ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その12)運命を決する一回目の御開張は?

2014-12-27 07:24:35 | 自分史
 全例調査データ捏造事件が社長の強い意向で開発された新薬絡みだっただけに、その後の会社の取組みは真剣そのものでした。使用予定の患者についての情報までも漏らさず収集し、全例調査を徹底させました。新聞報道されたことで会社に逆風が吹いている状況でしたが、“人の噂も七十五日”。諺どおり暫くして社内に平静さが戻ってきました。

 この頃からだったでしょうか。洗髪時の脱毛が酷くなり、しばしば抜けた髪の毛で排水溝の蓋が塞がれることがありました。バッサバッサと抜け落ちる髪の毛を見るのは辛く気味の悪いものでした。

 やたら喉が渇いて水が欲しくなり、しょっちゅう水を飲むようにもなりました。節煙のためと思い、始終 “のど飴” を口にしていたので、そのせいかなと思っていました。ひょっとして糖尿病では(?)と頭を過ったのも事実ですが、一時的な変調だろうと気にしないようにしていました。体重も75kgと7kgほど増えていました。

 何やら身体に異変が起き始めていたようです。なにしろ毎晩9~11時ぐらいまで全員で残業し、近くの居酒屋で酒付きの夜食を摂るのが日課になっていましたから・・・。帰宅したらいつも日付が変わっていました。

 仕事の方は相変わらずで、高血圧症長期試験のまとめ作業もありましたし、並行して高血圧症1本と狭心症2本の二重盲検比較検証試験が進行中でした。これらの二重盲検比較検証試験は運命を決する肝心要の治験で、臨床開発の最終段階にありました。

 そのうちの一つ高血圧症の比較検証試験はkey open(開鍵)に備えたデータ回収を始める時期を迎えていました。いよいよ新Ca拮抗薬Pの最初の御開張=key open(開鍵)となるのです。新聞報道事件の翌年、私が41歳の早春から本格的にデータの回収作業を始めました。

 回収したデータは、未記入の空欄がないか点検し、内容に矛盾がないか慎重に確認していきます。空欄や矛盾した内容があったら追記か説明が必要で、必要に応じて医師に訂正・捺印してもらわなければなりません。その作業に十分な時間を確保するため、随分早い時期から少数例ずつでも回収することにしたのです。

 余談ですが、回収したデータを点検していると地域によって面白い傾向があることに気付かされます。関東・北陸地方以北の地域のデータは治験実施計画書どおり忠実に実行されたものが多く、一方東海・近畿地方以西の地域のデータは治験実施計画書から逸脱したものが結構多いのです。クソマジメ気質の地域文化か、イイカゲン気質の地域文化か、まるで土地柄によって患者と医師の気質が違うことを象徴しているかのようでした。

 点検作業が完了した症例については、ある程度数がまとまった段階で研究会に掛けました。治験実施計画書から逸脱した問題症例を解析用データとして採用か非採用かを決定してもらうためです。研究会のメンバーは代表世話人と幹事役、コントローラー(盲検化の管理者)からなる10名程度の医師で構成されます。このような研究会を2回開催して全290例のデータを固定しました。

 固定されたデータはコンピューターに入力され、さらに解析センター仕様に加工されます。その出力と生データとを照合・確認する点検が開鍵直前の最後の作業となります。新聞報道事件からちょうど1年後の夏、2泊3日の日程で東京の解析センター近くで最後の点検作業を行いました。

 開鍵という合法的大博打の開張を間近に控え、点検作業には極度の緊張感を強いられます。勝てば年間200億程度の売上が見込まれ、負ければ研究開発費の200億程度がパぁーになり、PMも左遷となります。文字通り天国か地獄かです。

 その恐怖に耐え切れず、夜になると久々に風俗嬢を呼んでしまいました。危機に晒された際に恒例の私のshelter退避です。翌日の昼食時、街中で交差点の歩道を歩いている時、前夜相手をしてくれた娘を見かけたのには仰天しました。

