ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その17)連続飲酒から脱出・仕事再開!

2015-01-31 16:34:15 | 自分史
 「阪神電車は甲子園まで運転再開できているようなので、会社に出て来ませんか?」地震3日目(1月19日)、電話でこのように促されました。地震が発生した翌1月18日には早くも大阪・梅田~甲子園間の運転が再開されていたのです。1時間ほど歩いて甲子園駅に行き、電車で会社に向いました。

 阪神電車が甲子園駅まで運転再開したことは前日テレビで放送していました。「もうじき西宮まで通じるんじゃないか? 1時間も歩くのは面倒クサイなぁ・・・・。」これが最初に浮んで来た本音です。「よし、動いてみるか!」というヤル気はすでに薄れていて、足掛け3日の連続飲酒で自堕落に馴れかかっていたのです。

 沿線の風景は川を越えるごとに、異常な風景から普段の見慣れた風景へと変わって行きました。武庫川までは倒壊家屋が到る所に見られ、尼崎に入ると建物の亀裂や墓石の転倒ぐらいとなり、淀川を渡ると何もなかったかのように平穏そのものでした。

 それでも大阪梅田のデパートでは、地下食料品売り場のパンは被災地への見舞い品として売り切れ状態でしたし、外に出ると街には窓ガラスや外壁の側面にX字のヒビや亀裂の入ったビルもまれに見えました。私の住いから20kmほどしか離れていない大阪では、地震で受けた影響はこんな軽いものでした。

 会社に着いて状況報告をし始めた時、アルコールが頭に濃く残っていることに気付きました。頭が朦朧として反応が鈍いのです。素面の人たちと話してみて初めて分かりました。被災地の悲惨な状況が思うように伝わらないことにもどかしさを感じ、被害に遭わないで済んだ人々の「すごい地震だったねぇ。私の所も・・・」という言葉には白々しささえ感じたのです。舌がもつれた喋り方だったのかもしれません。もちろん、そんな自覚などナシでしたが・・・。

 こんな不埒な状態でしたから、会社が呼び出してくれてなかったらと思うとゾォーッとします。何よりも家族を元通りに戻さなければならないという使命感がありましたし、返済しなければならない住宅ローンを抱えていましたし、成就できるのを目前とした仕事がありましたし、・・・やらなきゃいけないことだらけで、絶望などしているヒマか(!)というわけでしたが、・・・。引き籠り状態のまま孤独死、とまでは行かなかったでしょう。が・・・、かなりヤバイ状態にはなっていたと思います。

 震災後、アルコール依存症の患者が増えたと聞きます。習慣的飲酒からすでに依存症になっていた人が、震災発生を契機に引き籠り状態のまま誰にも介入されなかったため、依存症が顕在化しただけのことと思います。連続飲酒で引き籠り状態になると、他人から見られることをとても嫌います。ところが、覗いてもらったり声を掛けてもらったりすると、気にかけてもらえたことで少し正気に戻るものなのですが・・・。

 会社が避難先のホテル代を負担するというので、同僚が辛うじて探し当てた梅田にあるビジネスホテルに向かってみました。飲み屋がひしめき合う盛り場の一角にホテルはありました。環境はイマイチですが、息子たちも呼び寄せることにしました。

 本宅マンションまで足を伸ばし、一緒にホテルへ来ないかと避難を勧めました。妻によると、酔っていて酒臭く、「ビールは水代わりだ。水がないんだから仕方ないだろう」とウソぶいていたそうです。会社にいた時も相当酒臭かったのだろうと思います。食卓の上にサランラップでくるんだ食器が並べられ、食べ物がその上に載っていました。「なるほど、こうすると食器洗いをせずに済み、サランラップを捨てるだけでいいんだ」と感心したことを覚えています。

 翌朝(1月20日)、息子たちがワンルームの自宅までキャリア付のバッグを引き摺りながら歩いてやって来ました。息子たち、特に長男は生活費を受け取るために、私の所に月一回は自転車で来ていたのですが、徒歩行は初めてでした。約束の時間より大分遅れていたので、休む間もなく甲子園駅までそのまま歩かせました。息子たちにとっては、本宅から計2時間半から3時間ぐらいの過酷な徒歩行となりました。

 ホテルに着くと、まず風呂に入らせ、その後食事に連れて行きました。最初の食事は牛丼だったと思います。翌日(1月21日)妻も合流しました。風呂を使わせ、一緒に食事をしました。隙を見せない強張った表情に変わりありません。食事した場所はオカズを自分で選ぶセルフ・サービスの食堂で、この辺ではメシ屋、あるいはゴハン屋といいます。「こういう食堂だったら安心だわ」と言って、妻は明るい内に帰って行きました。

 一日おいた月曜日、会社からホテルに戻ると、息子たちは本宅に帰った後でした。ホテルは歓楽街のど真ん中です。行く当てもなく、昼間二人だけで過ごすのは退屈でやり切れなかったのだと思います。地震発生から54日目(3月12日)に、ワンルームの自宅のガス・水道のライフラインが復旧しました。それまでの間、ホテルで一人だけの避難生活が始まりました。


 仕事では心電図データの確認作業が待っていました。調査に赴く病院数は延べ70施設、重複がありますから約60施設になります。病院訪問時はCRF(患者個人のデータ票)と心電図のコピーが必携でした。最初の内はA君とペアで訪問することにしました。医師への訪問の趣旨説明の切り出し方から確認作業までを二人で統一化するためです。

 最初の医師には心電図データの確認と言うべきところ、誤って心電図の再計測と言ってしまいました。医師が心電図のコピーを見て、本人が過去に記入したデータの数字が間違いないことを確認することと、心電図のコピーで再計測することとは全く違います。0.5mm程度の微妙な長さの問題ですし、コピーは実物とは微妙に違います。案の定(?)あっけなくCRFに訂正が入ってしまいました。

 これは大いに反省することとなりました。“やってはいけないこと” の典型で、見方によってはOJT(実地教育)での生きた教訓ともなります。地震のショックを引き摺っていたのか、アルコールの影響が残っていたのか、恐らく両者によるものだったのでしょう。

 手当たり次第に医師と約束をとり、A君と手分けして月曜から金曜まで避難先のホテルを起点にほぼ毎日出張しました。治験の実施から2~3年経つと、医師の中には医局の定期異動で他院へ転勤した方もいますし、院内の刑事事件で嫌疑をかけられ転籍した方もいました。そのような場合でも当然どこまでも追いかけました。

 寒い雪国、山形の南陽という所で、午後5時の約束が急患のために午後8時過ぎになり、医局前の暗い廊下で一人立ったまま待たされたこともあります。この時だけはさすがに心細くなったものです。バスで東京から茨城の鹿島まで医師を訪ねたこともありました。医師たちは概ね好意的でした。

 出張中の待ち時間に一人で窓の外の雪を眺めていたとき、不意に侘しさに襲われたりもしました。盛岡の県立中央病院の1階ロビーで、外のボタン雪を眺めているとき浮かんできた詩です。

 大きなボタン雪が
 騒音をひっそりと包み込んで
 ゆっくりと舞い降りている
 一人ぼっちの魂が
 舞い降りる雪に吸い込まれ
 止まった時間の中をゆっくり昇り始めた
 二度と戻らない日々を取り戻したいかのように
 ゆっくりと・・・
 時間がゆったりと流れていた 
 雪は地面に着くと消えた

 阪神大震災で直接被害を受けた医師二人を除き、3月下旬までに心電図データの確認作業を終えることができました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その18)につづく



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1937年の「南京事件」とは何?

2015-01-30 07:04:23 | 世相
 階級闘争で標的にしていた富農層がいなくなり、中国共産党は国内統合に必要な標的として日本に着目し、‘94年江沢民が愛国主義教育と称して徹底した反日教育を国策として採用しました。南京大虐殺記念館は中国国内に数ある抗日記念館の代表的施設で愛国主義教育基地とされています。今年は戦後70年、中国では大々的に戦勝記念行事を開催するでしょう。その際、南京大虐殺は恰好の反日キャンペーンとして喧伝されると思います。こういうときに南京事件とは何かを今一度振り返ってみませんか?

