ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

幽霊の正体見たり枯れ尾花(憑きモノ体験)

2015-07-31 21:45:44 | 病状
 断酒を揺るぎなく継続するために、「正直に・・・、素直に・・・」体験談を語るときの心構えとしてよく言われることです。ところが悩みの渦中にあると、当事者過ぎて見えないことの方が多いのです。

 正直にと言われても、「モヤモヤ・イライラしていながら、一体何に悩んでいるのかハッキリとは分からない」、というのが正直な(?)ところだと思います。何かありそうだけれども、今は話しようがないから話せない、または、話さない方がいいか(?)とさえ思うこともあるのです。戸惑うばかりで心底もどかしいというのが本音ではないでしょうか。

 語れなかった悩みというものには、それが解消された後で、初めてあれは “憑きモノ” だったと思えるものがあります。何かに執着したり、固執したりして、雁字搦めの状態に自分を追い込んでいたことに納得し、“憑きモノ” に付き纏われていたと思い当たるのです。“憑きモノ” が落ちて、やっと正直に語れるようになったというのが私の実感です。

 読売新聞に “発言小町” という読者の万(よろず)相談を扱うコラムがあります。掲示板形式のコラムです。深刻な相談ばかりでなく、爆笑を誘う奇想天外な相談もあり、かつて贔屓にしていました。“憑き物” をネット検索したところ、【憑物が落ちるような経験】という相談がこのコラムに掲載されているのを見つけました。

 相談者(トビ主)は女性で、読者にそのような経験が有るのか?何がそのキッカケだったのか?を質問していました。トビ主自身、2度の “憑きモノ” 体験があったと言います。歩行者のマナーの悪さに通勤時いつも苛立っていたことと、ダイエットが不調のために過食嘔吐にまでコトが進んでしまったことの2つです。歩行者に悪気がないと気付いたことと、ダイエットを諦めたことがキッカケで、それぞれの “憑きモノ” が落ちたそうです。ご本人にしてみれば堪えがたいことで、特に後者は相当深刻だったと思います。“憑きモノ” が落ちた後(?)、トビ主の方は色々勉強されたのだと推察されました。

 この投稿に18通のコメントが寄せられました。“憑きモノ” が落ちた体験者からのものが12通、この道に明るい専門オタク(?)からの助言が4通、野次馬のものが2通でした。出だしの2通が体験者のものではなく専門オタクからのものだったので、最初はヤラセの出来合いレースかなと思ってしまいましたが・・・。これは体験した人でなければ分からないコメントがあったので、ついつい惹きつけられました。

 「憑きモノが落ちるような体験ならあります。ふとあるときに、それまですっきり決断できなかったことが、本当に腑に落ちて納得できたというパターン。諦めきれなかったことを諦めた、うすうす感づきながら直視したくなかったことを自覚した、とか。自然な流れの中で、それまで考え続けてきたからこそ、一瞬の気づきにたどり着いた、という感じです。」“憑きモノ” が落ちた瞬間を見事に言い表しています。

 他のコメントで述べられていた “憑きモノ” が落ちたキッカケは次のような場合でした。

  ○ 諦めたこと
  ○ 友人が別の考え方を助言してくれたこと
  ○ 自分を突き放してみたこと
  ○ 断舎利したこと
  ○ 転居・転職(原因を除去)したこと
  ○ 死というものが理解できたこと

 認知パターンの修正・変更や、悟りに似た諦観がキッカケだったと読み取れました。どのコメントにも心に響くものがあり、体験談はやはり違うものだと分かりました。

 一方で、専門オタクから寄せられた指導は次の3つでした。

  ○ “憑きモノ” は認知の歪み、脳の癖。だから “憑きモノ” の
    正体(真実)を知ればよい
  ○ 考え方をそれまでの視点から変えて、違った角度から見直し
    て考えればよい
  ○ (うつ病に対する光療法を念頭に)生活パターンを早寝・
    早起きへと改善すればよい

どれも至極まともな助言なのですが、単なる解説か、あるいは対症療法的であるかのどちらかで、脱出への道筋が今一つ具体的に見えて来ないのです。

 私の場合のキッカケは、会社勤務時代に先輩へ抱き続けた病的な嫉妬の理由を自分史を綴りながら考え続けたことや、病的に嵌ってしまったAV動画の場面展開をヤケクソになって夢中で叙述したことでした。眼を曇らせていた “憑きモノ”、その正体が何モノなのか見えないままに諸々のことを叙述し続けていたら、急に視野がひらけ正体が見えるようになったのです。それで “憑きモノ” に囚われていたことに初めて気づきました。言語化による捨象とでもいうべき効用なのかもしれません。言語化のお蔭で問題の核心部分に辿りつけたのだと考えています。

 “憑きモノ” に囚われていた間はいつも心がスッキリせず、モヤモヤしている状態でした。それが普通だと思っていましたから、医師へも相談せず、ましてこれこそがAAで話すべきことだとは思いも寄りませんでした。“正直に” と言われても、難しいことはあるのです。


“発言小町”の【憑物が落ちるような経験】と『回復へ―アル中の前頭葉を醒まさせる』も併せてご参照ください。


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飲酒欲求 ― すき焼き・しゃぶしゃぶとビール、旨そう?!