 開鍵は1週間後に大阪で行われました。コントローラーの秘書が、随行ついでに開鍵後の関西見物を予定していると事前に聞えて来ました。結果が良い時に限り、旅行など余裕のスケジュールを組むという噂だったので、ウマく行ったのかなという期待が膨らみました。

 当日はいつもの研究会通り、代表世話人と幹事役が揃っている席に結果の概要が2~3枚綴りの紙で配布されました。コントローラーが淡々と結果を読み上げました。実に呆気ないものです。発表された結果は、有効性と安全性ともに対照薬とほぼ同じ成績で、数字の上でやや上回るものでした。

 会場に一瞬「ほぉー」とどよめきが起こりました。統計学的に優ることは難しいだろうと考えていたので予想通りの結果でした。対照薬は強力というのが定評でしたから、出席していた医師たちも理想的な結果に驚いていたようです。専務のK氏に促され、早速電話で社長に報告しました。電話の社長は酔っているような声でした。

 成人10人に1人が高血圧と言われているように、市場規模でいうと狭心症よりも高血圧症の方が圧倒的に巨大な市場です。その巨大な市場に新Ca拮抗薬Pを送り込める目途が立ったのです。掛け値なしの勝利でした。会社も同じ思いでした。好結果を聞いて高血圧症を先行させて承認申請するべきという声が上がって来ました。狭心症の臨床開発が高血圧症より1年以上遅れていたので、出て来て当然の考えです。

 申請に関する当局の意向は、従前から予定する適応症が複数ある場合なら同時申請でした。開鍵前年の4月に高血圧症だけの先行申請の可否を当局に問い合わせ済みだったのです。当局から狭心症の申請時期の遅れがどの程度か聞いて来たので、1~2年と正直に答えました。その程度の遅れなら同時に申請するように、これが当局の回答でした。会社は已む無くこれに納得してくれました。

 実は私も、一か八か賭けて申請してみる価値はあると思ってはいました。しかし、全例調査データ捏造事件が新聞報道されてから1年しか経っていないのです。当局の会社に対する印象は悪く、審査に際して些細なことでも徹底的に追及して来るのは確実でした。さらに、会社の社内事情を考えても先行申請は無理と断念しました。

 社内事情とは、先行申請に踏み切れるだけの経験のある人員が確保できないだろうという読みです。承認申請には22本の論文作成を始め、すべての研究会議事録や申請概要など、膨大な文書資料の作成が必要です。治験を進めることだけに注力していたので、申請用の資料作成を並行して進めるなどの余力はなく、全くの未着手状態でした。たとえ当時のスタッフ全員で当たったとしても、最短でも1年は掛る作業量でした。

 プロジェクト未経験者だけではとても務まる作業量ではありません。何よりも私自身に負担が掛り過ぎて、発狂してしまう恐れもありました。実際に以前、承認申請作業で発狂した社員がいたのです。狭心症の比較検証試験2本が並行して進行中なので、スタッフを折半するとしても未経験者が大勢必要ということに何ら変わりありません。ここでも組織体制の脆さが痛感されました。「早く申請せい!!」専務のK氏とN先輩は能天気なものでした。

 承認申請スケジュールの短縮と人員不足という両立しがたい問題を抱え、私の心は達成感と閉塞感がごちゃ混ぜになった複雑なものでした。半面で気持ちが舞い上がり、もう半面では重圧で落ち込むという、潮の満ち引き状態でした。深夜まで残業した後の酒は深酒になっていました。

 いつものように残業後に立ち寄った居酒屋からタクシーで帰宅した際、途中から意識が無くなったことがありました。自宅に着いていることに初めて気付き、「なんだぁ~、家に帰って来てるんだ!」と意識が戻りました。が、次に気付いたのはサイフが無くなっていたことです。つい癇癪を爆発させてしまいました。タクシーで料金を支払ったはずですが、その間の記憶もサイフも共になくなっていたのです。典型的なブラックアウト状態です。癇癪を起こし当り散らすなどそれまでなかったことです。