南京攻略戦について

 1937年、日本軍は12月10日より南京総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。南京戦の時点で、南京に残っていた人口はおよそ20万人。

 日本軍による南京攻略時の殺人・強姦・略奪などの事件を世界で最初に報道した2名の外国特派員は現地の人望厚い宣教師からの情報をもとに記事にしました。現地の人望厚い宣教師とはベイツとフィッチの二人です。彼ら二人の宣教師は中国国民党に繋がる人物で、彼らの情報は国民党の謀略宣伝(プロパガンダ)だったのです。30万人虐殺と著書『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』に記したティンパリーの情報源も宣教師の二人でした。

 ニューヨーク・タイムズ東京支局長だったH.S.ストークスは1980年5月に起きた韓国の光州事件の取材体験から、短期間の現地取材では一区画だけしか離れていない現場状況も知り得なかったとし、情報提供する現地の情報源がいなければ事件の全体像など短期間では到底把握できないと述べています。

 この経験からストークスは30万人もの南京大虐殺は宣教師らが情報源で、宣教師の裏にいた中国国民党が操作した政治的プロパガンダだと結論しています。あの毛沢東も蒋介石もかつて南京大虐殺に一度も言及していないのです。ただし、ストークスは当時の南京において日本軍による殺人が皆無だったと論じているのではありません。

 以下は、『英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄』(H.S.ストークス著 祥伝社新書2013年刊)第5章 蒋介石、毛沢東も否定した「南京大虐殺」を転載したものです。

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情報戦争における謀略宣伝(プロパガンダ)だった「南京」
・・・・・・
 私は歴史学者でも、南京問題の専門家でもない。だが、明らかに言えることは、「南京大虐殺」というものが、情報戦争における謀略宣伝(プロパガンダ)だということだ。

 その背後には、中国版のCIAが暗躍していた。中国の情報機関は、イギリスの日刊紙『マンチェスター・ガーディアン』中国特派員のH.J.ティンパリーと、密接な関係を持っていた。

 ティンパリーは『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』と題する本を著して、南京での出来事を造り上げ、ニューヨークとロンドンで出版した。この著作は当時、西洋知識人社会を震撼させた。「ジャーナリストが現地の様子を目の当たりにした衝撃から書いた、客観的なルポ」として受け取られた。いまでは国民党中央宣伝部という中国国民党の情報機関がその内容に、深く関与していたことが、明らかになっている。

 ティンパリーの本は、レフト・ブック・クラブから出版された。この「左翼書籍倶楽部」は、北村教授の調査1)によると、1936年に発足した左翼知識人団体で、その背後にはイギリス共産党やコミンテルンがあったという。

 さらに、ティンパリーは、中国社会科学院の『近代来華外国人人名事典』にも登場するが、それによれば、「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と書かれている。

 また、『中国国民党新聞政策之研究』の「南京事件」という項目には、次のような詳細な説明もある。

「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国の『マンチェスター・ガーディアン』の記者のティンパリーとアメリカの教授のスマイスに宣伝刊行物『日軍暴行紀実』と『南京戦禍写真』を書いてもらい、この両書は一躍有名になったという。このように中国人自身は顔を出さずに手当を支払う等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝手法は、国際宣伝処が戦時最も常用した技巧の一つであり効果が著しかった」

 北村教授は国際宣伝処長の曽虚白が、ティンパリーとの関係について言及している事実を、紹介している。

 「ティンパリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった」
 「彼が(南京から)上海に到着すると、我々は直に彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口(南京陥落後の国民党政府所在地)に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は目下の国際宣伝において中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわなければならないと決定した。ティンパリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパリー本人とティンパリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」

 このように、南京大虐殺を同時代の世界に発信した最も重要な英文資料は、中国版CIAによって工作されていた。工作活動が大規模であったことも、曽虚白の説明で裏付けられる。

 「我々はティンパリーと相談して、彼に国際宣伝処のアメリカでの陰の宣伝責任者になってもらうことになり、トランスパシフィック・ニュースサービスの名のもとにアメリカでニュースを流すことを決定した。同時に、アール・リーフがニューヨークの事務を、ヘンリー・エヴァンスがシカゴの事務を、マルコム・ロシュルトがサンフランシスコの事務を取り仕切ることになった。これらの人々はみな経験を有するアメリカの記者であった」

 曽虚白はアメリカに宣伝の重点をおいたが、トランスパシフィック・ニュースサービス駐在事務所の名で、ロンドンでも宣伝活動を組織的に実行した。

 つまり初めから、「南京大虐殺」は中国国民党政府によるプロパガンダであった。ティンパリーは中国国民党政府の工作員さながらの宣伝活動を、展開した。

 北村教授の本のポイントは、さまざまな西洋人が中国版CIAと深く関わっていたということだ。中国のプロパガンダ組織は、その活動を通して、西洋人を利用できると自信を深めた。

 ティンパリーが中国情情報機関から金を貰っていたことは、間違いないが、いったいどのくらい貰っていたのかは、明らかになっていない。

 北村教授の本によると、ティンパリーは、犠牲者数として「30万人」という数字を本国へ伝えた。いったい、この「30万人」という数字は、どこからきたのだろう。北村教授は中国の情情報機関がティンパリーを通じて、世界に発信したとしている。

 1938年初頭で、中国の情情報機関が十分に整備されていなかったが、ティンパリーの働きは絶大で、中国の情情報機関も驚愕し、味を占めた。

 日本人は野蛮な民族だと、宣伝することに成功した。中国人は天使であるかのように位置づけられた。プロパガンダは大成功だった。
・・・・・・
「南京大虐殺」を世界に最初に報道した記者たち

 「南京大虐殺」と称される出来事を最初に世界に報道したのは、南京にいた外国特派員、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディンと、『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボールド・スティールの二人だった。南京陥落後の12月15日、二人は電気が停まった南京から上海へ向かった。日本軍による南京攻略戦の記事を送るためだった。『シカゴ・デイリー・ニューズ』は15日に、「南京大虐殺物語」との見出しで、トップの扱いでこのニュースを報じた。

 「南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば『地獄の4日間』ということになろう。・・・・・・南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない人たちであった。・・・・・・それは羊を殺すようであった。・・・・・・以上の記述は包囲中の南京に残った私自身や他の外国人による目撃にもとづくものである」

 ダーディン記者の記事は『ニューヨーク・タイムズ』に18日に掲載された。

 「南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・・・・殺人が頻発し、大規模な掠奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・・・・南京は恐怖の町と化した。・・・・・・恐れや興奮から走る者は誰もが即座に殺されたようだ。・・・・・・多くの殺人が外国人たちに目撃された」
・・・・・・
 1938年7月、・・・・・・ティンパリーが、『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』と題する本を出版した・・・・・・

 この本は、南京陥落前後に現地にいて、その一部始終を見たという匿名のアメリカ人の手紙や、備忘録をまとめて、南京における日本軍の殺人、強姦、掠奪、放火を告発したものだ。

・・・・・・その後、匿名の執筆者が国際委員会のメンバーで南京大学教授であり、南京の著名な宣教師として人望のあったマイナー・ベイツと、やはり国際委員会のメンバーで宣教師のジョージ・フィッチ師であると判明したことにあった。・・・・・・
・・・・・・ベイツとフィッチも第三者ではなかった。

 ベイツは国民党政府「顧問」であり、フィッチは妻が蒋介石夫人の宋美齢の親友だった。

 ベイツは「その本(『戦争とは何か』)には、12月15日に南京を離れようとしていたさまざまな特派員に利用してもらおうと、私が同日に準備した声明が掲載されている」と述べている。その特派員はスティール、ダーディンなどであり、ベイツが渡した「声明」とは次のようなものである。

 「(日本軍による南京陥落後)二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまった。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告していた。・・・・・・死亡した市民の大部分は、13日の午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き刺されたりしたものだった。・・・・・・元中国軍として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎに縛りあげられて射殺された。これらの兵士たちは武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいた。・・・・・・南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は・・・・・・」

