ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

再々 “生き残る” について

2017-03-31 07:22:22 | 病状
 現役世代の多くのアルコール依存症者は、断酒開始後4ヵ月~1年ぐらいで仕事を再開し、残念なことに、まもなく再飲酒となってしまいます。体調の回復を実感し、これなら断酒を続けられると過信したケースが多いようです。私の経験からすれば、この時期に特有の嵌まりやすい落とし穴です。ある意味、“妄想” の罠かもしれません。

 健常者なら、病が癒えたら職場復帰は至極当たり前のことで、さほど難しいことではないかもしれません。ところが、現役世代のアルコール依存症者の多くは復帰できる職場がありません。アルコール依存症の特徴の一つが、酒害問題のために生活基盤が完璧に破綻してしまうことだからです。

 彼らにとって、仕事再開は再就職活動から始めることであり、文字通り人生の仕切り直しとなります。まさに “生き残り” を賭けた覚悟で臨む仕事再開です。
「何としてでも仕事に就いて生き残らねば・・・」という思いを想像するだけで、こちらにもプレッシャーが掛かって身構えてしまいます。

 継続断酒1年前後の時期は、身体的にはすっかり回復していても、脳はまだアルコール(の影響)が抜け切っていないアンバランスな状態にあります。記憶のネットワークがズタズタに寸断されているため判断能力が劣化し、思考パターンも偏ったものになりがちです。まさに、“認知のゆがみ” が顕在化しやすく、言葉のストレスに殊の外敏感となる時期です。

 このようになるのはアルコール性急性離脱後症候群(PAWS≒ドライドランク)の真っ只中にあるからです。PAWSは回復過程にある脳のアンバランスによる障害で、回復したと過信しやすくなるのも特徴の一つです。先に “妄想” と言ったのはこのことです。

 そんな不安定なときに陥りやすく、用心すべき心理状態があります。断酒後の回復途上で誰もが囚われる巧妙な罠です。


 ● 何でもできそうに思う “万能感”
 ● “どうにもならない” 変な(?)衝動に駆られる生きづらさ
 ● 「なぜ自分だけがこんな目に・・・」という “自己憐憫”


 これらに「生き残らねば・・・」という思いがさらにプレッシャーを増幅させるのですから、堪ったものではありません。加えて上述したように、人の言葉に感情的な反応をしてしまうストレス過敏な時期でもあります。

 この時期の同病の皆さんには、是非次のことを思い起こしていただきたいのです。


― 『生き残らねば・・・』は、死と同じ誰もが平等に背負っている宿命
― 決して自分一人だけではない
― みんなで一緒に向き合えば怖くない


 このことを思い出すだけでストレスの受け方が随分違うと思います。そして、「ジタバタしてもしょうがない。“その時” が来るまで待つか」と腹をくくるのがいいと思います。私は今頃になってやっとそれに気づくことができました。

 仕事再開で受けるストレスたるや、健常者の想像を絶するものだろうと思います。私がこの危機的時期を何とか乗り越えられたのは、すでに年金生活者になっていたお陰だと考えています。このお陰で仕事再開のストレスと「生き残らねば・・・」の壮絶なプレッシャーを受けずに済みました。

 “生き残る” は生き物共通の宿命で、「生き残らねば・・・」は平等に課せられた厳粛な命題です。私たちが危機的状況に見舞われたとき、「生き残らねば・・・」と必死になるのは生き物として当たり前なのです。

 “生き残る” ために、どんな生き物にも備わっているのが自然治癒力です。負ったキズの影響が全身に及ばないよう阻止し、キズそのものを修復してくれる機能です。自然治癒力は生き物全てに大自然が平等に授けてくれた恵みです。遺伝子レベルで人間にも平等に備わっている野生の力です。DNAレベルの修復機構の存在がその証です。

 アルコールでイカレた脳でも大丈夫、自然治癒力はきっと回復させてくれると思います。大自然の摂理にお任せし、焦らずにみんなで一緒に自然治癒力を信じましょう。アルコールが脳から抜け切ったと実感するまでの辛抱です。アルコールは遅かれ早かれ必ず抜け去ります。“その時” と言ったのはこのことです。


 またまたエラソウな話になってしまいました。余計なお世話だったでしょうか?
こんなのを “自我の肥大” と呼ぶそうですが、これもドライドランクのせい?


