ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

動き出さなきゃ何も始まらない(上)

2017-04-28 06:04:47 | 病状
 何かにつけ、「・・・でなければならない」「・・・すべき」という思いが過(よ)ぎってしまうことありませんか? こういう思いに駆られるのは先入観のせいで、言い換えれば “認知のゆがみ” が自動的に誘導する偏った思考パターンなのだそうです。この “認知のゆがみ” が露わになるのが性格です。

 性格は、無理に変えようとしてもなかなか変えられるものではありません。ところが行動なら、ほんの少し向きを変えることで容易く変えられます。それを繰り返せば、無理をしなくても自然に思考パターンが変わり、性格も変わってくれるのではないでしょうか。最近、そう思えるようになりました。

 私は今、あれほど苦しめられていた「・・・でなければならない」病(?)からほぼ解放されています。私自身の過去を客観的に見直し、自分なりに整理できるようにもなれました。何よりも「先ず考えてから・・・」という慎重過ぎた発想が変わりました。今では、「動き出さなきゃ何も始まらない」という発想になりつつあります。こんな前向きの発想は飲酒時代にはなかったことです。

 転機となったのは、何と言っても断酒を始めたことと、その10ヵ月後に起きた “憑きモノが落ちた” 体験の二つだったと思います。どちらも “底着き” に当たる体験で、私はこれら二つの体験をそれぞれ “身体的底着き”、“精神的底着き” と呼んでいます。上で述べた内なる変化は、自分から意図して変えたというよりも自然に変わってきたように思えてなりません。

 断酒ですっかり体調が戻ったと実感できた頃、特に意識もせずに変わったのが毎日通院のための歩くコースと駅でした。

 それまで体力的に20分の歩行がせいぜいだったのに、もう少し距離を伸ばしてもいいかと、試しに行き先を一駅変えてみたのです。ひと駅と言っても自宅から歩いて30分、それまでの駅と比べ10分しか違いません。(ちなみにバスを利用しても15分かかります。)各停電車しか利用できない駅から、乗り換えなしで直接、特急・快速電車が利用できます。やってみると体調の方も益々快調になれ、自然にこれで決まりとなりました。歩いてたった10分の違いだけで、一石二鳥の儲かった気分でした。

 断酒10ヵ月後の “憑きモノが落ちた” 体験は、自助会AAの言う霊的体験だったように思います。

 それまで物の怪のように取り憑いていた性的妄想と、薄物のヴェールを被ったような脳のシビレ感とがパッタリ消え失せ、「酒を絶対に飲んではいけない / 何としても断酒を続けなければならない」という強迫感も薄れていきました。アルコールが完全に抜け切ったと実感でき、早くも回復したのではと勘違いしたほどでした。重い荷を肩から下ろしたような、とても楽な気分になれました。

 このブログに自分史を投稿し始めたのは丁度その頃からです。患者仲間が「自分史を書いてみようと思う」と語った話に触発されて始めたこととは言え、これも自然な成り行きだったように思えます。決して無理して始めたことではありません。

 このように精神的復調も体調の回復に加わりました。それで何が変わったのかと問われれば、外の世界の見え方だったように思います。ありのままが自然にありのままに見えてきたように思うのです。
(この項つづく)


“底着き”は2度ある ― 再び“精神的底着き”について」(2016.9.16投稿)もご参照ください。


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クセになる?

2017-04-25 06:14:07 | 雑感
 雨は上がるという予報でしたが、小雨が続き歩道は濡れたままでした。

 トング(火バサミ)・軍手・レジ袋に傘の出立で、いつものようにゴミ拾いをしながら歩いていると、中央公園近くの大通りで偶然、野球クラブの少年たち5~6人と合流しました。

 私がゴミ拾いをしているのを見て、遅れて歩いていた2人が足元のお菓子袋のクズを素手で拾ってくれました。
「素手でやらなくてもいいよ。」
「えっ、何で?」
少年たちが怪訝な表情を見せたので、つい言葉に詰まったのですが、
「・・・癖になるから」と付け加えました。
これを聞いて少年たちは一瞬きょとんとし、
「クセになる? って!」と、2人で顔を見合わせ、声を立てて笑いました。予想外の言葉に笑いが堪えられなかったのでしょう。何の屈託もない笑いでした。

