それなりに自信をもって提出した回答が「見劣りする」とまで言われてしまいました。この件の発端となった他社の類似薬についてお話しましょう。ずっと後に情報公開となって分かったことです。
我々のCa拮抗薬Pに追い着き並行審査となった他社の類似薬は、申請時の資料が粗雑な内容でした。そのため審査開始初期に追加治験の指示を受けたようでした。用法・用量設定のデータ構成が経験未熟な者の仕事という印象が強かったのです。
ところが回答とした追加治験では、1日1回服薬で定評のある同種・同効の市販薬Nを対照薬として比較試験を実施していました。しかもそれが24時間自由行動下の血圧日内変動(ABPM)試験だったのです。対照薬に選んだ市販薬Nは、当時すでにCa拮抗薬としてばかりでなく医療用医薬品としてもトップ・ブランドの地位を占めていました。文句なしの対照薬でした。
その際の薬剤の入手の仕方がチャッカリしていました。流通市場で購入した商品の錠剤を、そのまま着色カプセルに詰め込んで外から見分けがつかなくし、見た目だけ薬剤を盲検化したやり方だったのです。ダブル・ダミー法(その4、参照)など手間のかかることは一切なしでした。
対照薬提供に関する製薬業界の協定では、対照薬を入手するには煩雑な手続きが必要で、相当の時間がかかります。その時間のかかる協定を横目で見ながらの、“抜け穴” を使った見事な奇襲戦法でした。
対照薬製造会社から協定違反の抗議を受けたら、次のような釈明を準備しているものと見て取れました。ABPM用携帯型血圧計には測定データ記憶装置が内蔵されており、人為的なデータ操作はできません。データの盲検化が主張できるのです。データの盲検化が担保されているので薬剤の盲検化までは不要であった、だから市販品を購入して使用したまでと釈明できます。その一方で当局には二重盲検化に精一杯努力したとアピールすることも可能なのです。
結局、追加治験指示に対する他社の戦略が見事の一言だったのです。第一に、比較に用いる対照薬を最高評価の市販薬Nにすること。第二に、ABPMを使った薬効評価の報告がないためサンプルサイズ(優劣や同等性の根拠となる対象患者数)が算出不能で済むこと。さらに第三に、少数例の比較で両者に見た目だけ差がなければ十分で、それを問題視されることはないこと。以上を読み切った上の一発逆転の発想でした。その戦略性の高さに加え、手間を省いた対照薬入手のやり方も老獪で見事でした。
他社の担当者は指示事項への対応で百戦錬磨のギャンブラーに一変していました。1日1回服薬の評価が固まっている市販薬Nが対照薬ですから、両者に差がない結果が得られたなら用法・用量の問題は全て解決ということになるのです。このABPM比較試験成績1本だけで承認を勝ち取ったも同然でした。
このABPM比較試験成績ではT/P比(その28、参照)も算出して回答していましたが、算出方法の詳細な記述はありませんでした。見栄えが良ければそれでいい、駄目で元々イチかバチかの博打そのものでした。敵ながら天晴なゲリラ戦法と感心したものです。
私が新Ca拮抗薬Pの比較検証試験で対照薬としたのは、1日2回服用のCa拮抗薬ALでした。申請時には辛うじてトップ・ブランドのひとつとしての地位を保ってはいましたが、5回目の指示事項を受けた頃には、1日1回服用のCa拮抗薬Nにあっさり首位を奪われ、その凋落した姿は往時を偲ぶべくもありませんでした。
承認申請してから徒に(?)過ぎた3年10ヵ月という時間は、ビジネスの世界では主役交代をもたらすぐらいに重いものでした。対照薬同士を譬えで比べると、片や人気絶頂の花形役者、此方(こなた)人気凋落著しい過去の人、こんな感じでしょうか。当局が「見劣りする」と言った表現は言い得て妙でした。
* * * * *
1日1回服薬の根拠が不十分と、名指しでT/P比が出た指示事項の直前に、旧GCP違反を事由として当局から申請取下げの処分が下った別化合物があったことは(その27)で述べました。T/P比の回答で揉めた挙句、家庭血圧による追加治験を実施することで当局と折り合いが着いた年の晩秋に、追い打ちをかけるように新たな不祥事が発覚しました。私が47歳のときでした。