病的衝動については「 “どうにもならない” 生きづらさって?」(2016.7.29投稿)
を是非ご参照ください。


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道徳教育はゴミ拾いの体験学習で

2017-03-28 06:26:09 | 世相
 ポイ捨ての現場でいつも痛感することがあります。ポイ捨てに共通したヒトの習性です。ゴミ拾いをしていると、それらが嫌と言うほど透けて見えてくるのです。ゴミ拾いを体験すれば、道徳教育の大切さが一発で理解できると思います。

 ポイ捨てに共通したヒトの習性とはこんなものです。

 ● 同じ場所で同じことを繰り返す
 ● 他人のやることに釣られやすい
 ● 人の見てないところ(状況)でやる
 ● 疚(やま)しいことは隠す

これらに加え、もしも咎められでもしたら、すぐその場で言い訳を思いつくというのも共通しています。

 上の二つは生活習慣そのもののようです。下の二つは悪事を犯すときの心理と全く同じものに思えます。悪事は人の見てないところで隠れて犯すというのが共通しているからです。これらの習性は広い意味でヒトの動物的防御本能の一部なのかもしれません。

 私たち人間には、咄嗟に人を助けてあげようとする惻隠の情を初め、思い遣り・慎み・慈しみ・労(ねぎら)いなど美しい心が備わっています。その反面、後ろめたいことや疚しいこと、疎(うと)ましいことは、無意識のうちに隠すという醜い心もあります。この醜い心もヒトの動物的本性のようです。私たちの中では、美しい心とこれら醜い厄介者とが同居しています。私には、これらの動物的本性が美しい心の反転した陰画のように思えてなりません。

 私たちの脳は、見たくないものなら無意識のうちに見えないように処理するようです。これも習性の一部で動物的防御本能なのかもしれません。

 写真でなら街中の電柱や電線は目障りに見えるのに、普段、街中を肉眼で見ているときはちっとも気にならないのが良い例です。道に落ちているゴミも同様で、普通に歩いている分には多少のゴミなど全く気にならないものです。無意識下で処理してしまう脳の習性はかくも根が深いのです。

 ところが、ゴミを拾うつもりで意識的に見始めると事態は一変します。ゴミが思いの外あちらこちらに落ちているのを見つけると、つい怒りがこみ上げて来るものですし、目に余る散らかり様なら怒りを超えてつい絶望的な気分に落ち込んでしまいます。

 戦後世代の私から見て、規律を守ろうとする気分が40~50年前の昔に比べ世の中から薄れてきているようです。自由や権利の主張こそが善と囃し立ててきた教育現場やマスコミと、科学技術の進歩を後押しに生活の利便性を追い求めてきた産業界とが時代背景にあります。それらが自分勝手は許されるという思い違いと、面倒なことは御免という風潮を形作ったのだと思います。

 ゴミのポイ捨てなどはそんな世相の現われで、いつの間にか世の習性になった感がします。ポイ捨てには公共心の欠片もなく、幼稚性と言えばまだ聞こえがいいものの、野生本能丸出しの行為にさえ見えます。他を思い遣り、自分勝手な振る舞いを自重するのが公共心です。公共心は慎みある人間の道徳そのもののハズで、民意の程度も現します。

 習性というのは無意識でやってしまう行動習慣です。無意識でやる行動だけに根が深く厄介なものです。悪い行動習慣を矯正しようとするなら、行動が容易く習慣化するという習性を逆に利用するしかないと思います。

 ゴミのポイ捨てをなくすには、ゴミ拾いの体験学習を学校教育で徹底するのが一番と考えています。週1回で十分なので、一つの学期全部の週1コマを野外学習に当てたらどうでしょう。精々二人一組で地域の一区画を分担させ、順繰りに分担地区を代えるローテーションを組むのが良いと思います。一定期間定期的に繰り返し体験することが重要で、公共心を体得できるばかりか道徳の何たるかを理解するまで到達できるかもしれません。

 道徳は口でいくら説いても聞かないでしょうが、この体験学習なら公共心が道徳の核心であることを一発で理解できると思います。繰り返します。民意の程度は公共心に現われるものです。



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再び “生き残る” について

2017-03-24 07:23:00 | 自分史
 「生き残らねば・・・」と意識すると途端にプレッシャーを感じるのは私だけでしょうか。何としてでも “生き残る”、これは生き物に共通して課せられた厳粛な宿命です。恐らく、全ての生き物の遺伝子に組み込まれている共通した本能だと思います。今回は、この言葉に込められている因縁について考えてみます。

 ただ生きられればいいのであれば、最低限の衣・食・住がありさえすれば事足れりのはずです。極端な話、そこそこの水と食べ物があれば済むはずなのです。ところが “生き残る” となると、
「これでは足りない。もっともっと余分に欲しい」と考えてしまうのが世の常です。そこで考えるのが、
「人より優位に立てれば、もっと楽にいけるだろう」なのです。これが人生最大の柵(しがらみ)ということに気付きました。

