ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その8)物の怪(“妄想”)が性欲を煽る?

2014-11-29 06:54:54 | 自分史
 新剤型薬LAの時からずっと私に付いて来ていたK子嬢が寿退職すると告げに来たのは私が39歳の秋だったと思います。

 数々の深夜残業を強いられたK子嬢にしてみれば私は憎たらしい上司だったでしょう。K子嬢は辛い残業にもよく耐えてくれました。私からしたらIk君に続き内勤業務を熟知していた熟練のK子嬢の退職はIk君以上の痛手でした。

 K子嬢が退職する前に仕事を引継いでもらおうと、早めに入社して来たのがN子嬢でした。英国にいる姉を頼って語学留学の経験があり、会社勤めは初めてでした。私が専任PMとなった年にはチーム・スタッフの入れ替えが続きました。

 一目惚れとは、初めて眼にした女性に一瞬オーラが見え、輝かしい聖なる美として固く自分の心に刻まれることでしょうか。澱みのない眼差しと生命力漲る明るさを一瞬眼にした時、私にはオーラが見えたと感じたことがありました。かつて会社でCMのオーディションがあった時、集まってきた応募者の若い女性たちには一瞬オーラが見えました。会場が華やいだ空気で異様に満たされていたことを覚えています。


 初対面のN子嬢を前にして一瞬オーラが見え、固く自分の心に刻まれてしまいました。まるで脳が金縛りにあって、視野が一点に固まり、自由を奪われた心の状態でした。

 一目惚れだったのですが、当時は分かりませんでした。それからというもの、N子嬢の姿を見るたびに心がザワついて、委縮したような感覚に襲われるようになってしまいました。この正体が何なのか、胸の内を手探りしてみてもシッカリした手応えがなかったのです。

 当時は、まるで物の怪(“妄想”)に取り憑かれたという表現がピッタリの、病的状態に嵌ってしまったのかと途方に暮れました。スタッフ不足も加わって神経の緊張が続き、相変わらずの習慣的飲酒のために、精神が相当病んでいるのでは(?)と気になってはいました。進行中のアルコール依存症の影響だったのでしょうか? 心の奥では何かに救いを求めていたのは確かです。その何かがN子嬢のオーラを見えさせたのだ、と今は考えています。

 間もなく心の異変が恋心かな(?)と思い付きはしたのですが、社内恋愛などもっての外で、断じて罷りならんと決めました。集中力が命の仕事に支障を来しそうでした。纏わりつく厄介な感情は、きっと性欲が変形したものにちがいないと見做しました。

 もちろん、N子嬢に健全な(?)性欲も感じてはいました。N子嬢はお尻の線がきれいでしたから・・・。素面になった今では、むしろ “妄想” が「恋する心」に変装し、煽情したものだという考えに落ち着きましたが・・・。病的な刷り込みから湧く感情は、長く長く続く厄介なものです。

 鬱々した心理状況がN子嬢の入社から半年ほど続く中、40歳の初夏になると、狭心症においても最終段階の比較検証試験を開始する時期を迎えました。その一方で、高血圧症ではすでに比較検証試験が進行中でした。

 多忙で危機的状況が続き、厄介な “妄想” を抑えておくのもそろそろ限界に近づいていました。公園の暗がりで “のぞき” をやってみたい、暗い夜道を一人歩く女性の跡を付けてみたい、こんな衝動に襲われたことが何度もあります。

 他のプロジェクトのPMと部下の女性社員の訝しげな場面を夜の街で偶然目撃したこともありました。精神がズタズタになっているのは自分だけではなさそうだと妙に納得したものです。

 そこで、機会を見つけ厄介な “妄想” を風俗で処理しようと心に決めました。知らぬ間に妻との間に隙間風が吹いていたのでしょうか、妻を空気のような存在としか感じていませんでした。

 今はデリヘルと呼ばれていますが、当時もホテトルという風俗が盛んでした。都会の盛り場近くではどこでも、公衆電話付近や歩道のガードレール、建物の出入り口の柱という柱、壁という壁など至る所にベタベタと名刺大の派手な勧誘カードが貼り付けられていました。その気になりさえすれば、電話で女性をホテルに呼ぶことは造作もないことでした。

 やって来る風俗嬢は皆ごく普通の身なりで、素人がアルバイトでやっていると一見して分かる人達でした。美人局(つつもたせ)という怪しからん輩にさえ用心すれば、見知らぬ他人が相手なので後々面倒なことに巻き込まれることはお互いにありません。