 その頃の私は、傍から見たら尊大そのものに映っていたと思います。「どうだ、俺はヤッタゾ!」態度がどうしても傲慢になってしまう、凡庸な人間の業なのでしょう。歴代のPMの皆が皆、無邪気に陥っていた陥穽です。まして、家の中では一層鼻持ちならないものだったろうと思います。その実アルコールで澱んだ頭では、自分の手に余る仕事とばかり先行きを想像し、その思い込みで気持ちが焦って空回りばかりしていたのですが・・・。

 一方では大博打に勝ち誇り、他方では神経戦の作業に怯える、時間が経つにつれ逃げ場のない閉塞した精神状態になっていたのだと思います。芥川龍之介の「芋粥」の箴言に近い皮肉ですね。


アルコール依存症へ辿った道筋(その13)につづく


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アルコール依存症へ辿った道筋(その11)一人で抱(かか)え込むより抱(だ)き込む?

2014-12-20 05:21:38 | 自分史
 ここで寄り道ついでに最終段階(第Ⅲ相進行中~承認申請)の時点でのスタッフメンバーを紹介しておきましょう。体力戦と神経戦の両者の色彩が濃く、全能力の総動員が要求される作業に一緒に当ったメンバーです。いうなれば私の戦友です。新Ca拮抗薬Pのチームに加わった順番にしました。他に内勤専従のN子嬢がいました。

I君(係長):営業部門から異動。臨床開発業務経験4年。真面目な性格で、
   内勤の仕事は完璧にこなす。医者が苦手で腰が引けるタイプ。自分
   なりの考えを持っており付和雷同する所なし。
O君:営業部門から異動。臨床開発業務経験3年。仕事に真面目で忍耐力あり。
   一部ブッキラボウな態度を示すことがあるが誠実なタイプ。自分なり
   の考えを持っており付和雷同する所なし。
M君:営業部門から異動。臨床開発業務経験1年で全く不慣れ。人懐こく八方
   美人で煽(おだ)てに乗り易いタイプ。他人の噂に敏感で精神面が脆
   い。頑固な所あるが、一方でやや付和雷同する所あり。
A君(課長補佐):営業部門から異動。臨床開発業務経験2年。他人に指図し
   たがり、オレがオレがの自己顕示欲が強いタイプ。頑固で付和雷同す
   る所なし。
K君(係長):営業部門から異動。臨床開発業務経験1年で不慣れ。忍耐力が
   あり、弱音を絶対吐かない寂しがり屋。頑固で付和雷同する所なし。


 これらの面々が実戦スタッフ全員のプロフィールです。全員営業分野からの異動組なので、医者の扱いには慣れている頼もしいスタッフです。が、I君だけは医者にこっ酷く怒られた経験があるのか心に傷を負っていたようです。また、全員が自分自身をシッカリ持った自律した考え方の持ち主でした。

 それでも、私の個人的な印象では、最終段階の臨床開発業務を完遂するには「帯に短し襷に長し」という失礼な見方をしていました。このスタッフに任せて大丈夫行ける、と言い切れない不安をどこかに感じていました。チーム内で唯一の経験者であるだけに、臨床開発の経験不足が明らかなスタッフを一人前に教育できるという確信が持てなかったのです。

 加えて、他人を100%信用してはいけないという人生観もありました。他人を信頼して頼みごとをすることはありますが、他人を丸ごと信用することに私は今でも臆病のままです。信用と信頼とは根っこの所で違うと考えています。

 ともかくこのメンバーで、根幹データとなる治験については共同担当として分担してもらい、他の小規模の治験については1~2本を各々一人で担当してもらうことを原則としました。

 教育では“なぜそれが大事なのか”が大切で、教科書には書いていないノウハウにあたります。この肝腎要の部分をキッチリ教えないと画竜点睛を欠くことになります。必要な知識や具体的な方法ばかりでなく、“なぜ?” への対応が大切です。

 私は人を手取り足取り教育することが好きな方ですが、相手の反応をあまり確かめず一方的に押し売りするタイプではないかと懸念しています。時間が限られている状況で手取り足取り教え込むことは不可能で、むしろ邪魔になりかねません。走りながら教育することが求められる臨床開発業務では、恰好のお手本として完成度の高い資料を示すことこそ相応しいと考えていました。

