ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アル中の哀しきクセ

2017-05-30 05:53:02 | 病状
 お決まりのコースでほぼ毎日ゴミ拾いをしていると、結構顔見知りが多くなります。その日、バス通りの歩道のベンチに座っていた人もそんな一人です。ワンカップを手に真っ昼間から飲んでいました。

 このところほぼ毎日そのベンチ下に、決まってワンカップの空きビンが2個、隠すように放置されているのを見ていました。明らかにアル中のやる行動パターンで、引き籠もりになる末期にあと一歩の状態なのだろうと考えていました。その日もベンチの足元に、いつものワンカップの空きビンが見えました。常習者が誰なのかやっとわかりました。

 「やぁ、あなたでしたか」と声を掛け、足元の空きビンを拾ってやりました。
「手に持っている空きビンも、何なら私が始末しましょうか?」と言ってみたのです。
「いや、いいです。これは自分でやりますよ」とハッキリした声で応えた顔からは、明かにやつれが見て取れました。
「それじゃよろしくお願いしますよ!」と言って、私はその場から離れました。
恐らく空きビンは、始末されることなく、そのままほったらかしにされるのだろうと思ってしまいました。

 1年ほど前から時々見かけていた人です。同じコースの途中に公園があり、その入り口のベンチに腰掛けて、よく一人でスマホと睨めっこしていました。

 顔の肌つやからすると50歳ぐらいの年格好でしょうか。杖をついていたので身体障害者なのでしょう。いつも買物途中で一休みしていたようでした。全体の仕草から見て、脳梗塞後の機能障害のようにも思われました。もちろん当時は、昼間から酒など飲んでいませんでした。

 しばらく顔を見ていなかったので、入院でもしていたのでしょうか。退院後に生活リズムを崩し、時間を持て余して酒が手放せなくなったのなら辻褄が合います。

 その翌日、再びベンチ前を通りかかったら、予想通りワンカップの空きビン1個が放置されたままでした。アル中がつく嘘は自衛のための方便です。ワンカップの空きビン放置が一体いつまで続くのか、そう長くは続かないだろうと思っています。

 実は、このバス通りの界隈にもう一人アル中の常習者がいます。それを知ったのは、バス停脇のツツジの植え込みの中に偶然光るものを見つけ、それがウイスキーの空きビンだったことがキッカケでした。

 ウイスキーの空きビンを見つけた後は、植え込みの中を毎回注意して見るようになりました。すると毎回のように、全く同じウイスキーの空きビンが見つかったのです。最初の頃は小ビンでしたが、すぐに本数が増え、間もなくビンの大きさも標準大になりました。

 周りが何を言っても、飲み始めたらどうにも止まらないのがアル中です。近くにコンビニがあるので入手先に困ることはありません。恐らく深夜のバス停のベンチで、ウイスキーを1本飲み干しては、その都度、空きビンを近くの植え込みに隠していたようなのです。

 空きビンの見つかる期間には波がありました。1年ほど前は、1ヵ月ぐらい空きビンがしょっちゅう見つかっては、その後、空きビンのない日々が大体3ヵ月ぐらい続いていました。ところが近頃は、空きビンのある日はせいぜい1週間も続かなくなっています。その後3ヵ月ぐらいの間、全く見なくなるのは以前と同じです。これでどうやら入退院を繰り返しているらしいとわかりました。

 そのウイスキーの空き瓶も、最近はとんと見かけなくなっています。ひょっとしてもう亡くなったのかもしれません。今回の常習者のケースも、その内きっとワンカップの空きビンを見なくて済むようになるでしょう。嬉しいやら哀しいやら、何とも遣り切れない気持ちなのですが・・・。



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これって “空白の時間”?