誰一人として殺人を目撃していない不思議
・・・・・・・・
 『市民重大被害報告』(Daily Report of the Serious Injuries to Civilians)は、ルイス・スマイス南京大学社会学部教授によって1938年2月にまとめられた。全444件中の123件がティンパリーの著した『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』の付録に収録され、その後に蒋介石の軍事委員会に直属する国際問題研究所の監修で『南京安全地帯の記録』として1939年夏に英文で出版された。それによると南京陥落後の三日間の被害届は次のとおりとなる。

「12月13日~殺人ゼロ件、強姦1件、略奪2件、放火ゼロ件、拉致1件、傷害1件、侵入ゼロ件。
 12月14日~殺人1件、強姦4件、略奪3件、放火ゼロ件、拉致1件、傷害ゼロ件、侵入1件。
 12月15日~殺人4件、強姦5件、略奪5件、放火ゼロ件、拉致1件、傷害5件、侵入2件。」

 これは日本側による報告ではない。国際委員会が受理した南京市民の被害届で、日本大使館に提出されたものである。補足すると目撃者がいる殺人事件は、南京陥落後三日間でゼロであった。誰一人として殺人を目撃していない。

 ベイツは、中央宣伝部の「首都陥落後の敵の暴行を暴く」計画に従って、「虚構」の報告を書いたと考えられる。ベイツは聖職者でもあり人望も厚かったので、ウソをでっち上げるとは、スティールもダーディンも思っていなかったのかもしれない。

 また二人の特派員にとっては、南京の信頼のおける人物が目撃した報告として報道したが、その真偽の裏は取らなかった。スティールとダーディンは世界で最初に「南京大虐殺」を報道した歴史的栄誉に輝く外国特派員となったが、東京裁判に出廷した時は「頻発する市民虐殺」を事実として、主張することがなかった。

 この後も、外国特派員による「南京大虐殺」の報道が続いて、欧米の新聞に載った。

 2月1日に、こうした外国特派員の記事を根拠に、国際連盟で中国代表の顧維鈞が演説して、南京市民が二万人も虐殺されたと言及した。

「南京」が虚構であることの決定的証拠

1938年4月に、東京のアメリカ(米国)大使館付武官のキャーボット・コーヴィルが調査のために、南京にやってきた。米国大使館のジョン・アリソン領事などとともに、ベイツなど外国人が集まって南京の状況を報告した。

 コーヴィルは「南京では日本兵の略奪、強姦は数週間続いている。アリソンは大使館再開のため1月6日午前11時に南京に着いたが、掠奪、強姦はまだ盛んに行われていた」と報告している。なぜ、コーヴィルは殺人や虐殺を報告しなかったのか。ベイツまでいたというのに、一人として市民虐殺をアメリカ(米国)大使館付武官のコーヴィルに訴えなかった。

・・・・・・アメリカの新聞記事が「日本軍による虐殺」を想わせる報道をしているにもかかわらず、中央宣伝部は「南京大虐殺」を宣伝材料にして国際社会にアピールをしなかった。南京陥落の4ヵ月後に中央宣伝部が創刊した『戦時中国』(China at War)の創刊号は、「南京は1937年12月12日以降、金と略奪品と女を求めて隈なく町を歩き回る日本兵の狩猟場となった」と報告しただけで、「虐殺」にはまったく触れなかった。

 そもそもベイツもフィッチも、南京城内の安全地帯にいた。前述したように、安全地帯では「大虐殺」どころか、「殺人」の被害届すらわずかしかなかった。それも目撃された殺人はゼロだった。いったい、ベイツやフィッチの描写する「3日間で12,000人の非戦闘員の男女子供の殺人」や「約3万人の兵士の殺害」とは、どこで起こったことなのか。(以下、略)

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参考文献
1)北村 稔 立命館大学教授、著書『「南京事件」の探求』文春新書2001年
2)東中野修道 亜細亜大学教授、著書『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社2006年


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アルコール依存症へ辿った道筋(その16)阪神大震災、地震の当日

2015-01-23 21:13:24 | 自分史
 1995年1月17日(火)午前5時46分、兵庫県南部地震(M7.2、最大震度7激震)が発生。死者6,434人、倒壊・焼失家屋15万余棟。当時、戦後最悪といわれた阪神大震災の始まりです。私が目にした地震当日の被災現場の体験を綴ります。
 阪神間には南から北へ順に国道43号線、阪神本線、国道2号線、JR神戸線、阪急神戸線が東西に通っています。阪神大震災の被害が集中していたのは国道43号線と阪急神戸線に挟まれた細長い帯状の地域で、国道2号線を中心として阪神本線とJR神戸線の間のせいぜい1kmにも満たない巾の狭い地帯が特に被害が酷かったのです。阪急神戸線より北側の山の手地域は意外に軽い被害で済んだようです。このことは後から報道で知りました。私はこの地帯の南縁に住んでいました。

  夜明け前の暗闇の中でした。ドーンという爆発音のような音と同時に突き上げられるように体がフワッと浮き、猛烈な揺れが襲ってきて目が覚めました。二重になっていたアルミサッシの内側の引戸が左右に激しく動き、動きに同調してガッチャガッチャとガラスが砕ける音がしました。猛烈な揺れで脇にあった洋服ダンスの扉の片方がバーンと開いてしまい、そのまま倒れてくるのが見えました。咄嗟に頭から布団を被ったのと、洋服ダンスが顔と胸に覆い被さったのとはほぼ同時でした。私は洋服ダンスの下敷きになったのです。布団を被ったお蔭で幸いケガはありませんでした。

 揺れが収まると、遠くで「お~ぃ、大丈夫かぁ~?」という男の声が外の暗がりから聞こえてきました。部屋の中も暗かったのですが、いつもは窓に映る高速道路の照明が点いていたのかどうか覚えていません。暗がりの中で室内がグチャグチャになっているのが気配で分かりました。起き上がって服を着込み、枕元にあった厚手の靴下を履いて立ち上がってみました。

 二重になっていたアルミサッシを見ると、針金入りの外側のサッシは大丈夫でしたが、内側はガラスが大部分割れ落ち、破片が枕元まで散乱していました。「地震だったのか」と初めて気づきました。震度4程度の地震は度々経験していましたが、これほど強いものは経験がなく、初め地震だとは信じられませんでした。

 天井の蛍光灯の紐スウィッチを引いてみましたが、電気が停まったらしく明かりが点きません。暗い中、食器や鍋が散乱し、ガラスの破片やら食器やらが散らばっているのが分かりました。足元に注意しながら炊事場のガスの元栓を止め、水道からまだ水が出ることを確かめました。玄関のドアも開くことが分かりました。倒れた洋服ダンスは重く、独りで元通りに立ち上げることは無理でした。強い余震が始まっていました。

 しばらくして外が白み始めました。本宅(?)マンションの様子が心配になり、4~5kmほどの距離を歩いて向かいました。星が煌めく晴れ渡った冬空で、まだヘリコプターの爆音は聞こえていなかったと思います。

 バス通りに面した二階建てのアパートの一階がベチャと潰れ、瓦葺き屋根の二階がそのままの姿で乗っかっていました。同じように潰れた一階に無傷の瓦葺き屋根の二階が傾いて乗っかっている家、壁に亀裂が入った瓦葺き屋根の家、一階が少し傾いた瓦葺き屋根の家、・・・このような瓦葺き屋根の木造家屋があちこちで見られました。

 市立中央図書館前の舗道の煉瓦が蛇行するように歪(ひず)んで、芸術的ともいえる奇妙なリズムを刻んでいました。地震前は長方形の煉瓦が真っ直ぐ直線的に並んでいたのです。人工的な力ではありえない、横方向からの強大な力が押し潰したように思われました。

 夙川に掛っている橋の橋詰では道路に10~15cmほどの段差が出来て、車はゆっくりとしか走れなくなっていました。川を境に地面が沈下したのだと思います。道路のあちこちにひび割れが走って、小さな段差もありました。歩道橋でも橋桁との間に小さな段差が出来て、左右にも少しズレていました。

 引っ切りなしに続く余震のために、人々は家の外に出ていて、道端や外に出した自家用の車の傍で、ほとんど無言のまま不安そうに佇んでいました。ヒソヒソ言葉を交わすぐらいで、不思議なほど静かで落ち着いているように見えました。あるいは、あまりの驚きで声が出なかったのかもしれません。緊急自動車のサイレンも多くはなかったと思います。