 狭心症で最終の比較検証試験を立ち上げる直前の時期でしたが、先行治験の開鍵後に2例分のデータが回収漏れしていたことが判明しました。

 このような事故に対して採るべき対応策は簡単明瞭です。データ回収を怠ったことを担当医師に謝罪する → 担当医師に事故によりデータが開鍵後の回収であった旨を追記してもらう → この事実を代表世話人と盲検化の管理者(コントローラーと言います)に報告し、集計・解析から除外扱いする了解を得る → 事実を記録に残し承認申請時に当局に報告する。この手順で対応完了となります。

 こういう事故は日頃疎遠にしている医師の所で起こるのが常です。このような謝罪に向かうのは気の重い厄介な仕事でした。

 日帰り出張でその事故対応に向かったのですが、その日は気分の重さが加勢して “妄想” が酷くなっていました。医師との面談まで相当な時間があり、この心理状態のままでは仕事にならないと思ったので、昼間なのに意を決して風俗嬢を呼びました。

 この時相手をしてくれた風俗嬢の本気とも思える反応に面白さを覚え、これが契機となって風俗への抵抗がなくなってしまいました。beginner’s luckです。典型的な依存の始まりパターンです。事故処理の仕事は1回だけの訪問で片付くものではありません。1週間後の訪問時にも同じ時間帯に同じ風俗嬢と再びお相手出来ました。

 風俗での性欲処理を次のように譬えた人がいました。

「空を飛びたいと言ったら、飛行機に乗せられた」、譬として座布団10枚の絶妙さです。

 コトが済んだ後でも、まだすっきりりせずにモヤモヤした気持ちが残り、後めたさも引き摺るものです。もう一つ満足できてないけれども、何よりも後にツケを残さないのが良い所です。この考えは今でも変わりません。宿泊を伴う出張の時には、ほぼ毎回電話をするようになりました。

 こんな異常な精神・心理状態のときに、このブログシリーズのブラックアウトで述べた事件 ―― 出張でチーム全員が宿泊したホテルで、深夜N子嬢の部屋に不審な電話があったという事件が起きたのです。

 このように書くとsex依存症かと訝られるかもしれませんが、実の話宿泊を伴う出張はほとんど無く、日帰り出張ではめったに時間を捻出できるものではありません。それと何よりも経済的不自由が厳然として立ち塞がりました。半年に一度支給されるボーナスの1ヵ月分が私の自由にできる小遣いでした。ここでも「無い袖は振れない」という厳粛な原則は健全でした。

 まだ遮二無二欲しいという心理状態ではなかったので病気の域に入ってはいなかったと思いますが、依存した状態ではありました。ただ、自由が儘ならず、幽閉されたに等しい鬱々した心に、せめてもの小さな風穴(?)を開けてみたかったのだと思います。

 Sex依存は心が危機に見舞われる度ごとに相当長い期間、断続的に続きました。

 思うに、自身に危機が迫っているような場合、子孫を残そうとする本能が覚醒するのか、男の場合殊のほか性欲が高まるようです。とにかく神経を使う仕事で、やたらと忙しさが続いたことから、私の場合も常に危機にどっぷり浸かっていたようなものでしょう。身体は正直ですから・・・。

 男にとって性欲は溜まって来ると手が付けられないほど厄介になってしまいます。風俗は、少なくとも火の着いた厄介な性欲を解消し、“妄想” も軽減してくれる重宝なものでした。

 もう一つ気付いた重要なことがあります。性欲の裏にいつも潜んでいる “妄想” の正体についてです。

 妄想とは「現実とは合わない歪曲された考えを現実として固く信じている場合のことで、論理的な説明や証拠があるにもかかわらず、歪曲された考えが是正されず、確実に持続していくこと」、これが定義だそうです。モヤモヤした変な考えが取り憑いているという病識はありましたし、その変な考えを現実だと信じ込んでいたわけでもありません。妄想とは違うと考えたので “妄想” と記述したわけです。

 私の場合は、欠乏感や喪失感から来る渇望で、もどかしさや焦りがあるときに “妄想” が湧いて来るようです。平穏な落ち着きを乱された心が、性的な刺激を受けて手当たり次第に性欲に火を着ける、それが “妄想” でしょうか。平穏な “秩序を乱された精神” が戦(おのの)き、狼狽(うろた)え、その混乱のままに動こうとしている状態と言い換えてもよいと思います。向かう先が何処か分からないままに、とにかく走り出した、その誘因がモヤモヤした “妄想” です。