2017-05-26 06:33:39 | 病状
 久々に生活リズムの乱れを体験してしまいました。大腸内視鏡検査を翌日に控え、その日は専用の検査食を一日3食摂らなければならなかったのですが、これが思いの外、行動を制約するものと改めて実感させられました。

 ただ単に、朝・昼・夕それぞれの食事内容が決められており、別々にレトルトパックされた食事を摂るだけなのですが、これが想像以上に行動を縛る足枷なのです。

 検査前々日の夜からどう過ごすべきか色々考えました。先ずもって外食がままならないから遠出ができません。外を歩き回るのは空腹を煽るようなもので日課のゴミ拾いも自重しなくてはなりません。近所にある図書館が休館日なので格好の暇つぶし場所も利用できません。

 結局、これはというアイデアは思い浮かばなかったのです。有り余る自由時間がありながら、日頃馴染んでいることが悉く禁じられたようで、いやーな気分になりました。

 朝5時に起きたのですが、何やら気がそぞろで落ち着きませんでした。依然として一日どう過ごすべきか迷ったままでした。朝は、いつもなら血圧を測った後にフルーツ・サンドを軽く食べ、午前7時半過ぎにもう一度朝食を摂ることにしています。気持ちが落ち着かないと、とかく腹が減るものです。日頃の食習慣がそこに加勢するものですから空腹が我慢ならなくなりました。

 もし早々と朝食用のお粥に手を付けたら、その後の食事間隔が開きすぎるのでとても空腹に耐えられないだろうと考えました。それでも気を落ち着かせるためなら背に腹は替えられません。それならばと、つい買い置きの小さなスポンジケーキに手を伸ばしてしまいました。スポンジケーキは小さいながら1個81 Calあります。それを4個一気に食べてしまいました。これで大分落ち着きを取り戻せました。

 スポンジケーキ4個の熱量は合計324 Calとなります。検査食は3食合計で730 Calです。スポンジケーキだけで検査食一日分のおよそ半分を摂ったことになります。何の根拠もなかったのですが、その分を午前中に何とかして消化してしまおうと考えました。そこで思いついたのはやはりゴミ拾いでした。

 やむを得ずですが、片道2 kmの道程をいつも通りにゴミ拾いしながら市役所まで往復することにしました。市役所ではいつも通りに新聞を読み、読み終えると食堂には寄らずに再びゴミ拾いしながら自宅に戻りました。これで目出度く無難にお昼時を迎えることができ、その後はトコロテン式(?)にいつも通りの行動パターンに戻れたのです。

 ご参考までに、その日にやった検査食の摂り方をご紹介します。昼は正規の昼食用のものを摂りました。午後3時半過ぎに朝食用のお粥半分と夕食用に付いていたクラッカーを食べ、午後7時過ぎには夕食用のクリームシチュウと半分残していた朝食用のお粥を食べました。量としては少ないながら、これでも十分空腹を満たせました。

 検査当日の翌朝は、午前7時から指示通りに水溶液2 Lの下剤を飲み始め、2時間丁度で飲み終えました。5回以上排泄を繰り返し、最後は目出度く透明な水だけになりました。これで私流の変則的な食事の仕方でも十分検査に通用することが証明されました。

 “空白の時間” はとうに卒業したと思っていましたが、ドッコイまだまだ健在でした。予定のないとき時間を持て余す状態になることを言い、やるべきことが何も思い浮かばず、遣り場のない不安感やイライラ感にも襲われ、思わず酒に手を伸ばしそうになる状態のことです。断酒中のアル中が最も苦手とする状態です。断酒後しばらく悩まされていたのですが、生活リズムが週単位で確立できた後は無縁のものとタカを括っていました。

 大腸内視鏡検査は、カメラの挿入自体もさることながら、前日からの食事制限が相当なストレスになり、時間の使い方も当然制約されます。その結果、日頃の生活リズムもかくのごとく乱されるのです。

 生活リズムの乱れは後に引き摺るととても厄介です。鍵を握るのは検査前日の過ごし方だと思います。うまく工夫することで午前中の空腹を無難にやり過ごせたなら、その後は何とかなりそうです。私の場合、“瓢箪から駒” だったのですが、何ともうまい抜け道が見つかったとほくそ笑んでいます。

 大腸内視鏡検査前日は、消化に時間がかかる繊維質と脂肪分は避けるべきとされています。それでも脂肪分をそこそこ含むスポンジケーキぐらいなら大丈夫なようです。大腸内視鏡検査を受ける方に参考なればと思い、ここまでクドクド書いてみました。