「癖になる」と言ったのはその場の出任せでありません。何を隠そう私の本音でした。切羽詰まってつい本音が出てしまったのです。

 手が汚れるとか、濡れているゴミだからとか、ありきたりの説教じみた言葉では軽く受け流されるのがオチと思い、それで言葉に詰まったのです。半ば無意識にふと口から出た言葉が本音だったとは、私自身もビックリでした。少年たちの軽やかな笑い声を聞いて、私の方も軽やかな気分になれました。

「クセになる」はきっと彼らの記憶に残ると確信しました。雨に濡れたゴミは指を汚します。そんな指の感触も帳消しになったと思います。
「彼らは絶対にポイ捨てなどしない。ひょっとするとゴミ拾いも進んでやってくれるかも・・・。」
堅苦しい説教じみた話にならないで済んだ上、彼らの今後に期待も膨らんだのでした。



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回復の邪魔:「“古い考え” を引き摺る」って?(下)

2017-04-21 06:17:27 | 自分史
 専門クリニックの院長によれば、何かにつけ「・・・でなければならない」と考えてしまうのは、 偏った認知パターン “認知のゆがみ” による自動的思考だそうです。
現実を受け容れられない心がそうさせるのだと言います。私はこれを「・・・でなければならない」病(?)と呼んでいます。


 さて、積み上げ方式の思考パターンを引き摺った頭でゴールまでの計画を立てようとすると、最初の段階から不備な部分がどうにも気になって堪らなくなるものです。

 不備と見るや「これじゃマズイ、何とかしなきゃ(ならない)」と、課題がどんどん増えるばかりです。「必要最小限の条件を満たせばこれでも十分イケる」という発想があればまだ救われるのですが、抜け道を探す器用さを持ち合わせていないと悲惨です。

 結局、「これじゃとても実行は難しい」という悲観論に陥ってしまうわけで、自力で何でもできるという自惚れと、経験不足の頭でっかちが嵌まりやすい落とし穴です。

 自分でもこんな状態に呆れ、「これじゃあ “石橋を叩いて渡る” ではなく、“石橋を叩き壊して” 渡れなくしている」と自虐的気分に苦笑いしていました。想像力には限界があるという、現実に即した経験が欠けていたのです。

 会社の業務を進める上で、私が葛藤に苦しみ始めたのは開発プロジェクトを率いる立場になってからでした。プロジェクト・リーダーは開発スケジュールと予算を毎年自力で策定しなければなりません。絶対に成功させなければならないというストレスに加え、その都度立ちはだかったのが例の積み上げ方式の厄介な思考パターンだったのです。

 積み上げ方式で構想した望ましい組織・体制と、組織上の不備や上司の無理解などの現実とが年々軋轢を増し、さらに上昇志向の虜であった私のプライドが歳の近い直上の上司に嫉妬するよう仕向けるなど、葛藤は縺れにもつれた凄まじいものとなりました。どうかすると孤立無援と思い込んでしまい、従前にも増してアルコールに走って行きました。そうでもしない限り現実と折り合いが付けられなかったのです。私も経験不足でしたが、教育システムがお粗末だった会社も経験不足でした。

 そのアルコールが曲者で、いつの間にか悪循環を拡大させて行きました。アルコールは、部下の女性社員へ恋心をけしかけるなどさらに複雑な葛藤を生み、果ては妻をも巻き込んでの家庭崩壊へというお決まりのコースへ導いてくれました。そんな悪循環の中で、“認知のゆがみ” による「・・・でなければならない」病が定着して行ったのだと思います。仕事絡みのマイナス要因がすべて解消された後になっても、「・・・でなければならない」病はそのまま続いていたのです。
以上が「“古い考え”を引き摺る」の一つの事例、私が辿った姿でした。

 ところで上で述べたように、“古い考え”( 固定観念)のせいで、否応なしに駆られてしまうのが「・・・でなければならない」だそうです。
言い換えれば、“認知のゆがみ” がさせる自動的思考です。