当時の医薬品事業の主力商品は、血栓を出来にくくする抗血小板薬と、胃粘膜を増強させる抗胃潰瘍薬の二つでした。会社としては主力商品の後継品を急いでいました。そのため名古屋大医学部薬理学教室と抗血小板薬の後継品の共同研究をしていました。当然、共同研究には研究費が伴います。その研究費の受け皿となっていたのが実体のないトンネル会社であったことが発覚したのです。トンネル会社の代表は名古屋大学の担当教授の家族が務めていたそうです。
この事件は名大贈収賄事件として全国的に報道されました。会社の研究所や私たちのオフィスの一部も家宅捜索され、地元の名古屋では連日の報道で大騒ぎだったようです。捜査の手は、前研究所長だった臨床開発部門トップで常務のYa氏や、さらには社長本人にまで及びました。
身柄を拘束され連日の取り調べを受けた結果、社長本人が贈賄の罪を認め、裁判で執行猶予付きの実刑が確定しました。拘留中に会社の社長職ばかりでなくグループ会社の役員のほぼ全てを辞任し、急遽社長代行として創業家以外の副社長が当たることになりました。
創業家によるワンマン経営の悪い面が出てしまった事件でした。経営の全権を一手に握っていた社長に諫言する幹部が一人もいなかったのです。たとえば新薬の臨床開発では次のようなエピソードがありました。
当局は、新薬の効能・効果として目指す対象疾患ごとに、具体的な治験の進め方を定めた各種臨床ガイドラインを行政指導として公表しています。ガイドラインに即していなくても、ガイドライン以上に発展した科学的根拠のある内容であれば、受け入れ可能とはされていました。その道の専門家が、定説から定めたものがガイドラインです。ガイドライン以外の方法を一製薬企業が簡単に挑戦できるものではありません。
社長は業界の柵(シガラミ)から自由で独創的な発想を殊の外大切にする人でした。この臨床ガイドラインについて、社長が「ガイドライン通りにしなくてもイケルんじゃないの?」と語ったことがありました。この言葉に対し、実際には不可能であることを誰も諫言できずに黙ったままというのがお決まりのパターンだったのです。
「法律というものは後から(現状に)追い着くものだ」、これも社長の口癖でした。柵(シガラミ)から自由でありたいという社長の考えに迎合し、法令軽視という空気が社内にありました。その目に見えない空気が、法に触れてはならないという企業コンプライアンスの意識を薄めていったのだと思います。
名大贈収賄事件の翌年には臨床検査事業で不祥事が発覚し、さらに翌々年には医薬品営業部門が枚方市民病院贈収賄事件の共犯とされるなど不祥事が続きました。’91年の使用成績調査データ捏造事件を発端に枚方市民病院贈収賄事件まで、この間の10年で大々的にマスコミを賑わせた不祥事は4回にのぼりました。
名大贈収賄事件の翌年、株主総会で創業家以外の社長が初めて就任することに決まりました。これを期に遅まきながら法令順守と企業コンプライアンス教育に初めて全社で取り組むことになったのです。
当局は、不祥事のオンパレードに呆れ返り、どうもこれは普通の会社ではないと苦々しく思っていたに違いありません。新薬の承認は、新合成抗菌薬の外用薬が’91年の使用成績調査データ捏造事件の翌々年に承認されたのが最後でした。その間、私の担当したCa拮抗薬Pをトップバッターに新有効成分として4成分の申請が続いたのですが、全て申請取下げとなりました。皮肉なことに、申請取下げのシンガリがCa拮抗薬P でした。
当局が “見劣りがする” としたのは指示事項回答ばかりか会社そのものだったのです。それが承認審査にも影響したと思えて仕方ありません。次の新有効成分が承認されるまで “空白の時間” が13年間も生じてしまいました。
アルコール依存症へ辿った道筋(その32)につづく