 “妄想” を膨張・暴走(増幅)させる煽動者は、どうもアルコールのような気がしてなりません。アルコールは理性を司る大脳皮質の活動を低下させるといいますから、“妄想” を増幅させるのだろうと考えています。

  “妄想” は断酒後も相当長く続きます。

 危機に遭遇したとき、私は心のshelterを決まって女性に求めて来たようです。大学入試に失敗した時の予備校寄宿舎の女子従業員との件、ここで述べたN子嬢への一目惚れに纏わるsex依存の件、それが一因でもあった妻と別居に至った件、定年退職後に陥ったネットの出会い系やAV動画へ依存した件、これらの実体験から帰納した結論です。

 継続断酒を始めて1年経った今、たとえしつこい “妄想” であっても、アルコールを断って心が落ち着いた状態の “平常心” を取り戻せば必ず解消できるものと断言できます。継続断酒1年の今、しつこい “妄想” からやっと解放されています。
         *   *   *   *   *
 ここで述べてきたことは、39歳時の初冬から40歳時の初夏の半年間にあった心の迷路についてです。

 風俗通いを始めたのとほぼ同時期に、私生活では郷里から父親を連れ帰って短期間ながら同居する羽目になったこと、ほどなくして会社に重大事件が発生したこと、追いかけるように高血圧症の比較検証試験のまとめ作業が始まったこと、その一方では狭心症の比較検証試験が進行中、という更に凄まじい日々が待ち受けていました。最後に控える真打ちは妻の反乱でした。

 後日談ですが、N子嬢は私のプロジェクトの一員になってから2年後に、チーム内のメンバーと結婚しました。多分、私をずぅっと不気味に感じていたのでしょう。影の仲人は私だと揶揄する者もいました。


 アルコール依存症へ辿った道筋(その9)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その7)嫉妬は酒の肴のツマのような・・・?

2014-11-22 06:08:52 | 自分史
 業務が進行し時間が経過するにつれ、横槍が入るわ、想定外の事件で逆風が吹くわ、火の粉が降り懸るわで、「好事魔多し」成功の後ほど“魔”が忍び寄るのは世の常だと初めて実感しました。

 臨床開発業務の現場の具体的作業内容を紹介しましたが、正直大変な仕事です。当時、OA化の革命が進行中で内勤作業がワープロからパソコンへ時代が変わりつつありました。OA機器は進歩したものの、経験に裏打ちされた人の能力が重要であることに変わりありません。

 経験が問われるのは回収したデータのまとめ作業の時です。治験実施計画書から逸脱する問題症例がどのような場合に発生し易いのか、逸脱し易い医師はどのような癖の持ち主かまでも察知できるようになるには、まとめ作業の経験がモノを言います。これは回収した患者データを一例々々じっくり点検することでしか得られません。経験を積むことで、治験実施計画書を医師に説明する際も要点を絞り込み、要領よく伝えられるようにもなります。

「Ik君は優秀そうだから、別のプロジェクトで使いたい。」

 私が社長賞を受賞した39歳の初夏のある日、新化合物Aの承認取得に目途が付き、益々自信過剰になっていた上司のN先輩からこう切り出されました。研究所での会議後、市内のスナックに向かう道すがらのことです。Ik君が新Ca拮抗薬Pのチームに配属になってから2年ほど経った時でした。

「Ik君はまだ経験不足ですよ。もう少し“まとめ”の経験を積ませるべきです。」
「代わりは補充するから・・・いいな。」

 これだけでIk君は別プロジェクトに移ることが決まってしまいました。

 私が新Ca拮抗薬Pの兼任となったとき、Ik君が作った小規模な治験の症例検討会資料を見たことがありました。症例検討会というのは問題のある症例のデータ採否を決める研究会のことです。一瞥しただけで経験不足が見てとれました。資料を検討して“いただく”視点でまとめていないのです。

 共通する問題点を類別した上で、該当する個々の症例の問題箇所を類別した問題ごとに抽出して一覧にするのではなく、問題症例そのものをただ雑然と一覧にしていました。大規模なデータが相手では、一目瞭然で簡潔な資料の要請にはとても太刀打ちできないだろうと思いました。