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正義の味方のコマッタさん

2017-05-23 06:30:02 | 世相
 朝の市役所ロビーでのことです。いつものように同年配の老人が三々五々集まって来ては新聞を手にとって静かに読んでいました。私もその中の一人でした。

 「何なんだ? グチュグチュうるさいな!」大きな声が隣のテーブルから聞こえてきました。見ると声の主の向かい側に、テーブルを挟んで見覚えのあるジイさんが座っていました。以前、指に唾つけでページを捲っていた私を見て、同じようにイチャモンをつけてきたキツネ目のジイさんです。今回も例の細い目で、例のごとく声の主を睨んでいました。

 「唾がついた新聞なんか、誰が読むか!」キツネ目のジイさんはくぐもった声で詰り続けました。言われた方はそりゃ不愉快です。
「それならアンタが読まなきゃイイだけだろう! 指に唾つけぐらいのことで、いちいち人にイチャモンつけるな!」と応戦したので、
「そうですよ! そんな些細なことで言いがかりをつけるなんて可笑しいですよ」と、私もつい加勢してしまいました。

 新聞を読んでいた人は腹を立て、私のテーブルの方に席を移して来ました。するとキツネ目のジイさんはその人にくっついて来て、なおも執拗に詰り続けました。とうとう新聞を読んでいた人は根負けして席を立ち、憤懣やるかたない様子で去って行きました。キツネ目のジイさんはしばらく自分の席に座ったままで、今度は私の方をじっと睨んでいました。私は素知らぬふりをし、そのまま新聞を読み続けることにしたのです。

 それにしても、あの執拗さはただごとではありません。前回の一悶着以来すでに半年経ちますが、私もキツネ目のジイさんには気をつけてきました。いつも朝10時ぐらいに姿を現しては新聞を読むふりをしつつ、その実、新聞越しに細い目で周りを監視していました。幸いその間、私のようにイビられた人はいなかったのです。今回は久々のイビリでした。

 自分は正しいと思い込み、人の行儀の悪さなど単なるクセに過ぎないのに、それが不正としか見えないのです。正した相手からたとえ反発を買っても、自分が正しいのですから悪びれることはありません。いつでも唯我独尊で、何処吹く風と人を詰り続けるだけです。自分の考え採った行動が他人からはいびつに映っているなどとは夢にも思わないのでしょう。

 恐らくは多感だった年頃に、指に唾つけをやったことで心に深いキズを負ったのかもしれません。そのときの相手は異性でしょうか。そんな余計なことまで考えてしまいました。

 心の闇は、かくのごとく他人には容易く見透かすことができても、本人が気づくのは至難の業なのです。私はそれがわかるだけに、黙っているしか他に対策の立てようがありません。やれやれ当分の間、私も再び重点的監視対象になりそうです。そうなったら私の方も笑顔(?)で睨み返してやりましょうかネ。



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“気づき” って?

2017-05-19 06:49:34 | 病状
 「気付く」という言葉には、外からの刺激をリアルタイムで知覚するという意味の「気付く」もありますが、自分の内なる過去を思索し何かを「悟る」という意味も含まれています。さらに「気付く」は、身体的・心理的変化をリアルタイムで自覚するという場合にも使われます。それだけ幅広い意味を持った言葉です。

 私が過去について “気づく” という場合は、ヒラメキに似たこの「悟る」という意味の方が重要で、単に記憶を呼び戻し特定するという意味だけではありません。精神科領域では自分の内なる世界を自己洞察するという意味でも使われ、その積み重ねが依存症の回復に不可欠とされています。自助会AAのミーティングでも “気づきの積み重ね” は殊の外大切にされています。

 その “気づき” という言葉に混乱していた時期がありました。AAのミーティングに通い始めてから1年(断酒後1年半)ぐらいまでの間だったと思います。その頃は、他人の酒害体験を聞くことで、なぜ “気づき” があるのかよくわかっていない状態でした。

