ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

「人間は平等」は正しいですか?

2015-11-27 06:26:41 | 世相
 駆けっこで1等の子がいてビリの子がいる。いいじゃないですか。それが当たり前だと思います。「人間は皆平等」は偽善です。この言葉にはマヤカシがあります。耳触りの良い言葉には気を付けましょう。

 私は1951年(昭和26年)生まれですから、敗戦後の空気や朝鮮戦争景気の活気がまだ濃く漂っていた時代に幼少期を過ごしました。“赤胴鈴之助”や “鞍馬天狗”などのチャンバラ物、海軍ゼロ戦飛行隊や陸軍隼飛行隊の戦争物、“月光仮面”や “エイトマン”などの漫画を見て育ちました。

 正義は弱い者の味方で、強くて勇気があり、悪者に必ず勝つというイメージがあります。正義の味方は憧れでした。もっとも後年、正義も弱者も立場によって変わる相対的なものと分かって来ましたが、“正義は勝つ” は今でも頭に刷り込まれています。しかし、下手をすると今では “勝った方が正義” と考える方が現実的か、と変わって来ているようです。正確に言うと、勝った方が “自分が正義だ” と主張するのも力関係からして尤もだ、と承服できるようになったのです。こうなると、正義も何かイカガワシく怪しげなものになりますね。

 明治維新以来、日本と日本人は欧米文明が進歩的で圧倒的に強力であることを目の当たりにし、欧米に追い着きたいを国是としてきたと思います。富岡製糸場や八幡製鉄所、鉄道敷設が象徴と思いますが、欧米文明を優れた模範とする富国強兵政策の精神が読み取れます。近代的な欧米流の軍隊を持ち、東アジアの満州で周回遅れの欧米流植民地争奪戦にも参加しました。世界に植民地を持つ欧米列強が東アジアに触手を伸ばして来ているのですから、国防上それに力で対抗しなければならないという理由付けは現実的判断で、もっともなことです。

 満州での権益を巡り、1923年関東大震災、’27年昭和金融恐慌、’29年世界恐慌、’31年満州事変という状況の変遷の中で、米国の対日経済封鎖を初めとするABCD包囲網を受けるに至って米国と直接交戦せざるを得なくなり、圧倒的な国力の差の前に日本は敗戦してしまいました。この敗戦は目標としてきた欧米文明の本家に敗れたこととも言えるでしょう。

「平和がいい。戦争はもうこりごり。」
「負けた、やっぱり本家の欧米文明には敵わなかった。」
「勝ったものが正義。」
「勝者・連合国軍総司令部(GHQ)の打ち出す政策は意外に悪くない。」
「日本国憲法は欧米思想の粋そのもの、GHQの押し付けでも受け入れるのは仕方ない。」
これが敗戦によって厭戦気分の支配した日本国民一般の偽らざる本音ではなかったでしょうか。

 実際、勝者GHQが打ち出した政策は、貴族制度の否定、農地改革(解放)、家制度廃止など封建制度の残滓の解消、男女平等(同等の権利)と女性参政権、財閥解体、勤労者の団結権・団体交渉権・団体行動権など労働三権(労働基本権)の導入など自由・民主主義的政策でしたが、同時に平等を重視する政策とみることもできます。これらの政策は、戦時全体主義的統制下にあって極端に自由を抑圧されてきた一般国民に解放感をもたらしたことは疑いありません。それまで法度として禁じられてきた諸々のものがほとんど誰でも自由に出来るようになったのですから当然です。

 今でこそ薄れてはきましたが、日本人には古くから舶来品崇拝気質が強く、さらに元来流行に後れたくないミーハー的気質もあります。明治維新以来欧米文明を国中に広め、優れた模範としてきた土壌も、日本人のそのような気質が助長したものでしょう。進駐軍がもたらした自由な解放感が日本人の舶来品崇拝気質とも相俟って、GHQの政策を一般国民が抵抗なく受け入れたのだと私は見ています。