 断酒を始めて10ヵ月もの長い間、私が囚われていたのは「酒を絶対に飲んではいけない / 何としても断酒を続けなければならない」でした。このことに初めて気づいた時は、依然としてアルコールに囚われている証拠と考え、皮肉を込めて「・・・でなければならない」病と名付けたのです。

 改めて考えてみると、雁字搦めにされていたのはまさに “古い考え” を引き摺っていたせいで、アルコールというよりもむしろ “認知のゆがみ” がその黒幕であったと気づきました。

 そう気づいた今、私は “認知のゆがみ” を何とかして手懐けようと、日々あれやこれや工夫をこらしているところです。そのお陰でしょうか、“認知のゆがみ” にリアルタイムで気づけることが多くなりました。
(この項おしまい)


“認知のゆがみ” 回復の最難関にどう向き合う?(下)」(2017.2.10投稿)もご参照ください。


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小話 今年の桜(ソメイヨシノ)

2017-04-18 07:09:49 | 雑感
 今年は開花が遅いと、あれほど待ちわびた桜。
 10日間ほどの見頃があっという間に過ぎ、
 今年も年に一度の務めを終えています。

 一斉にパァッと咲いては一斉にハラハラと散る。
 桜は何とも儚く潔い花です。
 さらにもう一つ。
 桜は、見知らぬ同士の心をも合わせてくれる、
 不思議な花でもあります。
 今年の桜はこんなことも気づかせてくれました。

 10日は、前夜から風の強い雨模様の日でした。
 市役所前の広場では、葉のないケヤキの枝が風に鳴いていました。
 開庁前でも市役所の玄関前に守衛が立っています。
 不穏な空模様を見上げながら、守衛の人に話し掛けてみました。
 朝の挨拶代わりのつもりでした。
 「今年は遅い遅いと、あれほどヤキモキさせられたのに、・・・
  この風では早くも散るんでしょうねぇ・・・」と溜息をついたの
  ですが、次の瞬間、
 「やっぱり、桜だぁ!」と、しっかり2人でシンクロしていま
 した。思わぬ斉唱(?)に、2人で顔を見合わせ笑ってしまい
 ました。

 さすがに桜です。
 見知らぬ同士でもしっかり心を合わせてくれたのです。
 他の花なら、こんなことあり得ません。
 三番目の孫息子が小学校の入学式を翌日に控えた朝のことでした。



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回復の邪魔:「“古い考え” を引き摺る」って?(上)

2017-04-14 05:58:23 | 自分史
 アルコール依存症者にとって、回復の邪魔をするのも、否認や再飲酒に誘うのも “認知のゆがみ” が黒幕なのだそうです。

 鶏が先か卵が先かはわかりませんが、“認知のゆがみ” と先入観との関係も同じようなものだろうと思います。どちらも成長過程で育まれ、偏って刷り込まれたものの見方・考え方(思考パターン)のことです。今回テーマとした “古い考え” とはこの偏った思考パターンのことです。

 毎日の晩酌が欠かせなくなり、1本の大瓶ビールが2本以上に増えたのは一体、いつ頃からだったのか思い出せません。どうも会社で業務の独り立ちせざるを得なくなった30代半ばからだったような気がします。そんないい加減な記憶ながら、その頃私が引き摺っていた思考パターンの癖についてはしっかり覚えています。

 何か新たに始めてみようとするとき、誰でも先ずやるのがゴールまでの行程をシミュレーションしてみることだと思います。私がシミュレーションする場合は、念頭にゴールはあるものの、最初の一歩から一つひとつ積み上げて行く方に比重を置きがちでした。

 積み上げ方式の思考パターンでは、先ず土台(基礎)から固めなければならないという考え方が支配的になります。基礎から積み上げて万全を期する受験勉強のやり方と同じ教科書的な考え方で、まさしく保守的思考パターンです。

 オーソドックスで着実と言えば聞こえはいいものの、はっきり言って融通の利かない頭でっかちな石頭の発想です。こんなタイプは、発想を変えて抜け道を探すなどの器用さを持っていないのが普通で、私もまさしくこのタイプでした。

