、調査対象は治験実施計画書作成時に旧GCPが適用された治験に絞ることにしました。旧GCPに適合した治験実施計画書でなければ旧GCP対応の治験実施など見込めないからです。また会社側による患者カルテなどの直截閲覧は法的根拠がないことから、CRF(患者データ)との照合はあくまでも医師を介して確認することにしました。

 これで思惑通り、調査対象候補が3治験となりました。腎臓障害を伴った高血圧患者だけを対象とした1治験と、健常人を対象とした2治験です。健常人の2治験は当局の査察をすでに受けた治験だったため、腎臓障害を伴った高血圧患者の1治験だけが調査対象治験として残ります。この治験は高血圧症という効能を取得するには必須の重要な治験でもあったのです。調査対象病院数も18施設と少数で済みました。臨床開発チームはすでに解散していたので私一人だけで調査を担当しました。

 実際に調査対象(治験実施)病院に出掛けてみると、担当医師は調査によく協力してくれました。病院や医師の治験に対する協力姿勢には地域性があり、関東以北は治験実施計画書に忠実に取り組む傾向が強い地域です。調査対象が主に関東以北の病院だったことが幸運でした。治験薬を治験終了日の日付よりも延長して使用していた事例が1例あったのみで、他に問題例はありませんでした。問題例と指摘された担当医師が申し訳なさそうにしていたのが印象的でした。信頼性確認調査には2ヵ月余を要しました。

 調査結果に基づき問題例を除外して集計し直し、申請データも修正しました。年が明けた新年には信頼性確認調査結果報告書を当局に提出できました。

 他社の調査方法・結果報告と比べられるのは必至でした。その5年前には、市販後全例調査でデータ捏造事件を起こした会社です。前科のある会社として当局が疑心暗鬼になり、この会社の報告は信用できないなどと言い出さないか気になってしかたありませんでした。

 現在では、承認された後なら審査中に他社が提出した回答を調べることは可能ですが、当時も今も審査中の事案についてはその手段がありません。他社がギリギリどこまで頑張ったのかが気になるのは、チキンレース当事者ならではのことかも知れません。その答えは、その後の当局の応対に手加減が感じられるか否かだけなのですが・・・。


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“心の落ち着き(serenity)”が分かる? (言語化入門)

2015-03-06 22:01:45 | 言語化
 己を知るとは自分の過去と対話することです。断酒の誓いを破って再飲酒などしないよう、今の自分に出来ることは自分の酒害体験と向き合うことしかありません。自分の過去と対話することでのみ、移ろいやすい心の反応パターンを知ることができると思うのです。

 手がかりはマイナス感情にあります。怒り、羨(うらや)む、悔しい、(自分が劣っていて)口惜(くちお)しい、蔑(さげす)む、憎む(い)、呪う、恨む、嫉妬(妬み、嫉み)などがマイナス感情と言われるものです。マイナス感情の標的が誰で、その原因やキッカケ(契機)が何だったのかを知ることが鍵になります。

 マイナス感情の原因は大抵記憶の中に埋もれたままなので、なかなか思い出せないものです。どうも無意識に隠しているようなのです。それを掘り当てると不思議に心の落ち着きを取り戻すことができます。

 備忘録としての酒害体験や、それを発展させた自分史を叙述するようになって、私は取り憑かれていた妄想から解放されました。私が実践した方法をご紹介します。

 以下が私の採った方法です。書き初めには、酒にまつわる出来事のうち、比較的強く印象(記憶)に残っている思い出から始めるのがよいと思います。

 先ず、思い出した出来事そのものを書いてみてください。5W1H、特にWhy(なぜ?)を意識して、場面を描写し物語風に叙述してください。物語風の叙述の方が心の動きを的確に表現するのに好都合だからです。

 ひとつの出来事について書き出すと、あんな事もあった、こんな事もあったと、それにまつわる事柄が次から次へと溢れるように思い出されてきます。消えて居なくなればいいのにとか、ぶっ殺してやりたかったとか、酒にまつわる思い出には物騒な話題が多いと思います。恐らく、何処かにこの思いをぶつけたいという、遣り場のない気分が絡んでいたことでしょう。それも書き綴ってください。

 満足いく言葉や表現が直ぐに浮かび出て来ることはむしろ稀です。どこかが違う、何かがシックリしない、その違和感を大切にしてください。記述したものがその当時に抱いた(と思う)気分と合致しない場合は、意図とは違った言葉や表現を用いた可能性が高いと思います。違和感がなくなるまで言葉と表現に拘ってみてください。

 私の場合、ひとつの言葉を絞り出すのに2時間以上かかったり、1週間ぐらい経ってから歩いている時などにポッと浮かんで来たりしたことが何回もありました。私たちの脳は、歩くなど動いている時の方が活発に働くようなのです。修飾語の言葉が不適切だったり、修飾語の順番が逆だったりしたことが違和感の原因のこともありました。

 言葉と表現が当時の気分とシックリ合致すると、「うんコレだ、アタッタ」と分かるものです。突然謎が解けたときに経験する、頭の中がピカッと光る感覚と、何とも言われぬ至福感とが味わえます。

 この時、心の奥底にあったモヤモヤ(ザワザワ)した重いものが少し消えてスッキリしたことに気付くはずです。そのモヤモヤ(ザワザワ)した重いものこそが、あなたが無意識のうちに悩んできたものかもしれません。言葉となって眼に見えた瞬間がアタッタ感覚なのです。