 記憶障害に加え、ちょうどひどい想起障害を自覚し始めた時期でもあり、こともあろうに情動不安と情動不安定の区別がつかないほどでした。時の流れがとてつもなくゆっくり感じていた状態から回復しつつありましたが、文章を書いていて時制の区分がわからなくなるなど、頭が奇妙に混乱していた時期でした。

 当時の私は、体験談を聞いて似たような経験を思い出すぐらいのことはあっても、その場で何かに “気づく” ことはまれでした。ミーティングの帰り道、やっと思い当たるということの方が多かったようです。言ってみれば旧式の蛍光灯状態そのもので、即刻点灯するようなヒラメキの経験はありませんでした。だから、他のメンバーが「仲間の話で今 “気づいた” のですが…」と即座に反応していたことに感心し、反面強い違和感を持っていました。

 ミーティングでは、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてていたものです。そんなことで集中力が長続きするわけがなく、記憶障害のせいで物覚えも悪かったので、これはと思った言葉でも左から右に抜けていく状態でした。今でこそ聞くでもなしに聞いている状態であっても、琴線に触れた言葉はしっかり心に残るようになっているのですが・・・。ゴミ拾いで、見るでもなしに見ている方がよくゴミに気付けるのと同じです。当時はせいぜい最後に聞いた言葉が、辛うじて耳に残る程度だったのです。

 外からの刺激の場合と違い、自分の内なる世界を洞察するには時間が掛かる場合もあるのです。アルコールでイカレた当時の頭でも、「気付く」に幅広い意味があることは理解していました。しかし「悟る」と同義の “気づく” も、外の刺激にリアルタイムで気付けるのと同様に、リアルタイムが当たり前と考えていたようなのです。しばらくは「気付く」というよりは、むしろ「思い当たる / 心当たりがある」という言葉を使った方が正しいのではないかとしきりに考えていました。

 今からみると、ただ単に反応が遅すぎただけなのに、随分可笑しなことを真剣に考えていたものだと思います。後になって、その場で即刻 “気づく” などはむしろ希で、“気づく” には少し間が空く方が当たり前なのだと思えるようになれました。心当たりに加えてヒラメクようなことがあったら、私はそれを “気づき” と呼ぶことにしています。

 酒害体験は個人を超えて共通するところが多く、当然聞き手も似通った経験をしているものです。AAのミーティングでは、話し手は共通したテーマに沿って各自の体験を語ってくれます。言ってみれば異なった角度から同じテーマについて語るわけです。

 聞き手はそれらを多角的に聞くうちに、たとえ遠い記憶であっても似通った経験を呼び戻すことができます。最初のうちは反応が遅くても、聞く経験を繰り返すうちに反応するのが速くなり、中には当然ながらヒラメキもあります。こんなことで “気づきの積み重ね” が得られ、究極の「悟り」につながるのだと私は考えています。



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孫に教わった自分のクセ

2017-05-16 06:43:26 | 病状
 「どーすっかなぁ~ う~ん これじゃーなぁ~」将棋を指しているときの下の孫のつぶやきです。私の手番になると決まってこうつぶやくのです。しかもわざと太いしわがれ声で仕掛けてきます。
「こーなるかぁ~ う~ん どーすっかなぁ~」

 棋力に格段の差がある孫が相手でも、さすがに小憎らしく聞こえイラッときます。
「いっちゃん、友達と将棋を指すときもそんな変な声を出すの?」
そう問い詰めても孫は黙ったままです。一体どこでこんなことを覚えてきたのでしょう。長い間謎でした。

 私と孫たちとのコミュニケーションは専ら将棋です。長男と私が将棋を指しているのを上の孫が見て興味を示し、その上の孫と私が将棋を指すのを今度は下の孫が見て、うまいこと共通の遊びに引き摺り込めたのです。上の孫は、今では中盤まで私と互角に指せるようになりました。まだまだ詰めが甘いものの、私が窮地に立たされることもしょっちゅうです。

 上の孫が私と平手で指すようになって1年も経たないうちに、下の孫も私と平手で対戦できるようになってくれました。ちょうどその頃からでしょうか、私と二人きりで対戦するときに限って、先のつぶやきが始まったのです。私が断酒を始めて1年ぐらい経った頃のことだったと思います。