 私自身、経験したことのない大災害の現場に居合わせているという自覚はありましたが、日常とは全くかけ離れた、異質な世界となってしまった現実を、第三者のように醒めた眼で眺めていました。恐怖感も湧かず、興奮もしていないことが不思議でした。意表を突かれた出来事に感情が完全に封じ込められていたのかもしれません。茫然自失。この四文字熟語では当時の実感は表現できません。

 本宅マンションに着いてみると、敷地の所々から砂が液状化して噴き出し、煉瓦を張った舗道では煉瓦が左右にズレたり、上下に波打った所もありました。建物の出入り口の階段が浮き上がって地面と段差が出来たこと、建物と地面の境界線が10~15cmズレていたことから地盤が全体的に沈んだことが分かりました。幸運にも、建物自体は全く無傷でした。居住不能となった建物と住宅ローンの借金が残っただけ、という残酷物語の主人公にならずに済み、心底安堵しました。

 息子たちは半分寝ぼけて暢気に寝ていました。妻は家におらず、パートで働いていたスーパーに出掛けたばかりと分かりました。室内の被害は、食器棚が前方に傾いて天井の梁桁に引っ掛かり、食器が床に零れ落ちて、破片が散乱していただけでした。食器棚は押してもびくともしなかったのに、前に引いてみたら元に戻りました。「また戻って来る」と息子たちに言い残し、私はワンルームの自宅に一旦帰ることにしました。

 ワンルームの自宅に戻る途中、公衆電話があったので会社に電話してみたところ一発で通じました。公衆電話の回線は別回線だとずっと後になって知りました。

 電話に出たのは課長補佐のA君でした。この時初めて時計を見ました。午前8時前でした。彼とはその日、一緒に東北地方へ空路出張に出かける予定でした。予約便が欠航だというので会社に出ているとのことでした。阪神間がとんでもないことになっているとは彼もまだ知らないようでした。「いつ頃になったら出張に出られそうですか?」と訊ねてきました。私もこの地域全体が一体どういう状況になっているのかサッパリ分かりませんでした。自分が知っている範囲のことだけを話し、「少なくとも2~3日は出張に行けないんじゃないかなぁ」と間抜けなことを伝え電話を切りました。西の方、神戸の方角に黒くて太い柱のような煙が4本ほど立ち昇っているのが見えました。

 ワンルームの自宅に着いて試にテレビを付けてみたところ、電波の状態が悪く霧が掛ったように画面が荒れていました。映っていたのは災害現場で、阪神高速が横倒しになっている場面が見えました。

 自転車で本宅マンションに引き返し、二男を伴って阪神高速が横倒しになっている国道43号線の現場に向かってみました。現場の深江は近かったのです。

 倒壊現場では何本もの橋脚が一斉に山側に横倒しになって、眼に見える限りずっと遠くまで続いていました。ある意味壮観でした。橋脚のコンクリートが剝がれ、剝き出しになった太い鉄筋がアメのように曲がっているのが見えました。神戸方面へ向かう海側の車道には障害物が何もなかったのですが、車は全く通っていませんでした。とても奇妙な光景でした。あまりに無残な光景に二人とも息をのみ声を出せませんでした。

 上空では無数のヘリコプターが辺りに爆音を響かせていました。阪神高速は西宮方面でも橋桁の落下があり、スキーツァー帰りの観光バスが危うく転落しそうになったことを後で知りました。その事故現場はワンルームの自宅近くでした。

 ワンルームの自宅への帰り道、国道43号線の南側の住宅街を通りかかると、倒壊した瓦葺きの木造の建物から人を助け出している場面に出会いました。担架に乗せられ、毛布を被せられている人を人々が取り囲んでいました。私たちが通りかかった範囲では、このような救助場面は他に見かけませんでした。

 大手酒造会社の木造瓦葺きの酒造記念館が全壊し、巨大な仕込み樽が野晒しになっていました。ワンルームの自宅から少し離れたところにコンビニがあり、早くも営業していました。入口ドアを半開きにして店内には客を入れず、狭い隙間から店員が商品を手渡していました。私はカップ麺とビール、おつまみを買い求めました。「何か買うか?」二男に聞いても「何もいらない」と返してきました。

 ワンルームの自宅から民家を挟んで3軒隣に8階建のマンションがあります。その一階の壁と柱には大きなX字の亀裂が入っているのが見えました。一階の各戸の玄関は扉が歪んで、半開きになったままのところもありました。直ぐ隣りの、いかにも安普請の家の建物は全く無傷に見えました。倒壊していた家屋は皆重い瓦葺き屋根でしたが、隣の家は軽いトタン葺きの屋根でした。この地方では重い土葺瓦屋根が一般的です。倒壊家屋は屋根が重過ぎて倒れたのだろうと思います。

 ワンルームの自宅へ戻り、二男に手伝ってもらって、まず洋服ダンスを立ち上げることから始めました。洋服ダンスの扉は倒れた衝撃で片方が外れていました。長男も来てくれたので、外れた扉を応急処置で元の状態に戻しましたが、いつ外れてもおかしくない状態でした。サッシの割れたガラス片も片付け、戸外に持ち出しました。破損した家具類を集積する場所が臨時に設けられていました。集積場所まで運んでみて、サッシのガラスは意外に重いことに驚かされました。

 室内が片付いたので、ひとまず皆でカップ麺を食べようとしましたが、その時初めて水が出ないことに気付きました。ガスも止まっていました。何も食べることができません。空腹だったろうと思いますが、家で食べるように言って息子たちには帰ってもらいました。私自身は空腹を感じていませんでした。やはり緊張で興奮していたのだと思います。

 ワンルームマンションを挟んで国道43号線とは反対側に小学校があり、付近の避難所になっていました。避難所はトイレが不潔で不自由だろう、自室にいた方が気楽と考え避難しないことにしました。どこの避難所でもトイレの問題が酷かったそうです。

 歩いて2~3分ほどの近くに酒屋があって、幸い店を開けていました。水道が止まったので水代わりにビールを飲み、切れたら酒屋で買い求めることにしました。断酒後の今からみたら連続飲酒の始まりと警戒すべき状態です。酒屋の奥さんが店の裏手に手動ポンプの井戸があると教えてくれました。飲用には向かず生活用水としてしか使えないのですが、普段知ることもない井戸の存在も、災害が起こったことで知ることが出来ました。

 トイレ用として井戸水を浴槽に汲んでおくことにし、水の入ったバケツを3階まで何回も運びました。これは想像以上にシンドイ作業でした。バケツは一つしか持合わせがなく、バケツ1杯分では浴槽にうっすらと浅く水が残る程度でした。バケツ運びを何回繰り返したでしょうか。バケツを何回運んでも浴槽の1/3程度まで貯めるのが精一杯でした。トイレ1回分を流すに要する水がバケツ2杯分の水では足らない、ということをご存じでしょうか?毎日井戸からバケツで水を運び、その汲み置き水で地震当日を含め3日間を何とか凌ぎました。水洗トイレが必要とする水量がハンパでないことを思い知らされました。

 地震直後は建物の貯水槽に水が残っていたはずで、水が出ている間に浴槽に貯めておけば良かったと悔やみました。後で聞いた話ですが、六甲アイランドの高層住宅の住民は26階(?)まで階段を使いバケツ運搬をしたそうです。高層には住むものではないと知りました。

 テレビの電波の状態が回復しNHKでは地震災害報道を続けていました。市区ごとの死亡者名や被害状況の報道ばかりでなく、避難所情報も流れていました。引っ切りなしの余震のたびに緊急速報があり、M6程度の余震の恐れも繰り返し報道されました。

 夜になって、服を着たまま毛布と布団を被って横になりましたが、寝付かれないままテレビを見続けました。テレビは終夜放送になっていました。固定カメラから撮った暗い神戸の街角が映っていて、時々ヘッドライトを点けた車が通っていました。淡々としたギター曲がBGMで流れ続けていました。余震の緊急速報のたびに音楽が中断しました。明かりを付けたままの、不安だらけの夜でした。