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我々のCa拮抗薬Pに追い着き並行審査となった他社の類似薬は、申請時の資料が粗雑な内容でした。そのため審査開始初期に追加治験の指示を受けたようでした。用法・用量設定のデータ構成が経験未熟な者の仕事という印象が強かったのです。
ところが回答とした追加治験では、1日1回服薬で定評のある同種・同効の市販薬Nを対照薬として比較試験を実施していました。しかもそれが24時間自由行動下の血圧日内変動(ABPM)試験だったのです。対照薬に選んだ市販薬Nは、当時すでにCa拮抗薬としてばかりでなく医療用医薬品としてもトップ・ブランドの地位を占めていました。文句なしの対照薬でした。
その際の薬剤の入手の仕方がチャッカリしていました。流通市場で購入した商品の錠剤を、そのまま着色カプセルに詰め込んで外から見分けがつかなくし、見た目だけ薬剤を盲検化したやり方だったのです。ダブル・ダミー法(その4、参照)など手間のかかることは一切なしでした。
対照薬提供に関する製薬業界の協定では、対照薬を入手するには煩雑な手続きが必要で、相当の時間がかかります。その時間のかかる協定を横目で見ながらの、“抜け穴” を使った見事な奇襲戦法でした。
対照薬製造会社から協定違反の抗議を受けたら、次のような釈明を準備しているものと見て取れました。ABPM用携帯型血圧計には測定データ記憶装置が内蔵されており、人為的なデータ操作はできません。データの盲検化が主張できるのです。データの盲検化が担保されているので薬剤の盲検化までは不要であった、だから市販品を購入して使用したまでと釈明できます。その一方で当局には二重盲検化に精一杯努力したとアピールすることも可能なのです。
結局、追加治験指示に対する他社の戦略が見事の一言だったのです。第一に、比較に用いる対照薬を最高評価の市販薬Nにすること。第二に、ABPMを使った薬効評価の報告がないためサンプルサイズ(優劣や同等性の根拠となる対象患者数)が算出不能で済むこと。さらに第三に、少数例の比較で両者に見た目だけ差がなければ十分で、それを問題視されることはないこと。以上を読み切った上の一発逆転の発想でした。その戦略性の高さに加え、手間を省いた対照薬入手のやり方も老獪で見事でした。
他社の担当者は指示事項への対応で百戦錬磨のギャンブラーに一変していました。1日1回服薬の評価が固まっている市販薬Nが対照薬ですから、両者に差がない結果が得られたなら用法・用量の問題は全て解決ということになるのです。このABPM比較試験成績1本だけで承認を勝ち取ったも同然でした。
このABPM比較試験成績ではT/P比(その28、参照)も算出して回答していましたが、算出方法の詳細な記述はありませんでした。見栄えが良ければそれでいい、駄目で元々イチかバチかの博打そのものでした。敵ながら天晴なゲリラ戦法と感心したものです。
私が新Ca拮抗薬Pの比較検証試験で対照薬としたのは、1日2回服用のCa拮抗薬ALでした。申請時には辛うじてトップ・ブランドのひとつとしての地位を保ってはいましたが、5回目の指示事項を受けた頃には、1日1回服用のCa拮抗薬Nにあっさり首位を奪われ、その凋落した姿は往時を偲ぶべくもありませんでした。
承認申請してから徒に(?)過ぎた3年10ヵ月という時間は、ビジネスの世界では主役交代をもたらすぐらいに重いものでした。対照薬同士を譬えで比べると、片や人気絶頂の花形役者、此方(こなた)人気凋落著しい過去の人、こんな感じでしょうか。当局が「見劣りする」と言った表現は言い得て妙でした。
* * * * *
1日1回服薬の根拠が不十分と、名指しでT/P比が出た指示事項の直前に、旧GCP違反を事由として当局から申請取下げの処分が下った別化合物があったことは(その27)で述べました。T/P比の回答で揉めた挙句、家庭血圧による追加治験を実施することで当局と折り合いが着いた年の晩秋に、追い打ちをかけるように新たな不祥事が発覚しました。私が47歳のときでした。