2015-07-24 23:27:01 | 病状
 断酒1年4ヵ月目のまだ寒い2月のある日、中突堤~ハーバー・ランド界隈の40~50分の散歩コースを済ました帰り道でのことです。“六段” というすき焼き・しゃぶしゃぶ屋の前を通りかかった時、なぜか急に「ビールが旨いだろうなぁ~!」という思いが募ってきて立ち止まってしまいました。と同時に「これは危ない!」とギョッとしもしました。

 その店は、古風な民芸居酒屋風の引き戸の店構えで、店頭に “お品書き” と記しているメニューと料理の写真が掲げられているだけでした。写真のパネルには薄切り牛肉の皿盛り付けの写真が2~3枚載っているだけで、その写真パネルも紐を付けてフックに吊るしているだけというものです。ビール・ジョッキやビール瓶の見本が店頭に並んでいるわけでもなく、ただメニューに書いてあるだけです。何とも素っ気ないのです。ただ質素な店の外観が、却って妙にそそったようなのです。ちょうど昼飯時だったので、直ぐに近くの弁当屋に向かい食事にしました。飲酒欲求はいつしか消えていました。

 ビールの口当たりやノド越しの感覚がとても鮮烈だったため、「これが飲酒欲求か?!」と断酒後初めての経験に吃驚しました。それで、飲酒欲求に至った背景を分析してみました。質素な外観の居酒屋風という好みの店構え、散歩で喉が渇いていた上に昼飯前で空腹だったこと、すき焼き・しゃぶしゃぶの値段が5千円と値頃なこと、こんな理由しか思い浮かびませんでした。そのどれもが単純で、却ってもっともらしい理由に思えました。

 念のため、翌日も同じ時刻に同じコースを辿り、同じ店頭に立ってみました。弱いながらもやはり同じように飲酒欲求が湧いてきました。これで再現性のあることが確認できました。前日と同じように直ぐ近くの弁当屋で昼食とし、それで同じように飲酒欲求は治まりました。思い当たる理由の中でも決定的だったのは、どうやら質素な外観の居酒屋風という店構えのようでした。ただし、普通の居酒屋の店頭では今まで飲酒欲求を感じたことはありません。不思議です。

 断酒して9ヵ月目の頃、近くのスーパーへ買い物に行った時、妙にスルメが食べたくなって仕方なかったことがありました。ちょうど酒類売り場近くを歩いていて、スルメを見かけた時のことでした。上述の散歩中の飲酒欲求事件で、そのスーパーでのスルメのことが思い出されました。あれも飲酒時代の習慣そのままの同じ飲酒欲求だったのかと納得しました。これらの出来事は視覚的に外から入った刺激による飲酒欲求で、外因性の飲酒欲求とでも呼ぶべきもの考えています。
 
 口当たりやノド越しといった生々しい感覚を催す外因性の飲酒欲求とは別に、衝動的な飲酒欲求もあります。

 断酒11年継続中の人で、断酒を続けて6年経っても飲酒欲求に襲われて悩まされた体験を話してくれた人がいます。敢えてどんな飲酒欲求だったのかを聞いてみました。「飲まずにはいられないほどの不穏な気持ち」、これがその答えでした。これなら私にも思い当たる節があります。

 断酒11ヵ月目でドライ・ドランク状態の時のことです。自助会AAで、その日聞いた体験談の内容に不満タラタラで苛立ったままでの帰り道、交差点でタッチの差で信号待ちになってしまいました。イライラしたまま待っていたその時です。胸の内が空回りし始め、ザワザワとした不吉で不穏な気分に襲われました。信号が変わったので歩き始めましたが、不穏な気分はしばらく続きました。途中のコンビニ店前で灰皿を見つけて一服し、やっと気分が落ち着き始めました。あれは危機的でした。

 不吉で不穏な気分に襲われ、お酒ナシでどうしたらいいのか分からなくなった経験は初めてではありませんでした。内容に絶対的自信を持ったツイッターを発信したものの一向に反響がない時や、約束を取り付けようと発信したメールに翌日午後になっても返信がない時など、何回か経験していたのです。お酒を飲んだら直ぐに治まるのですが、その度にタバコを一服して凌いでいました。

 冷静になって振り返ってみると、自分の思い通りにならない状況に “おもしろくない” と感じていたことが共通していました。子供っぽい幼稚な反応ですが、これは紛れもない事実です。不吉で不穏な気分と同じように、喪失感や空虚感など心理的な誘因で湧いて来る飲酒欲求は、内因性の飲酒欲求とでも呼ぶべきものと考えています。

 このような急に襲われる不穏な気分を、飲酒欲求と見做している回復期のアルコール依存症者が結構いると思っています。先に述べた断酒11年継続中の人はこれを飲酒欲求と明言していました。

 私の場合、不穏な気分に襲われたときには、「来た!これは何かおかしい」と自覚できています。「これはアルコールを欲しがっていることかもしれない」と気付き、幸い再飲酒した場合の危険を自覚していましたから、何とか難を逃れることが出来たのだと思います。それでも虫の居所如何によっては再飲酒があったかもしれません。