 私自身、臨床開発業務らしい最初の作業が研究会用資料の作成だったこともあって、お手本さえあれば誰でも何とか出来るものと確信していたのです。お手本となる資料がなかったら、研究会の幹事役の医師から他社の資料を貰い受け、最も出来の良いものを選んでお手本としてしまえば良いのです。スタッフの教育にはお手本を活用することにしました。

 私自身が作った資料をお手本としてメンバーに作成経験を積んでもらい、研究会資料作成は任せられるようになってもらいました。それでも後日メンバーの一人から聞いた話によると、資料中に盛り込むべき要点が理解出来てないと、お手本の良さが全く分からなかったそうです。スタッフが作成した資料の点検は、私自身が必ずやるようにしていました。

 資料の点検というのは想像以上に大変な作業です。元データまで遡って確認しなければなりません。作成作業と同じぐらいの時間を要することもザラです。

 対象が論文になったら点検・校閲作業ということになります。元データとの照合に加え、データの解釈や文章表現、論理の一貫性という校閲作業までに及びます。資料の点検までは機械的作業のため全面的にスタッフ任せにすることも可能です。しかし、論文の校閲作業となると文章力とともにデータの解釈能力も要求され、相当の技量がなければ出来るものではありません。下手をすると、点検・校閲作業は最初から書くのと同じだけの時間がかかってしまいます。

 このことは後日メディカルライティング専任の仕事をしてみて痛感しました。作成者と点検・校閲者の両者とも高い技量がある場合のみ、短時間で済ませられるのです。高い技量を育むには相当の時間を要します。論文の項目ごとの雛形を活用することで凌ぐこともできますが、雛形を作成する時間も人材もありませんでした。

 点検・校閲作業を経験不足のスタッフにすべて任せることができるのか?大袈裟ですが、校閲者の人間としての倫理観や資質の問題とまで考えざるを得ませんでした。私の苦手とする問題です。すべての論文にPMとして関わらざるを得ない。この結論は重いものでした。

 この結論に至った考え方こそ私が “管理職” に徹し切れなかった理由です。「部下=他人に任せ、その結果責任は自分が負う」そこまで潔く割り切ることが出来ませんでした。

 「一人で抱(かか)え込まずに、周りの他人を抱(だ)き込む」これは組織で仕事を進める際の鉄則です。少しでも関わってもらい、少しでも責任を分担してもらう方が良いのです。たとえて言えば、一度相談を持ちかけられたら、その後知らんぷりはできないものなのです。相談を受けた時点で責任の一端を負ってしまったことになります。効率を考える上でも精神衛生の上でも心掛けなければなりません。

 当時、私はこのことにあまり気付いていなかったようです。いや、気付いていてもできなかったのです。そこに「一人で抱(かか)え込まざるを得ない」ことを残してしまう私がいました。「他人に任せ放しにはできない」今でも変わっていない私の人生観です。

 カッコ良いことばかり言うつもりはありません。部下に仕事で指示・命令を出すとき私は決まって臆病でした。上司の命令に対して私は内心反感や反発を感じることが多かったのです。面従腹背でした。

 部下も私と同じ感じ方をするものと思っていましたから、臆病にならざるを得なかったのです。度量が小さい男にありがちな、“ブーメラン報復(因果応報)”を恐れる小心男の姿です。この面でもやはり管理職失格ですね。

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 ついで続きに社長についても触れておきます。元の会社は社長なしには語れないのです。

 社長は創業家の3代目(実質的には2代目)で、オーナー社長でした。先代は町工場のような小さな会社を中堅企業まで育てた実質的創業者で、私が入社した年に39歳でその跡を継いだのです。

 業界の常識から自由で、柵(しがらみ)が全くない奇抜な発想の持ち主でした。周りの反対を押し切って医療用医薬品(治療薬)の研究開発を提唱し、自ら音頭を取って研究所を新設し、新薬を創出し続けるまでに育て上げました。消費者商品についても、常識に囚われない商品(機能性飲料・食品)を世に出し爆発的人気を博しました。先代から受け継いだ経営手腕以上の天才的経営感覚だったと思います。