 Ik君は営業部門出身者だけあって医師の興味を察知し、医師が興味を示す領域での規模が小さいチマチマした治験話を提案するのを得意としていました。仕事を広め、増やすことは得意でしたが、臨床開発にとって肝心なまとめ作業は不得手でした。それでも、まとめ作業さえ指導すればもう一息で一人前になる所まで来ており、そのようなスタッフを失うことは痛手でした。

 人事考課上は、仕事を広め、増やすことこそが前向きな(積極的)姿勢の表れと、高い評価を下されるのが全社的に共通した認識でした。まさに営業的発想の人事考課です。別プロジェクトでIk君の癖が発揮され、Ik君の再異動後に残ったスタッフがまとめ作業で四苦八苦したのは遥か後になってからのことです。

 酒が入ったら、くどくど理屈を捏ね出すのが私の常です。Ik君の件で腹が収まらず、N先輩に直接不満をぶつけては角が立つので、勢い専務のK氏批判をしてしまいました。

 そもそもの原因は、臨床開発担当の若手の数が少ないことです。新規の薬理作用を持つ新化合物の新規プロジェクトを立ち上げようとしても、肝心の経験を積んだスタッフ候補が払底していました。どのプロジェクトにも余裕が無いのです。

 経験者を臨床開発部門内で調達する方が、手っ取り早い策であることは理解できます。 が、「無い袖は振れない」のです。根本原因は、たとえ余剰人員の懸念はあっても、地道な教育でスタッフを養成しようという発想がなかったのか、あるいは育成しようとする発想はあっても提案できない社内の空気だったのか、このいずれかです。いずれにせよ、“少数精鋭”の虚名の下で人員の拡充を怠った責任は臨床開発部門トップ、専務のK氏にある
―― こんな正論で、K氏批判をしました。

 製薬企業に世界標準の臨床開発体制を迫る法律の改正(GCP:医薬品の臨床試験の実施に関する基準)の動きが始まっていることは、私自身当時まだ知りませんでした。世界標準の臨床開発体制では、少なくとも倍以上の人員が必要となります。

 臨床開発業務では、患者一例々々のデータを点検しデータ全体の質が評価に耐えられるのか判断することと、治験薬の特色を際立たすためのデータの切り口を見出すことが重要です。この点で学会や医療界の趨勢を採り込むことはデータの切り口を見出すのに有用なのです。これらで培われた知見が治験の立案にも反映されることになります。

 営業部門では出来合いの治験データの完成版を顧客=医師のニーズに応え要領よく説明することが主眼であって、臨床開発では個々のデータからまとまった成績の形に造り上げるのが主眼で、両者は決定的に違います。使う人と造る人の違いです。個々のデータを読み込むことによって、データ全体の姿を把握するだけでも相当な経験を要します。一朝一夕に出来るものではありません。

 後から振り返ってみて、臨床開発部門の人員拡充する際の最善策は次のようなものでしょうか。

 即戦力が必要なら、3~5年程度の臨床開発の経験がある転職希望者を募るのが最適で、多人数が一度に入社して来てもあまり問題はありません。新しい会社について、必須の知識の習得に要するのが半月、社風を理解するにも通常業務をさせながら3ヵ月もあれば十分です。

 未経験者の場合は、医師相手の営業経験者であっても、3年以上経験させないと本当の戦力にはなりません。実践に即した教育ですから、最低半年間は1対1の教育担当係が絶対に必要です。未経験者に対し、治験実施計画書を読ませた後で患者データを見せても、最初はチンプンカンプンでしょう。実践そのもので鍛える徹底した現場教育(OJT)によって、1年ぐらいでモノになれれば儲けものです。

 N先輩配下のプロジェクトで新人を教育できるのは、経験と実績からしても私しかいなかったのも事実です。「しょうがない」私はこのように収めようとはしていました。が、私たちの窮状を間近で見ているはずのN先輩の、有無を言わせない言い方がひどく気に障ったのです。一人で酒を飲むとき、しばらくは何度も憤懣が湧いてきました。

「くそっ、オカシイィ!社長に可愛がられ偉くなったヒトは違う。・・・」嫉妬は典型的なマイナス感情です。仕事で長時間にわたって神経の緊張を強いられ、習慣的飲酒で心の歪みが相当進んでいたのでしょう。相手にされることのない刺身のツマならば思うような、遣り場のない気持ちでした。憤懣の矛先を、本来ならばどこに向ければいいのか・・・?全決定権は社長にありました。