 酒を含んだときの口当たりの感覚が即座に自覚できたときや、不穏な気分に襲われたときなど、はっきり意識に上って来るうちはよいのです。問題は、普段よく無意識にやってしまう自動行動の類です。

 体験談に共通しているのは、意図していないにもかかわらず、無意識のまま自動的にやってしまう行動だと言います。


 ○車を運転中に、無意識に酒類の自販機を捜していた
 ○気が付いたら酒類の自販機の前に立ってお金を入れていた
 ○気が付いたら酒類売り場で新商品を手に品定めをやっていた
 ○クラス会の旅行で、夕食に出された食前酒をいつの間にか飲んでいた


 このような体験談の何と多いことか。断酒3年目に何度も飲酒欲求を経験した人の話では、自分が何か妙なことをやっていることに気が付いて、初めて飲酒欲求と分かり肝を冷やしたそうです。何とも表現しにくい(夢遊病のような?)病的な行動だったと言うのですが・・・。自助会のベテラン会員から、事あるごとに「酒を飲むな」と口酸っぱく言われていたお蔭で、何とか難を逃れられたと話してくれました。

 私がすき焼き・しゃぶしゃぶ屋の店頭で経験した出来事はこれらに近い経験だと思いますが、これらの体験談と私とでは、無意識にした行動か否かの点で大きく異なります。再飲酒となった多くの原因はこの無意識のままでする自動行動によるものと考えてよさそうです。

 横浜であったAAの40周年記念全国大会では、断酒歴40年の人でも断酒期間を40年と何日というふうに細かに数えることによって初心を忘れないよう意識付けしている人がいたそうです。その一方で、断酒期間が9年経っても再飲酒してしまい、その後さらに6年間の断酒継続後に再び飲酒してしまったと告白した人もいます。それまでは飲酒欲求など全くなかったにもかかわらず、気が付いたら再飲酒していたというのです。AAのミーティングから離れがちだったとも言っていました。記憶が薄れて油断していたと考え、再飲酒後にどれほど悲惨な目にあったのかをいつも肝に据え忘れないようにしているそうです。

 多くは飲酒欲求ナシのまま断酒が1~2年程度継続できていて、お酒に対する警戒感が薄れたことから油断が生じたものと思います。あるいは、断酒3ヵ月以降によくみられるPAWS(Post Acute Withdrawal Syndrome:急性離脱後症候群)も一部関係しているのかもしれません。直近に考えていたことでさえ、視野がその場面から変わればコロッと忘れてしまう記憶障害もPAWSの症状の一つで、まったく関係のない他の関心事へ無意識に移ってしまうことが日常生活でよくあります。このような無意識のままでする自動行動が飲酒に関係する行動であっても不思議ではありません。

 要するに、断酒10年だろうが断酒3ヵ月だろうが、断酒期間に関わらず再飲酒の危険を抱えている立場は同じということです。再飲酒が無意識のうちに不意に起こることならば、対策としては二つしかなさそうです。自助会に定期的に顔を出して体験談を聞き続けることと、底着き体験時の悲惨な生活状況を忘れずにいることです。自分はアルコール依存症だと自覚して、その初心を一生忘れないで生きていくしかありません。これは断酒歴の長い人の体験談に共通してみられる決意表明です。

 断酒を始めて10ヵ月ほどの間、私は再飲酒をしやしないかと強迫観念に怯えていました。今は飲まないでいることが自然です。だからこそ「“命を採るか”、“酒を採るか” の二者択一。どちらも両方、は無い」をモットーに、毎日これをPC画面で確認し、油断しないように気を付けています。

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 上記の記事は継続断酒1年9ヵ月後に投稿したものです。この記事を書いた動機は、無意識のまま再飲酒してしまった体験談の多さでした。飲酒欲求などなくなった人たちに共通した事例なのです。その後、自助会AAで体験談を聞く機会を重ねた結果、仕事上や家庭の事情から人間関係にストレスを溜めていたことが原因だとわかりました。断酒歴の長い人は、それなりにストレスに強くなってはいるのです。が、本人の自覚以上に知らずしらず溜まったストレスが無意識のうちに最初の一口を誘っていた、これが真実のようです。(2016.12.19)


私の底着き体験・断酒の原点」もご参照ください。


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臭いもの身知らず(否認の病:アル症)

2015-07-17 17:59:15 | 病状
 言い訳がましくて、患者本人の口から言うのも気が引けますが、“臭いもの身知らず” という諺がアルコール依存症という病の特徴を表現するのにピッタリではないかと思っています。“自分の悪臭に当の本人は気付かないもの。臭い同士がかぎあっても臭くはない”、言葉通りの意味です。

 自助会AAでの体験談にこんな話がありました。深酒して帰宅した長男が使ったばかりのトイレ個室のクサイ話です。素面のご当人が替わって入ったときのこと、その第一印象は「わぁ~、クサッ」だったというのです。個室の悪臭は酔っ払いの放つ独特の酒臭さで、かつて自身が放った酒臭さもこんな酷いものだったのか、と思い知らされたそうです。そういえば、飲み続けて風呂にも入らず、パート先での仕事中に「クサッ」と言われたことも再三あった、と体験談は続きました。