 世の中には金の匂いに敏感な得体の知れない人物がいるものです。奇抜なことが好きなだけに、大風呂敷を広げる “大ホラ吹き” や “山師” が持ち込む事業話に騙されてはいました。この “人を見る目が無い” ことを除いたら社長の業績の素晴らしさに異を唱える人は誰もいませんでした。

 人事権を始め会社の全権を握るオーナー社長ですから、社内には学閥などの一切の派閥は全くありませんでした。派閥にありがちな人間関係の柵(しがらみ)は全くなかったのです。

 社員各々は昇進・昇格への近道として、いかにして社長一人に取入ることが出来るかが最大の関心事であり、社員同士の人間関係は単なる遊び仲間か足の引っ張り合いかぐらいが精々の単純な図式でした。

 もちろん、幹部の中に社長に進言をする者はいても、諫言をする者は誰一人いませんでした。社長に異を唱えることは即ち退社を意味します。“刺違え”は有り得ません。上司・部下関係も、上司が社長に気に入られているのか否かが重要で、昇進・昇格への損得勘定が第一の乾いた人間関係でした。上司が異動でいなくなればなったで、そこま~で~よ♪のフランクな関係でした。

 経営者にしてみれば効率の良い理想的な経営環境だったと思います。社長の指示・命令は絶対ですから・・・。しかし、従業員を使い捨てにするブラック企業のようでは決してありませんでした。信賞必罰が徹底していただけです。

 このような社風の人生道場で培われた私の人間関係観は義理人情の薄い乾いたもののようです。深入りした人間関係で有りがちな義理人情で生じる葛藤や摩擦が苦手で、他人とは一定の距離を置いてきました。世の中で避けられない他人との付き合い方として丁度良いものだったと思っています。

 会社在籍中は、生殺与奪を握る権力者という、低い天井のような重苦しい社長の存在に辟易していましたが、反面どろどろした社員同士の権力闘争には無縁で済んだことに感謝しています。

困難に直面したとき、ブレーキではなくアクセルを踏め

絶対に諦めるな

 元の社長の口癖でした。自らに言い聞かせていたに違いないこれらの言葉が不思議に懐かしい。元の社長はつい先日(2014年11月28日)、社長就任時の30倍規模、1兆4千億円余の売上高(連結決算)の会社を遺し77歳の天寿を完うして鬼籍に入りました。(合掌)


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アルコール依存症へ辿った道筋(その10)新薬誕生の道筋・臨床開発の流れ

2014-12-13 05:07:17 | 自分史
 ちょっと遅蒔きのきらいがありますが、医薬品の臨床開発全体の流れを説明しておきます。医薬品の臨床開発にはいくつかの段階があります。大きく分けて4段階から成ります。

 4段階という数は成書と同じですが、私の実体験を振り返って各々の意義を整理した上で分類してみたもので、各段階の中味が少し異なります。また、業務遂行に当って要求される能力も、出張と内勤が入り乱れた体力戦か、集中力と緊張感が必要な神経戦かのいずれの色彩が濃いかによって決まり、両者が混在している巴戦なのが実際です。

 それぞれの開発段階で体力戦か神経戦か、どちらの色彩が濃いかについても説明しておきましょう。

最初の段階(臨床開発計画の企画立案~第Ⅰ相):
 まず着手すべきは、最終段階の比較検証試験で何を対照薬(既に患者に広く使われている市販の医薬品のこと)にするかです。対照薬との比較を常に想定して、治験薬の使用方法(用法・用量と言います)を絞り込む手順を決めることが即ち臨床開発計画となります。

 第Ⅰ相は初めてヒトに使用してみる段階です。健康な成人男性ボランティアを募りキメ細かい管理体制の下で、小グループごとに低い用量から次第に高い用量へと増量していきます。特に初回には極めて低い用量から始めますし、何が起こるか大体の見当が付いているのですが、それでもさすがに緊張します。