 これらがGHQの表向きの政策とすれば、GHQが隠密裏にしかも強力に推し進めた政策がありました。War Guilt Information Program (WGIP) がそれです。戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画であり、徹底的な日本人洗脳計画でした。WGIPは敗戦直後の1945年10月2日に開始されたGHQの政策です。産経新聞によるとその原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)であり、その手法をGHQが取り入れたことにあったそうです。当時、米国政府内にもコミンテルンの工作員が多数浸透していた事実があったということから、戦勝国の傲慢さが左翼的政策を易々と取り入れる隙を与えたのだろうと考えられています。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)がこの政策と同根の発想に基づいて行われた象徴ですし、言論統制のためプレスコードによる報道規制もこの政策に基づいて行われたのです。プレスコードは、日本は侵略戦争を遂行した極悪人であるとする贖罪意識と自虐史観を徹底させた報道検閲ですし、連合国ばかりでなく中国(人)や朝鮮半島(人)に対する批判も一切罷りならんという規制内容だったそうです。私は完全退職後のつい最近まで、WGIPやプレスコードの存在をまったく知りませんでした。何かにつけ反戦・平和を叫び、極端なまでに中韓両国に遠慮する、マスメディアで最近までも続く自虐史観報道をみるにつけ、占領政策の置き土産が戦後70年経った現在でも脈々と生き続けていると思えてなりません。

 戦後の平和で解放感に溢れた国民の空気とWGIP政策とが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」という前文を持つ日本国憲法を絶対視し、戦前・戦中のすべてを旧式で悪者とする、極端に自虐的な戦後民主主義思潮を生んだのではないでしょうか? 私は、戦後民主主義思潮の主流が自虐史観と平等主義にあったと考えています。

 確かにGHQの打ち出した政策は自由と民主主義が主眼とはいえ、平等が第一の社会主義的色彩が強いものとも見えます。社会主義的左翼思想の方が進歩的とさえみる戦後民主主義思潮。これが大江健三郎や吉永小百合など進歩的文化人とも言われる人々が信奉する戦後の思想風土であり、そのような教育環境の中で私は育ったと考えています。私も国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を柱とする日本国憲法に何ら違和感を持たず、当然のものと受け入れて来ました。

 戦後民主主義思潮が進歩的とみ、目標とさえしていた左翼思想。私にも同調しようとした時期が高校生時代に一時期ありました。ドストエフスキーの『悪霊』の影響もあったでしょうが、左翼人の “自分こそは正義” という文字通りの独り善がりや、インテリ知識人=エリート気取り、大学紛争での暴力ゴッコ、仲間内を粛清する連合赤軍、セクト間での殺し合いなどがどうにも鼻に付き、距離を置いていました。決定的だったのは、彼らの考えの底流に共通している “人間は平等” であるべき、という偽善に気付いたからでした。人は各々顔も、身体も、感じ方も、考え方も、能力も違う。これが現実です。他人とは違い(=差)があることが当たり前で、逆に自分には他人にない特長もあるのです。

 元々違いがある人々をどうやって “平等” にするのか? 力づくで強制的に平等にしてしまうしか方法がないのではないか、そう考えるに至りました。富める人から財を取り上げ、皆で分配すれば平等になります。行政権力を強大化し、個々人の権利の行使を最小限に抑え込めば、人為的に平等を実現することができるでしょう。教育を画一化して洗脳教育を強制的に徹底すれば、個々人の思想の均一化(=平等)が図れます。思想の自由は、言論の自由を徹底的に封殺すれば抑えることが可能でしょう。全能の神を想定した宗教は厄介ですが、宗教施設や文物を禁止するしかありません。

 これらのことを実行するには独裁的な権力の集中が必須となります。手足となる巨大な官僚機構も必要でしょう。平等社会を実現しようとすれば、これらの仕組の設置が必然的帰結となります。案の定、社会主義国から漏れてくる情報は、これらを裏付ける不自由な恐怖社会そのものを伝えていました。ソ連の強制収容所、中国の大躍進運動や文化大革命の内実は酷いものでした。