 会社でも仲の良かった2歳年上のPM仲間と二人で飲むときには、決まってN先輩の傲慢な行状を酒の肴にしたものです。
「Nさん(先輩のこと)、最近オカシいんじゃないか?特に近頃、益々ヒドクなっていないか、歩く傲慢だよな!?」
この人とは一緒に米国出張したり、日航機の御巣鷹山墜落事故のとき一緒に新幹線で帰阪したりした仲で、彼の承認申請作業を手伝ったこともある気の置けない仲間でした。彼の前では、酒を飲んではよく愚痴をこぼしていました。堪え性が無くなっていたので、怒りの矛先が筋違いのN先輩に向かっていたのでしょうね。

 交代要員として来たのは、入社4年目の営業成績が優秀な、八方美人の若手、M君でした。これでは交代要員ではなく、事実上の戦力ダウンです。医師との付き合い方は心得ていても、臨床開発についてはズブの素人です。臨床開発業務を一から教えることになり、教育にそれなりの時間を割かなければなりません。内勤の女性社員1人を除き、私も含めて全員で4人の戦力から1.5人分の戦力を削がれたと同じでした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その8)につづく


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アルコール依存症へ辿った道筋(その6)時代は国際標準を要請していたのに・・・?

2014-11-15 17:45:30 | 自分史
 私が新カルシウム(Ca)拮抗薬PのPMを兼任するようになったのは38歳になる年の1月からでした。専任となったのは1年1ヵ月後の39歳の時からです。

 Ca拮抗薬としての新しい特徴は、新剤型薬LAと同じ1日1回だけの服用で十分という点だけで、対象領域も新剤型薬LAと同じ高血圧症、狭心症という循環器領域です。1日1回服用のCa拮抗薬としては、PMを引き継いだ時点ですでに5成分が販売されていました。

 開発中のものもゾロゾロ続いていました。化学構造的には本格的新薬ではあるものの、このように類似薬がすでに出回っている新薬を製薬業界ではゾロ新と呼んでいます。ちなみに、後発薬(ジェネリック)のことはゾロ(me too drug)と呼んでいます。新Ca拮抗薬Pもいかに早く承認・発売に持ち込めるかが最重要課題でした。

 新Ca拮抗薬Pの目標とする適応症は高血圧症と狭心症でしたが、兼任の時は高血圧症だけを担当し、専任となってから狭心症も担当しました。その当時、新Ca拮抗薬Pの治験で一体いくつの治験数が立ち上げられたのか、から話を始めます。ちょっと長くなりますが、超が付く多忙さをご想像ください。

 治験は治験実施計画書(プロトコールとも言います)という文書に基づいて実施されます。治験実施計画書は治験を実施する上で守らなければならない事項(治験の目的、対象患者の選択・除外基準、試験のデザイン・方法、併用禁止薬、検査・処置の実施時期と手順・方法、評価方法と評価基準、中止基準など)を取り決めた文書で、治験の憲法兼手順書のようなものです。治験の数とは、すなわち治験実施計画書の数(本数)のことです。

 38歳の時はちょうど臨床開発の後半段階に入る時期でしたので、10本と多数の治験が立ち上がり、その後39~41歳時にそれぞれ5本、4本、2本と開始本数は減っていきました。治験の本数が多いのは高血圧症と狭心症という評価方法が確立された適応症だったためで、他の適応症を狙った化合物なら2~3成分に匹敵する数の治験数でした。これらの治験は、先行する治験成績に基づいて治験実施計画書が作成され、その治験実施計画書どおりに実行されることになります。

 承認申請時に根幹データとなる特に重要な治験はすべて、目標患者数(症例数)、病院数ともに大規模なもので、38~40歳時にそれぞれ10本中7本、5本中3本、4本中2本が立ち上がり、41歳時になってやっと開始すべき重要な治験がなくなりました。大規模な根幹データとなる治験の参加病院はほぼ固定的(50~70病院/治験)で、開発段階が進んでも新規参加病院は少ないのが普通です。

 治験は開始されるとそれぞれで患者の参加が進み、やがてデータのまとめの時期を迎えることになります。臨床開発の最終段階では、必然的に治験成績のまとめ作業だけとなる場合もあり、40~42歳時にそれぞれ3本、9本、5本の治験がデータ回収と成績のまとめだけの作業になりました。