 地震3日目に会社から電話が架かってくるまで、毎日水汲みをし、ビールや若干の食料の調達のため酒屋に出る以外、完全に引き籠りの連続飲酒状態でした。いったんアルコールが入ってしまうと、明るい内から酔っ払っている姿を見られるのが嫌で、どうしても必要な場合以外は外出しなくなりました。どうしても必要な場合とは、もちろん酒類が切れた時のことです。


アルコール依存症へ辿った道筋(その17)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その15)いよいよ神経戦の始まり・・・

2015-01-17 18:27:11 | 自分史
 私が42歳の3月、やっとの思いで新Ca拮抗薬Pの承認申請に漕ぎ着けました。

 論文30本と申請概要、全研究会議事録、これらすべての作成作業を一から始めてのゴールでした。病院と交わした契約書や治験薬の納品・回収伝票、病院・医師との訪問・面談記録などの文書の点検・確認作業も厖大なものでした。研究会議事録ひとつとってみても、録音テープの起しからの作業です。さすがに録音テープの起しは業者に委託しましたが・・・。

 これらの作業をよく1年でやり遂げたものと思います。チーム全員で治験分担の割振りどおり、手分けして論文や議事録などの作成に掛り、この手の作業に長けた I 君が文書の点検・確認作業を差配しました。皆、夢中だったのです。どんなに辛くとも、仕上げの作業にはやはり倍以上の喜びがあるからこそでした。

 離婚騒動から別居という文字通りの晴天の霹靂を潜り抜けて、我ながらよくぞ成し遂げたと今でも感無量です。翌4月に昇進・昇格し、月給が8万ほど昇給しました。赤貧の生活からやっと解放されました。

 申請後は厚生労働省との折衝が主となります。担当官との最初の面談では、新Ca拮抗薬Pの印象は悪くないものでした。特に、高血圧症と狭心症という両適応症の比較検証試験結果が好評で、上々の滑り出しと思えました。最初の面談に同席した会社の面々は、これに皆大喜びしたものです。

 その年の8月に妻と連絡を取り、甲子園球場近くのホテルのロビーで会うことにしました。怒りがちょっとは解け出したのではと期待していたのですが、顔を見た途端に淡い期待は呆気なく吹き飛ばされました。何事も拒絶しようとするバリァーが感じられ、周りの空気が固まっていました。離婚騒動真っ只中に家で感じた空気と同じでした。「これでは話し合いも何もない」、そう考えてほんのわずかな時間で切り上げました。「まだまだ、先は長いぞ」そう心に言い聞かせるのみでした。

 八方美人と人物評価した M 君でしたが、新Ca拮抗薬Pの承認後は販売促進を統括するマネージャーに決まっていました。申請後しばらくして二人だけで酒を飲んでいた席で、申請データ中で気に掛る点を M 君から訊ねられました。私は「血圧日内変動の試験データだ」と答えました。

 血圧日内変動の試験というのは、入院患者を対象として降圧薬の作用が1日中安定して持続するか否かを調べる試験のことです。降圧薬を服用開始前と継続服用終了時の2回、所定の時刻に1日10回(午後10時~午前6時の就寝時を除く)血圧を測定し、降圧薬の用法を立証するための試験で、用法・用量の根拠資料になります。

 新Ca拮抗薬Pの申請資料では、朝食(服薬)前の午前7時と就寝前の午後9時のデータについてだけ、血圧の下がり方が不十分に見えていました。

 私自身、問題視される可能性に備え、念のために治験を特別に2本組んでおきました。1日1回の服用で十分とする根拠を補強するのが目的でした。睡眠中も含め、30分毎に24時間血圧を測定できる携帯型血圧計を用いた自由行動下の血圧日内変動(ABPM)試験が一つ。もう一つは入院患者に7日間治験薬を服用してもらい、服薬終了後も引き続き午前7時(服薬時刻に相当)の血圧を3日間追跡記録する試験です。どちらの治験でも1日1回の服用で十分という満足できる結果が得られていました。

 しかし、これらの2治験は一般試験という位置づけで、用法の根拠とする根幹試験とは見做されない可能性がありました。また、ABPM試験には次のような問題が内包されていました。

 心臓は1日約10万回拍動します。血管の拍動は少しのストレスでも敏感に反応します。したがって、血圧(=血管の拍動)も1日約10万回変動するのです。自由行動下の血圧であればなおさらです。本来なら動脈内にカテーテルを留置し、血圧を直接連続測定するのが理想的なのですが、現実問題としてほぼ実行不可能でした。

 ABPM試験成績では、患者全体の血圧の平均値で見ると(縦軸に血圧、横軸に時間をとった折れ線グラフを想像して下さい)、服薬前後の曲線は平行して推移し、昼間に高く夜間睡眠時には低い典型的な血圧変動曲線を示していました。

 ところが個々の患者の血圧の推移をみると、自由行動下の血圧は思わぬ数字を示すことが多々ありました。想像通り服薬前後の線が至る所で交叉した折れ線グラフそのもの、つまりグジャグジャした変動だったのです。このことが後になって大問題となりました。

         *   *   *   *   *

 新薬の承認申請後、最初に越えるべきハードルは申請資料についての信頼性調査です。申請資料中のデータが、捏造・改竄されたものでないことを当局が調査・確認することを言います。

 国際標準を簡略化した日本版GCP(旧GCPと呼んでいます)の行政通知については先に少し触れています。旧GCPはかなり大雑把なもので、後に法制化された国際標準のGCP(医薬品の臨床試験の実施に関する基準:ICH‐GCPに準拠)から見たら月とすっぽんでした。

 それでも治験の実施に関する初めての規制でしたので業界には戸惑いがありました。中でも画期的な変革といえば、承認申請した会社ばかりか治験実施医療機関(病院)へも当局が出向いて実地調査(査察)を行うことでした。申請した資料の中で、この旧GCP が適用される治験はいずれも根幹資料と位置づけていた4治験でした。

 実地調査の約2~3週間前に会社に連絡が入り、11月に調査が行われることになりました。調査対象になったのは2ヵ所でした。健常人での血中薬物動態を依頼した受託医療機関のクリニックと、狭心症の治験先となった心臓病専門の外来診療クリニックです。受託医療機関には独自で対応するよう依頼し、狭心症の外来診療クリニックの方に注力することにしました。

 当局から連絡を受けると直ぐ外来診療クリニックに調査の受け入れをお願いし、課長補佐の A 君と二人で準備に掛りました。特別に許可をもらい、治験契約関連文書や治験審査委員会審査結果資料、カルテなどを確認させてもらうことにしました。

 外来診療クリニックでの調査対象の患者は8名でした。狭心症の比較検証試験の2治験分でした。カルテと治験用データ用紙(CRF)の記載内容との確認・照合だけでも、患者一人分に二人掛かりで30分程度掛ります。カルテの記載と矛盾するなど注意を要する所が見つかれば、患者のCRFのコピーに注意点をメモした付箋紙を貼っていきます。カルテとの確認作業だけで相当の時間が経過し、外来診療クリニックの閉所時刻も迫っていたので、心電図を確認できないまま終えることになりました。

 当局による実地調査の結果、調査に立ち会った担当医師の心電図の読図所見と、治験時に記載したデータとの間に食い違いが見つかりました。

 患者の中には、運動負荷前の安静時にすでに心電図上変化が認められる人もいて、運動負荷をかけることによって変化が増幅する患者もいます。このような症例では、心電図の変化をそのまま計測した場合と、変化の増幅分だけを計測した場合とでは数字が変わってしまうのです。担当医師にお願いし、心電図データの食い違いは実地調査時の読図に勘違いがあった由の釈明書を書いてもらいました。

 どうにか申請まで漕ぎ着けたものの、申請作業だけで燃え尽きてしまい、ここぞという時の集中力が散漫なままでした。微妙な変化を追う心電図の確認こそ細心の注意を払うべきだったのですが、時間配分の読みが甘かったのです。想定内のこととはいえ、手を抜いたことが原因の最悪事態です。徹底を怠った時に起こる案の定の不始末でした。

