ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その34)サラリーマン人生の終着駅

2015-06-26 20:20:38 | 自分史
 アル中(アルコール依存症)といえば手が震える振戦。離脱症状の代名詞ともいえる振戦がバレた決定的な場面が他にもありました。

 別居状態が解消された年の夏、狭心症の治験で代表世話人になっていただいた大物医師が定年退職し、退職記念パーティーに招待されたときのことです。製薬各社の治験の世話人を引き受けた大物ですから、主だった医師やら製薬会社社員やら、関係者が大勢集まっていました。

 会場はホテルの宴会場で、午後6時に受け付けが始まったので、さっそく記帳することにしました。サインペンを持ち、いざ署名しようとすると、ヤバイことに手が震えていました。それでも何とか記帳を済ませましたが、ふと後ろを振り返ると、いつの間にか私の後ろに会社の後輩社員たちが並んでいたのです。会社の連中に、震える手で記帳した直後の文字を見られてしまいました。一目で振戦であることがバレバレでした。

 このとき以降も、公の場面で振戦に当惑させられ、冷や汗だらけとなった場面が何回かありました。

 社内会議で皆が注視している中、マウスポインターが手の震えで定まらず、PCのPower Pointファイルを開けるのに難渋したことがありました。こんなときには緊張で手が汗ばみ、一層マウスが滑ります。必死の2回目でタマタマ上手く的に当たり、辛うじて難を逃れることができました。

 他にも銀行窓口の行員の目の前で、振戦のため全く字が書けなくなり、やむなく行員に代筆してもらったりもしました。その度ごとにどうにか切り抜けて来たのですが、ただ単に幸運だっただけです。

 お分かりのように、ここでお話したのは皆人前での場面です。他人に見られていると意識し出すと、緊張で余計に手の震えが酷くなります。それが刷り込まれてしまって、断酒後の今でも、人前で署名する場面になると妙に身構えてしまいます。まさしく条件反射ですね。

 そして遂に、年1回の人間ドックの点検で、とうとう高血圧と糖尿病が見つかってしまいました。今ならアルコールによる障害とはっきり分かるのですが、当時は「ついに俺も、成人病に罹ってしまったか」という感慨だけでした。

 それでTS部が消滅した翌年から、高血圧と糖尿病のため定期通院を始めることになったのです。降圧薬は、因縁深い例のCa拮抗薬Nにして貰い、糖尿病の方はまだ血糖降下薬を使うほどではないと、食事療法だけの経過観察となりました。

 会社で年配の同僚に「とうとう糖尿病になってしまった」と話したら、
「あんたなぁ、それは “がん” と同じで死刑宣告を受けたも同然やでぇ!」と言われてしまいました。これには黙って苦笑いするしかありませんでした。

 しばらくして総コレステロールも280 mg/dLぐらいまで上昇し、脂質異常症としても薬物治療開始となりました。喫煙習慣と合わせて愈々 “死の四重奏” の完成です。

 米国のFramingham研究という疫学調査によって、高血圧、糖尿病、脂質異常症の合併に喫煙習慣が加わると、心筋梗塞や脳卒中などの心血管合併症が急増し、死亡率が飛躍的に上昇することが知られていました。それで、これらの4つを併せ持っていることを “死の四重奏” と呼びます。49歳にして死が現実味を増しました。でも不思議なことに、肝機能については問題となるレベルには至っていませんでした。

 この年の夏、久々に帰郷した時のことです。「どちらさんでしたっけ?」79歳になった父親が私の顔を見るなり最初に言った言葉です。9年前一時父親を自宅に引き取った時、ほとんど構ってやれなかったことを思い出し、そのことへの当て付けで出た皮肉かと思いました。側で長姉が “痴呆” の進んだ結果だと教えてくれました。

 オムツなしでは過ごせない状態だとは聞いていましたが、聞きしに勝る “痴呆” の実態を知りました。自分の死は “痴呆” の末か、はたまた脳卒中か、それとも心筋梗塞による突然死か、老いという実態を前にして暗澹たる気分になりました。