 さらに国民経済に目を向けると、計画経済では破綻するのが必定と見えるのです。計画経済の社会主義社会で経済を成長させようとしたら、一国の国内だけでは不可能です。必要なだけ生産するのでは、人口増以外に経済の拡大が見込めません。必ず国外に販路の拡大を求めるしかなくなります。畢竟、社会主義国の覇権主義は合目的的なことです。ソ連は衛星国をしっかり確保し、あろうことかアフガニスタン侵攻までやってのけました。

 “人間は皆平等” これは共産主義や社会主義を標榜する党派共通のイデオロギーです。日本共産党は密室的な民主集中制と上意下達システムを採っており、最終目標として平等な社会主義・共産主義社会の実現を捨てていません(日本共産党綱領2004年1月17日 第23回党大会で改定)。民主的を掲げ最も政党らしく装う政党ですが、民主主義とは相いれません。“人間は皆平等”の正体にご用心!

 味のある辛口で知られた評論家、山本夏彦は次のように述べています。
「持てるものから奪い、持たざるものに公平に分配するのは正義だというのは社会主義の正義で、その根底にあるのは嫉妬である。嫉妬は常に正義に変装してあらわれる。・・・私が正義をほとんど憎むのは、自分のことを棚に上げて初めて正義だからである。」

 現代では一方で、非力な市民を装って弱者支援をダシに反対機運を盛り上げることに血道を上げるイカガワシく怪しげな市民活動家・団体があります。他方で、快適な自分の生活を守ることだけに汲々とし、“自分だけは・・・” 面倒や災難に巻き込まれたくない自己都合中心の人々がいます。面倒や災難の兆しがあると、そこに怪しげな市民活動家・団体が力を貸す振りをして現れ、事を炎上させて事態を益々複雑にするというのが大方の市民反対運動の傾向のようです。

 彼ら市民活動家・団体の考えはこうです。「自分(たち)の政治的主義・主張だけが正義で、正義のためなら日本社会全体が壊れても構わない。正義に抗う政府を揺さぶれるなら反日を掲げる他国と連携することも厭わない。」これはテロリストに通じる無政府主義者と同じ考え方です。

 彼らに通底するのは、さもさも正義の味方を装い、耳触りの良い “人間は皆平等” を喧伝することです。その魂胆にあるのは、単に人々に潜む嫉妬心を煽ることであり、否応なしに人々を反対運動に巻き込み炎上させることだと見ています。少数意見を尊重するのが民主主義、彼らの常套句です。私はこのように理不尽な輩の存在と世相に腹立たしさを覚えて仕方ありません。彼らは権利行使だけの自由を弄ぶ、戦後民主主義(思潮)の鬼子ではないかと考えています。

 平等:その社会を構成する、すべての人を差別なく待遇すること。(新明解国語辞典)

 平等=“誰でも等しく” というニュアンスがあります。誰もが平等でありうるのは、権利を持っていること、義務を負うこと、死を迎えること、これらの3つだけに限られると思います。日本国憲法に平等の文字がある条文は、「すべての国民は法の下に平等(第14条)、婚姻で・・・個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚・・・(第24条の2)」の2ヵ所だけです。“機会均等”こそが平等のイメージに合致する概念と考えます。機会を活用できる権利は誰でも等しく持っているのですから・・・。

 もちろん、格差のある社会を放任してよいと言っているのではありません。大きな格差があるのは問題で、不当な格差は政策により縮小されるべきです。ただ、平等の言葉の持つニュアンスが、“結果平等” を匂わしていて怪しいのです。 “機会均等” の方が正しいと思います。平等の呪縛から解放され、他人とは違う長所を探し出す訓練が日本人には必要だと思います。出る杭を伸ばし、不揃いや多様性にこそ面白さを見出す、そのような文化をも育む日本でありたいと願ってやみません。

