アル中(アルコール依存症)といえば手が震える振戦。離脱症状の代名詞ともいえる振戦がバレた決定的な場面が他にもありました。
別居状態が解消された年の夏、狭心症の治験で代表世話人になっていただいた大物医師が定年退職し、退職記念パーティーに招待されたときのことです。製薬各社の治験の世話人を引き受けた大物ですから、主だった医師やら製薬会社社員やら、関係者が大勢集まっていました。
会場はホテルの宴会場で、午後6時に受け付けが始まったので、さっそく記帳することにしました。サインペンを持ち、いざ署名しようとすると、ヤバイことに手が震えていました。それでも何とか記帳を済ませましたが、ふと後ろを振り返ると、いつの間にか私の後ろに会社の後輩社員たちが並んでいたのです。会社の連中に、震える手で記帳した直後の文字を見られてしまいました。一目で振戦であることがバレバレでした。
このとき以降も、公の場面で振戦に当惑させられ、冷や汗だらけとなった場面が何回かありました。
社内会議で皆が注視している中、マウスポインターが手の震えで定まらず、PCのPower Pointファイルを開けるのに難渋したことがありました。こんなときには緊張で手が汗ばみ、一層マウスが滑ります。必死の2回目でタマタマ上手く的に当たり、辛うじて難を逃れることができました。
他にも銀行窓口の行員の目の前で、振戦のため全く字が書けなくなり、やむなく行員に代筆してもらったりもしました。その度ごとにどうにか切り抜けて来たのですが、ただ単に幸運だっただけです。
お分かりのように、ここでお話したのは皆人前での場面です。他人に見られていると意識し出すと、緊張で余計に手の震えが酷くなります。それが刷り込まれてしまって、断酒後の今でも、人前で署名する場面になると妙に身構えてしまいます。まさしく条件反射ですね。
そして遂に、年1回の人間ドックの点検で、とうとう高血圧と糖尿病が見つかってしまいました。今ならアルコールによる障害とはっきり分かるのですが、当時は「ついに俺も、成人病に罹ってしまったか」という感慨だけでした。
それでTS部が消滅した翌年から、高血圧と糖尿病のため定期通院を始めることになったのです。降圧薬は、因縁深い例のCa拮抗薬Nにして貰い、糖尿病の方はまだ血糖降下薬を使うほどではないと、食事療法だけの経過観察となりました。
会社で年配の同僚に「とうとう糖尿病になってしまった」と話したら、
「あんたなぁ、それは “がん” と同じで死刑宣告を受けたも同然やでぇ!」と言われてしまいました。これには黙って苦笑いするしかありませんでした。
しばらくして総コレステロールも280 mg/dLぐらいまで上昇し、脂質異常症としても薬物治療開始となりました。喫煙習慣と合わせて愈々 “死の四重奏” の完成です。
米国のFramingham研究という疫学調査によって、高血圧、糖尿病、脂質異常症の合併に喫煙習慣が加わると、心筋梗塞や脳卒中などの心血管合併症が急増し、死亡率が飛躍的に上昇することが知られていました。それで、これらの4つを併せ持っていることを “死の四重奏” と呼びます。49歳にして死が現実味を増しました。でも不思議なことに、肝機能については問題となるレベルには至っていませんでした。
この年の夏、久々に帰郷した時のことです。「どちらさんでしたっけ?」79歳になった父親が私の顔を見るなり最初に言った言葉です。9年前一時父親を自宅に引き取った時、ほとんど構ってやれなかったことを思い出し、そのことへの当て付けで出た皮肉かと思いました。側で長姉が “痴呆” の進んだ結果だと教えてくれました。
オムツなしでは過ごせない状態だとは聞いていましたが、聞きしに勝る “痴呆” の実態を知りました。自分の死は “痴呆” の末か、はたまた脳卒中か、それとも心筋梗塞による突然死か、老いという実態を前にして暗澹たる気分になりました。
それから3年後の52歳のとき、次長に任ぜられました。Ca拮抗薬Pが申請取下げとなった翌月のことです。次長というのは課長職級の “上がり” の役職で、もはや昇進のない名誉職です。同時にこの年には就業規則の制度変更があり、52歳以上の昇給額が52歳未満の年齢層の半額に抑えられることにもなりました。