 それから3年後の52歳のとき、次長に任ぜられました。Ca拮抗薬Pが申請取下げとなった翌月のことです。次長というのは課長職級の “上がり” の役職で、もはや昇進のない名誉職です。同時にこの年には就業規則の制度変更があり、52歳以上の昇給額が52歳未満の年齢層の半額に抑えられることにもなりました。

 これで昇進ばかりでなく、昇給の楽しみもなくなってしまいました。私のサラリーマン人生は終着駅に着いてしまったのです。

 当時の会社の慣例では、申請取下げとなった品目の臨床開発責任者の処遇は更迭・左遷でした。Ca拮抗薬Pの場合も、審査が異常に長引いていたことから、何が原因で拗れたのか、誰がその責任者だったのかが検証されていたと後で知りました。問題となった血圧日内変動試験では、当時の責任者が私の前任者であったことから、私には直接の責任を問えなかったのだと検証担当者から聞きました。前社長から検証を命じられたこの担当者は、私と同期入社で、意味ありげに笑いながらコッソリ教えてくれたのです。

 首の薄皮一枚だけ、辛うじて繋がっていました。次長に任じられたのも、会社としては温情のつもりだったのかもしれません。Ca拮抗薬Pと同じように、申請取下げとなった4成分の責任者は全員、すでに左遷か子会社に放逐されていました。

 成功に対する報奨はゆっくり後出しし、失敗に対する処分は即刻実施。会社とは非情なものです。

 会社などの組織は、システムに基づいて業務が遂行されるのが筋です。その中で失敗が起きてしまった場合、組織としてシステムの何が問題だったのかをまず検証すべきで、誰が原因だったのか個人を責任追及するのはその後であるべきです。誰がではなく、何が原因だったのかを究明しなければ、問題の再発を防ぐことは出来ません。会社の臨床開発業務については、教育システムがお粗末だったことが、失敗事例に共通していた最大の原因だったと私は考えています。

 あのとき教育しておいてくれたなら、と今でも思うことがあります。ここでは重要なポイントを3つ挙げておきます。いずれも臨床開発に欠かせないノウ・ハウで、これらがなかったばかりに悔やんでも悔やみきれない思いが強いのです。

 ● 当局が比較試験を重視する理由
   優劣は比べれば誰の目にも一目瞭然。情報公開が必須という政治的意味
   合いも含まれていること。
 ● 対照薬を選定するときの諸々の留意点
   申請後の審査過程でも通用する対照薬を選定すること。薬効を実証する
   目的での対照薬か? それとも特長を引き出す目的での対照薬か?            
   審査過程で拗れた問題への回答にはイチかバチかの一発勝負に賭ける
   ケモノ道もアリ。常識に囚われてはダメ。
 ● 盲検化の方法
   外観に施す常識的な “薬剤の盲検化” ばかりでなく、データの測定
   ~ 解析段階で行う “データの盲検化・匿名化” もあり得ること。


 この3点だけではきかないのですが、当時は会社として承認取得が6成分だけと、臨床開発の経験が乏しかったことを考えると仕方がないことかもしれません。これら3点についてさえ、成書からでは中々読み取れるものではありません。これらの知識をこなれた言葉で教えて貰えていたなら、余計なストレスを受けずにすみ、狭い “ケモノ道” も気楽に発想できていたのかもしれません。生き残るための知恵を こなれた言葉で伝授すること、それが教育だと私は考えています。

 以上のように、健康面ではアルコール依存症ばかりか、49歳で “死の四重奏” まで抱え込むことになりました。その後の会社勤めでは、Ca拮抗薬Pの承認申請取下げや、昇進・昇給の道が閉ざされ、52歳にして早くもサラリーマン人生の終着駅に到着してしまいました。会社では、最早窓際族としての余生しか残っていないように思えました。これらのどれをとっても将来は悲観的で、老後の明るい展望など一向に見えませんでした。まさしく執行猶予付き死刑宣告を受けたも同然でした。

 辛うじて私に課せられ、まだ宿題として残っていた問題は、二男の結婚、住宅ローンの完済、地元での墓地の取得ぐらいで、他には何も思い付きませんでした。現在から見ても、当時は暗澹たる状況だったことに違いないのですが、ここまで落ち込んだのはアルコール性うつ症状が進行し、加勢していたのだと思わずにはいられません。


アルコール依存症へ辿った道筋(その35)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その33)家主なのに自宅で下宿人?