 もう一方の受託医療機関の実地調査については、被験者募集方法に不適切な部分があったという結果でした。これについても受託医療機関に依頼し釈明書を書いてもらいました。

 年が明けて、これらの釈明書を添えて回答書を当局に提出しました。当局からは、旧GCP の適用となる狭心症の2治験について、「全症例の心電図所見に誤りがないか確認して回答を提出せよ」という指示を受けました。回答の提出を待って承認審査の再開を決定するというのです。

 新年早々全国行脚を始めることになりました。早速、手当たり次第に治験担当医師と面談の約束を取り付け、課長補佐の A 君と二人のペアで心電図の確認作業に当ることにしました。

 いよいよ翌日から東北地方に出張することとなった3連休の最終日、1995年1月16日(月)、私はワンルームの自室で眠りに就きました。この日は晴れで、月齢は満月に近かったと思います。大きな赤い月が東の空から浮かんできたのを覚えています。


アルコール依存症へ辿った道筋(その16)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その14)賭場では大勝、でも貧乏な一人住い・・・

2015-01-09 19:03:25 | 自分史
 このブログを書き始めて間もなく、記憶に頼るだけでは出来事と時間軸との関係が覚束ないことに気付きました。そこで在職中の手帳を元に主だった出来事の年表を作ることにしました。
 38歳以前の記述については、あやふやとも言える記憶だけによっています。そんな訳で、38歳になる年(‘89年)の正月8日に昭和から平成に年号が変わったことや、同年にあった北京の天安門事件(6月4日)、ドイツのベルリンの壁崩壊(11月10日)など歴史的重大事件に触れずじまいのまま来てしまいました。
 特に昭和天皇薨去の日、会社に休日出勤しようと家を出たのですが、大阪北浜界隈のビルのどこもが半旗を掲げていたので引き返したこと、当時の小渕官房長官(後の首相)から年号が平成と発表されたことなどが鮮やかに蘇ってきます。遅ればせながら補足させていただきます。


 高血圧症の比較検証試験の開鍵で上々の結果が得られた後、私も先輩たちのように会社で歩く傲慢をやっていたのでしょうか? これでもう大丈夫、とよほど安心し浮かれていたのかもしれません。記憶が希薄であまり印象に残っていないのです。

 個人年表を改めて見てみると、ブラックアウト状態で財布を紛失し癇癪を起した頃は、狭心症の比較検証試験2本についても研究会を開き、開鍵に向け問題症例の採否を検討していた時期と気付きました。

 2試験の内の1本は狭心症の胸痛発作回数と発作時のニトログリセリン頓用錠数の変化を評価するもの(症状試験)、もう1本は心電図上に変化が起こるまでの運動持続時間の変化を評価するもの(運動耐容能試験)です。ニトログリセリン錠は発作時に痛み止めとして頓用するものですし、心電図上の変化とは虚血性ST偏位のことです。

 実は、これらの2試験の治験実施計画書立案時に代表世話人とひと悶着ありました。そのとき問題となったのは服薬期間の長さをどうするかでした。服薬期間を2週間にするのか、それとも倍の4週間にするのかです。当時の治験の服薬期間は4週間が普通でした。

 当時、狭心症の治療環境は変わりつつありました。それまでは薬物療法が主流で、重症例には冠動脈バイパス手術が普通でした。そこに新しい治療法、PTCA療法が専門病院では行われるようになっていました。
(薬物療法:Ca拮抗薬、β遮断薬、少量アスピリンの3剤併用を基本とし、発作時ニトログリセリン錠頓用; PTCA療法:股間から大動脈内にカテーテルを挿入し、冠動脈内でカテーテルの風船を膨らませ、狭窄した血管の血流を回復させる治療法)

 PTCA療法は簡便で入院期間も短くて済みます。PTCA療法待ちの患者に治験をお願いするとなると、服薬期間が短いほど協力が得やすいと思われたのです。

 そのため私としては、2週間の服薬期間を提案しました。一方代表世話人の方は、自身の診療経験から、服薬期間が長いほど薬本来の効果が安定しやすく、短い服薬期間は新Ca拮抗薬Pにとって不利という意見でした。結局、服薬期間を2週間とし、負けたら会社側の責任ということで了解してもらいました。これが比較検証試験開始前にあったひと悶着の内実です。

 二つの比較検証試験に参加した患者数は、症状試験で109例、運動耐容能試験で55例の計164例でした。164例ものデータの点検作業ならば、緊張感と重圧に再び圧し潰されそうな毎日だったはずですが、あまり記憶にありません。

 開鍵までの作業全般は高血圧症で経験済みでしたので、スタッフ全員が作業のコツを十分に分っていました。それで、症状試験の方は課長補佐のA君に、運動耐容能試験の方は係長のK君に、それぞれ指揮を任せていたようです。

 私自身は点検作業の機械的な確認や主だった医師との連絡係、つまり本来の管理職の仕事をしていたものと思われます。そんな魔が差しそうな時期に妻から離婚話があったのです。

 妻に離婚を通告されてから間もない年の瀬に、スタッフのI君と例のN子嬢の結婚式もありました。もちろん私を含め(?)、チームからは誰も招待されませんでした。

 私自身はN子嬢への “憑きモノ” のような性的妄想に耐えることに必死でしたし、チーム内には相当ギクシャクした空気が澱んでいました。それなのに誰も何も言いませんでした。チーム外でもギクシャクした雰囲気を察していたのでしょう、私が影の仲人と皮肉る者もいました。もちろん妻も、相当以前から薄々怪しい気配を感じ取っていたに違いありません。

 年が変わり私が42歳になる正月、離婚騒動の修羅場の真っ最中に狭心症の比較検証試験1本目の開鍵が行われました。狭心症の症状試験です。

 この時は、コントローラー(盲検化の管理者)が患者一例一例について、服用した薬剤の符号を読み上げる方式でした。最初の2~3例については記録しましたが、胸の鼓動が激しくなってその後は止めました。俎板の鯉の心境でした。

 結果は驚くべきものでした。新Ca拮抗薬Pの改善率の方が高く、両薬剤の改善率に有意差が出たのです。つまり、1日1回の服薬で済む新Ca拮抗薬Pの方が1日2回の服薬が必要な市販の対照薬より優れた新薬であるという、文句なしの成績が出たのです。こんなことはめったにない大勝利です。
(有意差:偶然から差の出た可能性が確率5%未満ということで、統計学的にみて偶然では起こり得ない差)

 家庭に修羅場を抱えていた手前、思わぬ大勝に喜んだ振りをするのが精一杯で、内心は離婚騒動による心の動揺がバレないよう必死でした。恥ずかしさから離婚騒動中とは誰にも言えなかったのです。出席者全員で、シャンパンで乾杯したのですが、味は全く覚えていません。

 別居する直前に、もう一つの運動耐容能試験についても開鍵が行われました。症状試験と同様に、こちらも文句なしに勝ちました。こうして新Ca拮抗薬Pは、高血圧症ばかりでなく狭心症についても承認が得られ、二つの適応症を持って市場に出るのは確実と思われました。


************************************************************************************
 別居期限の1週間前になって近くの不動産屋に紹介され、6畳一間のワンルームを借りることに決めました。そのワンルームは、国道43号線(第二阪神)の交差点近くの小さな4階建ビルの3階にあり、各階とも階段の踊り場に向かい合って2部屋しかない内の一部屋でした。幹線道路脇ですから、昼間の車の騒音はそれなりに酷いのは当たり前で、我慢できるものと軽く考えていました。夜間の騒音までは思い至らず、入居数も少なかったので決めてしまったのです。

 別居先を決めた帰り道、夙川公園の土手のベンチに腰掛け、一人で散り際の桜を眺めました。侘しさに胸が一杯になり、弱々しい風に揺れる花が涙で滲んだことを覚えています。ふと狭い川を挟んだ対岸を見ると、会社の後輩らが花見の合コンをしていました。バツが悪かったので、手でチョット合図を送ってそこを立ち去りました。


 「会社人間」では決してなかった
 連日の深夜帰宅、休日出勤、会社で徹夜、出張の連続、休日のゴロ寝
 まさに「会社人間」
 ただ給料を上げたかった
 恵まれたかった
 家庭の温かさが代償の苦い取引だった
 決して「会社人間」であろうとしたのではない
 しかし、「会社人間」であった