これで昇進ばかりでなく、昇給の楽しみもなくなってしまいました。私のサラリーマン人生は終着駅に着いてしまったのです。
当時の会社の慣例では、申請取下げとなった品目の臨床開発責任者の処遇は更迭・左遷でした。Ca拮抗薬Pの場合も、審査が異常に長引いていたことから、何が原因で拗れたのか、誰がその責任者だったのかが検証されていたと後で知りました。問題となった血圧日内変動試験では、当時の責任者が私の前任者であったことから、私には直接の責任を問えなかったのだと検証担当者から聞きました。前社長から検証を命じられたこの担当者は、私と同期入社で、意味ありげに笑いながらコッソリ教えてくれたのです。
首の薄皮一枚だけ、辛うじて繋がっていました。次長に任じられたのも、会社としては温情のつもりだったのかもしれません。Ca拮抗薬Pと同じように、申請取下げとなった4成分の責任者は全員、すでに左遷か子会社に放逐されていました。
成功に対する報奨はゆっくり後出しし、失敗に対する処分は即刻実施。会社とは非情なものです。
会社などの組織は、システムに基づいて業務が遂行されるのが筋です。その中で失敗が起きてしまった場合、組織としてシステムの何が問題だったのかをまず検証すべきで、誰が原因だったのか個人を責任追及するのはその後であるべきです。誰がではなく、何が原因だったのかを究明しなければ、問題の再発を防ぐことは出来ません。会社の臨床開発業務については、教育システムがお粗末だったことが、失敗事例に共通していた最大の原因だったと私は考えています。
あのとき教育しておいてくれたなら、と今でも思うことがあります。ここでは重要なポイントを3つ挙げておきます。いずれも臨床開発に欠かせないノウ・ハウで、これらがなかったばかりに悔やんでも悔やみきれない思いが強いのです。
● 当局が比較試験を重視する理由
優劣は比べれば誰の目にも一目瞭然。情報公開が必須という政治的意味
合いも含まれていること。
● 対照薬を選定するときの諸々の留意点
申請後の審査過程でも通用する対照薬を選定すること。薬効を実証する
目的での対照薬か? それとも特長を引き出す目的での対照薬か?
審査過程で拗れた問題への回答にはイチかバチかの一発勝負に賭ける
ケモノ道もアリ。常識に囚われてはダメ。
● 盲検化の方法
外観に施す常識的な “薬剤の盲検化” ばかりでなく、データの測定
~ 解析段階で行う “データの盲検化・匿名化” もあり得ること。
この3点だけではきかないのですが、当時は会社として承認取得が6成分だけと、臨床開発の経験が乏しかったことを考えると仕方がないことかもしれません。これら3点についてさえ、成書からでは中々読み取れるものではありません。これらの知識をこなれた言葉で教えて貰えていたなら、余計なストレスを受けずにすみ、狭い “ケモノ道” も気楽に発想できていたのかもしれません。生き残るための知恵を こなれた言葉で伝授すること、それが教育だと私は考えています。
以上のように、健康面ではアルコール依存症ばかりか、49歳で “死の四重奏” まで抱え込むことになりました。その後の会社勤めでは、Ca拮抗薬Pの承認申請取下げや、昇進・昇給の道が閉ざされ、52歳にして早くもサラリーマン人生の終着駅に到着してしまいました。会社では、最早窓際族としての余生しか残っていないように思えました。これらのどれをとっても将来は悲観的で、老後の明るい展望など一向に見えませんでした。まさしく執行猶予付き死刑宣告を受けたも同然でした。
辛うじて私に課せられ、まだ宿題として残っていた問題は、二男の結婚、住宅ローンの完済、地元での墓地の取得ぐらいで、他には何も思い付きませんでした。現在から見ても、当時は暗澹たる状況だったことに違いないのですが、ここまで落ち込んだのはアルコール性うつ症状が進行し、加勢していたのだと思わずにはいられません。
アルコール依存症へ辿った道筋(その35)につづく