2015-06-19 19:32:13 | 自分史
 社長が名大贈収賄事件で引責辞任した翌年のことです。私は48歳になり、一人暮らしの別居生活も丸6年になろうとしていました。

 六甲おろしの吹くまだ寒い2月のある日、長男が思いがけないことを伝えて来ました。本宅に戻って来てもいいと母親に言われたというのです。狐につままれた気分でした。聞き返してみても本当だと言うので、早速引っ越しの準備に取り掛かりました。学生時代に4回も引っ越しをしたので要領はよく心得ていました。

 引っ越しの当日、息子たちが手伝いに来てくれました。荷物を運び去った室内を改めて見回すと、褐色にくすんだ壁に、洋服ダンスや色紙額、カレンダーなどの跡がそこだけクッキリと残っていました。部屋ボコリとタバコのヤニを免れた跡です。6年間という時間の長さを物語っていました。こんなお化け屋敷のような部屋に、よくも住んでいたものだと苦笑いするだけでした。絨毯敷の床に散らばるゴミを拾い集めるだけに止め、大型車両の騒音と振動に馴れさせられた部屋とおさらばしたのです。

 机と椅子も引っ越し荷物に含まれていました。長男が、机と椅子は邪魔なので運送屋に処分してもらおうと言い出しました。私に割り当てられる部屋は、かつて父親が一時使ったこともある6畳間で、広さにゆとりがないと言うのです。仕方ないので承知しましたが、机には書類や小物などを残していたのです。そのことに気が付いたのはずっと後のことでした。

 この頃からすでにアルコールによる記憶障害があったのでしょう。幸いなことに、後になってアレが無いコレが無いと、蒼くなって慌てたことはありませんでした。断捨離とはよく言ったもので、必要と思い込んでいるものでも、無ければ無いで別段不便を感じないで済むものだと納得させられました。

 自宅に戻った最初の夜、寝床に入って気付いたのはシーンとした静けさでした。大型トラックが四六時中往来し、交差点も近い国道脇のワンルームでは、騒音と振動が絶えたことがありません。そのような環境に馴れてしまった身には異様とも思える静寂でした。日中でも車がほとんど通らず、周囲が緑に囲まれた公園のような住宅地ですから、当たり前と言えば当たり前のことです。「やっと・・・、戻って来れたぁ~!」と実感しました。

 ほぼ6年ぶりに自宅マンションに戻ったわけですが、実のところ新しい下宿先に転居したような奇妙な生活が始まりました。テレビと冷蔵庫、洋服ダンスを備えた南向きの6畳一間の和室だけが私専用のスペースで、玄関、トイレ、浴室、洗面所、居間(食事時だけ)、これらすべてが共同住宅の共用部分のような具合でした。自宅はマンション2階の角部屋で、南、西、北の三方にベランダがあるのですが、物干用として私に割り当てられたのは西側のベランダだけでした。

 ローンの支払い、管理費、光熱費は従前通りに私が負担し、約二人分の月々の食費を妻に渡し、妻は電話料金を負担する、これがおおよその家計分担の内訳です。もちろん家族としての団欒などはなく、家主が下宿人として隔離されるという面白い構図です。淡い期待を抱いていた私の思惑とは全く異なる境遇でした。

 妻は化粧品関係の会社に勤めており、長男は知人の所に居候、二男は高校に通っていました。週日の昼間には家に誰もおらず、休日には各々出掛けることが多かったように記憶しています。こんな状況で、息子たちとのコミュニケーションをどう取っていたかについて触れておきます。

 阪神西宮駅えびす口の駅前北側に “華京” という中華レストランがありました。品のある綺麗な造りの店で、まともな広東風料理を出してくれるので、ワンルームの独居時代から休日にはたまに昼食を楽しんでいました。機会を見つけては、息子たちとその店で夕食を一緒にするようにしました。3人が一緒ということは稀でしたが、長男、二男それぞれと1時間ぐらい話す場にしていたと思います。独居時代には、特に二男との夕食を妻の近況も聞き出す機会にしていたのです。