 治験実施計画書を立案するに際し、先行する治験成績のまとめ作業が必ずセットで伴います。治験成績のデータのまとめ作業に許される時間は、290例ぐらいの患者数でも実質3ヵ月に満たないということもザラに有りました。

 治験実施計画書は、原案を我々製薬会社の臨床開発担当PMが作成します。先行する治験成績と原案とをセットで代表世話人と主要な医師の幹事役からなる中央委員会に諮り、内容の検討と文案の推敲を経て最終案となります。最終案はさらに治験参加医師全員の承認を得て完成版となります。

 特に代表世話人と主要な医師の幹事役で構成される中央委員会は要の研究会で、全く気が抜けないものでした。中央委員会のメンバーは高血圧症で10名、狭心症で9名でした。全国的に見ても医学会の重鎮であり、地域的にも地方の医学会や医療界への影響力大の方々です。

 このような医師の方々の信頼を得るためには、研究会資料(特に、先行する治験の問題症例検討資料)は正確かつ要点が分かり易く、検討に要する時間は概ね2時間以内となるように作成することが必須条件です。正確であって一々読まなくても一見して分かる資料を目標に、いかに工夫をこらして作成したかがお分かりいただけると思います。

 原案や最終案の検討時には、参加医師の方々に化合物名を冠した研究会に出席してもらうのですが、研究会の日程は会場の予約状況と多忙な医師の都合を考慮して概ね2~3ヵ月以前に決定します。

 研究会では1回の会合で3~4本の治験実施計画書が議題となることもあるので、必ずしも治験の数だけの研究会が開催されるわけではありません。それでも、38歳から42歳までの期間に、規模の大小はありますが、およそ1~2ヵ月に1回の頻度で研究会を開催していました。

 私の臨床開発チームのスタッフ数は、私を除いて39歳時3名、40歳時から5名、それに内勤の女性社員1名の体制でした。チームのメンバーは、根幹データとなる治験については共同担当として地域を分担し、他の治験1~2本を一人で主担当とすることを原則としていました。これでスタッフ数と治験数とを概ね合わせました。

 この人員で治験実施計画書の立案、治験毎の進行状況把握、安全性に問題が発生した時の対応、データの回収から入力と解析、データの問題点の炙り出しと検討会用資料作成、解析結果をまとめた成績資料作成、さらに主要医師へ出張面談、研究会日程の調整、研究会案内状の発送、研究会開催次第の詰めなど業務は多岐にわたります。

 最も時間を要するデータの回収から入力までの作業を以下に示します。

 ○症例毎のデータ回収(大部分、各支店の協力スタッフが担当;最も時間を
  要す)
 ○回収したデータ点検(未記入、治験実施計画書からの逸脱、矛盾した記述→
  問題症例)
 ○問題症例について担当医師へデータ確認・修正依頼
 ○PCデータ入力(2人が独立して入力し、両者が合致して完了→データ固定)


 これらの作業は平行移動で行われますが、患者数が100例以上だと最短でも2ヵ月は掛ります。さらに、患者データの問題点の炙り出し作業は、治験実施計画書から逸脱した症例の問題点を分類し、類別した問題点ごとに該当する症例を個々に抽出するもので、パソコンがあまり普及してない時代ですから最も集中力を要しました。それでも症例の大部分が回収されてから、一括してこの作業に当てられる時間はせいぜい1~2週間ぐらいでしょうか。これでほぼ3ヵ月が経過します。研究会開催日の期限が決まっていますから猶予は一切なしです。

 臨床開発部門トップ、専務のK氏の方針で “少数精鋭” という美名の下、私たちは残業も厭わずギリギリの所で仕事を凌いでいました。まさにフル稼働状態です。PMの私は代表世話人と幹事役の主要な医師全員を全面的に担当し、全試験に責任を負い、当然口も出しました。

 臨床開発部門トップ、専務のK氏はかつて自社開発治療薬2号品MのPMだった人です。「スタッフ人員を増員して失敗でもしたら人員整理の対象になってしまう」が密かな口癖で、業界情報や臨床開発現場への関心が薄く、大胆に改革しようという気概など全くない人物でした。そのスジの人のようなコワモテの外見とは裏腹に、自分が現場で働いていた時代の成功体験を引き摺り、保身だけを気にして社長の顔色ばかり見ている小心者でした。直接の上司であるN先輩もその点で全く同類でした。