「先ずやってみてから考えよう」という前向きな発想はまれでした。
「やる前に先ずよく考えてみてから・・・」が幅をきかせていたのです。
そのためどうしても埒の開かない堂々巡りの循環思考に陥りがちでした。

 万事がこの思考パターンでしたから、日常生活ではぐずぐず屁理屈を捏ねては選択肢を狭めるばかりで、結局、面倒くさがりのやらずじまいが多かったように思います。条件が揃えさえすれば、容易く引き籠もりになる一歩手前の危うい状態だったと思うのです。

 ところが、会社で担当した臨床開発業務では真逆の発想が求められていました。開発計画を立てる際の実践的な考え方と手順はこうです。

 先ず、ゴールまでの必要十分条件を詳細に分析した上で達成目標を明確にすることから始めます。これをマスタープラン(基本計画)とも言います。次に、ゴールから順に逆算して各段階に必須な課題を想定して行きます。最後に、各段階について効率よい手順とスケジュールを決めるというわけです。ゴールまでのビジョンがしっかりしてないと希望的観測のいい加減な計画になってしまい、経営が立ち行かなくなるからです。

 それに気づいたのは一通り仕事をやり遂げた後のことで、当時の私はそんな教育も訓練も受けたことがなかったのです。
(この項つづく)



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老化が演出する悲喜劇

2017-04-11 06:11:44 | 雑感
 またまたAAのミーティングからの帰り道、電車内であった話です。

 座席に腰掛け、いつものようにミーティングで聞いた話をあれやこれや思い返していました。思い出すのに一心で、それだけ半ば上の空状態だったと思います。

 電車が減速し始めたので駅に近づいたことがわかりました。間もなく停車したので、席を立ち開いたドアに向かいました。ホームに足を踏み込もうとしたとき、ハッとしたのです。
「忘れ物!・・・」その途端、尻餅をついてそのまま後ろに倒れてしまいました。
「大丈夫ですか?」と、周りの人が心配して声を掛けてくれました。なんとか自力で起き上がって、その時やっと、忘れ物が傘だったと思い出しました。

 それでもまだ、電車内に忘れたのか、それとも他の場所だったのかわかりません。このまま乗っていた方がいいのか、降りた方がいいのか判断に迷い、躊躇ったままでいました。発車時刻が迫っていました。ざっと座席の方に目をやり、傘がないように見えたので、ドアが閉まる寸前ホームに降り立ちました。

 ホームに立った時、どういうわけか目はジッと電車とホームとの隙間を見ていました。それで気づいたのです。あの瞬間、この隙間に足を取られないよう咄嗟に身体が反応してくれたのだと。尻餅はその結果だったということです。そして同時に、傘を置き忘れたのがAAのミーティング会場だったともはっきり思い出せました。

 何ともバツの悪い話です。仕方なく三宮にとって返しました。到着駅の改札なしでそのまま元の三宮に戻ったのですが、しっかり往復料金を取られました。それでも、最寄りの駅から会場まで電車と徒歩で往復すると、ちょうど1時間掛かることもわかりました。これが、せめてものもう一つの収穫でした。

 よく、老人が何の変哲もないところで転んでしまう場面を見かけます。その老人の頭の中では、内実、私と同じようなことが起こっていたのかもしれません。不意に、脳が大事なことを思い出し、咄嗟のことに身体が付いてくれなかったなら、同じことが起こり得ます。

 私の場合は、咄嗟のことによくぞ反応してくれたと喜ぶべきか、それともその程度にしか身体が言うことを聞かなくなったと悲しむべきか、老化というのはかくも複雑なものです。いずれにせよ、一瞬意識が飛んでしまう上の空状態は危険だと、改めて肝を冷やした次第です。



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心の隙に魔が・・・(上の空の “心の空白”)

2017-04-07 08:21:30 | 病状
 心に隙とは一瞬無意識となってしまう “心の空白” のことです。心に隙あれば魔が差すとはこんなことなのでしょうか。今回は、飲酒欲求がなくなったと油断していると、思わぬ罠が仕掛けられているという話です。