 私の週日の夜は、定時の会社帰りに居酒屋 “旬香” 詣でが相変わらず続いていました。その一方で休日には、西国三十三ヵ所巡礼などへと外出するようにしていました。これも相変わらずです。私の行動は完全に習慣化していました。

 前年の6月には速くも、西国三十三ヵ所巡礼最後の札所、岐阜にある33番札所の谷汲(たにぐみ)までの一巡目を正味6ヵ月間で終え、引っ越し時には二巡目についても、京都亀岡にある21番札所の穴太寺(あなおじ)まで済ませていました。温かくなると朝早く家を出て、暗くなってから家に戻る、帰路は無論ビールが入った状態です。そんな休日の過ごし方をしていました。

 雨の日や家族のいない休日には、酒を飲まないでいられるよう一人で写経に励み、全札所に納めるべく一日2~3枚準備するようにしていました。写経には1枚当たり2時間強かかりました。

 なぜ写経を? 西国三十三ヵ所巡礼の必携品として朱印帳、掛け軸、笈摺(おいずる:白衣)の三点セットがよく知られています。これらは各札所で朱印をいただくのが目的です。しかし、巡礼の一番の目的は納経です。一巡目の途中でそれを悟らされました。そのためには写経が必須で、ワンルームの独居時代から始めていました。一巡目で持参したのは朱印帳だけでしたが、二巡目には写経と掛け軸も必携品に加えることが出来ました。

 こんな訳ですから、久々に戻って来た自分の家なのに、私の “居場所がない” ことなりました。何とも皮肉なことでした。当然、家の中での飲み直しは自室で一人やっていました。“居場所がない” とは居心地が悪く、安らぎがないことです。速い話が何とも “おもしろくない” のです。心にポッカリ空洞を抱えることになりました。会社ではYoさんと確執中の時期でもありました。

 巡礼を続ける一方で、心に空洞を抱えた時のお決まりの “Shelter探し” もやっていました。大阪には旧赤線の街が少なくとも2ヵ所残っていて、半ば公然と営業しています。巡礼の帰り道、それらの街の一つにある某店に通い始めました。

 馴染みとなって4ヵ月ぐらい続いたでしょうか。晩秋のある日、贔屓にしていた娘が店からいなくなりました。聞くと店を辞めたというのです。何のことはない、依存症に特有の習慣化が仇となり、ストーカー紛いの付き纏いと見做され、それで逃げられたのです。私の風俗遊びは、これで目出度く幕引きとなりました。

 こんな風に、まるで隔離されたような状態でしたから、妻がなぜ私の帰宅を許したのか当初は不思議でした。引っ越しが許された(?)のは二男が高校三年になる年です。かつて妻と交わした覚書では、二男が高校卒業までは別居継続も止む無しとしていたのです。これをすっかり失念していました。

 妻としては、別居生活でこの上ない自由を満喫できていたのでしょう。再び同居するのは不本意だったのだと思います。どんな風に私の生活態度が変わったのか、それをじっくり観察するためのお試し期間とするつもりだったのかもしれません。復籍などは、もちろんありませんでした。

 私が自宅に戻った年の年末に長男が結婚しました。いわゆるデキちゃった婚です。居候と称していたのは実は同棲のことで、同棲相手の方と目出度く結婚と相なったというのが真相です。やはり血は争えないと思いました。翌年には男児が生まれました。私の初孫で、とうとうお爺ちゃんになってしまいました。

 アルコールの害は、じわじわと身体を蝕み続けていました。

 当時の手帳にこんなメモが残っています。
「・・・アルコール依存症の身体的徴候は着実に現れている。昨日も(会社の)全体研修会でうたた寝中に、出席者確認の署名用紙が回ってきて振戦がモロに出た。現在、焼酎お湯割り7杯の後、3杯目のウィスキーの水割りを飲んでいる。その最中に記述している。振戦はこのように(今は)ない。」筆跡はまともですが、会社で振戦に悩まされていたことが書かれていました。