 山本夏彦はこうも言っています。
「私たちは偽善が大好きで、偽善なしではいられない。」
私たちはこの警句を常に噛みしめ、耳触りの良い言葉には気を付けるようにしましょう。人の考えの本音は行動に現れます。行動をじっくり見てから判断しても遅くはありません。


今回は2015年1月3日に投稿したものを全面的に改訂して再投稿しました。



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“思い込み” の逸らし方 “ありのままに受け容れる”

2015-11-20 19:09:39 | 病状
 その日は、2ヵ月ぶりに別の病院の糖尿病外来と、毎日通院のアルコール依存症専門クリニックとの掛持ち受診の日でした。糖尿病外来の診察を終えた後、専門クリニックに辿り着いたのは11時過ぎぐらいで、いつもよりはるかに遅い時刻でした。待合室は結構な人数の患者で混んでいました。受付嬢からは、混み具合からすると、主治医S先生の休憩(昼食)時間に懸るかもしれず、診察はその後になってしまうかもしれないと告げられました。妙なことを言うものだと思ったのですが、その意味を質すこともせず、あまり気にも留めませんでした。

 診療の途中で、ときどきS先生が用を足しに診察室から出て来ることがあります。その日も途中で一度あり、待合室にいた私に珍しく言葉をかけてくれました。さらに私を診察中にも、S先生はその言葉をもう一度繰り返しました。

 「・・・そうですか。(断酒して)2年経った今でも、やっぱり
  家族から冷たくあしらわれているんですか。」
 「そうなんですよ。やっぱ、今はしょうがないですかねぇ・・・? 
  でもね、こちらも向こうに気兼ねなく勝手できますからねぇ・・・
  それがいいんですよ。」
 「今暫くはそんなもんだろうねぇ・・・。ウチも相手にされなくて
  ねぇ、何とも妙な気持ちだねぇ・・・。」S先生はそう言うと、
  苦笑いしていました。
 「へぇ~、先生も?・・・無理して患者に合わせなくともいいです
  よ!(笑)」

 笑いながら診察室を出た途端、一人待合室で待っていた患者のT氏が突然声をかけて来ました。
 「ヒゲジイさん、大丈夫だったんですか? 
  危なかったですねぇ・・・。」
この思いがけない問いかけに、思わず聞き返してしまいました。
 「えっ、何が? 何かあったんですか? 私が危なかったの?」
 「そう、危なかったんですよ! 大丈夫だったんですか・・・。」
 「Tさん! 何かあったんですか?・・・・・・」
ちょうど診察の順番となったT氏が呼ばれ、診察室に入ってしまいました。私は不審を抱いたまま、一人取り残されました。

 事情が分からなかったので腑に落ちない気分でいましたが、不意に包丁を持った患者の暴行未遂事件のことが頭を過りました。つい最近、まさにこの待合室でその事件があったと聞いていたのです。

 その患者は断酒が上手くいかず、通院も不規則だったそうです。久々に来院した際、応対した受付嬢の言葉を曲解してしまい、腹を立てて受診もせずに一旦帰ったそうです。その日の内に再び戻って来たかと思うと、事もあろうに持ってた包丁でその受付嬢に切りかかったというのです。幸い大事には至らず、未遂のままに終わったということでした。これが、私が聞いていた暴行未遂事件のすべてです。

 その受付嬢は私の近所に住んでいる人で、ある朝、私が道のゴミ拾いをしているところに偶然通りかかって、この事件について話してくれたのです。その患者は何かを根に持っているらしく、再び襲われる可能性が高いので、渋々退職することにしたと嘆いていました。そこで万が一でも住居がバレるのを恐れ、誰にも住居を口外しないよう、近隣の私にも頼んできたのでした。

 アルコール依存症者に特有の、他罰的な思い込みによる被害妄想の典型例です。自分勝手な思い込みから、はた迷惑で危険な狼藉を働いたのです。とんだとばっちりを受けたものだと痛く同情してしまいました。