 血中薬物濃度を頻繁に測定し、血中の薬物動態を調べることが、症状の観察と並ぶ重要な柱となります。

 どの程度の薬の用量まで耐えられるのか、内服薬の場合は食後の服用が良いのか、それとも食前などの方が良いのか、さらに1日に何回の服用が必要なのかを決めます。

 その他に重要なことは、使用量に正比例して体内に吸収され排泄されるのか、長期間にわたって使用を続けても体内に蓄積する恐れがないのかも調べます。

 他の段階も各々それなりに重要ですが、取分け開発品の成否を左右するという意味で、第Ⅰ相は戦略的に最重要と位置付けられるべき段階です。素人目には軽く見られがちですが、臨床開発計画がシッカリしていないと、先に進んでから第Ⅰ相のデータ不足で泣きを見ることもあるのです。どちらかと言えば神経戦の色彩が濃く、体力的には余裕の段階です。

中盤の段階前期第Ⅱ相後期第Ⅱ相):
 ここからは、予定している適応症の疾患に罹っている患者が対象の段階です。

 前期第Ⅱ相では、動物を対象とした基礎研究で明らかにされていた作用が、患者でも再現されるのかを確認します。

 患者で作用が確認できたら、次の後期第Ⅱ相は用量の探索です。比較検証試験で比較相手となる対照薬よりも、効果で優ることが期待できる用量を決めるのです。この時の用法・用量は第Ⅰ相の健康成人で経験した範囲内とします。

 対照薬にはない作用についても確認し、セールスポイントとして際立たせるべく比較検証試験に備えておきます。また、長期の安全性を確認するため、1年間の服用期間を目途とした長期試験も開始します。

 後期第Ⅱ相では患者数、病院数とも大幅に増やしますから、まさしく体力勝負の色彩が濃い段階です。

最終の段階第Ⅲ相~承認申請):
 第Ⅲ相は比較検証試験の実施から承認申請までの段階です。

 比較検証試験では、患者に治験薬か対照薬のいずれかを使用してもらい、病気に対してどちらの薬剤の方がより有効かを比較します。開発品と担当PMの運命を決定する判決が下される段階です。

 比較検証試験と同時並行で、併用薬として汎用される薬剤を使用中の患者だけに絞って対象とする治験や、高齢者の患者ばかりを対象とする治験など、同じ病気でも特別な背景を持つ患者に絞った治験も実施し、それらのデータを揃えておきます。これは、多様な患者を対象とする医療現場のニーズに応えるためのものです。[(その4)と内容が一部重複しました。]

 すべての治験が終了したら、承認申請資料概要を作成します。

 資料概要は、すべての治験成績を横串にして簡潔に要点をまとめた概要と個々の治験成績の概要、さらに市販に際して添える添付文書(いわゆる能書です)案の3つから構成され、個々の治験成績(当時は公表論文)のすべてを添えて(臨床領域の)承認申請資料として国に提出します。ちなみに添付文書の重要部分は治験成績を根拠としたものです。

 この段階では、体力戦と神経戦の両者の色彩を濃く持っており、全能力の総動員体制となります。資料概要作成は、まだ攻める気分で臨めるので辛くても楽しい作業です。

忍耐と辛抱の段階(承認申請後):
 承認申請資料提出後、当局の承認審査が始まります。

 承認申請した会社側の主張は、すべて申請資料中に盛り込んでありますから、承認審査が始まると、会社側の主張に対して当局側から照会事項と称する疑問・質問が矢継ぎ早に文書で出されて来ます。会社側の主張が妥当なものかについて、その合理的根拠を質して来るのです。申請資料の範囲内のデータから文書で回答しなければならず、会社側=PMは一方的に受け身の立場にならざるを得ません。

 申請データの範囲内で回答出来ない場合は、追加で治験の実施が必要となってしまいます。そうなると一旦申請を取り下げ、追加データで補強した上で再度承認申請することになります。

 照会事項の文章解釈に苦労する場合もあります。解釈を間違い、回答が不適切なものであれば、さらに新たな照会事項を呼ぶことになり、下手をすれば泥沼に嵌るような悲惨な結末にもなりかねません。

 何が模範回答かが分からない、退路を断たれた心境に追い込まれる段階です。これ以上最悪な神経戦を知りません。

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 以上が臨床開発の大きな流れです。現在では承認申請資料はすべて公開されています。