 人より優位に立てた方が好都合とは思いますが、何をもって優位とするのか、本来その正解はないはずです。人それぞれが求めた解は各人の持つ価値観次第です。その価値観は認知の仕方如何によります。各人の認知がどのような生い立ちで形成されたのかが、ここで問われるのだと思います。

 思春期は多感な時期のはずでした。私は、そんな時期の16歳から19歳までを受験勉強一辺倒で馬車馬のように過ごしていました。だからでしょう、私は学業成績の善し悪しだけで人の優劣を決めつけがちでしたし、社会人になってからもこの性行を引き摺ったままでした。どこの大学のどの学部の出身なのか、入学試験の学力偏差値ランクキングを物差しに人物評価をしていたのです。この物差しは明治以来社会通念として大方の人が備えているもので、私のような青二才は決して珍しくはなかったのです。むしろごくありふれたケースだったろうと思います。

 会社員時代、社歴で5年、年齢で2歳しか違わない先輩社員とそりが合わず、疎ましく思っていました。その原因も突き詰めればこの物差しでした。とんとん拍子で昇進・昇格していく姿に、知らず知らず嫉妬していたのです。「あいつにできたことなら、学歴が上の俺にできないはずがない」これが私の本音でした。独りよがりで高慢ちきさが鼻につく先輩でしたが、何を隠そう私の正体そのものでもありました。当然、人間関係がギクシャクし、周囲にも悪影響が及びました。

 ― 勉強して成績がよければよい大学に入れる
 ― よい大学に入れば偉くなれる
 ― 偉くなれれば楽に暮らせて生き残れる

幼い頃から知らず知らず私に刷り込まれた三段論法の思い込みです。

 学歴など、人としての資質のごく一部分でしかないはずです。学歴だけを後生大事に人物評価をするなどは、明らかに “認知のゆがみ” そのものです。それほどに、「生き残らねば・・・」という宿命の首枷が首根っこにガッチリ嵌められていたのだと思います。

 “生き残る” という宿命が首枷なら、「人より優位に・・・」は軛に当たるでしょうか。飽くなき上昇志向とその裏表の劣等感とが軛となって、私につきまとって離れませんでした。

 なかなか受け容れにくいのですが、自分の得手・不得手いずれの場面でも、自分より上と察するや、その途端劣等感に狂わされ人に嫉妬していたようなのです。私が今でも難儀しているプライドは、この「人より優位に・・・」の虜だったことがその正体の一部と思います。

 首枷にせよ軛にせよ、がんじがらめにされるのは何とも厄介なものです。どうにも抗えない難儀な首枷と軛とは、どうにか折り合いをつけながら、生きている限り向き合っていくしかありません。


“生き残る” ― この言葉に想うこと(隠居の雑感)」(2016.4.1投稿)もご参照ください。


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悪人がのさばることにならないか?

2017-03-21 06:43:31 | 世相
 捜査令状ナシで車にGPS端末装置を装着しての捜査は違法。
3月15日に最高裁で出された判決です。これで事実上、GPSを活用した捜査はできなくなったようです。悪人がのさばることにならないでしょうか?

 これまで捜査側は令状なしでもできる任意捜査と見做していたそうですが、これに見合う法律がない(違法)という判断です。背景にあるのは個人のプライバシー保護の観点であり、憲法35条住居不可侵の規定だそうです。

 後ろめたさのない人にとって、捜査側から恣意的に犯人と見做され、秘密裏に私有物を勝手に使われて犯罪を立件されるというのでは、確かに堪ったものではないでしょう。それでも、私としては割り切れない気持ちです。この世に後ろめたさのない人間なんているわけがないのです。

 ネット情報によると、裁判官に捜査令状を請求する際は、捜査に必要という根拠を示す資料(疎明資料)が必要なのだそうです。証拠不十分だからこそハッキリした証拠を得るための捜査手段なのに、その前段階で根拠を提示できるのでしょうか? これでは本末転倒ではないかと思えてしまうのです。

 たとえ令状が発出されたとしても、その後の捜査がうまくいくかも気がかりです。事前に礼状を提示され、GPS装着を承知(同意)した車を使って、果たして悪事を働く者などいるのでしょうか? そんなバカ正直な犯罪者などいるわけがありません。

 社会の安全は秩序が保たれていることが大前提です。秩序を保ち安全を図るためには、自由はある程度制限されてもやむを得ないと思います。確かに自由は大切です。その反面、自由は人の数だけ多様であり、ある程度の制限がなければ無秩序・放縦に際限なく近づくきらいがあるからです。