 社長も10数年足らずで自社開発品を5成分も承認取得できた実績から、臨床開発体制を改革する必要性を感じていなかったと思います。社長の関心事は専ら米国でした。日米同時開発≒国際臨床開発を謳っていたにしては国内への危機感に乏しく足元がお粗末でした。

 上司の無理解のために、38歳の時から承認申請作業が収まる43歳の春までの5年間余、私は手に余るほどの仕事量を、“少数精鋭” の不条理な環境で凌ぐ日々が続きました。

 国内の製薬企業に世界標準の臨床開発体制を迫る法律の改正(GCP:医薬品の臨床試験の実施に関する基準)の動きが始まっていました。時代は製薬業界に大胆な改革を要請していたのです。GCP体制下の現在では、たとえ掛持ちのメンバーがいたとしても、規模に関わらず一つの治験で当時の倍の7名程度の人員が最低限必要となります。

 会社が法改正(GCP:’97年3月、46歳時)への備えに着手し始めたのは、法施行の半年前からだったように思います。39歳の時に国際標準を簡略化した日本版GCP(旧GCPと呼んでいます)の行政通知が出されたのですが、これに対しても本気で会社が取組み出したのは41歳の時と遅かったのです。

 このような過酷な状況下でも、酒なしの日々を過ごすことができるでしょうか?酒害をはっきりと知った今なら、あるいは耐えられるかもしれません。素面になった今から考えてみても、肝毒性と離脱症状の他にアルコールがどのような毒性を持っているのか知らなかった当時、酒なしで重圧の懸かるストレスに耐えることは到底不可能だったと思います。

 仕事で長時間にわたって神経の緊張を強いられたことに加え、習慣的飲酒も加勢して寝起きに身体、特に背中の鈍い重苦しさと怠さが続き、直ぐには起き上がれませんでした。内勤の日にはほぼ遅刻していたと思います。39歳になる年の1月から昇格して出勤簿が免除されていました。これは幸運でした。

 人間ドックでは血圧と血糖値が怪しく上がり続けていましたし、ストレスと酒で体重も増えていました。意外なことに肝機能検査値は基準値(正常範囲)の上限付近で問題なしでした。自覚していませんでしたが、気持ちに余裕がなくなり微妙に(?)か、相当に(?)か、心・精神も歪み始めていたと思います。渦中の者には自分の精神状態などまったく分からないものです。


アルコール依存症へ辿った道筋(その7)につづく


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アルコール依存症へ辿った道筋(その5)成功は悪魔の囁き?

2014-11-02 05:56:07 | 自分史
 39歳の時、担当した新剤型薬LAの発売にどうにか漕ぎ着けることができ、ノルマを達成できました。この1年ほど前から実質的に仕事の山を越えることが出来、一時期気持ちにほんの少し余裕が生まれた時もありました。

 チェーンスモーカーだった社長が禁煙したので、2年前の37歳の正月から私も禁煙に取り組んでどうにか成功していました。ほぼ同時期に新カルシウム拮抗薬PのPMも兼務することになりました。

 新カルシウム拮抗薬PのPM兼務になって間もなく、新剤型薬LAの承認審査の一環として当局の生データ調査も差し迫り、再び猛烈に忙しくなり出しました。イライラに耐えられず、タバコをつい復活させてしまいました。最初は貰いタバコ、次はトイレ内で隠れタバコ、後は開き直りです。せっかく禁煙を始めたのに丸2年も続きませんでした。再び吸い始めたところ以前より本数が増えてしまいましたが、幸い体重増加は止まりました。

 新剤型薬LAの承認・発売が、臨時の社長賞として表彰されました。賞品として貰ったのは銀色の表彰楯とティファニーの銀張り時計です。通常ならばどちらも金色のはずだったのですが、臨時ですから・・・。新剤型薬LAの承認取得後には新カルシウム拮抗薬Pの専任PMとなりました。当然と言えば当然ですが・・・。

 一方、社長肝いりの新化合物Aは会社初の国際開発を狙った戦略品でした。最重要国はもちろん米国です。米国でも国内とほぼ同時進行で臨床開発を進めていました。臨床開発責任者のN先輩は社長から重宝がられ、私が禁煙を始めたころから担当部長職に、一年後には正部長職に昇格していました。社長の関心が高く、N先輩の席までしばしばやって来るようにもなっていました。正直、羨ましく思いました。