 公開された資料を見て、医薬品として承認されたのは尤もだと誰もが納得できることが重要です。誰が見ても理解できる資料を作成すること、これが新薬開発に携わる者として最も心しておかなければならないことです。

 モノが優れているか、逆に劣っているかは比べてみて初めて分かることです。従来品と違うものか、あるいはほとんど同じものかも、比較してみれば一目瞭然です。従来から、当局がしきりに比較試験を要求してくるのはこの理由からです。当局は国民に新薬として承認した説明責任を負っていますから、当然といえば当然です。比較検証試験ばかりでなく、根幹となる重要な主張には比較した成績をその根拠とすることが肝要です。

 私がPMとして担当していた新Ca拮抗薬Pは臨床開発の最終段階に入っていました。


当局との遣り取りを通じて固まった承認申請資料最終版は公開されています。伏せ字はありますが、承認された新医療用医薬品の詳しい情報が見られますよ。
(独)医薬品医療機器総合機構の医薬品関連情報

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アルコール依存症へ辿った道筋(その9)慎重さを欠いた脇の甘さが仇と・・・?

2014-12-06 07:13:03 | 自分史
 風俗に手を染めた時期とどちらが先だったかはっきりしません。私が40歳の初夏、出張で郷里の大学病院に行ったついでに実家に泊まったときのことです。両親と顔を合わるのは文字通り久し振りのことでした。

 私の母は一度も他人の飯を食べた経験がない家娘(私の郷里の田舎ではこう呼びます)で、父を入婿として迎えたのですが、それだけに我儘そのものの人でした。気に食わないことがあると周りに直ぐ当たりだします。その時も丁度そんな状態で、久々に帰った私も騒動に巻き込まれてしまいました。

 久々に会う息子相手だからこそ腹に貯めていたことが一気に噴出してきたのでしょう。父と一緒に住んでいるのが我慢ならないとゴネ出したのです。毎度のことで原因がよく分かりません。最初は宥め役を務めていたのですが、酒も入っていたので、そのうち売り言葉に買い言葉で、遂には父を引き取ると啖呵を切ってしまいました。さあ大変です。

 妻には電話で経緯を告げただけで、どうにか出張に都合をつけ父を陸路新幹線で連れ帰りました。同居が始まっても私は仕事に追い捲られて、ろくすっぽ父の相手をしてやることもできませんでした。父は手持無沙汰で退屈だったろうと思います。1ヵ月半ほどして母から電話があり、父は郷里に帰って行きました。私は仕事で見送りにも行けませんでした。

 父との同居事件から間もないお盆休みの初日、N先輩がかつて責任者であった化合物A(うっ血性心不全治療薬)で、あるデータ捏造事件が発生していたことを全国紙が嗅ぎ付け、重大事件として大々的に報道しました。

 化合物Aについては発売直後から服用中の患者が死亡する事例が報告されており、使用に際して全例の調査が当局から指示(行政指導)されていました。その調査データの一部を病院担当者が捏造してしまったというのです。医師が調査に協力してくれなかったので、仕方なく病院担当者が自分で調査データを造ってしまった、というのが後から聞こえてきた真相のようでした。

 経験の浅い病院担当者だとしても、あまりにも想像力が貧困で迂闊です。会社としても、不祥事が全国的に報道されたことで消費者商品への影響が懸念され、医薬品についても国公立病院への営業活動が半年間停止となるなど事件の影響は全社に及びました。盆休みに入る前日、N先輩の顔が妙に引き攣っていたことに合点がいきました。

 新聞報道の直後に会社から臨床開発部門全員の召集が掛りました。医薬品事業の中枢の一つだからだと思います。社長から直接話がありましたが、内容はよく覚えていません。治験時代のデータも改めて調査の対象になることに備え、部内に特別プロジェクトが組まれ作業用の大部屋も確保されました。

 私のチームからも元担当者ということで1名が駆り出されました。私個人は担当業務のみに専任できましたが、少し前から私を含めやっと6人体制になったばかりのスタッフから1名抜けるのは痛手でした。なにしろ肝心要の比較検証試験が3本も進行中でしたから・・・。