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別居状態が解消された年の夏、狭心症の治験で代表世話人になっていただいた大物医師が定年退職し、退職記念パーティーに招待されたときのことです。製薬各社の治験の世話人を引き受けた大物ですから、主だった医師やら製薬会社社員やら、関係者が大勢集まっていました。
会場はホテルの宴会場で、午後6時に受け付けが始まったので、さっそく記帳することにしました。サインペンを持ち、いざ署名しようとすると、ヤバイことに手が震えていました。それでも何とか記帳を済ませましたが、ふと後ろを振り返ると、いつの間にか私の後ろに会社の後輩社員たちが並んでいたのです。会社の連中に、震える手で記帳した直後の文字を見られてしまいました。一目で振戦であることがバレバレでした。
このとき以降も、公の場面で振戦に当惑させられ、冷や汗だらけとなった場面が何回かありました。
社内会議で皆が注視している中、マウスポインターが手の震えで定まらず、PCのPower Pointファイルを開けるのに難渋したことがありました。こんなときには緊張で手が汗ばみ、一層マウスが滑ります。必死の2回目でタマタマ上手く的に当たり、辛うじて難を逃れることができました。
他にも銀行窓口の行員の目の前で、振戦のため全く字が書けなくなり、やむなく行員に代筆してもらったりもしました。その度ごとにどうにか切り抜けて来たのですが、ただ単に幸運だっただけです。
お分かりのように、ここでお話したのは皆人前での場面です。他人に見られていると意識し出すと、緊張で余計に手の震えが酷くなります。それが刷り込まれてしまって、断酒後の今でも、人前で署名する場面になると妙に身構えてしまいます。まさしく条件反射ですね。
そして遂に、年1回の人間ドックの点検で、とうとう高血圧と糖尿病が見つかってしまいました。今ならアルコールによる障害とはっきり分かるのですが、当時は「ついに俺も、成人病に罹ってしまったか」という感慨だけでした。
それでTS部が消滅した翌年から、高血圧と糖尿病のため定期通院を始めることになったのです。降圧薬は、因縁深い例のCa拮抗薬Nにして貰い、糖尿病の方はまだ血糖降下薬を使うほどではないと、食事療法だけの経過観察となりました。
会社で年配の同僚に「とうとう糖尿病になってしまった」と話したら、
「あんたなぁ、それは “がん” と同じで死刑宣告を受けたも同然やでぇ!」と言われてしまいました。これには黙って苦笑いするしかありませんでした。
しばらくして総コレステロールも280 mg/dLぐらいまで上昇し、脂質異常症としても薬物治療開始となりました。喫煙習慣と合わせて愈々 “死の四重奏” の完成です。
米国のFramingham研究という疫学調査によって、高血圧、糖尿病、脂質異常症の合併に喫煙習慣が加わると、心筋梗塞や脳卒中などの心血管合併症が急増し、死亡率が飛躍的に上昇することが知られていました。それで、これらの4つを併せ持っていることを “死の四重奏” と呼びます。49歳にして死が現実味を増しました。でも不思議なことに、肝機能については問題となるレベルには至っていませんでした。
この年の夏、久々に帰郷した時のことです。「どちらさんでしたっけ?」79歳になった父親が私の顔を見るなり最初に言った言葉です。9年前一時父親を自宅に引き取った時、ほとんど構ってやれなかったことを思い出し、そのことへの当て付けで出た皮肉かと思いました。側で長姉が “痴呆” の進んだ結果だと教えてくれました。
オムツなしでは過ごせない状態だとは聞いていましたが、聞きしに勝る “痴呆” の実態を知りました。自分の死は “痴呆” の末か、はたまた脳卒中か、それとも心筋梗塞による突然死か、老いという実態を前にして暗澹たる気分になりました。
それから3年後の52歳のとき、次長に任ぜられました。Ca拮抗薬Pが申請取下げとなった翌月のことです。次長というのは課長職級の “上がり” の役職で、もはや昇進のない名誉職です。同時にこの年には就業規則の制度変更があり、52歳以上の昇給額が52歳未満の年齢層の半額に抑えられることにもなりました。