当時の医薬品事業の主力商品は、血栓を出来にくくする抗血小板薬と、胃粘膜を増強させる抗胃潰瘍薬の二つでした。会社としては主力商品の後継品を急いでいました。そのため名古屋大医学部薬理学教室と抗血小板薬の後継品の共同研究をしていました。当然、共同研究には研究費が伴います。その研究費の受け皿となっていたのが実体のないトンネル会社であったことが発覚したのです。トンネル会社の代表は名古屋大学の担当教授の家族が務めていたそうです。
この事件は名大贈収賄事件として全国的に報道されました。会社の研究所や私たちのオフィスの一部も家宅捜索され、地元の名古屋では連日の報道で大騒ぎだったようです。捜査の手は、前研究所長だった臨床開発部門トップで常務のYa氏や、さらには社長本人にまで及びました。
身柄を拘束され連日の取り調べを受けた結果、社長本人が贈賄の罪を認め、裁判で執行猶予付きの実刑が確定しました。拘留中に会社の社長職ばかりでなくグループ会社の役員のほぼ全てを辞任し、急遽社長代行として創業家以外の副社長が当たることになりました。
創業家によるワンマン経営の悪い面が出てしまった事件でした。経営の全権を一手に握っていた社長に諫言する幹部が一人もいなかったのです。たとえば新薬の臨床開発では次のようなエピソードがありました。
当局は、新薬の効能・効果として目指す対象疾患ごとに、具体的な治験の進め方を定めた各種臨床ガイドラインを行政指導として公表しています。ガイドラインに即していなくても、ガイドライン以上に発展した科学的根拠のある内容であれば、受け入れ可能とはされていました。その道の専門家が、定説から定めたものがガイドラインです。ガイドライン以外の方法を一製薬企業が簡単に挑戦できるものではありません。
社長は業界の柵(シガラミ)から自由で独創的な発想を殊の外大切にする人でした。この臨床ガイドラインについて、社長が「ガイドライン通りにしなくてもイケルんじゃないの?」と語ったことがありました。この言葉に対し、実際には不可能であることを誰も諫言できずに黙ったままというのがお決まりのパターンだったのです。
「法律というものは後から(現状に)追い着くものだ」、これも社長の口癖でした。柵(シガラミ)から自由でありたいという社長の考えに迎合し、法令軽視という空気が社内にありました。その目に見えない空気が、法に触れてはならないという企業コンプライアンスの意識を薄めていったのだと思います。
名大贈収賄事件の翌年には臨床検査事業で不祥事が発覚し、さらに翌々年には医薬品営業部門が枚方市民病院贈収賄事件の共犯とされるなど不祥事が続きました。’91年の使用成績調査データ捏造事件を発端に枚方市民病院贈収賄事件まで、この間の10年で大々的にマスコミを賑わせた不祥事は4回にのぼりました。
名大贈収賄事件の翌年、株主総会で創業家以外の社長が初めて就任することに決まりました。これを期に遅まきながら法令順守と企業コンプライアンス教育に初めて全社で取り組むことになったのです。
当局は、不祥事のオンパレードに呆れ返り、どうもこれは普通の会社ではないと苦々しく思っていたに違いありません。新薬の承認は、新合成抗菌薬の外用薬が’91年の使用成績調査データ捏造事件の翌々年に承認されたのが最後でした。その間、私の担当したCa拮抗薬Pをトップバッターに新有効成分として4成分の申請が続いたのですが、全て申請取下げとなりました。皮肉なことに、申請取下げのシンガリがCa拮抗薬P でした。
当局が “見劣りがする” としたのは指示事項回答ばかりか会社そのものだったのです。それが承認審査にも影響したと思えて仕方ありません。次の新有効成分が承認されるまで “空白の時間” が13年間も生じてしまいました。
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