 件の化合物Aのかつての担当PMとして、また現職の部長としてN先輩は我々部下に詳しく説明すべきと思えました。外部から求められた場合に備え説明内容の指示はありましたが、開発中の知見と事件の発端となった死亡例発生との関係など、期待に即した説明はありませんでした。当然ながら、事件に関する一切については厳重な箝口令が敷かれました。

 事件を受けてN先輩がしたことと言えば、特別プロジェクトのメンバーに化合物Aの臨床開発段階のデータや当局への提出資料などの点検・確認作業を命じていただけだったようです。当時の私にはそれが潔さに欠けた責任逃れにも見えました。

 私の方は、事件報道の衝撃で途方に暮れ、仕事に手が着かず、放心状態がしばらく続きました。先行きへの不安と事件による社内の混乱への憤懣もあって、いつも通りの一人酒が一層荒れた酒となりました。

 今振り返ってみると、会社の採った情報統制という対応は仕方のないことと思います。不確かな情報が外部に漏れることは事を混乱させるだけです。事件発覚後、得体の知れない人物が会社に入り浸って電話を掛け捲っていたことを今でもよく覚えています。マスコミが嗅ぎまわっていたのです。

 この少し後だったかと思います。社長から読むようにと回覧されてきた図書に「Strong Medicine」という小説がありました。

 ほとんど粗筋を覚えていませんが、主人公の副社長が臨床開発担当者に疑念を持った場面がありました。会社の主力商品の医薬品に重大な副作用が報告されて会社が危機に陥ったとき、開発段階で既に臨床開発担当者は副作用発生が予見できていたのでは(?)と副社長が疑いを持った場面です。その山場の場面が妙に暗示的だったという記憶があります。

 会社は10数年足らずの間に自社開発品を5成分も承認取得し、その内販売中であった4成分では安全性に何ら問題が出ていない実績から、新薬・化合物Aの発売に舞い上がって緊張感を欠いていたのだと思います。

 本来は発売から最低でも1年ほどは安全性に細心の注意を払い、慎重な営業活動であるべきだったのです。販売促進にのみ勢力を傾注したまま、発売間もない時期の死亡例報告に危機感を抱かず、細心であるべき全例調査への取組み不足が仇となったのです。タガが緩んで脇の甘さを突かれた事件だったと思います。成功体験は慢心の素でもあります。

 事件から3ヵ月ほどで社内に平静さが戻ってきました。死亡例の発生原因究明と社長直轄の特別専任プロジェクトを組んで全例調査の徹底を図ることで当局と折り合いが着いたのです。

 マスコミ報道で社内が浮足立っていた時、「このまま、仕事を放り出すことになるのかな?」という考えが一瞬脳裏を過りました。渦中にいて客観的な状況も先行きもよく見えなかったからです。

 しかし、このまま業務を続行するしかないと即座に腹を決めました。マスコミが今後どこまでどう報道して来るのか、当局がどう出て来るのか、その動静が大いに気になっていました。戦力不足で不安な状態でもありました。それでも、現状を維持せざるを得ないという簡単な結論に至りました。

 他に選択肢が浮かばないわけではないのですが、敵前逃亡には本能的に抵抗があるのです。「ここで逃げちゃダメだ」と即座に反応してしまいます。転職という選択肢が仮にあったとしても、「敵前逃亡では分が悪い。“稼ぎ”がシッカリ確保できるかどうか分からない」という現実的な損得勘定最優先の判断です。

 暇な仕事ばかりで実績を積めず、年末の人事異動で転勤になりはしないかと恐々としていた30歳前後の頃とはエライ違いです。ある意味、現実的で腹が据わった判断が出来るようになっていました。仕事で実践を積むことが人を育てるというのは私の実感です。

 内心までは分かりませんが、チームのスタッフ各人にも出来ることは淡々とこなす姿勢が見て取れました。重いストレスを抱えながら、打開策も浮かばず、途方に暮れながらも「やるしかない」日々が過ぎて行きました。


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