そのときに浮かんできた私の本音です。

 いよいよ家族と離れての別居です。テレビと冷蔵庫、照明器具を新たに買い求めました。机と寝具、洋服ダンス、着替えの入った衣装ケース2つ、囲碁と将棋のセット、囲碁次の一手問題集、出張用カバン、『荘子』3冊と辞書、ワープロ、これらが私の家財道具のすべてでした。

 男一人住まいの家財道具はこんなにもコジンマリしたものです。本棚と書籍がない代わりに、その分洋服ダンスが加わっただけで、学生時代と何ら変わりません。赤帽の小型トラックに余裕で積むことができました。大部分の炊事道具や食器は引っ越し後に買い求めました。新たに電話も引きました。洗濯機は買わずにコインランドリーで済ませることにしました。

 国道43号線は神戸港に繋がる阪神間の産業道路と言われるぐらいですから、大型トラックの交通量が殊のほか多いので有名です。わずかな引っ越し荷物を片付け、弁当で食事を済ませて寝ることにしたのですが、明かりを消して横になってみて大変なことに気付かされました。

 交差点が間近にあり、信号が変わるたびにプシュー、プシューというエアー・ブレーキ音がうるさくて堪らないのです。阪神大震災前は片側4車線でしたので、大型車両の多さは想像を絶するものでした。信号は3分間隔で変わるようで、一晩中ほとんど絶え間なくエアー・ブレーキ音が聞こえていました。

 車の振動にも驚かされました。建物全体が小刻みに揺れるのです。横になって初めて揺れが分かりました。騒音と振動に馴れるまで半年以上かかったように思います。

 国道43号線の上は高架となっていて阪神高速道路が通っています。その照明が一晩中窓を照らしていました。視線の先が窓で、高速道路の照明が明るくて眠れず、早速カーテンを求めました。厚手のカーテンでもほんの気持ち程度しか光を遮らないのにはガッカリでした。ここを選んだのは失敗だったかと悔やみましたが、後の祭りでした。

 肝腎要の経済面は厳しいものでした。狭心症でも大成功を収めたのですが、昇進と昇給は翌年までお預けでした。手元には残金を全額引き出された後の銀行通帳しかありませんでした。無一文状態だったので、窮余の策で郷里の姉と妻方の義母から20万ずつ当座の借金をし、7月に支給されるボーナスまで凌ぎました。

 本宅(?)の息子たち用と自分用の決済口座を分離するため、自分用として新たに銀行口座を設け、給料の振込み先を二分しました。本宅用として毎月25万の定額振込みとし、残りは全て私の取り分としました。5万弱の家賃を除くと私の取り分は正味8万程度だったと思います。非常に厳しい財政でした。

 止むを得ず外食を控えるようにし、ボーナスが支給されるまでは自炊するか弁当を買って済ませました。貧乏とはこういうものかと苦笑いしたものです。ボーナスが支給されると、直ぐ姉と妻方の義母へ借金を返済しました。これで住宅ローンだけが借金として残ることになりました。

 別居して間もなく、結婚相談所から私宛に入会案内パンフレットが送られてきました。とても嫌味なタイミングでした。妻からはハガキで離婚を催促されました。惨めな状況ではありましたが、いつの日かきっと家に戻ると心に決め動きませんでした。

 家族が完全に崩壊するのは是非とも避けたかったのです。私には姉が二人いますが、両方とも離婚しています。私まで離婚するわけにはいきません。

 会社の方は、部門長で専務のK氏にだけ別居したと報告し、新Ca拮抗薬Pの申請時期が遅れるかもしれない旨を伝えました。申請時期の遅れは了解されましたが、しかつめらしい顔でこう言われたのには呆れてしまいました。「じゃ、ベッドも別々だったのか?」

 直接の上司のN先輩は自分の痛みは感じても、他人の痛みまで共感できる人ではありません。新聞報道事件以来、N先輩の歩く傲慢の影は薄れていましたが、どうせ嫌味を言われるだけと思い別居したことを伝えないままでいました。

 その年の初冬だったと思います。長男を呼び出して久しぶりに外で会うことにしました。中高一貫校のため、入試なしで高校1年生になっていました。長男に会うなり印象が全く変わっているのに驚きました。愚連(グレ)た不良少年特有の尖って荒んだ眼をしていたのです。

 何かあったに違いないと思ったのですが、詳しく聞き質すことは出来ませんでした。家族がバラバラになった原因は私自身に有ると、独り負い目を感じていたからです。お好み焼き屋に入ってもあまり話すことも無く、「お金をくれれば、それでいいよ」と言って長男は帰って行きました。

 「傷心の癒しには仕事が一番」かつて離婚した姉にはこう言って励ましていました。そのこともあって、チームのスタッフには別居を内緒にしたまま、膨大な申請資料の作成作業に一意専心、ひたすら取り組みました。どうにかそのお陰で、翌年3月には申請に辿り着くことができました。


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アルコール依存症へ辿った道筋(その13)妻の反乱・・・

2015-01-02 16:35:19 | 自分史
 深酒によるブラックアウトで記憶が途切れてしまい、財布を無くして癇癪を起した事件から間もなくのことです。41歳時の晩秋、妻の凄まじいばかりの反乱が勃発したのです。

 銀杏の葉が黄色に色づき始める頃、毎年11月には定期的に人間ドックを受診していました。人間ドックを受ける健康保険センターは大阪港に間近の病院付属のものです。冷たい風が吹いている病院前の大通りの歩道で、不意に妻からこう告げられました。「私たち離婚しましょう。・・・同情での結婚は間違いだったわ。」初め言葉の意味が呑み込めず、「えっ?」と声を出しただけでした。気まずい空気が流れ、私はうろたえてしまいました。

 妻は自分の決意を直ぐに行動に移しました。自宅から病院まで二人で車で来ていたのですが、帰りは私一人が残されました。食事も息子たちとは別で、私だけ一人でとるようにされ、当然ながら寝室も即日別々にされました。妻の外出や外泊も多くなりました。

 あまりにも急激な妻の変わり様にただ狼狽するばかりでした。ふと、しばらく前の休日に「ボーリングに行ってみない?」と珍しく妻から声が掛ったことを思い出しました。ボーリングなど何年も行ったことがなかったのです。アルコール症者に特有(?)の身体の気怠さと面倒くささから、体よく断ってしまったのですが、あれが最後通牒代わりの伏線だったのかと思い至りました。

 結婚を間近に控えた部下のO君に夫婦のあり方を聞かれ、妻のことを “空気みたいな存在” と答えたことも思い出しました。その時は存在感が薄いというよりも、“無ければ困る存在” という意味で答えたのですが、仕事にかまけてばかりいて、妻の普段の素振りから気にならない存在と感じていたのは事実だったのです。

 恐らく妻の方こそ私を見放していたのでしょう。38歳頃から再び仕事が猛烈となり、心身ともに忙しいことを言い訳に、息子二人と遊ぶ時間も作ってやれなかったことも思い出しました。家のことは全て妻に任せきりで、まるで母子家庭と何ら変わらなかったのです。

 このように、次から次へと記憶に浮かんで来たものの、何が極めつきの原因なのかサッパリ思い当たりませんでした。今となって長年に渡る複雑な要因絡みのものと分かって来たのですが、当時は分からなくて当然のことです。

 何か事情を知っているかもしれないと、時間を工面して妻が親しくしていたシングルマザーのママ友の所へ相談にも行きました。妻とはお互いの家を始終行き来している仲の人です。何か心当たりを知っているに違いないと踏んでいましたが、当たり障りのない応対をされただけでした。それで、彼女が自宅に遊びに来た折に無意識か意識的にか彼女を軽くあしらっていたことに思い当たりました。新築マンションの住民となったばかりで驕っていたのです。なるほど、こんなふうにしっぺ返しを食らうのかと妙に納得したものです。

 年末年始は東京の妻の実家で過ごすのが定番でした。当然のように妻は何も告げず、大分早くに息子たちを連れて先に帰っていました。どうしたものか迷いましたが、やはり話し合おうと考え、暮れの31日の遅くに家族を追いかけました。