 T氏の言った “大丈夫?” と、“危なかった!” という二つの言葉が、この暴行未遂事件を呼び覚ましたのだと思います。「ひょっとして、自分も誰かに恨まれ狙われているのだろうか?」私は自分の身に危害が迫っているものと勝手に思い込み、えもいわれぬ不安に襲われてしまいました。首尾よくいった意味に受け取ればいいものを、危ないの持つ先入観にのみ囚われて、勝手に暴行未遂事件へと連想を拡げたのだと思います。

 いきなりスリルとサスペンスのただ中に放り込まれたようなものでした。帰宅してからも不安が募り胸がザワつきました。悪い方へ悪い方へと連想が飛び、挙句の果てひょとしたらT氏の脅しかも(?)とまで疑心暗鬼になってしまいました。そのときふと閃いたのです、その日にあった出来事の事実関係を “ありのまま” に整理してみたらどうだろう・・・と。どうやら暴行未遂事件へのみ気が奪われ、あまりにも偏った “思い込み” から感情的になり過ぎていると気づいたのです。

 普段のT氏に不審な言動がなかったこと、受付で聞いたS先生の昼食の予定、診療の途中でS先生が待合室の混み具合を見ていたこと、診察室を出た途端のT氏の言葉、そして診察の最後の順番がT氏だったこと、これらの事実からは危険な兆しなど何一つ見当たりませんでした。その一方で、暴行未遂事件関係で懸念があるとすれば、被害者の住居を私が知っているという一点だけでした。以上の事実を客観的に眺めてみると、その日の出来事と私の懸念との接点はまったく見当たらなかったのです。

 蓋然性の高さから辿り着いた私の推理は次のようになりました。その日おそらくT氏のたっての希望で、S先生の診察を受ける順番が昼食前の最後と決まっていた。そこに後から私の診察が割り込んだ形になってしまった。それで、T氏から “大丈夫?” と “危なかった!” という言葉が出て来た。何の変哲もない極めて合理的な推論です。

 受付に確認したところ、最後尾の診察順を希望することは可能で、T氏はよくやっているのだそうです。至極平々凡々無難な結末となりました。危険のニュアンスを持つ言葉が、とんだ “思い込み” を招いた典型例です。私は殊のほかストレスに過敏になっていたのでしょうか?

 “ありのままを ありのままに受け容れる”

 “思い込み” を逸らすには、これしかなさそうです。身に危険が迫る類のストレスを受けると、先入観から余計感情に左右されがちです。考え方が悪い方へ悪い方へと傾きがちなので、無関係な人に濡れ衣を掛けかねません。一歩引いて冷静に、角度を変えてモノを観る。これが今回、私が得た教訓でした。

 なお、その後もS先生の家庭事情については聞いていません。悪しからず・・・。


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続 飲み方が異常となった転機

2015-11-13 18:29:03 | 自分史
 飲み方の異常というのは、“飲み出したら止まらない”といった酒量の多さも問題ですが、TPO(時と場所、場合)を弁えずに飲酒してしまうことの方が遥かに重要です。“隠れ酒”や、“朝酒”(朝から飲酒)、通勤途中での飲酒、勤務時間中の飲酒、葬儀の式場などでの飲酒などは立派な飲み方の異常です。このような人は、飲まずにはいられない状態=アルコール依存症になっているのです。

 会社勤めの現役サラリーマン時代、30歳代後半から40歳代始めまで文字通り眼の回るような多忙な日々を送りました。出張も多く、県庁所在地で訪れなかった場所が水戸市と山口市、鳥取市だけ、これが私の密かな自慢です。(この3都市には治験先となる大病院がなかっただけの話なのですが・・・。)もちろん、47都道府県で行ったことのない所はありません。出張も内勤業務も、とにかく無茶苦茶になりながらこなしました。

 以前、飲み方が異常になった一番手の転機は、定番となった出張帰りの電車内での即ビールだったとお話ししました。今回は内勤業務での残業にまつわる話です。

 臨床開発というのは、患者の治験データを集積し、それらを基に “医薬品のたまご” =治験薬を正式に医薬品として国に承認してもらう仕事です。

 臨床開発チームが担う内勤業務の主体は、治験で得られた膨大な患者データを点検・解析し、審査資料としてまとめる作業です。早めの商品化を急かされている担当者は否応なしに残業にまで追い捲られてしまいます。このような内勤作業は3~4週間集中して続き、開発段階も後半に入ると年に6~7回もあるのです。今回はこの頃の話です。