 今年になって久しぶりに下の孫と対戦したときのことです。いつものつぶやきが始まりハットしました。「ひょっとして私のマネか?」自分では全く気づいていなかったのですが、上の孫との対戦で窮地に陥ったときに、知らずしらず口にしていたクセなのかもしれません。声の調子といい台詞といい、冷静になってみれば私以外には考えられないのです。

「な~んだ、おじいちゃんのマネだったのか?!」そう言うと、孫はニヤリとしただけで何も言いませんでした。
「やっと周りが見えてきたか!」そのとき私は正直そう思えました。それまでは自分のことだけで精一杯で、周りのことが何も見えていなかったのです。

 孫にまで腹を立てていたとは何ともおぞましい限りです。自分では気づけなかったクセばかりか、自分に拘ってばかりの姿が人にどんなふうに映るのかまでも孫に教わりました。
 
 私には2人の息子と4人の孫(男児)がいます。父親から受け継いだ私の大切なY染色体の系譜です。私としては息子たち2人に囲碁を教えたかったのですが、結局将棋だけになりました。それぞれの駒の働き方さえ理解できれば、工夫次第で相手の駒を召し捕れて、そしてさらに進めて大将王将を召し捕りさえすれば勝てる、そんな将棋の方が入りやすかったからです。

 囲碁も将棋も全体の形で形勢判断します。単なる領土の分捕り合戦の陣取りゲームであり、一見わかりやすいはずの囲碁の方が、実は教えるのが難しいのです。囲碁は白黒の石の並びだけの単純なゲームですが、ネジレ合いの競り合いになれば初心者では形がハッキリ見えないこと、「生き死に」の概念が難しいことから、結局、息子たちは将棋しか覚えてくれませんでした。

 どうやら孫たちも同じことになりそうで残念でなりません。何を隠そう私に力がないだけなのですが・・・。ちなみに三番目の孫はオセロから始めることになりそうです。



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動き出さなきゃ何も始まらない(下)

2017-05-12 06:20:12 | 病状
 “認知のゆがみ” が露わになるのが性格です。性格は、無理に変えようとしてもなかなか変えられるものではありません。ところが行動なら、ほんの少し向きを変えることで容易く変えられます。それを繰り返せば、無理をしなくても自然に思考パターンが変わり、性格も変わってくれるのではないでしょうか。最近、そう思えるようになりました。
 行動することで自分自身がありのままに見えてきた ― 断酒10ヵ月後から私に起きた変化について更に続けます。

 患者仲間の話に触発されて始めたことなのですが、ブログへ投稿することでも様々なことに気づかされました。

 先ず痛感させられたのは記憶障害の一つ想起障害でした。メモ程度の私的なものなら、言葉そのものや表現に多少誤りがあっても先に進めますが、ブログではさすがにそうも行きません。書いてみて違和感があったら手直ししようとするのですが、どう手直しすべきか的確な言葉がなかなか思い出せないのです。そんなことが頻繁にありました。必死に思い出そうとしても、浮かんで来るのは大抵類似の言葉ばかりで、もどかしいったらありません。

 困ったことはこの他にもありました。考えがなかなか纏まらないことです。書き出しの一文は誰でも苦労するところですが、書き出しだけに限りませんでした。様々な文案が頭の中で飛び交い、そのうち脳が混乱してストライキを起こすのが定番でした。そのお陰(?)でストライキを起こした脳には睡眠を取るのが一番と知りました。夜更かしせずに早く寝れば、早起きのスッキリした頭で書き物が予想外に捗るものです。

 遠回りでピント外れの論旨展開に気づくことも多々ありました。この遠回り思考や、翻訳調の諄(くど)い表現、助詞の使い方に迷うこと、時制に迷うことなど、考えがなかなか纏まらないことも含め、これらは一括りに思考プロセス障害と呼ばれているようです。その原因は想起障害そのものか、あるいは根っこが同じものではないかと私は考えています。