 最高裁判決では新しい立法措置を促していました。法律は常に時代を後追いして作られます。今回の判決は法律が時代の流れに追いつけないでいる証なのです。政治の怠慢と非難されても仕方ないのかもしれません。

 犯罪の芽は隠微なところに発生しますし、人の目に触れないところで密かに行われるのが犯罪です。それを抑止できるのなら最先端の科学技術を活用すべきです。立件段階を録画で透明化したように、令状以外に捜査段階の透明化にも何か工夫できるのではと思えてなりません。防犯カメラと同様に犯罪抑止にGPSは有用だと思います。

 最近の風潮は加害者・犯罪者への過剰な人権配慮が過ぎるように思います。守らなければならないのは社会の安全と秩序のはずです。加害者・犯罪者へ人権的配慮は必要最小限であるべきです。

 何かにつけ声高に権利を叫ぶ市民団体はあります。市民と称し、得体の知れない出自の者もいるようです。大抵は社会を混乱に陥れることが目的の少数派です。その一方で、無言の多数派がいるのです。社会の安全と秩序を大切に思う国民の属する、声を出すことのない多数派です。

 自由と人権をある程度制限し、社会の安全と秩序を実現するのが政治と考えています。GPSなど最先端の科学技術を犯罪抑止に活用できるよう道を開く、これこそ国民の多数決で選ばれた政治がなすべきことだと思います。

 最高法規である憲法も、時代遅れで現状に合わなければ改正するのは当たり前ではないでしょうか。国レベルの安全保障も日常生活の安全保障も、どちらも命に関わるものだけに時代の流れに遅れてはなりません。
  世の中に いつでものさばる クズと悪



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“心ここにあらず” のうわの空

2017-03-17 09:06:52 | 病状

 偏った思考回路から自動的に短絡的な反応に導くのが “認知のゆがみ”、これが私流の解釈です。今回は、“認知のゆがみ” が意外なところにも関わっているのではないかと考えるに至った話をします。人の話をうわの空で聞く “心ここにあらず” の心境もその一つではないかという話です。

 人の話を聞いているとき、自分自身を引き合いに聞いているとつい感情的になってしまうことがあります。そうならないための方便が、「嫌な話なら意識的に聞き流せばよい」ではないでしょうか。

「うまく聞き流す」は方便です。無理に自分を抑えなくとも感情を動揺させずに済ますための方策です。

 意識的にするから方便なのですが、無意識の内に聞き流しモードに入っている場合があることに気づきました。“心ここにあらず” のうわの空状態のことです。

 本来なら何を置いても話に集中すべきときなのに、ふっと意識が飛んで「今はこんなことをしている場合ではない。他にやるべき事があったはず」などと、なぜか気持ちがうわの空になるときがあります。気がかりな事が他にあるなら当然のことですが、別に心配事があるわけでもないのに集中できないのです。これが、私が言わんとする “心ここにあらず” の心境です。「無意識の内に」というところが気になって仕方ありません。

 なぜ無意識に拘るのか? 得体の知れない潜在意識下の行動が怖いのです。潜在意識下の行動は生活習慣によるものか本能的なものだからです。

 酒にまつわるブラックアウトも、傍から見れば潜在意識が露呈した状態です。かつては深酒をしてブラックアウトになったことが何遍もあります。記憶がプッツリ途切れているので、その間何をやらかしたのか全く覚えていません。恐らく潜在意識下で自動的に行動していたものと思われます。やらかした不始末の痕跡しか残っていないので、恥ずかしいやら後ろめたいやら何とも後味の悪いものでした。

 断酒を始めて3ヵ月ぐらい経った頃から記憶障害が顕在化しますが、この時期は無意識のままにする自動的な行動が多くなります。視野に映る場面が変わる度、新しい場面に釣られるまま自動的に行動することを私は自動的行動と呼んでいます。

 丁度この頃、専門クリニックで極端な話がありました。処置室で点滴が済めば次は会計というのが普通です。ところが、点滴を終えて出口が視野に入るや否や、出口の方に向かってそのまま帰宅してしまうなどしょっちゅうでした。点滴中、次は会計とずっと念じていたにもかかわらず、視野が変わった途端、直前に決めたことでもすっかり忘れていたのです。まるで認知症の老人そのものでした。

 日頃している行動の7割は習慣的行動と言われています。日常生活において脊髄反射的に無意識で行う習慣的行動のなんと多いことか、私などは9割方が習慣的行動ではないかと考えています。これらの習慣的行動は、ほとんどすべてが潜在意識下でする自動的行動と思えてなりません。