 つい先日のことです。お決まりのゴミ拾い3時間コースの終盤に、いつものようにコープ前まで辿り着きました。お店の前にベンチが置いてあり、誰もいないその脚元付近に小瓶状の光るモノが見えました。ワンカップのようにも見え、ワンカップならしょっちゅう置き去りにしているタチの悪い酒飲みがいるのです。

 近寄って見ると案の定ワンカップが転がっていました。しかも、焼酎入りのペットボトル製ワンカップで、未開封の新品でした。アルコール度数12%と表示されていました。そんなことまでついシゲシゲ見入ってしまいました。

「もったいない! この程度のアルコールなら、あいつも飲むんじゃないかな?」何と事もあろうに、持ち帰って妻にあげようという考えが思わず過ぎったのです。
「バカな! そんなことはないか?!」よく考えたら妻が飲むなどあり得ないのです。そんなバカげた考えを思い直し、開封して一気に排水溝に捨てたのでした。心の隙に魔が差すとはこんなことかと冷や汗ものでした。

 『アルコホーリックス・アノニマス』(通称、ビッグブック)の第3章にこんな一節があります。
「いつかは飲むのを楽しむことができるようになるという大きな妄想が、病気の酒飲みに取り憑いている」
(下線部、筆者)
「回復した人でもそんなことがあるのか?」と半信半疑に考えていました。もはや自分には縁のないことで、どこか他人事のようにタカをくくっていたのです。

 この第3章には、“大きな妄想” の具体例として3つのエピソードが紹介されています。いずれも長い間断酒してきたのだからもう飲んでも大丈夫だろうという落とし穴に嵌まったことが共通し、“最初の一杯” の魔力を戒めている話です。

 3つのエピソードとはこんな話です。 
 ― 仕事で大成功を収めたのを機に退職を決めたとき、それまで
   25年間も断酒してきたのだからもう飲んでも大丈夫だろう
   と、つい酒に手が出て連続飲酒となった話
 ― 自動車のセールスの途中で、空腹から行きつけの店でサンド
   ウィッチと牛乳を注文し、牛乳にウィスキーを垂らすぐらい
   なら大丈夫だろうという思いつきから連続飲酒となった話
 ― 仕事が成功裏に終わった出張先のホテルで、一人祝杯にカク
   テル一杯ぐらいなら大丈夫だろうという思いつきから連続飲
   酒となった話
健常人からすると、いずれも一見して何の変哲もない思いつきが動機です。

 飲んだ当人はいずれも、再飲酒したら元の木阿弥となると百も承知していたにもかかわらず、その一瞬だけ依存症の知識が頭をかすめもしなかったと言います。このように “最初の一杯” が、実は無意識のうちに行われていたところが深刻なのです。これが、AAの戒めている “大きな妄想” と “最初の一杯” の魔力です。

 そう言えば、専門クリニックで断酒歴の長い患者仲間から聞いた話も同じでした。断酒3年目ぐらいのとき、仕事で車を運転していても無意識のうちに目が酒の自販機を探していたそうなのです。自助会の先輩会員から口酸っぱく注意されていたので、これが飲酒欲求と気づくことができ、何とか無難にやり過ごせたと言っていました。

 酒類の拾い物については、実は、似たような話が以前にもありました。そのとき見つけたのは開栓していない缶ビールでした。家に持ち帰り、妻に「拾い物だけど飲んでみたら・・・」と手渡したのです。
我が家の冷蔵庫にはその時の缶ビールがまだあります。それを見る度、未だに私を試している妻の目を感じずにいられせん。

 私は今、断酒期間が3年5ヵ月過ぎ、飲酒欲求など全くなくなっています。それでも上記のようなことが起こります。 “大きな妄想” が「もったいない」を装い、しかもその「もったいない」は口実で、実はケチな物欲と飲酒欲求というのが正体です。「飲み残しがあったら即始末する」は、ゴミ拾いの鉄則なので既に実行できています。これからは「もったいない」こそが危ないと肝に銘じて置こうと思います。

 私たちアルコール依存症者は “空白の時間” を苦手としますが、“空白の時間” は行動しさえすれば何とかなるものです。ここで述べた “心の空白” はもっと手強い相手です。“心の空白” の隙を突いて忍び寄るのが妄想です。しかも、その妄想は装いを変えてやって来ます。どうぞ皆さんも変装した “妄想” にはくれぐれもご用心ください。またまた余計なお世話でした。