 想起障害や思考プロセス障害は、情動障害などと一括されてアルコール急性離脱後症候群(PAWS≒ドライドランク)と呼ばれています。程度に差はあれ、断酒後の回復過程で誰にでも起こる遅発性の離脱症状です。

 これらの障害は、自分で書いた物が目の前にあるからこそ客観的に可笑しいと見え、ハッキリ自覚せざるを得なかったのだと思います。「ありのままが見えてきた」というのはこういう意味で、読み手にうまく伝えようとすると自分自身をも第三者として突き放して見ざるを得ません。断酒前のようにモノを書くこともせず、行動しないままでいたなら、決して見えて来なかったことと思います。

 障害を自覚できた以外にも貴重な体験がありました。書き出してみて初めてエンジンがかかり、考えが深まることです。それまで一体何を考えようとしていたのか、書いているうちにその輪郭が次第にハッキリ浮き出てきます。

 大凡のテーマを決め、ある具体的エピソードをモチーフに書き始めるのが普通ですが、実の話、テーマがさほどハッキリしてないことの方が多いのです。書くことが記憶を刺激し、着想を広げてくれるのだと思います。書きながら、アーでもないコーでもないと自分自身と対話を重ね、それで初めてテーマの掘り下げが進むものだと実感しました。これも障害がなければ自覚できなかったことかもしれません。

 繰り返しになりますが、性格を無理に変えようとするよりも、先ず行動を変えてみることをお勧めします。手始めに外に出て歩いてみませんか? 外を歩くと、諸々の刺激に身体も脳も自然に反応してくれます。玄関から外に出た途端、大事な忘れ物に気づくことありませんか? 外を歩きながら、忘れていた言葉を不意に思い出すことありませんか? 
「動き出さなきゃ何も始まらない」これは私の実感です。
(この項おしまい)


以下の記事もご参照ください。
“認知のゆがみ” 回復の最難関にどう向き合う?(下)」(2017.2.10投稿)
アルコールPAWSの一つ“思考プロセス障害”の軛(くびき)」(2016.5.20投稿)


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手荷物は一カ所に!

2017-05-09 06:01:39 | 病状
 またまたドジを踏んでしまいました。その日は隣市にある県立病院で3ヵ月に一回の糖尿病外来の予約日でした。

 懸案だった大腸内視鏡検査を予約できたので、検査の前日と当日の注意事項を聞いた後、下剤やら検査食やらを買い求めました。昼飯まで1時間余の時間が空き、歩いて丁度の頃合いだったので、病院から食堂のある我が市の市役所に歩いて向かいました。日差しも強く脚が棒になる寸前でしたが、市役所には何とか予測通りに辿り着けました。

 市役所に着いた後はいつもの行動パターンになりました。昼食を終えるとロビーで少しうたた寝し、目覚めた後はゴミ拾いしながら帰るというお決まりコースです。途中でコープのお店に寄って買い物をするのもいつも通りでした。いつもと違っていたのは、セカンドバッグを小脇に抱え、下剤や検査食の入った手荷物を持っていたことと、行きつけの薬局にも立ち寄らなければいけないことでした。

 薬局の窓口に処方箋を出したときのことです。『お薬手帳』も一緒に出そうとしたのですが、そのとき初めてセカンドバッグがないことに気付きました。セカンドバッグには『お薬手帳』の他、医療費の自立支援受給者証など大切な物が入っていました。一瞬、気が動転し頭が真っ白になりました。

「セカンドバッグがないんです!『お薬手帳』を入れていました。どこかに落としたみたいで・・・」とにかく声に出して言ってみました。
「どこか心当たりはありませんか? 他に貴重品は入っていませんでしたか?」
「市役所から歩いて来たのですが・・・、金目のものは特に入っていませんが・・・。とにかく来た道を市役所まで戻ってみます。」
「夜7時まで(店を)開けていますから、・・・落ち着いて、心当たりをしっかり探してみてください」そう励まされました。

 薬局の一軒おいた隣に交番があります。そこでも試しに相談してみました。
「たとえ金目のものが入っていても大丈夫ですよ。きっと届けてくれますよ。見つからないときは本署に電話してください。とにかく落ち着いて、よく思い出してみてください」と当直の警察官が電話番号をメモしてくれました。

