全例調査データ捏造事件が社長の強い意向で開発された新薬絡みだっただけに、その後の会社の取組みは真剣そのものでした。使用予定の患者についての情報までも漏らさず収集し、全例調査を徹底させました。新聞報道されたことで会社に逆風が吹いている状況でしたが、“人の噂も七十五日”。諺どおり暫くして社内に平静さが戻ってきました。
この頃からだったでしょうか。洗髪時の脱毛が酷くなり、しばしば抜けた髪の毛で排水溝の蓋が塞がれることがありました。バッサバッサと抜け落ちる髪の毛を見るのは辛く気味の悪いものでした。
やたら喉が渇いて水が欲しくなり、しょっちゅう水を飲むようにもなりました。節煙のためと思い、始終 “のど飴” を口にしていたので、そのせいかなと思っていました。ひょっとして糖尿病では(?)と頭を過ったのも事実ですが、一時的な変調だろうと気にしないようにしていました。体重も75kgと7kgほど増えていました。
何やら身体に異変が起き始めていたようです。なにしろ毎晩9~11時ぐらいまで全員で残業し、近くの居酒屋で酒付きの夜食を摂るのが日課になっていましたから・・・。帰宅したらいつも日付が変わっていました。
仕事の方は相変わらずで、高血圧症長期試験のまとめ作業もありましたし、並行して高血圧症1本と狭心症2本の二重盲検比較検証試験が進行中でした。これらの二重盲検比較検証試験は運命を決する肝心要の治験で、臨床開発の最終段階にありました。
そのうちの一つ高血圧症の比較検証試験はkey open(開鍵)に備えたデータ回収を始める時期を迎えていました。いよいよ新Ca拮抗薬Pの最初の御開張=key open(開鍵)となるのです。新聞報道事件の翌年、私が41歳の早春から本格的にデータの回収作業を始めました。
回収したデータは、未記入の空欄がないか点検し、内容に矛盾がないか慎重に確認していきます。空欄や矛盾した内容があったら追記か説明が必要で、必要に応じて医師に訂正・捺印してもらわなければなりません。その作業に十分な時間を確保するため、随分早い時期から少数例ずつでも回収することにしたのです。
余談ですが、回収したデータを点検していると地域によって面白い傾向があることに気付かされます。関東・北陸地方以北の地域のデータは治験実施計画書どおり忠実に実行されたものが多く、一方東海・近畿地方以西の地域のデータは治験実施計画書から逸脱したものが結構多いのです。クソマジメ気質の地域文化か、イイカゲン気質の地域文化か、まるで土地柄によって患者と医師の気質が違うことを象徴しているかのようでした。
点検作業が完了した症例については、ある程度数がまとまった段階で研究会に掛けました。治験実施計画書から逸脱した問題症例を解析用データとして採用か非採用かを決定してもらうためです。研究会のメンバーは代表世話人と幹事役、コントローラー(盲検化の管理者)からなる10名程度の医師で構成されます。このような研究会を2回開催して全290例のデータを固定しました。
固定されたデータはコンピューターに入力され、さらに解析センター仕様に加工されます。その出力と生データとを照合・確認する点検が開鍵直前の最後の作業となります。新聞報道事件からちょうど1年後の夏、2泊3日の日程で東京の解析センター近くで最後の点検作業を行いました。
開鍵という合法的大博打の開張を間近に控え、点検作業には極度の緊張感を強いられます。勝てば年間200億程度の売上が見込まれ、負ければ研究開発費の200億程度がパぁーになり、PMも左遷となります。文字通り天国か地獄かです。
その恐怖に耐え切れず、夜になると久々に風俗嬢を呼んでしまいました。危機に晒された際に恒例の私のshelter退避です。翌日の昼食時、街中で交差点の歩道を歩いている時、前夜相手をしてくれた娘を見かけたのには仰天しました。
開鍵は1週間後に大阪で行われました。コントローラーの秘書が、随行ついでに開鍵後の関西見物を予定していると事前に聞えて来ました。結果が良い時に限り、旅行など余裕のスケジュールを組むという噂だったので、ウマく行ったのかなという期待が膨らみました。