 最初の頃は、8:00PMぐらいまでは食事ナシで頑張っていました。しばらくすると夜食を摂ってから再び仕事をしようと、出前を頼むようになりました。・・・が、食欲を満たされた後で気持ちを切り換え、改めてさぁもう一度仕事に集中とはなりません。何を今更と気合が入らず、作業効率も悪いので大抵はそのまま帰宅となってしまいました。他のプロジェクトチームも似たり寄ったりでした。よほど切羽詰まらないと食事を済ませた後の残業は続けられるものではありません。

 そのような状況下でチームに合流してきたのが課長補佐のA君でした。A君は中途半端な出前の夜食に飽き足らなかったのだと思います。「やれるところまで仕事をしてから、ちゃんとした食事に行きましょう」と提案してきました。どうせ帰宅しても一杯飲んで寝るだけです。この誘惑には勝てませんでした。

 それからというもの、およそ9:00~10:00PMまで頑張って仕事し、チーム全員で会社近くの居酒屋へ繰り出すようになりました。居酒屋ですから当然酒も入ります。10~20分で済む出前の食事のように簡単にとはいかないのです。仕事で昂ぶった神経に空きっ腹ですから、酒が入るともうイケません。快い酔いが回り、そのため終わるのは大体11:00PM前後で、下手をすると1:00AMぐらいになることもありました。

 初めの頃こそ全員そろっていましたが、一人抜け二人抜け・・・、いつの間にか4人だけがお決まりの顔ぶれとなりました。バブル期終盤の頃でしたので、帰宅は大抵タクシーというパターンでした。 

 臨床開発の仕事は、出張と内勤が入り交じり五月雨式に年中続く仕事です。出張帰りの定番に加え、内勤でも仕事の帰りにお店で酒を飲むことが新定番となりました。

 外でどれだけ飲んだとしても、またたとえ深夜に帰宅しても、家で必ずビールが欠かせませんでした。昂ぶった気持ちに一息つきたいだけなのですが、お茶だけで済ますことができなかったのです。“飲まずには家に帰れない”、今となっては異常ともみえる習慣飲酒は、このように何の変哲もないキッカケから癖となり、しっかり身体に染みついてしまいました。

 以上が、飲み方が異常となった二番手の転機です。健診で脂肪肝を指摘され、そのため受診した一般病院で振戦を指摘されて、初めてアルコール依存症と診断されたのが45歳11ヵ月の時です。

 今回ご紹介した残業後の居酒屋通いのエピソードは40歳8ヵ月頃から始まったものです。これが転機となって、アルコール依存症者に定番の家庭崩壊へと、一気に坂道を転げ落ちることになったのです。

このようにアルコール依存症となる温床はどこにでも転がっているようです。この当時、依存症気質とでもいうべき自分の性格にはっきりと気付いてさえいれば、あるいは、作業効率の悪い残業の限界を “ありのままに受け止め” さえすれば、出前をとらずに残業を切り上げて、真っ直ぐ帰宅することも私には決断できたはずなのです。

 ほんのちょっと頭を捻りさえしていれば、・・・。私にとっては数少ないチャンスだった、そう思えて仕方ありません。今頃になって気付いても、“後の祭り” であることに変わりないのですが・・・。



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断酒中に見た悪夢

2015-11-06 17:53:09 | 病状
 Gooのアクセス解析を見ていると、検索キーワードで最も多いものが「断酒後の悪夢」という日がありました。夢は儚いと言われるぐらいですから、目覚めると直ぐに記憶から消えてしまいます。辛うじて覚えているとしても、かなり限られたものでしかありません。