 その話を聞き、私にも思い当たる節がありました。50歳代後半のこと、休日を利用して東京から親友Yが訪ねてきたときのことです。行きつけの立飲み屋 “大安” で、二人とも懐かしさについ深酒してしまいました。帰り道で信号待ちしているとき、Yが急にトイレを捜しに行きました。その時はまだ、私の方は尿意を全く感じていなかったのです。ところが、待っている間に突然催して、立ったまま尿失禁をしてしまいました。立ったまま・・・です。着ていた半ズボンはビショビショです。そのまま何食わぬ顔をして二人でトマト・ラーメンを食べに行き、そのまま何食わぬ顔をして電車に乗って帰ったのです。

 Yも大分酔っていたので、気が付いていたのかは分かりません。ラーメンを啜っていたときの彼の顔は普段と何ら変わりませんでした。ただ、電車内で乗り合わせた周りの客はどう思ったのでしょう? 多少不快で迷惑そうな素振りはあっても、私から露骨に遠ざかる人はいなかったように思います。そういう記憶も実は定かではありませんが・・・。私自身はどこ吹く風と、自分の放つ悪臭など全く感じていませんでした。

 後になってこのことを思い出し、他人に絡んだりするなど余程のことがなければ、無関心を装うのが世間なのだと思い知りました。雑踏の中で人が突然倒れても、大方の通行人は見て見ぬ振りをして、しばらくの間通り過ぎるだけという場面がよくあります。単に関わりたくないだけなのです。

 歩き方や話し方についても自覚ナシのまま、同じように普通と思ってやっていることが多々ありました。

 あるとき、立飲み屋 “大安” の店主から焼酎は3杯までと宣告されました。勘定を済ませて店を出た私の後ろ姿をガラス戸越しに見ていると、ハラハラするぐらい千鳥足で歩いて行く場面が多かったそうなのです。ところが当の本人はいつもしっかりと真っ直ぐ歩いていると思っていたものです。かなりの酩酊状態であっても、感覚としては次のような風でした。ひたすら足元の地面だけを見ながら歩いていて、「変なリズムで、変に速く動く地面だなぁ~」というのが実感でした。また、たとえ転んだとしても、なぜ地面に尻を着けているのか直ぐには合点がいきませんでした。傍から見ていて危ないと見えるからこそ、焼酎は3杯までしかダメと店主から宣告されたのです。3杯だけ・・・? これにひどく腹を立ててしまいました。好意からの忠告を逆恨みする、これもアルコールが得意とする魔術です。

 阪神淡路大震災の時、ビール漬け状態のまま呼び出されて出社し、会社で素面の人と話してみて、初めて自分が酔っていると気付いたこともありました。(アルコール依存症へ辿った道筋(その17)連続飲酒から脱出・仕事再開! を参照)

 極めつきは断酒後の経験です。妻の物言いがとても横柄に思えたのです。私が話し出すと横車を押してくるやら、話の腰を折るやらがよくありました。私の言い分を悉く抑えつけ、小馬鹿にして鼻にも引っ掛けない態度でした。鼻っから私を信用しようとしません。さすがに腹が立って言い方を咎めました。すると、思いがけない答えが帰ってきたのです。酔っ払いの私が始終やっていた、決めつける言い方をそのまましてみただけ、で妻が抗議してもどこ吹く風の態度だった言うのです。多少妻の意地悪が混じっているとも思いましたが、多分それが事実なのだと納得しました。自分ではちっともそのような意図はなかったし、普通に喋っているつもりだったのです。初めて真相を知った思いでした。話し方一つとってみても、酒の巧妙な魔力を思い知らされました。酔った状態では “思い込み” が一層激しくなり、自重するなどの抑えが効かなくなっていたのだと思います。

 このように酒に酔った状態では、感覚的にある自分の記憶と事実との間には隔たりがあります。それが恣意的な “思い込み” となって残っている恐れも大いにあるのです。だからこそ、アルコール依存症だと宣告されても、つい否認しがちなのだと思います。

 AAの回復のプログラムに12のステップというものがあります。9番目のステップ9にこうあります。
「その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。Made direct amends to such people wherever possible, except when to do so would injure them or others.」
ここに書いてあるのは、かつて傷つけた人々に対する埋め合わせのことです。飲酒していた頃に犯した過ちすべてを「棚卸し」すべしとした、ステップ4を済ませた後の段階に行う順番になっています。

 酒害についての体験談はあくまでも自分の記憶だけによったものですから、真相とはかけ離れている可能性が大いにあります。自分の心の整理をしっかり済ました後からでないと、酒で迷惑をかけた人々への埋め合わせは見合わせた方がよいと思っています。直接会うのはむしろ有害かもしれません。自身が真相を知って動揺し、事実を否認しかねない危険性を考えておくべきですし、相手を再び不快にさせかねない可能性も考慮すべきです。断酒後の回復期を揺るぎなくするためには、自身のとった行動の客観的事実を正確に把握しておくことこそが大切だと考えています。