 この全体研修会は午後1時の開催でした。ちょうどアルコールが切れる時間帯に符合します。会場は300人収容の机なしのスクール形式で、下敷き用の台紙もなしだったので、多少文字が乱れていても気付かれない可能性はありました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その34)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その32)上司への反抗は減給損

2015-06-12 19:57:56 | 自分史
 再び当局から指示事項でT/P比(その28、参照)が名指しで求められた時点、私が47歳になりたての早春に戻ります。

 指示事項を受けた翌月、臨床開発部門から後方支援部隊が分れてTS部となり、Yoさんがそのトップに就きました。社長の国際戦略構想に忠実に従い、社長のお気に入りとなってのご褒美人事でした。

 TS部は生物統計(BS)、データ・マネジメント(DM)、私が属すメディカル・ライティング(MW)などの職種からなり、開発品目の種類に関わらず共通する業務を担当します。ある意味、受託業者のように他社の業務でも有償で請け負うことが可能な機能を持つ組織です。

 Yoさんは就任後さっそく、所信表明として新組織TS部の方針を発表したのですが、その中味は突拍子もない異様なものでした。新組織が受託業者のような性格の部門である旨の話をした直後、私たちに各担当業務の請負単価を出すよう業務命令を出して来たのです。

 いきなりですから、この命令に正直狼狽えました。業界の相場がどのぐらいなのか全く不案内だったのです。私の担当するMWは業界でも新しい職種で、受託業者の噂はあっても仕事を業者に委託した経験は皆無でした。まして、自社の仕事をこなすのに精一杯で、他社の業務を受注する余裕などありませんでした。そんな訳で対応できない旨を告げると、MWが発足してから1年近く経つのに業務上必要な情報収集もしていないのか、とYoさんは私を詰(なじ)ってきました。

 一事が万事、Yoさんには現場経験も知識もなく、現場に即した発想というものが全くなかったのです。これにはさすがに嫌気がさしてヤケ酒挙句の二日酔いを繰り返し、私は2日間ほどカゼと称して会社を休んでしまいました。いわゆるフテ寝です。案の定、3日目に会社からプロジェクト関連の会議があると電話で呼び出しがあり、渋々出社するハメとなりました。

 あとから考えてみると、この時は受託業者の役目までも担おうとしたわけではなく、予算の提出時期だったので単に算出根拠が欲しかったのだろうと察しがつきました。それならば TS部が分離される前の実績から人数割りするなど、いくらでも応急的な当座の対処法はあったはずです。新たに発足した組織ならばこの程度のことは許容範囲内のことです。

 この後もYoさんの唯我独尊状態は続いたままで、Yoさんとの齟齬が続きました。かつて色々あったN先輩に輪をかけた人物だと分かり、一緒に那智行をしたのは一体誰だったのだろうと思ったものです。

 Yoさんに一旦捉まったら文字通り黙って聞くしかない、これは我々部下の一致した見方でした。

 「ちょっといいかな?」と捉まったら最後、就業時間内は何も出来ないだろうと諦める方が賢明でした。聞く耳を持たずに一方的に自説を喋り続けて止まらないのです。聴き手の都合などお構いなしだったのです。彼の特殊な性格の所為でもありますが、社長という虎の威を借りたところも厄介至極でした。この人物は普通の大人ではない、噂にたがわず御しがたい変人か狂人だと皆が身構えるようになりました。

 部内の他の部署でもYoさんと齟齬をきたすことが頻発し、業務に支障が出始めるなど組織として危機的状況になりつつありました。同僚たちは皆困り果て、苦々しく思っていました。中でもBS室長の件のO女史、彼女がYoさんの恰好の餌食となりました。

 O女史は机の正面と両脇の三方に本やら資料ファイルやらを上に並べ、その上にさらに資料を山積みしてバリケードを築くのが趣味で、資料の山の中に姿を隠していることが普通でした。そんなO女史のところにYoさんが押しかけてはしょっちゅう議論を吹っかけていました。実は二人はよく似た性格で、それだけに一層ややこしい状況になったようです。