 交番を出て、来た道を歩き始めて間もなくのことです。
「歩いていて落としたのなら、気付かないはずがない。どこかに置き忘れたに違いない。自分から置いたなんてことは・・・?」冷静に行程を振り返り推理してみました。声に出して相談したことで少し落ち着きを取り戻し、歩き始めたことでどうやら脳が冴え始めたようなのです。「自分から置いた」がヒントとなって、すぐに見当がつきました。

 途中でコープに寄ったとき、買い物の後でトイレに行っていました。そこで先ずセカンドバッグを棚に置き、他の手荷物は多すぎたため、棚ではなく目の前の床に置いたのです。そのとき「ひょっとすると棚のセカンドバッグは忘れるかも・・・」と、ご丁寧に心配までしていたことも思い出しました。用が済んだ途端、最初に目に入ったモノだけに気を捕られてしまういつものパターンだったのです。そしてこの推理通り、セカンドバッグはコープのトイレにありました。

 手荷物は一ヵ所にまとめて置くのが鉄則です。物を分散すれば、それだけ注意力も散漫になります。それでなくても危なっかしい記憶力なのに、その鉄則を敢えて破ったのですから当然の報いなのでした。

 さらに他にも鉄則が・・・。

― 悩みは1人で抱えていてはどうにもならない
― 黙っているより先ず声に出してみなきゃ始まらない

この鉄則にも改めて気づかされた出来事でした。

 鉄則ばかりが増えていくのですが、これで大丈夫でしょうか? それにしてもやはり歩きは脳を刺激する、又々実感できました。



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動き出さなきゃ何も始まらない(中)

2017-05-05 06:16:45 | 病状
  “認知のゆがみ” が露わになるのが性格です。性格は、無理に変えようとしてもなかなか変えられるものではありません。ところが行動なら、ほんの少し向きを変えることで容易く変えられます。それを繰り返せば、無理をしなくても自然に思考パターンが変わり、性格も変わってくれるのではないでしょうか。 
 最近、そう思えるようになりました。行動することで外の世界がありのままに見えてきた ― 断酒10ヵ月後から私に起きた変化について続けます。

 先ず毎日の行動、歩くという通院のための行動で起きた変化です。

 以前は、道を歩いていてもさほど気にしなかったゴミ、特に吸い殻のポイ捨てがやたら目障りに思えてきました。見て見ぬふりもできず、つい素手でゴミ拾いを始めることになりました。それがまんまと癖になり、今ではトング(火バサミ)と軍手の出立ちでゴミ拾いをするのが日課のようになっています。

 ゴミと付き合っていると世相の色々が見えてきます。持ち運びを便利にした商品包装の発達(ポイ捨てを煽るように見えてしまいます)、ドリンク類の流行り廃り、季節特有の落とし物、・・・そして何よりも人の本性が見えてきました。初めの頃は、ポイ捨てした人物像に無性に腹が立ってばかりでした。公共心の欠片もない無神経さや未熟な幼稚性、悪事を隠そうとする姑息さ、病的とも思える癖、・・・。

 ところがそのうちにゴミとの向き合い方が変わって来ました。

 先ず思い知らされたのが、ゴミそのものの見方です。当たり前のことですが、道に落ちているゴミは私の思い通りには動いてくれないのです。こちらから一々ゴミに出向かなければなりません。そんなゴミとのお付き合いで、イラチな私にも堪え性が出来てきたようです。

 次いで思い知らされたのが、ポイ捨てする人の一掃など私1人ではできっこないことです。

 人は生きている限りゴミを出します。誰でも出すゴミですが、ポイ捨てするのはその人の性格次第です。自分の性格にさえてこずっているのに、他人の性格などなかなか直せることではありません。それを正せるのは周りの環境と教育如何です。ゴミ拾いをすれば環境と教育に多少なりとも貢献することになります。