当日はいつもの研究会通り、代表世話人と幹事役が揃っている席に結果の概要が2~3枚綴りの紙で配布されました。コントローラーが淡々と結果を読み上げました。実に呆気ないものです。発表された結果は、有効性と安全性ともに対照薬とほぼ同じ成績で、数字の上でやや上回るものでした。
会場に一瞬「ほぉー」とどよめきが起こりました。統計学的に優ることは難しいだろうと考えていたので予想通りの結果でした。対照薬は強力というのが定評でしたから、出席していた医師たちも理想的な結果に驚いていたようです。専務のK氏に促され、早速電話で社長に報告しました。電話の社長は酔っているような声でした。
成人10人に1人が高血圧と言われているように、市場規模でいうと狭心症よりも高血圧症の方が圧倒的に巨大な市場です。その巨大な市場に新Ca拮抗薬Pを送り込める目途が立ったのです。掛け値なしの勝利でした。会社も同じ思いでした。好結果を聞いて高血圧症を先行させて承認申請するべきという声が上がって来ました。狭心症の臨床開発が高血圧症より1年以上遅れていたので、出て来て当然の考えです。
申請に関する当局の意向は、従前から予定する適応症が複数ある場合なら同時申請でした。開鍵前年の4月に高血圧症だけの先行申請の可否を当局に問い合わせ済みだったのです。当局から狭心症の申請時期の遅れがどの程度か聞いて来たので、1~2年と正直に答えました。その程度の遅れなら同時に申請するように、これが当局の回答でした。会社は已む無くこれに納得してくれました。
実は私も、一か八か賭けて申請してみる価値はあると思ってはいました。しかし、全例調査データ捏造事件が新聞報道されてから1年しか経っていないのです。当局の会社に対する印象は悪く、審査に際して些細なことでも徹底的に追及して来るのは確実でした。さらに、会社の社内事情を考えても先行申請は無理と断念しました。
社内事情とは、先行申請に踏み切れるだけの経験のある人員が確保できないだろうという読みです。承認申請には22本の論文作成を始め、すべての研究会議事録や申請概要など、膨大な文書資料の作成が必要です。治験を進めることだけに注力していたので、申請用の資料作成を並行して進めるなどの余力はなく、全くの未着手状態でした。たとえ当時のスタッフ全員で当たったとしても、最短でも1年は掛る作業量でした。
プロジェクト未経験者だけではとても務まる作業量ではありません。何よりも私自身に負担が掛り過ぎて、発狂してしまう恐れもありました。実際に以前、承認申請作業で発狂した社員がいたのです。狭心症の比較検証試験2本が並行して進行中なので、スタッフを折半するとしても未経験者が大勢必要ということに何ら変わりありません。ここでも組織体制の脆さが痛感されました。「早く申請せい!!」専務のK氏とN先輩は能天気なものでした。
承認申請スケジュールの短縮と人員不足という両立しがたい問題を抱え、私の心は達成感と閉塞感がごちゃ混ぜになった複雑なものでした。半面で気持ちが舞い上がり、もう半面では重圧で落ち込むという、潮の満ち引き状態でした。深夜まで残業した後の酒は深酒になっていました。
いつものように残業後に立ち寄った居酒屋からタクシーで帰宅した際、途中から意識が無くなったことがありました。自宅に着いていることに初めて気付き、「なんだぁ~、家に帰って来てるんだ!」と意識が戻りました。が、次に気付いたのはサイフが無くなっていたことです。つい癇癪を爆発させてしまいました。タクシーで料金を支払ったはずですが、その間の記憶もサイフも共になくなっていたのです。典型的なブラックアウト状態です。癇癪を起こし当り散らすなどそれまでなかったことです。
その頃の私は、傍から見たら尊大そのものに映っていたと思います。「どうだ、俺はヤッタゾ!」態度がどうしても傲慢になってしまう、凡庸な人間の業なのでしょう。歴代のPMの皆が皆、無邪気に陥っていた陥穽です。まして、家の中では一層鼻持ちならないものだったろうと思います。その実アルコールで澱んだ頭では、自分の手に余る仕事とばかり先行きを想像し、その思い込みで気持ちが焦って空回りばかりしていたのですが・・・。