 しばらくすると吃驚(びっくり)することが起こりました。YoさんはPC操作にずぶの素人の女性たち4人をプログラマーの契約社員としてBS室に雇ったのです。彼女たちを教育するだけで、どれだけの人手と時間を割かなければならないか、ちょっと考えれば誰でも分かります。

 その時期は、Ca拮抗薬Pの指示事項回答のため、ちょうど家庭血圧を活用して追加の治験計画を練っていた時期と重なっていました。当時O女史が、家庭血圧計のデータ記録装置の仕組を逆手にとって、データの盲検化(=匿名化)を思いつかなかったのは、Yoさんとの確執あってのことで無理からぬことだったのかもしれません。(その30、参照)

 当時、国際臨床開発品として向精神病薬Abがあり、会社の将来を担う一大プロジェクトとなっていました。米国でも莫大な売上が見込めると、米国の大手製薬企業から共同開発の申込みがあり、契約が締結されたのです。この件でも一騒動ありました。

 契約締結から間もないある日、YoさんはTS部のAbプロジェクト担当者の前で向精神病薬の領域に最も明るいのは自分だと言い張り、自分がAbプロジェクトの全指揮を執ると言い出しました。恐らく功名心からだったのでしょう。Abプロジェクト専任の前線部隊スタッフがいない場とはいえ、彼らAbプロジェクト担当者を見くびった、あまりにも不遜な発言でした。

 これを聞いて同席していた私はさすがにキレてしまいました。刺違えまで覚悟していたか定かではありませんが、感情を抑えきれずにこう言ってしまったのです。
「全面的に黙ってあなたに従えということですか?・・・。今までにあなたに付いて一緒に仕事をした者で、良い思いをした人は一人もいない。これは誰もが知っていることです」遂に抜き差しならない状態になってしまいました。

 会社には半期に1回ずつ年2回の自己申告制度がありました。申告項目には、仕事量、業務に対する満足度や適性、職種の異動希望や転勤希望の有無などの他、職場の改善点や問題点を申告する欄も設けてありました。職場の改善点や問題点とはずばり問題上司か否かという問いと、その時は受け取りました。

 「特にナシ」と書くのが普通ですが、その年のTS部員からの自己申告書は壮観だったと聞きました。誰もが上司が問題とびっしり書いて来たというのです。同僚に「申告書はどうした?」と聞くと、「上司」という答えが決まって帰って来ました。まるで合言葉のようでした。

 TS部が発足した年の晩秋に名大贈収賄事件が発覚し、社長が辞任するという事件となりました。翌年後任として新社長に就任したのは創業家以外の人物で、同じグループ内会社の社長をしていた現場感覚に優れた人物でした。

 Yoさんから少し遅れてMW室に着任してきたKa氏は定年を間近に控えた経験豊かで温厚な人物で、部長職として名目上私の直接の上司でした。Ka氏はYoさんの議論に付き合いつつ真っ当な意見を述べていたようです。帰って来るとよくため息をついていました。その内さすがのKa氏もYoさんの屁理屈だらけの専横には辟易してしまい、会社からこのままの状態で放置されたなら、客観的に見て組織全体が危うくなると考えたようでした。

 Ka氏と新社長とが旧知の間柄だったことは幸いでした。TS部発足から2年目、新社長に変わった初秋に、Ka氏は意を決して新社長に直訴してくれました。新社長の現場重視の経営感覚がKa氏の冷静で誠実な直訴を理解してくれたのだと思います。Yoさんは年の暮れに更迭され、発足から2年足らずでTS部は解消されました。私たちは臨床開発の前線部隊と再び統合されました。

 前社長の辞任事件がなく在任のままなら、たとえ直訴しても難しかったろうと思います。TS部独立は前社長お気に入りのYoさんの提言を容れての人事だったのですから・・・。それに、自己申告書による告発だけだったなら、たとえその数が夥しいものであっても事態がどう転んだのか分かりません。やはり経験豊富なKa氏と現場主義の新社長が旧知の間柄であったからこそ、直訴が受け入れられたのだと思います。36年間の会社在職中で唯一のハプニングでした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その33)につづく