 これらを通じ次第にゴミをありのままのゴミ、つまり単なる不要物と見做せるようになったようです。イヌの糞の始末はしょっちゅうで、あってはならない人糞にもたまに出くわします。その始末を何度も繰り返すうちに、つまらないプライドがいともアッサリ砕けてしまいました。

 糞も単なる不要物です。不潔で汚らしいと散々刷り込まれてきた物だけに、変な先入観が即座に拒絶反応を誘うようです。この拒絶反応こそ “認知のゆがみ” のなせる技です。バキュームカーの屎尿処理業に再就職し、飲まない生き方を順調に続けている同病の方がいるそうです。そんな話を聞いて、「さもありなん」と私は妙に納得したものでした。

 ゴミ拾いはささやかながらも立派な社会奉仕です。しかも、持病の糖尿病にも運動療法として打って付けと期待以上の展開になりました。断酒直前のほぼ引き籠もり状態からすれば、これらの展開がいかに “瓢箪から駒” なのかおわかりいただけると思います。実際にやってみなければ決して体得できなかったことと喜んでいます。これも心にゆとりが出て来た証でしょうか。
 
 行動の向きをほんのちょっと変えさえすれば、自然に展開は大きく変わります。

 たとえば散歩するにしても、トング(火バサミ)とレジ袋を持ってさえいれば道のゴミ拾いに繋がります。少し歩いてみようとさえすれば、遠回りのバスで15分掛かる最寄りの駅でも、近道なら歩いて30分で行けるかもしれません。夜更かしせずに早く寝れば、早起きのスッキリした頭で書き物が予想外に捗るものです。

 ほんの少し行動を変えてみただけなのに、その巾は大きく変わります。どう変わるかはやってみてのお楽しみ、やってみなければわかりません。「動き出さなきゃ何も始まらない」これは私の実感です。
 (この項まだつづく)



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“言い訳する ウソをつく 人のせいにする”

2017-05-02 06:32:32 | 病状
 毎度お馴染み、私のルーティン・ワーク=ゴミ拾いの話です。土日の休日には、週日とはコースを変え、それぞれ違うコースにしています。その週一回のゴミ拾いでの出来事が今回の話です。

 利用者のお行儀にやや難ありの公園のゴミ拾いを終え、いつものように袋一杯になったペットボトルやら空き缶やらの資源ゴミを公園近くのコープの店に持ち込みました。

 コープからの帰り道、珍しいことに車道の北側の側溝を掃除している人を見かけました。私より少し年配らしく、どうやらすぐ北側にあるマンションの清掃員のようでした。何気なしに見ていると、何と掃き集めたゴミを排水口に落としていました。排水口は結構深く、その上に格子状の重い鉄製蓋が被せてあります。しかも、その蓋はそれなりの道具がなければ外せません。近くにはチリトリが置いてありました。

「ご苦労さまです。せっかく集めたゴミなのに、それを排水口に捨てるんじゃ詰まってしまうんじゃないですか?」つい声を掛けてしまいました。
「大丈夫、一週間に一回は蓋を外して掃除しているから」ひょいと顔を上げ、そう話した顔は少しこわばって見えました。
「道理で、いつもこっちの側溝は綺麗だと思っていました。反対側の側溝だと、いつも吸い殻とかが落ちていますからねぇ・・・」と話を逸らしてみました。
「こっちはこんなふうにして、・・・一週間に一回は蓋を外して掃除しているから」その人はもう一度繰り返しました。

 私には半分ウソだとわかりました。私も毎週、車道の両側の側溝を見回っています。北側の側溝でゴミが落ちていたことは滅多にありませんが、その北側の排水口が綺麗になっていたこともありません。トングでは排水口の中まで届かないので、私もそのまま放置していたのです。そんなことを思い出しながら、私は会釈をして黙ってその場を後にしました。

 恐らく清掃員自身、自分でも後ろめたさがあったのでしょう。私の言葉を自分への非難としか受け止められなかったのだと思います。

 “言い訳する ウソをつく 人のせいにする”

 アル中の人が酒を咎められたときにやる定番、自衛本能によるお決まりの思考パターンです。どうやらアル中に限らずごく普通の人でもやるようで、いくつになっても自衛本能は健在のようです。



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