 社長は酒席が好きで、こぢんまりしたバーにほぼ毎晩、取巻きを引連れて足を運ぶのが常でした。いつも米国の子会社製の赤ワインを楽しんでいました。そのお供をするN先輩は、誇らしくはあるものの、とても辛かったのだろうと察します。

 重大な人事がその場で決まることもあり、気持ちよく酔っ払うなどできる雰囲気ではないのです。まさに正真正銘の正規の業務、気楽な(?)サービス残業などではありません。その代り会社の極秘情報をしっかり仕入れていたに違いありません。私も2~3度同席した経験がありますが、酒好きの私にはとても務まるものではありませんでした。

 N先輩も上昇志向・権力志向の強い人でした。チャンスとみるや社長にベッタリと取入って昇進・昇格させてもらう、これは勤め人としてザラにあるパターンです。N先輩にとっては願ってもないチャンスです。ただ、ナリフリ構わぬ露骨な生き様には正直呆れました。部長職を鼻に掛け、唯我独尊、高慢・傲慢な発言が私に向けても繰り返されました。

 部内の人事考課の結果をみると、昇進・昇格はN先輩だけが対象で、部下である同僚の成果を独り占めしたようにも見えました。それが鼻につきました。私も上昇志向が強かったのですが、N先輩の態度には憤懣やる方ない反感を抱きました。

 今振り返ってみて、反感は嫉妬がらみだったのだと思い当たりました。嫉妬は「人間は皆平等」という自他の混同から湧き出るものです。なぜN先輩に出来ることが自分には出来ないのか?社長は奇抜なことが好きな人ですが、私は逆に保守的です。性格が合いません。自分も社長に取入りたい、現にN先輩は出来ている。だが改良したに過ぎない新剤型薬LAに成功したぐらいでは厚かましくてとても出来ない。そのことが悔しくて嫉妬を感じていたのだと気が付きました。

 嫉妬はマイナス感情として飲酒を促す典型的な要因のひとつです。面白くないから嫉妬することになるのです。

 私も期限内に新剤型薬LAの発売に漕ぎ着け、今度は本格的な新薬の担当になったわけです。これに成功すれば最低でも部長職なるという目に見える実現目標と欲が湧いてきていました。田舎を出る時、世間から一角の人物と認められること、家庭を築き自前の家を構えることを秘めた目標にしてきました。たとえ部長職であっても、就くことができれば大学入試に二浪してしまった引け目が償われ、世間からも一応は一目置かれるような社会的地位に就けると思ったのです。

 良いことは続くもので、長男が私立中学の入試に合格でき入学しました。さらに、定評のある住宅地の新築分譲マンションにも転居できました。マンションの購入は、田舎を出た時からの目標の実現に当たります。ただし、35年間のローン付きですが・・・。

 この時期にマンションを購入しようとした動機には、長男が中学入試に失敗した時に予め備えようとしたこともありました。小学校の同級生と同じ公立中学に進学しないで済むようにすることです。中学受験専門塾に通わせ始めたころから妻と一緒に物件を検討し始め、夢のような好物件に競争率36倍の抽選で見事に当たったのです。

 これらが、私が39歳の時の大きな出来事です。第三者的にみれば会社勤務時代の絶頂期と言えるでしょう。定評のある住宅地の住民になれたこと、本格的な新薬の担当になって一定の地位に付ける目途が立ったことから、鼻持ちならない慢心が湧いていたのでしょう。内心有頂天になってしまい、気持ちだけが先走りしていたと思います。頭の中が空回りしていると感じることがよくありました。新しい担当業務に何故か気が急いて上滑りしているような浮ついた日々を送るようになっていました。

 「好事魔多し」という言葉があります。ささやかながら成功を収め有頂天になっている。目前に出世欲を満足させ、実現可能な具体的目標がある。しかし、気持ちが空回りして地に足が着いていない。明らかに危ない兆候です。今思うに、何か悪いキッカケがあればアルコールにどっぷり浸かりそうな条件が見事に揃っています。そうは思いませんか?

 N先輩が臨床開発責任者で、社長肝いりの新化合物Aも、この年の秋、米国に先駆け国から承認を受けることができ、発売に漕ぎ出しました。当然ながら会社こぞって新化合物Aに関心が流れて行きました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その6)につづく



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