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父と息子の絆、Y染色体

2015-07-10 18:28:05 | 自分史
 アルコール依存症の自助会で体験談を聞いていると、年少の頃から男性の場合は父親との間に、女性の場合は母親との間に、それぞれ葛藤があって、それが長く尾を引いている(根に持っている)例が多いようです。
 暴力、叱責、ネグレクトなど虐待を受け、それに対する反感や嫉妬、劣等感が本人の心に深く根を下ろしているようなのです。
 私がアルコール依存症でありながら、人生を投げ出さずに何とか定年退職まで持ち堪えられたのは、息子を支えようと懸命に努めを果たした父の背中を見て来たからだと思っています。



 私の郷里の岩手では、西側を奥羽山脈が南北に連なっています。その中央部のやや南よりに牛形山という標高1340mの山があります。お椀を被せたような形の山で、頂上がお椀の糸底部分のように出っ張っていて出ベソに似ていることから、地元の山好きの人の間では “出ベソ山” と呼んだりもしています。

 奥羽山脈の奥まったところ、夏油川の渓流沿いに夏季限定の夏油(げとう)温泉があり、夏油三山といわれる牛形山や経塚山、駒ケ岳(駒形山)の登山口になっています。この温泉は、白い色をした源泉の湧く露天風呂で、神経痛によく効くというので湯治で有名です。

 お湯が熱いことでも有名で、ピリピリと肌を刺激するところがあり、お湯を一層熱く感じさせるのです。普通、5分も浸かっていることはできません。浴槽を囲む洗い場で、客は対岸の切り立った崖の山肌と渓流を眺めつつ、虻(アブ)の襲来に抗いながら、思い思いに寛いだ時を過ごします。坐骨神経痛に悩まされていた父がたまに湯治に行っていました。

 阪神・淡路大震災があった年の夏、久々に息子二人を連れて帰省しました。長男は高校3年、二男は中学2年でした。

 その3年前に私たち夫婦の間に離婚問題が勃発。私のアルコール問題と、仕事に忙殺され家庭を顧みないことなどが複雑に絡んでの出来事でした。父親の私が一人で別居となり、母親の妻が一時とんでもない身勝手な行動をとるなど、平穏な家庭が一転しててんでんバラバラになってしまいました。そんな両親の無様な姿を息子たちは目の当たりにしていたのです。

 多感な年頃だった長男は、仲が良い両親とばかり思っていただけに人間不信に陥ったようです。これを契機に茶髪で荒んだ尖がり眼の愚連(グレ)た姿となり、完全に落ちこぼれてしまいました。彼なりに心に空洞を抱えてしまったのかもしれません。

 二男の方はそんな兄をみて反面教師としていたようです。健気にも、とくに変わった様子を見せませんでした。“他人の振り見て我が振り直す”、二番目の特権です。

 長男を真面(まとも)にしなければ・・・、乗り気じゃなかった長男をその一心で連れ出しました。息子たちに、祖父である父と私、男ばかりで一緒の時間を持たせようと夏油温泉を予約したのです。
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 その24年前、2年間の(受験)浪人生活を経て晴れて大学に入学できた年、お盆休みに夏油温泉に行ったことがありました。一行は私と父、次姉、次姉の長男(甥)の4人でした。

 東京でゴタゴタがあって私はウンザリしていました。大学入学を期に自分の居場所を手に入れた私と、浪人2年目から関係を続けていた半同棲の彼女との間に隙間風が吹き、別れ話が拗れて刃傷沙汰寸前だったのです。

 相手の娘は大分前から家を飛び出してしまって居場所がなく、彼女にとっての居場所は私と半同棲を続けることのようでした。帰省を口実に東京から逃げ出し、少し間を置きたかったのです。

 その時は夏油温泉に1週間ほど逗留したでしょうか。その間、温泉に浸かることと食事をすること、あとは昼寝だけしかやることがありません。暇で暇で飽きてしまい、散歩がてら試しに牛形山への登山道を登ってみることにしました。

 道標によると山頂まで2時間半とあり、そう遠い距離ではありません。宿に備え付けのサンダル履きのまま、一人で登って行きました。

 登山道の7合目?(標高750m)ぐらいでしょうか、ダケカンバやクマザサなどが生い茂る灌木の林が途切れ、ススキなどの草地にたどり着きました。その草地は所々にハイマツが生えているぐらいの結構な急勾配で、ガレ場となった地滑り跡は30度以上の傾斜がありそうでした。登山道がアヤフヤなガレ場は足場が悪く、サンダル履きでは足を滑らせる恐れがありました。そんなわけで先に進むのを諦め、已む無く取って返しました。

 温泉の宿に帰ってこの話をしたところ、やはり暇に飽き飽きしていたのか皆で登ろうということになりました。サンダル履きでも行けるのなら小さい子供連れでも大丈夫という空気でした。このとき甥はまだ4歳でした。私はキャラバン・シューズで、父は甚平姿にゴム底の作業靴だったと思います。

 難所のガレ場までたどり着くと、私が先陣を切ってガレ場を渡る(横切る)ことにしました。危なければ中止して引き返せばよいぐらいに軽く考えていました。急な斜面は足を滑らすと遥か下まで滑落してしまいます。