 翌元旦の朝、部屋で二人だけとなって直接妻に離婚の理由を問い質してみました。酒の問題と夫婦交換遊び(swapping)の提案があったから、と怒気を孕んだ強張った顔つきで妻が答えました。

「酒飲み始めたら止まらないっ!だから、ズル休みが多いじゃないっ!」と酒飲みのだらしなさを非難されました。飲酒問題は、直近にブラックアウト状態が原因で財布を無くしたことに癇癪を起してしまった手前、もっともなことと納得できたのですが、swappingの提案が原因だとは意外でした。「swapping なんて“穢らわしい”! “最低” の人間よ!」と罵倒されました。夫婦の睦み事の際の戯言のつもりでしたし、実を言うともっと際どい提案だったからです。“穢らわしい” という言葉が、不思議と今でも心に残っています。

 結局、話合いとは程遠く、お互い物の言い方が悪いと罵り合うばかりになり、今後は禁酒すると約束を言い残して私だけ自宅に戻りました。元旦早々、妻の実家は修羅場となってしまいました。仲の良い娘夫婦とずっと思っていただけに、義両親はさすがにうろたえてしまい、おろおろしていました。

 東京からの帰路、離婚理由に挙げられたswappingの提案の経緯について、道すがらずうっと思い出してみました。さらに連想の赴くままに習慣的飲酒が始まった以降、妻に愛想を尽かされるようなことが他に無かったのかについても思いを巡らせました。離婚という思いもしなかったことで頭が一杯で、正月気分など全くない新年となりました。


 私たち夫婦共通の友人にKがいました。Kは私にとって予備校の寄宿舎時代からの親しい友人の一人で、妻とは大学に入ってからスキーを通じて交際を始めていました。私と妻とはその後Kを通じて知り合ったのです。

 Kは末っ子特有の人懐こいアッケラカンとした陽気な男で、妻はそこが気に入ったらしく、いつの間にかKに恋をしていました。妻は結婚適齢期でもあり、家庭の事情から結婚を焦っていました。その妻がKに結婚話を持ち掛けたところが断られ、傷心の彼女の話を親身になって聴いているうちに、ミイラ採りがミイラになって出来てしまったのが私たち夫婦です。

 Kの方はその後、北関東の同郷で同姓の女性と結婚し、婚家に入って事業を手伝うことになりました。婚家の事業のために各種免許も取ったと自慢げに話していたこともあります。今回の離婚騒動の始まる1年ほど前に、共通の友人からKが大学病院の精神科に入院している話を聞き、出張がてら治験先でもある入院先の病院に見舞いに行ったことがあります。私と同様、仕事が多忙で結婚生活にも倦んでいる年齢であり、婚家とトラブルがあって精神を病んでしまったようです。妻にもこのことは報告しました。

 夫婦の睦み事の際、妻にKと遊んでみたらどうかと1~2度言ってみたことがありました。ちょっと刺激的な戯言のつもりでした。妻が非難したswappingの提案とはこのことです。

 そのことで思い出しました。swappingの提案をした後のことですが、「夫婦って元々赤の他人なんだよね」と妻が言い出したのです。どこか冷たく蔑むような言い方でした。たまにする夫婦の睦み事も嫌々ながらのやっつけ仕事のようでした。何か変だなとは思ったのですが、深く考えもせず放置したままでした。離婚の理由を聞き出した際、妻が何故Kの名前を直截出さなかったのか(?)、そのときは頭に血が上っていて特に不審に思ったりはしませんでした。

 また、短期間とはいえ郷里の父を同居させることになったことも、愛想を尽かされた要因かもしれないと考えました。出張ついでに郷里帰りした際、両親の夫婦喧嘩の現場に居合わせてしまったことが災いし、一時父を引き取るハメになったのです。

 それでなくとも母子家庭状態の所に義父の面倒まで負わされるのは納得できなかったでしょう。しかも、電話で一方的に通告されただけで、事前にじっくり相談されたわけでもなかったのですから尚の事です。結果的に一ヵ月半ほどの同居で済みましたが、その間どうしても目障りな他人である義父と、四六時中一つ屋根の下で過ごすことがどんなに辛いことか想像に難くありません。

 父の方も、知らない土地で何もすることがない生活は監獄のようだったに違いありません。7年後に帰省したとき、痴呆状態の父から「どちらさんでしたか?」と会うなり訊かれたのはショックでした。同居していた当時、無聊のまま放置されたも同然の扱いを受けたことへの復讐かと一瞬頭を過りました。

 結果として妻にしても父にしても、何の喜びもない同居の日々だったと思います。15年ほど後で新聞のネット版を見ていたとき、“妻に相談なく田舎出身の夫の独断で夫親との同居が決まってしまった” という問題が人生相談に類する掲示板で炎上し、離婚するのが当然だとの意見が圧倒的多数を占めていたのに驚きました。田舎で培った結婚観を引き摺る私と、都会育ちの妻の結婚観は全く違うのだろうと初めて納得できました。

 さらに、妊娠中絶させてしまったことも思い出しました。38歳の時、妻に3番目の子を妊娠させてしまいました。子供が二十歳になるとき、自分たちは還暦を迎える歳なのにまだローンの借金を背負ったままだとか、地球規模の人口爆発問題の片棒担ぎになるだとか、今思えば屁理屈を捏ねて堕胎してもらうことにしたのです。

 妻は同意してくれ、私が付添いすることもなく独りで処置を受けてくれました。同意の上とはいえ、多分愛想を尽かしたのだと思います。悪阻(つわり)もなかったので胎児は娘だったかもしれません。酷いことをしたものです。貴い生命への慮りのない、自分の都合だけの自己中心的思考の典型です。


 東京から戻った妻の私に対する仕打ちは文字通り陰湿で酷なものでした。まずされたのは、育児放棄に似た私へのネグレクト(黙殺・支援放棄)です。朝挨拶しても返事をしてくれない、食事の用意をしてくれない、洗濯をしてくれない、Yシャツのアイロン掛けをしてくれないetc、です。妻の外泊が殊の外多くなりました。

 祝日前夜、遅くなって会社から帰宅したら玄関のドアにチェーンが掛っていて入れず、公衆電話から電話しても誰も出ないこともありました。しかたなく隣町のラブホテルに泊まったのですが、妻が外泊して息子たち二人だけとなって用心のためにチェーンをしていたためでした。妻は翌祝日夜9時頃帰って来ました。

 人が怒気を孕んでいるときは、それが空気となって肌で感じ取るものです。

 たまたま飲酒した翌朝体調が悪くて会社を休んだ時は、
「約束を1ヵ月も守れない奴。疲れで死ぬわけがない。死ぬこともできないくせに・・・死んだ方がむしろ良い。このままだと自分が殺しかねない」と聞えよがしに詰(なじ)られたこともあります。長男も母親の肩を持ち「約束破った」と非難する始末です。極めつきは近くにいたときの
「死ねーっ、死ねーっ、死ねーっ」という聞えよがしの独り言でした。まさに針の筵、修羅場の毎日でした。

 息子たちも完全に言いくるめられていたらしく、3ヵ月後には二人揃って私の前に直立して並び、
「父さん。このままでは母さんが家を出ると言っているので、父さん当分の間家を出て行ってください」と長男から言われてしまいました。二男はこの時不安気な顔をしていました。

 粘り腰で頑張ってみた私も万策尽き果て、降参することにしました。こうして3ヵ月余精一杯の禁酒(飲酒4回/月)で頑張ってみたのですが、甲斐もなく別居せざるを得ませんでした。これらのことは手帳に記録していたメモから抜粋したものです。

 妻がここまで鬼と化すというのは全く想像を絶することでした。妻は亡姉に可愛がられ、何かと亡姉を頼って育って来たので、何かにつけ人に頼る所がありました。家庭を破壊するような強気の行動を独りで出来るはずがない、誰か黒幕がいるに違いないと思いました。思い当たるのはシングルマザーのママ友だけで、恐らく彼女が教唆しているのではと思っていました。

 ともかく、至極平凡だった17年間の結婚生活は、こうして幕を閉じました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その14)につづく



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