一方では大博打に勝ち誇り、他方では神経戦の作業に怯える、時間が経つにつれ逃げ場のない閉塞した精神状態になっていたのだと思います。芥川龍之介の「芋粥」の箴言に近い皮肉ですね。
アルコール依存症へ辿った道筋(その13)につづく
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やたら喉が渇いて水が欲しくなり、しょっちゅう水を飲むようにもなりました。節煙のためと思い、始終 “のど飴” を口にしていたので、そのせいかなと思っていました。ひょっとして糖尿病では(?)と頭を過ったのも事実ですが、一時的な変調だろうと気にしないようにしていました。体重も75kgと7kgほど増えていました。
何やら身体に異変が起き始めていたようです。なにしろ毎晩9~11時ぐらいまで全員で残業し、近くの居酒屋で酒付きの夜食を摂るのが日課になっていましたから・・・。帰宅したらいつも日付が変わっていました。
仕事の方は相変わらずで、高血圧症長期試験のまとめ作業もありましたし、並行して高血圧症1本と狭心症2本の二重盲検比較検証試験が進行中でした。これらの二重盲検比較検証試験は運命を決する肝心要の治験で、臨床開発の最終段階にありました。
そのうちの一つ高血圧症の比較検証試験はkey open(開鍵)に備えたデータ回収を始める時期を迎えていました。いよいよ新Ca拮抗薬Pの最初の御開張=key open(開鍵)となるのです。新聞報道事件の翌年、私が41歳の早春から本格的にデータの回収作業を始めました。
回収したデータは、未記入の空欄がないか点検し、内容に矛盾がないか慎重に確認していきます。空欄や矛盾した内容があったら追記か説明が必要で、必要に応じて医師に訂正・捺印してもらわなければなりません。その作業に十分な時間を確保するため、随分早い時期から少数例ずつでも回収することにしたのです。
余談ですが、回収したデータを点検していると地域によって面白い傾向があることに気付かされます。関東・北陸地方以北の地域のデータは治験実施計画書どおり忠実に実行されたものが多く、一方東海・近畿地方以西の地域のデータは治験実施計画書から逸脱したものが結構多いのです。クソマジメ気質の地域文化か、イイカゲン気質の地域文化か、まるで土地柄によって患者と医師の気質が違うことを象徴しているかのようでした。
点検作業が完了した症例については、ある程度数がまとまった段階で研究会に掛けました。治験実施計画書から逸脱した問題症例を解析用データとして採用か非採用かを決定してもらうためです。研究会のメンバーは代表世話人と幹事役、コントローラー(盲検化の管理者)からなる10名程度の医師で構成されます。このような研究会を2回開催して全290例のデータを固定しました。
固定されたデータはコンピューターに入力され、さらに解析センター仕様に加工されます。その出力と生データとを照合・確認する点検が開鍵直前の最後の作業となります。新聞報道事件からちょうど1年後の夏、2泊3日の日程で東京の解析センター近くで最後の点検作業を行いました。
開鍵という合法的大博打の開張を間近に控え、点検作業には極度の緊張感を強いられます。勝てば年間200億程度の売上が見込まれ、負ければ研究開発費の200億程度がパぁーになり、PMも左遷となります。文字通り天国か地獄かです。
その恐怖に耐え切れず、夜になると久々に風俗嬢を呼んでしまいました。危機に晒された際に恒例の私のshelter退避です。翌日の昼食時、街中で交差点の歩道を歩いている時、前夜相手をしてくれた娘を見かけたのには仰天しました。
開鍵は1週間後に大阪で行われました。コントローラーの秘書が、随行ついでに開鍵後の関西見物を予定していると事前に聞えて来ました。結果が良い時に限り、旅行など余裕のスケジュールを組むという噂だったので、ウマく行ったのかなという期待が膨らみました。