 もちろん、潜在意識下の自動的行動すべてが得体の知れない行動とは思いませんが、中には良からぬ生活習慣や本能によるものもあると思います。再飲酒した人の体験談では、無意識の内にSLIP(再飲酒)していたという話がどんなに多いことか。それだけ飲酒習慣の根は深いのです。人の話を聞きながら “心ここにあらず” のうわの空も、同じように自制の効かない潜在意識下の状態ではないかと恐れています。

 この状態では、行動はすべて短絡的な自動的行動になるはずですが、このことは “認知のゆがみ” から自動的にマイナス感情に走っていたことと同じではないかと考えたのです。よぉーく思い起こしてみれば、内心おもしろくないと感じていたのも両者に共通しています。

 マイナス感情は、察知さえできれば後は無難にやり過ごせます。“心ここにあらず” のうわの空も、それがリアルタイムで意識に上りさえすれば、無闇に怯えなくても済む話なのかもしれません。もしそうなれれば、“聞き流す” から一段高い “受け流す” ことになれるのでしょうか。


 何のことはない、“心ここにあらず” のうわの空は隙アリの状態のことです。心に魔が差すとも言います。危ない目に遭う確率が最も高いことは常識です。普通ならば、単に用心せよで済んでしまう話なのです。それなのに、理屈好きの私としては、役にも立たない屁理屈を捏ねたくなった次第です。脳のリハビリのためとは言え、これは “どうにもならない” 私の習性なのでした。
 


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心模様が映す世相

2017-03-14 07:07:42 | 自分史
 私の40歳代はバブルが弾けた後の‘90年代に重なります。仕事も家庭も、もうムチャクチャで、今思うとアルコール依存症に一直線の生活を送っていました。

 その頃、道を歩いていてどうにも気になっていたことがありました。行き交う通りすがりの人々が妙にみすぼらしく見えたのです。ビンボクサイと言った方がピッタリでしょうか。どこか自信なさげでいじけて見えました。顔に覇気がないは、シャキッとしてないはで、とにかく皆が皆、くたびれた表情だったのです。縮こまって背を丸め、俯きかげんにセカセカ歩く姿が目障りで仕方ありませんでした。

 お辞儀という独特の礼儀作法を文化にもつ国ですから、この国特有の身に染みついた姿勢のせいと言っていた外国人がいましたが、外国暮らしをしたことがない私になぜそんな風に見えたのかわかりません。私自身、慢心するやら落ち込むやらで、精神がズタズタの状態でしたから、やはり私のゆがんだ精神状態が周りに投射されていたのかも知れません。あの時期の私の心象風景だったとしたら、おぞましいと言うべきか・・・。
 
 あれから20年以上経ちました。経済状況も、人々の暮らしぶりも、あの頃とあまり変わっていません。それでも人々の顔にはみすぼらしさが感じられないのです。変わったことと言えば、私が退職して年金生活者になったことと酒を断ったことだけです。

 そう言えば、もう一つ変わったことがありました。当時、奇妙な夢をしょっちゅう見ていたのです。幽体離脱をしては、ピョ~ンピョ~ンと垂直飛びのように空気を蹴って空を飛び回る夢でした。会社の同僚に、「空を飛ぶ夢を見たことがあるか?」と尋ねられたことがあったのでよく覚えています。あれが一体何を意味していたのか今でもわかりません。

 周囲の風景が、自分の心模様がそのまま投射されて見えることってあるんですね。一浪して大学入試に落ちた日もそうでした。早春の日の昼下がり、まだ肌寒い晴れた浜辺で見た光景がなぜか陰画のように見えたのです。ふとそのときの孤立感までもが思い出されました。

 流行や世相というのは、その時代に生きる人々に投影されるばかりでなく、一人々々の心模様が投射された総体なのでしょう。一人々々がお互いを意識し合って醸し出し、社会全体を覆ってしまう、一種独特の気分の集合体と言われているのは当たっています。つい、そんなことを考えてしまいました。



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“骨” のある耳寄りな話?

2017-03-10 08:37:10 | 雑感
 タネを明かせば、2月上旬に放送されたNHKの番組『ためしてガッテン』で知った耳寄りな情報です。“歩き信仰”(?)の信者である私の我田引水的な話でもあります。

 歩きは単に場所を移動するための行為というばかりでなく、体調維持にも何となく(?)プラスとなることは誰しも認めるところです。その体調維持にプラスとなる御利益については、これまで単にカロリー消費という面ばかり強調されていましたが、それ以外にも医学・生理学的裏付けが証されたそうなのです。

 カロリー消費の面からみると、“歩き” と自転車の単位時間当たりのカロリー消費量は自転車の方がやや多いぐらいでほとんど差がありません。単位時間当たりの移動可能距離が、自転車では2倍以上と長いだけです。