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桜の想い出

2017-04-04 05:40:25 | 雑感
 例年より1週間ほど遅めですが、やっとチラホラ桜が咲き始めました。もうすぐ見頃を迎えるのではないでしょうか。

 あと何年生きられて、あと何回桜を愛でられるのかわかりません。桜は、つかの間にだけ咲く花に、その全存在価値を託す不思議な樹木です。私も芭蕉にあやかり、66年間過ごして来た人生で思い出に残る桜花を綴ってみました。

   明るい青空に蒼ざめた花もいいが
   曇り空に映えた鮮やかな桜色の方がヨッポドいい

   うららかな桜霞ののどけさも悪くないが
   小雨に煙った桜の哀しげなのも悪くない

   露店の灯りに浮く花の妙に艶やかで
   見上げる笑顔がみな弾けていた

   はらはら散りゆく花びらの川面に連なる花筏
   かくして春は今年もまた過ぎゆくか

   かすかな花の香に包まれて
   土堤で張った一人だけの酒宴
   見上げた先に滲んでいた桜
   あれは一体何時のことだったか?


***************************************************************
 ついこの間、4月1日・2日の2日間、私の住んでいる街で恒例の『○○さくら祭り』がありました。桜はチラホラどころか、正直まだ蕾だけの状態でしたが、市の主催なので強行されました。

 市名と同じ川の両岸にある桜並木が会場で、露店が軒を連ねるやら河畔の特設ステージで催し物があるやらで、例年大層な人出です。

 特設ステージの夜の部では、プロのミュージシャンがライブのジャズを聴かせてくれます。それを対岸に設けられた観客席から楽しむわけです。桜の下でアルコールとライブで音楽を楽しみながら、本格的な花見ができるのですから大変な人気です。私は昨年、ジャズを聴きながらの作業がとても楽しく捗ることを知り、今年もゴミ処理のボランティアとして初日の夜の部に参加しました。

 その日は桜が蕾状態なのに加え、夜になるとじっとしていたら底冷えするぐらいの寒さでした。さすがに人出は去年より少なかったものの、アルコール好きはこの程度じゃへこたれません。

 作業中の私に、すでにご機嫌となった酔っ払いが声を掛けてきました。
「蕾の桜じゃぁ、何とも無粋だわねぇ」
ワイングラスをかざし、指で桜を差してニヤリと嘆いてみせました。
「飲めているんだから、よしとしなくちゃねぇ」と、私はニッコリと作り笑いで一言答えておきました。

 物欲しそうな顔はしていなかったと自信はあります。大酒飲みだった私が、今では素面でこんな芸当ができるまでになったのです。強いて挙げれば、
「楽しい音楽と美味い酒があるじゃないですか、それだけでも極楽でしょう!」と、もう少しお愛想上手になれればよかったのかもしれません。今年も桜がらみの想い出が一つできました。

ところで、・・・

 朝鮮半島情勢がいつになくきな臭さを増し、果たして来年も桜を愛でて楽しめるのかわからない情況になっています。駐韓国大使も唐突に、今日帰任することになりました。いつ何が起こるかわかりません。こんな危急なときでも、国会では野党の先生方が国有地払い下げ問題を政局にしようと、さも政治的スキャンダルであるかのよう印象づけに血道を上げています。

 問題の国有地は大阪空港への飛行ルートの真下に当たり、利用価値がさほど高くないと聞いています。せいぜい問われるべきは、申請に用いた建造契約書3通の問題とゴミを処分してなかった詐欺的問題であって、国政レベルの問題ではないと思います。

 北朝鮮のミサイルは日本に照準を定めています。これに対し、避難方法は何も決まっていません。時間と税金のムダ使いの政局ゴッコを止め、一刻も速く国土と国民の安全をどう確保するのか本格的議論を進めるべきです。国土と国民生活の安全保証を図るのが国会議員の本来の職務であるべきで、国会議員としての資質と矜恃が問われています。
どうか来年も桜を愛でられますように!



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