 いざ数歩踏み出してみると、さすがに怖くなって腰が引け、最早引き返すことさえ儘なりません。とにかく先に進むしかなく、次の足場を探すのに必死でした。渡りきって後を振り返ると、すでに父が甥と手を繋いで何の雑作もなく余裕で渡っているのです。渡りきって甥を私に預けると、今度は次姉を手助けしていました。

 難所を過ぎると1時間ほどで頂上に着くことが出来ました。頂上では夏空の下、夥しい数の赤トンボが飛んでいました。この日の父の姿はとても頼もしく見えたものです。

 ガレ場での父の頼もしい姿と対で思い出されるのが父の出稼ぎのことです。

 実家は農家で、耕作地として1.2ヘクタアール(ha)ほどの水田と30アール(a)ほどの畑しかなく、御多分に漏れず現金収入不足の家計状況でした。農業全体が高度経済成長(時代)から取り残されていたのです。

 私が小学5年の頃から晩秋~早春の農閑期に父は出稼ぎに出るようになりました。私には土方仕事と言っていましたが、地質を調べるボーリングの仕事でした。その内、農繁期に限って農作業をし、一年の大半が出稼ぎとなっていきました。

 どれほどの収入だったのか分かりませんが、多くても私への仕送り分ぐらいでしかなかったと思います。浪人一年目当時の大卒の初任給が3万円程度の時代です。父は同程度の金額を毎月仕送りのため稼いでくれていたのです。安物タバコのタバコ代と食費以外の出費を控え、好きな酒も極力抑えていたようです。家では普段、夕食前にコップ一杯のお酒で満足していました。

 息子のためと、ひたすら働く父の生き様とガレ場での頼もしい姿を見て、東京に戻ったら潔く彼女との関係を断ち切ろうと心に決めました。
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 愚連(グレ)て落ちこぼれになっている長男を何とかしなければ・・・、離婚騒動→別居を契機にバラバラとなった家族を立て直さなければ・・・、困り果てた先に思い出したのが父の頼もしかった姿でした。

 24年前の牛形山登山でガレ場を渡ったときのことが蘇ってきたのです。その時、父に会いたいと心底思っていた私自身がありました。母の無理筋の我儘から一時的に避難させるため自宅に父を同居させた折、忙しさを言い訳に何も構ってやれなかった罪滅ぼしの意味合いも当然ありました。

 夏油温泉に着いた当日、温泉に浸かった後の寛いだ夕食時に、息子たちに父のことを語りました。
「初めて話すけど、じいさんは再婚で、別れた先妻との間に娘が二人いるんだそうだ。つまり、父さん(私のこと)には姉があと二人、別にいるということだ。」
「どこに住んでいるか分っているの?」
「・・・関西に住んでいるらしい。案外、ご近所かもしれない。だから、じいさんにとって男の子供は父さん一人、俺はじいさんのたった一人の息子なんだよ。」父が入婿で先妻の間に娘が二人いることから話し始めました。

 次いで、実家は農業だけでは学費を賄い切れない経済状況だったこと、たった一人の息子のために出稼ぎをしてまで大卒初任給相当の学費を仕送りしてくれたことなどを続けました。
「Y染色体にある遺伝子は、男だけが父親から受け継ぐ遺伝子だということは知っているよね? じいさんのY染色体遺伝子を受け継いでいるのはここにいる男だけ、父さん以外には孫のお前たち兄弟だけなんだよ。大変貴重な存在ということだ。」

 祖父である父について、息子たちに対しこれほどまでに詳しく語ったことは初めてでした。父はただ相槌を打つだけでした。酒が入っていたので息子たちがどう反応したかよく覚えていません。そして、牛形山登山の思い出を話し、翌日登ることになったのです。高齢の父は留守番役としました。

 翌朝は小雨模様でした。案の定、長男は出掛けるのを渋りました。ここで諦めては目論見が台無しになると思い、必ず後に付いて来ると見越して、二男とふたりだけで登山を強行することにしました。長男が付いて来ず、雨脚が酷くなったら引き返せばよい、そのつもりでした。

 宿の裏にある登山道は急傾斜の杉林から始まり、直ぐにブナ林に囲まれた尾根伝いの道となります。案の定、杉林が切れブナ林が始まる辺りで長男が追い着いてきました。

 急勾配の道は結構続きました。夢で何度も見た道は、木々の木漏れ日がまだら模様に道に映え、緩やかな勾配の風情でした。が・・・、記憶というものは甘いものだと思い知らされました。写真ではたとえ急勾配の斜面であっても、あたかも平地のようにしか写りません。夢の中の道も写真と同じでした。急勾配の道ばかり連続するのに息切れし、途中で何度も立ち止まりました。

 ブナ林がダケカンバやクマザサに変わる頃、雨脚が強くなって雨傘では堪えきれなくなり、道も泥濘るんで足元も覚束なくなりました。それで仕方なく引き返すことにしたのです。ガレ場までは残り10~20分ぐらいの距離だったと思います。

 登りの途中、道脇で雨に打たれながら大の方の用足しをしたことや、下りで足を滑らせ転んで泥だらけになったことなど、シャレにもならないこともありました。

 結局、三人一緒の登山はちょっと無理筋の中途半端なままで終わりました。それでも私にとっては懐かしい良い思い出として残っています。

 息子二人は、今ではそれぞれが二人の息子の父親となっています。今から20年前、私たちが強行した雨中の親子登山が息子たちにとってどんな思い出として残っているのか、そのことは彼らの息子(私の孫)たちが父親と今後どんな体験を共有するかを見ていれば分かるのかもしれません。