 私の体感からすると、カロリー消費量として両者がほぼ同じとはこれまでどうにも納得できずにいました。使う筋肉の主な部位が、“歩き” では膝下の脛・足首、自転車では大腿部という点で異なるものの、受ける刺激の強さは “歩き” と自転車とでは感覚的にハッキリ違うと思っていたのです。もちろん、強いのは “歩き” の方という意味です。

 “歩き” はまず脳を刺激するようです。歩き始めると直ぐに大事な忘れ物に気づいたり、なかなか思い出せなかった言葉がふっと浮かんできたり、やたら頭の回転がよくなったと感じることがしょっちゅうです。

 次いで尾籠な話となりますが、“歩き” は腸をも刺激するらしく、歩行中よく便意を催します。すかさずトイレに入ると快腸(?)そのもので、便秘の時には助かります。これらは自転車ではまずありません。

 恐らく、脳を初め全身の器官が受ける刺激の何かが “歩き” と自転車とでは違うのだろうと思っていました。その疑問と謎を解く鍵が骨、特に踵にあったというのです。

 場所の移動と共に絶え間なく変化する視覚的刺激や、外気の流れによる皮膚への刺激は自転車の方が圧倒的に強いのですが、踵から規則正しく骨に伝わる物理的刺激は “歩き” の独断場で明らかに強いのです。言われてみれば誰でもなるほどと納得できます。
 
 前置きが長くなりました。放送された『ためしてガッテン』の内容を要約すると次のようになります。

 2007年、高血糖のマウスに骨髄(骨芽細胞)分泌物質オステオカルシン(osteocalcin:OCN)を注射してみると、膵臓機能が活性化し血糖値の改善が確認されました。このことからオステオカルシンが骨芽細胞の分泌するホルモンで、糖・エネルギー代謝を調節するという新しいメカニズムが発見されたのです。
 これが発端で骨ホルモンとしてのオステオカルシンの研究は進歩し、今では糖代謝、雄の生殖能、脳の発達など、全身のさまざまな器官での新たな役割や、受容体の候補が発見されています。
臓器別に明らかにされたオステオカルシンの作用を以下に示します。
 
 膵臓 ⇒ 高血糖を改善
   ⇒ 認知機能を改善
 肝臓 ⇒ 肝機能を向上
 心臓 ⇒ 動脈硬化を予防
 小腸 ⇒ 消化・吸収機能を向上
 精巣 ⇒ 生殖能を向上
 腎臓 ⇒ 血液濾過機能を向上

 主要な臓器の中で、肺と胃に対してオステオカルシンがどう作用するかについてはまだ明らかではありません。それでもこれだけ広範な作用があるのです。骨は身体の骨格(体格)を形作るばかりでなく、血糖を初めとして体調維持にも極めて重要な役割を果たしていることがわかります。

 オステオカルシンの分泌には骨を刺激し骨芽細胞を活性化させるのが効果的で、中でも最も効果的な刺激部位は踵だそうです。骨同士は関節を介して連結していますから、踵に受けた刺激は効率よく全身の骨に伝わるというわけです。踵が最も効果的な刺激部位だと見付けた人も私と同じ感覚的な疑問からかもしれません。

 これだけでも糖尿病者を初めメタボの人には耳寄りな話なのですが、もう一つありがたい話がありました。踵を圧迫刺激するとなれば、歩くか走るしかないと普通なら考えます。ところが、それが難しい人には1日30回の踵落としだけでも御利益があるそうなのです。

 立ったままつま先立って伸び上がり、そのままストンと踵を落とす、これが踵落としです。これなら歩行障害のある人にもできそうです。番組では被験者にこれを1日30回1週間続けてもらい、血糖値の低下が報告されていました。(個人的には悪い冗談としか思えませんが・・・)

 踵を刺激するためとは言え、個人的にはランニングはあまりお勧めできません。昔聞いた話ですが、「本来、走るのは危険から逃げるための緊急手段で心臓に掛かる負担が大きすぎる」と循環器専門医から言われたことがあったのです。個人的に走りが苦手というのもありますが、やはり歩きが一番! しかも最低でも1時間。ついつい我田引水の話になってしまいました。

 当然のように、今ではオステオカルシンをサプリメントにして商品化する試みもあるそうです。が、サプリメントとして摂取してもプラセボ効果以上の効果はあまり期待できないと考えています。高分子のコラーゲンなどと同様、そのままの形で腸管から吸収されるとは考えにくいからです。骨粗鬆症の治療薬でも血中オステオカルシン濃度の上昇がみられるそうですが、今のところやはり歩きが一番のようです。 さぁ、外に出て歩きましょう!