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回復へ―アル中の前頭葉を醒まさせる

2015-06-05 19:56:58 | PAWS
 つらつら思うに、まともな精神状態というのは微妙な脳内バランスで成り立っているのだと思えてなりません。毎日通院しているアルコール依存症専門クリニックで、先日患者と医師によるQ&Aの集いがありました。そのときの医師の説明を聞いて、バランスを崩しやすい脳の仕組みの繊細さを強く考えさせられました。

 アルコールはアヘン・モルヒネと同じ抑制系の依存性薬物だそうですが、当然ながら大脳新皮質の代表である前頭葉にも、旧皮質の大脳辺縁系にも共通して抑制的に作用するといいます。新皮質の前頭葉は人類に固有な理性を司り、旧皮質の大脳辺縁系は動物に共通する本能的な情動(性欲、食欲、睡眠欲)を司るといいます。

 アルコールを飲むと、より精巧(虚弱)に出来ている前頭葉の方がより強く抑制を受け、結果的に大脳辺縁系の影響力の方が優位になってしまうそうです。理性を司る前頭葉の方がより強く抑制されるのですから、相当量のアルコールが入ると軛(くびき)が解かれたように妙に浮かれたり、本能丸出しになったりするのでしょう。

 しかも困ったことに、断酒してアルコールを断ってもアルコールの脳への影響は長く続き、大脳辺縁系優位の状態も思いのほか長く続くのだそうです。前頭葉が酔い潰れた状態のままで中々醒めてくれない、とでも言えばいいのでしょうか。

 私は断酒前の相当以前から、脳を薄物で被われているようなモヤモヤした感覚に悩まされていました。さらに、定年退職前後から連続飲酒状態となって以来、得体の知れない憑き物に囚われるようにもなりました。

 それは物の怪に取り憑かれたという表現がピッタリくる病的状態で、性欲を刺激し続けるような “妄想” でした。

 肉体的にはED状態に近かったのですが、精神的には性的欲望の塊みたいな状態でした。断酒を始めてもこの状態が鎮まることはなく、一人になると決まってAV動画(もちろん無修正かつ無料)に引き込まれる事態が続いていました。精神的にのみ性的に興奮している状態は拷問のように酷いものです。飲酒欲求はなかったものの、ほとほと困り果てていました。今から思えば、あれこそがアルコールの遺した置き土産だったのだと納得しています。

 そんなある日、ヤケクソからAV動画を文章で描写することを始めてみました。動画再生開始から時間経過を追って、あたかも脚本を再現するかのように女優と男優の形態や、動作と声を記述しました。

 初めは簡略なものでしたが、次第に部分的に詳細になり、最後の方の作品では全編にわたり緻密な記述になっていきました。今数えてみると、その数たるや22作品以上になっています。最初は半端な気持ちでしたが、そのうち本気になり夢中でやっていました。

 いかにして “観客” の劣情や妄想を掻き立てようと演出(?演技の順番など)で工夫したのか、あるいはそれが失敗に終わったのか、この記述作業によって遂には製作側の意図が全て透けて見えるまでになりました。醒めた眼で画像を見続け、PCのキー・ボードを叩き続けました。さすがに最後の方の作品ではシラケが先立ってしまいましたが・・・。

 おかげで断酒10ヵ月後には、ポルノを目にすると決まって感じていた後ろめたさや、気恥ずかしさもなしに醒めたまま眺めていられ、何よりもポルノ一般への性的興味が完全に薄れてしまいました。得体の知れない憑き物がいつの間にかすぅ~っと消えていたのです。同時にその後は、何かとアルコールに囚われていた強迫感も消えてしまいました。

 PCを前にしてエロ画像を凝視しながらキー・ボードを夢中に叩いている老人の姿を想像してみてください。夢中になって取り組んでいるのがエロ文書の作成だけに、真剣な姿を見て気味悪がるか、滑稽で笑ってしまうかです。知的作業を装う変態エロ・ジジイにちがいありませんが・・・。

 しかし、悩ましい対象から眼を逸らさずに問題を直視すること、それを言語化という論理的な世界に引き摺り出すこと、さらに物語として綴り客観化すること、これらを実践することによって前頭葉の機能が確実に回復するものだと実感しました。脚本(?)の復元作業が情念優位の精神世界から論理優位の精神世界へと、秩序ある平穏な脳に戻してくれたのだと考えています。