 帰省から帰った後、長男の尖った眼つきは元に戻りました。その後、長男とは二人で大台ケ原や那智の滝に一緒に行く機会もありました。少なくとも信頼感は深まったと思いますが、私への金銭的依存をも深める結果となったのは皮肉でした。

 私は図らずも、離婚騒動の修羅場やアルコール依存症になった無様な姿を息子たちに間近に見せてきました。範を示すべき父親としては褒められたことではないでしょう。これらのことが息子たちの人生にどんな影を落としたのか、気になるのは仕方ありません。私としては精一杯立て直しに努めてきたつもりです。恐らく、そんな私の姿も息子たちは見ていたことと思います。

 自分の意志で酒を飲まないままで我慢できる、普通なら出来て当たり前のことが出来ない病がアルコール依存症です。定年退職を期に頑張る気持ちが完全に挫けてしまい、酒浸りとなってしまいました。父はコップ一杯のお酒で満足できたのに、息子の私はそれを見倣うことができなかったのです。

 断酒継続に成功し飲まないでいることが自然となった今は、父の遺伝子を受け継いでいる息子たちを信じて、静かに見守って行こうと思っています。私の父、彼らの祖父は愚直なまでに律儀で、忍耐強く、そして節酒のできる鷹揚な男だったのです。


夏油温泉についてはこちらをご覧ください。


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アルコール依存症へ辿った道筋(その35)エピローグ

2015-07-03 17:45:49 | 自分史
 「死の四重奏」を実感するのにさほど時間はかかりませんでした。

 53歳の夏、何の前触れもなく突然不安定狭心症に見舞われました。朝の出勤時、歩き始めて2~3分もすると、胸焼けのようなジワーッとした灼熱感を胸から左肩にかけて連日感じたのです。左鎖骨の少し下、胸の奥から湧き出るような感覚でした。もしかしてと思って主治医に相談したところ、すぐに運動負荷心電図検査を受けることになりました。負荷半ばの運動量でしかないのに、心電図上に明らかな虚血性ST偏位が見られました。

 豊富な治療実績を誇る循環器科ということで尼崎の県立病院を紹介され、初診のその日に急遽入院となりました。心臓カテーテルによる造影検査の結果、右冠動脈狭窄による不安定狭心症の診断が下されました。その後は一本道で、2日置いて心臓カテーテルによるPCI施術を受け、右冠動脈にステントを留置してもらいました。左冠動脈にも狭窄があったそうですが、75%未満の狭窄でしかないので治療(保険?)の適応外で経過観察となったのでした。

 製薬業界ではあるジンクスが真しやかに語られています。臨床開発の担当責任者は決まって担当化合物の適応症の病気に罹るというものです。Ca拮抗薬Pは高血圧と狭心症を適応症としていましたから、まさにドンピシャリでした。執行猶予付き死刑宣告が現実味を帯び、いよいよ生きているのはただ余生を送っているのに過ぎないという心境になりました。

 会社は残業など全くなしで定時に帰宅でき、週日には毎日立飲み屋に寄るのが唯一の楽しみとなりました。

 糖尿病のため少しでもカロリーを消費しようと、会社から梅田まで片道30分の道程を歩いて往復していたのですが、帰り道の途中、梅田寄りの西天満で絶好の立飲み屋 “大安” を見つけたのです。マグロの赤身の刺身が値頃で、他にも肴を豊富に揃えていました。

 以前通っていた居酒屋 “旬香” が潰れてしまい、居場所を失っていた私にとって恰好の居場所となりました。立ち寄る時刻も午後5時45分~6時と毎日一定で、店内での立ち位置も毎日同じ場所でした。アルコール依存症に特有の習慣的行動そのものです。

 狭心症は、心臓に何時爆発してもおかしくない爆弾を抱えているようなものです。山道を登るのは自殺行為そのものです。山登りの多い西国三十三ヵ所観音巡礼は4巡目に入っていました。4番札所の槙尾寺から20番札所の善峰寺までは順番に寺から寺へ徒歩行で繋いでいましたが、狭心症の発症で巡礼を続けるのは無理と断念しました。休日にすることがなくなり、近くにある公園の東屋で一人朝からビールが始まりました。

 立飲み屋通いと朝から飲酒。アルコール依存症の典型的な行動パターンの完成です。

 50歳以降、私に起こった主な出来事を下表にお示ししました。まだまだ死んではダメと戒めてくれていた “つっかえ棒” が、一本また一本と外される心地でした。その都度、心に空洞の広がりを感じていました。次第に “生きていることが、もうどうでもよいこと” と思えるようにもなりました。そして完全退職した後は、もはや役目を終えて務めを果たした気分になりました。実のところ、半分以上人生を投げ出した気分だったのです。