 最後に、いつものように余計なお世話ですが、・・・
 ― 不定愁訴で悩んでいる自律神経失調症の人には薬など
   要らない。外で歩くのが一番!
こう言った精神科医の言葉がふと浮かんで来ました。



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マスクが語る世相

2017-03-07 07:12:59 | 世相
 スギ花粉の真っ盛りとなりました。行き交う道ではマスク姿が多く見られます。スギ花粉症が世に騒がれ始めてすでに40年以上経つでしょうか。マスク姿は、今ではこの季節ならではの風物詩の感さえあります。

 最近、私には何とも解せないことが一つあります。ゴミ拾いをしていると、マスクが数多く道に落ちていることです。白いだけに余計に目に付きます。流行カゼの少ない夏の真っ盛りでもそうなのですが、スギ花粉が猛威を振るう春先でも変わりありません。だからこそ解せないのです。

 よほどうまく設計されていない限り、マスクでウイルスの侵入を完璧に阻止するなど不可能なのだそうです。花粉を防ぐためや口から唾を飛ばさないための遮蔽効果か、喉や口内を乾燥から防ぐための保湿効果が目的なら、マスク着用は有用と私にも理解できます。そうであれば着用にはTPOがあるはずで、年がら年中、マスクが道のゴミというのは不思議でなりません。要らなかったから捨てた? カゼでも花粉症でもないのに、なぜマスクなのでしょう。

 しばらく前、TVで対人恐怖症のためマスクが手放せなくなった若い女性のことが報道されていました。マスクで素の顔を隠さなければ人と向き合えないのだそうです。これは人との親しい交わりを怖がる引き籠もりと同じです。

 恐らく無意識の内に、彼女は他人との関わりで上下・優劣観念に殊の外強く囚われているのだろうと思います。平たく言えば上昇志向と劣等感の虜になっているという意味です。タネを明かせば、私がそうだったから、勝手にそう考えただけなのですが・・・。

 50年以上前の昔なら、町中でマスクを着けるなどは少数派で、病人か罪人かと内心警戒されたものでした。やましいことがなければ顔を隠す必要などないはずです。マスクはサングラスと同様、当時は胡散臭い輩の象徴だったのです。

 今では感染症を防ぐためと称し、電車・バスの車内ではマスク着用を指導している学校もあるやに聞いています。今より遙かに衛生状態が悪かった戦後世代の私からすると、どう見てもやり過ぎで正気の沙汰ではありません。呆れるやら滑稽やらで、つい潔癖症に近い強迫神経症の類ではないかと心配してしまいます。やはり現代人は少し気が振れているのではないでしょうか。

 口元は目元と同じくらい人柄が現われます。マスクを着けるのは素の自分を晒すのが怖いからなのでしょう。「そんなヤワな心でこの先どうするの?」と心配なのです。

 人との素の付き合いでは、腹も立ち、傷つくこともあります。逆に、心の痛みがわかって貰えるのも、親身な励ましが骨身に染みるのも、肌で息づかいを感じる(?)ぐらいの素の付き合いがあってこそなのです。どんなに頻繁なメール交換でも素の付き合いの醍醐味は味わえないハズです。マスクは素の付き合いに水を差す帷でしかありません。

 それら素の付き合いの思い出が生きる上でどんなに糧となることか、道に落ちているマスクを見る度になげかわしく思うばかりです。自分が傷つくことを恐れてばかりいては何も儘ならないのです。これが66年間生きてきた男の偽らざる感慨です。なに、こんなエラソウに言えるのも隠居した身だからこそなのですが・・・。



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聞き役に徹する訓練も立派なリハビリ

2017-03-03 06:44:47 | 自助会
 前々回の記事では、“自分に正直になる” という切り口から “言語化” がいかに回復(=“認知のゆがみ” の矯正)へのリハビリとして有用かを述べました。今回は、自助会のミーティングを切り口に、聞き役に徹する訓練も回復へのリハビリとしていかに有用かを述べてみます。

 想起障害は老化現象に伴う記憶障害としてよく知られています。「アレがアレして、アーなって」と揶揄されるアレです。言葉にしたいのに肝腎の言葉がなかなか思い出せないことが頻繁に起き、思いが言葉にならない辛さ、もどかしさは「度忘れ」などと笑って済ませられるものではありません。断酒継続中のアルコール依存症者は、程度の差はあれ、想起障害を主とした記憶障害を共通して引き摺っています。

 記憶障害の代表格である認知症の人は、遠い過去の記憶が思いの外鮮明に残っており、逆に近い過去の記憶の方がむしろおぼろげだと聞いたことがあります。遠い過去のことは記憶のネットワークの中でしっかり固定されていて、その一方で、近い過去のことはまだ固定されずにいるという意味に思えてなりません。