これで昇進ばかりでなく、昇給の楽しみもなくなってしまいました。私のサラリーマン人生は終着駅に着いてしまったのです。
当時の会社の慣例では、申請取下げとなった品目の臨床開発責任者の処遇は更迭・左遷でした。Ca拮抗薬Pの場合も、審査が異常に長引いていたことから、何が原因で拗れたのか、誰がその責任者だったのかが検証されていたと後で知りました。問題となった血圧日内変動試験では、当時の責任者が私の前任者であったことから、私には直接の責任を問えなかったのだと検証担当者から聞きました。前社長から検証を命じられたこの担当者は、私と同期入社で、意味ありげに笑いながらコッソリ教えてくれたのです。
首の薄皮一枚だけ、辛うじて繋がっていました。次長に任じられたのも、会社としては温情のつもりだったのかもしれません。Ca拮抗薬Pと同じように、申請取下げとなった4成分の責任者は全員、すでに左遷か子会社に放逐されていました。
成功に対する報奨はゆっくり後出しし、失敗に対する処分は即刻実施。会社とは非情なものです。
会社などの組織は、システムに基づいて業務が遂行されるのが筋です。その中で失敗が起きてしまった場合、組織としてシステムの何が問題だったのかをまず検証すべきで、誰が原因だったのか個人を責任追及するのはその後であるべきです。誰がではなく、何が原因だったのかを究明しなければ、問題の再発を防ぐことは出来ません。会社の臨床開発業務については、教育システムがお粗末だったことが、失敗事例に共通していた最大の原因だったと私は考えています。
あのとき教育しておいてくれたなら、と今でも思うことがあります。ここでは重要なポイントを3つ挙げておきます。いずれも臨床開発に欠かせないノウ・ハウで、これらがなかったばかりに悔やんでも悔やみきれない思いが強いのです。
● 当局が比較試験を重視する理由
優劣は比べれば誰の目にも一目瞭然。情報公開が必須という政治的意味
合いも含まれていること。
● 対照薬を選定するときの諸々の留意点
申請後の審査過程でも通用する対照薬を選定すること。薬効を実証する
目的での対照薬か? それとも特長を引き出す目的での対照薬か?
審査過程で拗れた問題への回答にはイチかバチかの一発勝負に賭ける
ケモノ道もアリ。常識に囚われてはダメ。
● 盲検化の方法
外観に施す常識的な “薬剤の盲検化” ばかりでなく、データの測定
~ 解析段階で行う “データの盲検化・匿名化” もあり得ること。
この3点だけではきかないのですが、当時は会社として承認取得が6成分だけと、臨床開発の経験が乏しかったことを考えると仕方がないことかもしれません。これら3点についてさえ、成書からでは中々読み取れるものではありません。これらの知識をこなれた言葉で教えて貰えていたなら、余計なストレスを受けずにすみ、狭い “ケモノ道” も気楽に発想できていたのかもしれません。生き残るための知恵を こなれた言葉で伝授すること、それが教育だと私は考えています。
以上のように、健康面ではアルコール依存症ばかりか、49歳で “死の四重奏” まで抱え込むことになりました。その後の会社勤めでは、Ca拮抗薬Pの承認申請取下げや、昇進・昇給の道が閉ざされ、52歳にして早くもサラリーマン人生の終着駅に到着してしまいました。会社では、最早窓際族としての余生しか残っていないように思えました。これらのどれをとっても将来は悲観的で、老後の明るい展望など一向に見えませんでした。まさしく執行猶予付き死刑宣告を受けたも同然でした。
辛うじて私に課せられ、まだ宿題として残っていた問題は、二男の結婚、住宅ローンの完済、地元での墓地の取得ぐらいで、他には何も思い付きませんでした。現在から見ても、当時は暗澹たる状況だったことに違いないのですが、ここまで落ち込んだのはアルコール性うつ症状が進行し、加勢していたのだと思わずにはいられません。
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