 それでも今もちゃんと生きています。よくぞ生き残らせてもらえたものだと我ながら不思議に思えて仕方ありません。


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  50歳 ○ Ca拮抗薬Pの指示事項回答提出
       家庭血圧による評価結果です。
  52歳 ○ Ca拮抗薬Pの承認申請取下げ
       かつて臨床開発責任者として心血を注いだ分、子供を亡くした気分。
      ○ 次長を任命される。
       昇進の望みが絶えました。制度変更で52歳から昇給額半額と決定。
      ○ Ca拮抗薬Pの特許期間満了
       商品化の可能性が完全に断たれました。
  53歳 ○ 不安定狭心症発症
       病変は左右冠動脈にあり。右冠動脈にはPCIでステント留置し、左冠動脈に
       ついては病変残るも治療の適応外のため経過観察となりました。
       同意書に署名時、振戦。
  54歳 ○ 臨床開発部門の教育担当へ異動
       体のよい窓際族で、完全に臨床開発の戦力外となりました。
  55歳 ○ 制度変更で55歳が昇給停止年齢と決定
  58歳 ○ 役職退任
       この頃から早寝・早起きが習慣化し、歩行速度が極端に低下。読書が苦痛で
       拷問と思うようになりました。
      ○ 住宅ローン完済 
       48歳時から低金利ローンへ組み替えて繰上げ返済を実行した結果です。
      ○ 二男結婚
  59歳 ○ 墓地取得
  60歳 ○ 定年退職
       エルダー社員と称する日給月給の契約社員として会社に残留。
  61歳 ○ 不安定狭心症再発
       左冠動脈にPCIでステント留置、同意書に署名時に振戦。
      ○ 完全退職
       朝から連続飲酒始まる。
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 私の半生を語るキー・ワードは上昇志向と依存性向だと思っています。これらは共に御しがたい動力エンジンで、片(かた)や空回り、此方(こなた)暴走をしばしば引き起こしたものでした。上昇志向が空回りして、嫉妬先をお門違いの先輩社員へ向けたこともありました。

 さらに追加すると、慢心と “おもしろくない” という気持ちでしょうか。普段、慢心は隠れているのですが、順風漫歩のときに限って顔を出し足を引っ張るのが常でした。“おもしろくない”  についてはお察しいただけると思います。自分の思い通りにならなくなると、大体お酒が定番となりました。

 私は元来プライドだけが高く、臆病で物臭(ものぐさ)の男です。そんな男が上昇志向に背中を押され、柄にもなく活発に動き回ったのです。その結果、様々な問題を呼び込むことになり、否応なしにそれらに向き合うハメとになりました。

 自分の思い通りにならないと “おもしろくなく” なり、それを紛らわそうとした飲酒が視野を狭め、一層思い込みを強くしたのだと思います。強い依存性向が習慣的飲酒となり、それが問題の複雑化や、仕事上の重大な判断ミスといった悪循環を招いたのです。

 新薬開発にとって用法設定は生命線の一つですが、思い込みからその用法設定の試験デザインを設計ミスしたことが先ず挙げられます。さらに旧GCP査察対策でもいくつかの重大ミスが重なりました。認識不足の上に集中力を欠いて時間配分を間違ったこと、それが原因で時間切れから心電図の点検ができなかったことなどです。

 試験デザインの設計ミスが申請取下げに至った根本原因ですし、認識不足による時間配分ミスが審査をほぼ1年間遅らせたのです。

 これらがアルコールの所為だったことは明らかです。挙句の果てに味わったのが筆舌しがたい艱難辛苦の連続で、さすがにこれで燃え尽きてしまったのだと思います。

 現役当時は、思い通りにコトが進まず、ツイテナイとばかり嘆いていました。 が、素面になって振り返ってみると、決して不運のせいばかりではなかったのです。その責めの大半はアルコールに溺れた自分にあった、今ではこのように考えられるようになりました。

 この連載シリーズ『アルコール依存症へ辿った道筋』は “なぜ?” を介した当時の私自身との対話です。第二の人生を送るためには、“酒が一番” のそれまでの生き方を一旦断ち切ることが不可欠で、そのためには “底着き” と断酒を経ることが避けられなかったのだと思います。この過程を経て初めて再生(reset)に踏み出すことができ、再び生きる意欲を取り戻すことができたのです。これが過去との対話によって得られた実に大きな大きな収穫でした。

 数少ないささやかな成功体験と、その何十倍もの艱難辛苦。成功体験は物質的財産となって私の第二の人生を支えてくれ、艱難辛苦は精神的な知恵となって現在の私を支えてくれています。これが今の私の実感です。

 振り返ってみると、この連載シリーズで綴った事柄は私の記憶に鮮明に残っているものばかりです。私の半生に起こった重大事件ばかりと言い換えてもよさそうです。一般的には、青春時代が人生で最も劇的で変化に富んだ時代とするようです。私にとって「波瀾万丈」という言葉がピッタリの時代は、大学受験前後の一時期と、30歳代半ばから50歳代初めまでの時期だったと思えてなりません。まさしく生き残りを賭けた真剣勝負の時代でした。それだけに私の最も輝いていた時代だったのです。


「アルコール依存症へ辿った道筋」シリーズはこれでお終いです。長い間連載にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。今後は思いつくままに、随筆を続けます。引き続きお付き合いください。



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