 ここに至るまでには伏線が二つあります。一つは、過去の酒害体験を物語風に叙述したことです。これは断酒3ヵ月後から始めました。

 思い付くまますべての事象や症状ごとに叙述しました。その際にこだわったことは5W1H、特にWhy(なぜ)でした。さらに、誤魔化したり取り繕ったりしないで、的確な言葉が出て来て納得できるまで徹底的に表現にこだわりました。そうすることによって、ことが起きた当時の感情の起伏やその原因となった状況の分析ができるようになったと思います。おかげで心の奥底に澱んでいた蟠(わだかま)りが大分解消できました。

 想起障害というのだそうですが、的確な言葉がなかなか出て来なくてもどかしい思いも随分味わいました。意識してさえいれば意図する言葉は必ず思い出せるものです。目指す言葉は時や場所を選ばず不意に浮かんできますから、いつでもメモできるように備えておくことをお勧めします。こうして記憶の中に埋もれていたものを言語化し、それを論理的に叙述することによって客観化したのです。

 自助会AA(Alcoholic Anonymous)には回復へのプログラムというものがあります。その中のステップ4にこういう記述があります。
「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った。Made a searching and fearless moral inventory of ourselves.」
棚卸の原語inventoryとは明細目録のことだそうですが、私が実行した酒害体験の物語風叙述は、まさにステップ4そのものでした。

 12ステップからなる回復へのプログラムはプロトコル(protocol:実験計画書)とその実体験記の両者を兼ねているもの、と私は考えています。(因みに12ステップは全て過去形で書かれています。)AAはアルコール依存症からの回復者を、信仰の有無に関わらず、多く生み出した実績を持ちます。

 回復へのプログラムはそのAAが勧める実証的な方法論であり、ステップ4はその根幹だと思っています。AAの回復プログラムは、再現性が担保された実証的な自然科学そのものです。

 もう一つの伏線はもちろんAAのミーティングへの出席です。断酒6ヵ月目から週1回、8ヵ月目からは週2回の頻度で参加し始めました。

 静かに黙想しながら聴き手に徹していると、胸の奥に隠れていた記憶がチクチク刺激され蘇ってきます。話し手となって自らの体験を物語れば、全く予期していなかった本音のことまで思わず口をついて出てきます。これらも前頭葉のリハビリになっているに違いありません。

 AAのミーティングに参加すると、このようにほぼ毎回カタルシスを手土産に家路へ帰ることになります。頭の中だけで考えているとどうしても堂々巡りになりがちですが、そんなことでは決して得られない心境です。

 以上の三つの知的作業体験が前頭葉の機能を鍛え直し、まともな状態の脳に戻してくれたのでしょう。飲まないでいることが普通で、少々のストレスにも動揺しない平常心が得られつつあります。

 平衡を保っている天秤の一方の重りがほんのわずかに偏っただけで、天秤のバランスは決定的に崩れるという結末となります。

 アルコールによる前頭葉と大脳辺縁系とのバランスの崩れも、恐らく始めはわずかな偏りからなのでしょう。それぞれの神経細胞のシナプスから放出される神経伝達物質群(ドパミン、脳内セロトニン、GABA、内因性オピオイドなど)のわずかな偏りがその原因なのかもしれません。

 天秤のバランスの崩れは重りを補正すればよいのですが、脳内のバランスの崩れは前頭葉の機能回復でしか補正できないようなのです。少なくとも補正してくれる薬はありません。補正には前頭葉を目一杯働かせ活性化させるしか手がなさそうです。

 前頭葉をアルコールから醒めさせるには、前頭葉の得意な作業をさせることが一番効果的と考えています。悩みを言語化することと、それを論理的に叙述して客観化すること、これは前頭葉が得意とする作業です。AAのいう “心の落ち着き(serenity)”=平常心が得られること請け合いますよ。


本ブログ内の『心の落ち着きが分かる?(言語化入門)』、『“空白の時間(とき)”と折り合う』も併せてご参照ください。


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