 このアタッタ感覚はとても大切です。この辺でいいやと中途半端に妥協したり、そこそこに繕ったり、外聞良く装ったり、触れたくないから書かなかったり、果ては全く触れないでいたりすると、このアタッタ感覚は得られません

 中途半端に妥協せずに、満足いくまで徹底的に吟味し、目指す言葉を的確に捕まえることです。自分の本心を誤魔化し、正直になれないままでは、心の奥底にあるモヤモヤ(ザワザワ)の正体を暴くことはできません。自分の思いを形にできるのが言葉です。自分の悩みや妄想の正体を暴けるのも言葉です。

 言葉と表現に満足できたら、当時の表現にモヤモヤ(ザワザワ)していたものがマイナス感情に因るものだったと気付くはずです。特に、感情のベクトルが他人だけに向かう嫉妬(妬み、嫉み)には注意してください。人間は皆平等という偽善の裏表の感情で、“おもしろくない” ときの典型的なマイナス感情です。心の奥底に隠したままでいたい澱のように重い感情です。

 酒にまつわる出来事を正直に叙述することは自分の体験を客観化する作業です。当時の心の動きも客観的に把握することになります。数多くの酒害体験を叙述すればするほど、それだけ自分の心の反応パターンが明らかになります。

 心の反応パターンがわかって来ると感情のコントロールも可能となってきます。現在の心の動きを知る道標は、過去に体験した心の動き方を知るしかありません。どのような状況で、苛立ちや不安、遣り場のなさ、気持ちの空回りなどに襲われたのかがわかれば、それに備えることも出来るのです。

 これらの感情に襲われたときに、つい酒に手が伸びたことは経験済でしょう。飲酒へと誘うのは “おもしろくない” 心です。そこから湧き出すのがマイナス感情で、性格の現れでもあります。

 その正体が目に見えたとき、心が晴れ晴れし、 “心の落ち着き”  がわかります。これが体験を叙述するという客観化の効用です。この時の心境は、断酒3ヵ月以降の一時期に経験する見せかけの回復期と似てはいますが、その頃の明鏡止水のような心境とはちょっと違います。大概のストレスや変化に対応できるしなやかで平穏な心、即ち平常心(serenity)のようなのです。

 酒にまつわる思い出一つひとつの客観化を進めると、相互の出来事の間に関連性が見え始めてきます。そうしているうちに、アルコール依存症に陥ったことをモチーフに自分史を書いてみようと思い立ちました。後になってわかったことは、これこそが “言語化” で、認知行動療法の一つだということです。自分史を書くということは “言語化” の実践そのものです。
         *   *   *   *   *

 頭の中でぐるぐる考えるだけでは片っ端から忘れてしまい、むしろ心に重い澱が溜まっていくだけです。酒を飲んで一人で不平・不満をグダグダ愚痴っても、その不平・不満が解消できた思い出が一つとしてありません。

 患者自助会で体験談を語ることも、まさに客観化の効用が期待できることだと考えています。仲間に体験談を語ることも、逆に仲間の体験談を黙って聞くことも、共に自分の奥に埋もれた過去を探っていることになるのです。

 話しっ放し、聞きっ放し、その場限りの他言無用のルールのお陰で、正直に話しているうちに予期しない事柄(意識に上っていなかったそもそもの起因など?)までも思わず口をついて出ることがあります。

 仲間の体験談に反感や妙な引っ掛かりを覚えることもあります。体験談が眠っていた記憶をチクチク刺激して来るのです。まさにアタッタ感覚と同じで、自身の奥に隠された悩みや妄想の尻尾(しっぽ)を捕まえるチャンスとなります。

 話し手と聞き手が共に同じ依存症者であることも長所だと思います。同じ病の患者同士ですから、それぞれの体験が肝腎のところで共通する部分が多いのです。“仲間は生きている鏡” と表現した人がいました。言い得て妙と思います。

 繰り返しになりますが、声に出して聞き手に話をすることや、文字を書いて叙述するには筋道を立てる論理的思考力を要します。言葉によって、悩みや妄想を論理の世界に引っ張り出して客観化することで、心に “落ち着き=秩序” を取り戻すことが出来ます。秩序ある心は安定します。私はそのお蔭で、今では他人と話すときに冗談や軽口をたたけるようになり、笑いを誘って会話が弾むようになりました。

 食欲、睡眠欲、性欲と並ぶ人間の根源的欲求に承認欲求があります。承認欲求は自分のことを理解されたい、周囲に受け入れてもらいたいという欲求のことです。アルコール依存症者は承認欲求がとても強いと言われています。誰も相手にしてくれないので自分は疎外されていると、いつも孤独感に苛まれています。

 承認欲求の解消には自分に相応しい自己表現の手段を持つことが鍵だと言います。絵を描くことや、作詞や作曲をすることもいいでしょう。回復期にあるアルコール依存症者として、私は自分史を叙述することを選びました。体験記をブログに投稿することで自己表現の場が得られ、私のブログを読んでくださる方もぼつぼつ現れるようになりました。ありがたいことです。


“空白の時間(とき)”と折り合う』、『回復へ―アル中の前頭葉を醒まさせる』も併せてご参照ください。

「アルコール依存症へ辿った道筋」シリーズは私の体験を綴った自分史です。こちらも引き続きご贔屓に!


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