当日はいつもの研究会通り、代表世話人と幹事役が揃っている席に結果の概要が2~3枚綴りの紙で配布されました。コントローラーが淡々と結果を読み上げました。実に呆気ないものです。発表された結果は、有効性と安全性ともに対照薬とほぼ同じ成績で、数字の上でやや上回るものでした。
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成人10人に1人が高血圧と言われているように、市場規模でいうと狭心症よりも高血圧症の方が圧倒的に巨大な市場です。その巨大な市場に新Ca拮抗薬Pを送り込める目途が立ったのです。掛け値なしの勝利でした。会社も同じ思いでした。好結果を聞いて高血圧症を先行させて承認申請するべきという声が上がって来ました。狭心症の臨床開発が高血圧症より1年以上遅れていたので、出て来て当然の考えです。
申請に関する当局の意向は、従前から予定する適応症が複数ある場合なら同時申請でした。開鍵前年の4月に高血圧症だけの先行申請の可否を当局に問い合わせ済みだったのです。当局から狭心症の申請時期の遅れがどの程度か聞いて来たので、1~2年と正直に答えました。その程度の遅れなら同時に申請するように、これが当局の回答でした。会社は已む無くこれに納得してくれました。
実は私も、一か八か賭けて申請してみる価値はあると思ってはいました。しかし、全例調査データ捏造事件が新聞報道されてから1年しか経っていないのです。当局の会社に対する印象は悪く、審査に際して些細なことでも徹底的に追及して来るのは確実でした。さらに、会社の社内事情を考えても先行申請は無理と断念しました。
社内事情とは、先行申請に踏み切れるだけの経験のある人員が確保できないだろうという読みです。承認申請には22本の論文作成を始め、すべての研究会議事録や申請概要など、膨大な文書資料の作成が必要です。治験を進めることだけに注力していたので、申請用の資料作成を並行して進めるなどの余力はなく、全くの未着手状態でした。たとえ当時のスタッフ全員で当たったとしても、最短でも1年は掛る作業量でした。
プロジェクト未経験者だけではとても務まる作業量ではありません。何よりも私自身に負担が掛り過ぎて、発狂してしまう恐れもありました。実際に以前、承認申請作業で発狂した社員がいたのです。狭心症の比較検証試験2本が並行して進行中なので、スタッフを折半するとしても未経験者が大勢必要ということに何ら変わりありません。ここでも組織体制の脆さが痛感されました。「早く申請せい!!」専務のK氏とN先輩は能天気なものでした。
承認申請スケジュールの短縮と人員不足という両立しがたい問題を抱え、私の心は達成感と閉塞感がごちゃ混ぜになった複雑なものでした。半面で気持ちが舞い上がり、もう半面では重圧で落ち込むという、潮の満ち引き状態でした。深夜まで残業した後の酒は深酒になっていました。
いつものように残業後に立ち寄った居酒屋からタクシーで帰宅した際、途中から意識が無くなったことがありました。自宅に着いていることに初めて気付き、「なんだぁ~、家に帰って来てるんだ!」と意識が戻りました。が、次に気付いたのはサイフが無くなっていたことです。つい癇癪を爆発させてしまいました。タクシーで料金を支払ったはずですが、その間の記憶もサイフも共になくなっていたのです。典型的なブラックアウト状態です。癇癪を起こし当り散らすなどそれまでなかったことです。
その頃の私は、傍から見たら尊大そのものに映っていたと思います。「どうだ、俺はヤッタゾ!」態度がどうしても傲慢になってしまう、凡庸な人間の業なのでしょう。歴代のPMの皆が皆、無邪気に陥っていた陥穽です。まして、家の中では一層鼻持ちならないものだったろうと思います。その実アルコールで澱んだ頭では、自分の手に余る仕事とばかり先行きを想像し、その思い込みで気持ちが焦って空回りばかりしていたのですが・・・。
一方では大博打に勝ち誇り、他方では神経戦の作業に怯える、時間が経つにつれ逃げ場のない閉塞した精神状態になっていたのだと思います。芥川龍之介の「芋粥」の箴言に近い皮肉ですね。
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