 私が断酒を開始した後、辛うじてメモに残すことの出来た夢を3つご紹介します。夢を見た時期は、それぞれ最初のものは継続断酒3ヵ月目、次は継続断酒9ヵ月目、最後のものは継続断酒1年超です。当時記述した文体のまま掲載します。

         *   *   *   *   *
【継続断酒3ヵ月以内に見た夢】
 いつものように
●×△と思われる駅で電車を降り、見慣れた商店街を歩いて帰る。ふと気が付くと見知らぬ街に迷い込んでいた。途方に暮れ、冷や汗を流している。・・・
 ここで眼が覚めた。

【継続断酒9か月目に見た夢】
 朝方変な夢を見た。地下鉄と思しき電車に乗ったら座席に酔いつぶれて寝ている男がいた。よく見ると、ほかにも2~3人この酔っ払いの仲間がいる。こちらに向かって来るようなので、車両を変えようと連結部分に移動すると、隣の車両からオバサンがやって来た。引き返すように言ったが連結部に留まるという。
 電車が停止し、外から駅員らしい男が乗り込んできた。人身事故と酔っ払いがいるため車両の連結を外すという。車両の先頭に、背凭れとして分厚いクッションを特別に付けた座席が誂えてあり、その座席に自分だけが進行方向に対し後ろ向きに座らされた。車両は連結を離れたばかりの前の車両に突っ込む。1両目を抜けると次の車両にも突っ込む。これを繰り返した(?)が、ケガはない。
 窓から外光が差し込む場所を電車が走っている。操車場のような場所に着く。場所を聞くとダテだという。どうなるのか聞くと修理をするという。
 そんな場所にそぐわない近代的なビルが傍にあって、そのビルに案内される。外観、屋内ともビジネスオフィス風。会社名はシ○ック○だという。社員は大勢いるが電話もPCもなく、仕事している風には見えない。とても静かだ。誰も自己紹介もしない。
 どういうわけか飲み友達のKさん(?)が一緒で側にいた。会社に電話しようとするが、電話がどこにもない。(私の)しゃべっている言葉で呂律の回っていないことに気づく。酒を飲んだ記憶がないが、再飲酒したのかと舌打ちした。トイレは何処かを聞くと別の階、最上階だという。
 迷いながら行ってみると、外側の壁には昔の公衆便所風の、排水溝のようなアサガオなしの小用便所、内側が普通のアサガオありの小用便所という構造。内側のものが通常使用しているものらしい。
 用を済ますと帰路は背の低い仕切りの迷路パズルになっていた。背が低い仕切りなのに出口がどこか見えない。・・・
 ここで眼が覚めた。

【継続断酒1年超に見た夢】
 酒類(日本酒、ワイン?)の品評会の会場にいるようだった。酒を満たしたワイングラスや食前酒用風の小さなグラスを持った夥しい手が私に向け差し出され、懸命に閉じている唇に無理やり押し付けてくる。口をこじ開けようとするものもあり、もう無理と観念しかけていた。
 「あぁ~、これで固く決心した断酒もオシマイ(になった)か?」と思ったとき、夥しい手が消えていて、周りを見回しても誰もいなかった。・・・
 ここで目が覚めた。こんな夢を(継続断酒)13ヵ月ぐらいと19ヵ月目と思しき時期に2回見た。

         *   *   *   *   *

 何かご参考になったでしょうか?

 ここで最初に挙げた夢については、断酒を始めて間もない頃にほとんど同じものが毎晩繰り返されましたから、已む無く医師に相談しました。医師の解釈では、断酒後の今後に対する不安な心理が反映されたものだろうということでした。これ以降の夢については医師に相談したことがありません。

 これらは断酒を開始した後に見た悪夢というべき夢で、辛うじてメモできた夢はこれだけです。悪夢といえども夢は夢です。

 断酒後で本当に怖いのはドライドランクの方です。ドライドランクになって自分を見失ってしまい、ビルの13階から飛び降りたトビ職の人がいました。アルコール依存症者はドライドランクの危険性を一時も忘れてはなりません。



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