 上の傾向は私にとっても当てはまることばかりです。話すにせよ書くにせよ遠い過去の思い出を語るときは、度々言葉に詰まったり話が飛んだりはするものの、一旦始めさえすれば意外にスラスラ進むものです。もし、その話が意図と違ったと気づいたら、すぐにその間違いを正せます。逆に、つい最近のことを語るとなると、思いの外考えがまとまらず、表現や言葉の間違いにも気づけないことが多いのです。老化のせいか急性離脱後症候群(PAWS:記憶障害を伴う)のせいか私にはわかりませんが、これは大なり小なり断酒継続中のアルコール依存症者に共通した悩みだろうと考えています。

 こんな記憶障害に加え、アルコール依存症者は根深い “認知のゆがみ” という問題も抱えています。そのどちらも記憶のネットワークがうまく機能していないことが原因ではないかと私は睨んでいます。

 ところで、聞き上手の人はたまに相槌を打つぐらいで聞き役に徹します。大概、一通り話を聞いた後で核心を突く質問や勘所を押さえた客観的な意見をしてくれるものです。土台、聞き上手の人は頭の出来が違うのだろうと、ずっと考えていました。聞き下手の私は、自分自身を引き合いについ話に巻き込まれてしまい、当事者になった気で余計な質問や意見をしては話の腰を折ったものでした。ところが今は、聞き役に徹することこそが肝腎で、終始第三者の立場で話を聞けるようになれれば立派な聞き上手になれるのでは、と思えるようになりました。

 自助会のミーティングには二つの好条件が揃っています。一つは言いっ放し・聞きっ放しの舞台環境が完備していること。二つ目は全員が共通してアルコール依存症者ということです。

 言いっ放し・聞きっ放しのルールで行われる自助会のミーティングでは、現場にいながら話し手に何の負い目も感じずに話が聞け、話を聞いた後で感想や意見を述べなくて済みます。聞きたくなければ聞き流せばいいだけですし、話し手として指名されても「今日は仲間の聞き役でいます」と断ればいいのです。

 生々しい刺激的な話を聞くのにこんな気楽な環境はありません。あたかもラジオを聞くように、第三者の立場で聞き役に徹し切れるところがミソなのです。とは言っても、聞き手の多くはいつ指名されても話せるよう、その準備に半ば気もそぞろで、その分だけ半ば聞き流し状態となっているのが普通です。聞き流していたとしても、琴線に触れた言葉は不思議と記憶に残っているものです。(いずれにしても、聞き上手になるまでにはある程度の年季が要るようです。)
 
 自助会に共通したこのルールに加え、一般的にアルコール依存症者の酒害体験は次のことが共通しています。


 ● 経験した事柄(症状)は個人を超えて意外に共通項が多い
 ● 大抵は遠い過去の思い出なので話し手が気楽に話せる
 ● 聞き手も類似の酒害を経験しているので言外の察しが効く


 これらの共通項が揃っているからこそ聞き手は、経験した者同士にしかわからない引け目や後ろめたさなど、微妙な心理が共有できるのです。自分に似通った体験を聞くことで、埋もれた記憶が刺激され、過去の思い出が鮮やかに蘇るという経験も聞き手全員に共通します。ミーティングからの帰り道、名状しがたいカタルシスに浸れるのはこのお陰だと思います。このことは明らかに記憶機能のリハビリに当たります。

 以上から二つの結論が導き出せます。


 ○ 記憶のネットワークのリハビリには、自助会で聞き役に徹し切る
   訓練が一つの有用な手段であること
 ○ 第三者として聞き役に徹し切れれば聞き上手になれ、同時にもの
   事を客観的に考えられるようにもなれるハズ


 これが帰納法的(?)に導かれた今回の結論です。自助会で酒害体験を聞くことは、よく言われる断酒継続中の “空白の時間” 対策として気軽にできるばかりでなく、記憶のネットワーク回復へのリハビリとしても打って付けだと考えた所以です。

 このことをさらに広げて考えてみます。ありのままに物事を見るには、自分から離れて見ることが肝腎で、全体を客体として第三者の立場から眺めることが欠かせません。この場合の客体とは、もちろん自分自身をも含めての話です。聞き役に徹することで第三者の目を保つことができれば、前々回述べた校正者の目で「自分に正直になる」ことにも通じます。それがひいては回復への王道へ導いてくれるとも思えるのです。

 要は、自分への囚われ(自己執着)から抜け出すことが “認知のゆがみ” の矯正への第一歩。これが帰納法的(?)思考から導き出したもう一つの結論です。この拡大解釈は乱暴すぎるでしょうか?



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