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●「虎に翼」…《非常に重要な裁判…本来は裁判所が「特別保存」すべきものですが…原爆裁判記録も判決文を除き、すべて捨てられていました》

2024年09月28日 00時00分42秒 | Weblog

[↑ ※「虎に翼」特集/日本国憲法も重要キャストだ 木村草太(週刊金曜日 1482号、2024年07月26日号)]


(2024年09月16日[月])
《いま振り返る判決の意味》、#虎に翼。《この原爆裁判の判決は国際社会からも高く評価されました。日本の反応も当然大きく、判決が出たときは新聞各紙1面トップで扱われています》《「原爆裁判」の歴史的な判決》(清永聡氏)。

   『●(東京新聞)【こちら特報部/朝ドラ「虎に翼」の三淵嘉子さん
     と共に「原爆裁判」を担当した元裁判官、いま振り返る判決の意味】

 プレジデントオンライン、田幸和歌子記者による清永聡氏へのインタビュー記事【朝ドラのモデル三淵嘉子らが出した原爆裁判の判決文がすごい…「忘れられていた歴史的裁判」が描かれた意味/三淵嘉子は退官後に核兵器禁止の署名活動をしていた】(https://president.jp/articles/-/85717?page=1)、《連続ドラマ小説「虎に翼」(NHK)では、60年前の史実に基づき、裁判官の寅子(伊藤沙莉)が「原爆裁判」を担当する様が描かれた。NHK解説委員の清永聡さんは「寅子のモデルである三淵嘉子さんは東京地方裁判所の判事時代、8年かかった原爆裁判を裁判官の中でただひとり最後まで担当し続けた。そのことについては生前語らなかったが、裁判官を退職後、核兵器禁止の署名活動をしていた」という――。》


 本村伸子さんのつぶやき:

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https://x.com/motomura_nobuko/status/1832264477770969210

もとむら伸子(本村伸子)@motomura_nobuko

NHKドラマ「虎に翼」でも描かれた
被爆者の方々が原告の裁判記録、
破棄されていた・・・東京地裁

「取材にあたり、東京地裁に問い合わせてこの裁判記録の保管状況を調べてもらいましたが、資料は廃棄されているとのこと。本来は裁判所が特別保存すべきものですが、近年全国の裁判所で民事訴訟記録の大量廃棄が明らかになり、原爆裁判記録も判決文を除き、すべて捨てられていました残念なことです。」

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午後0:47  2024年9月7日
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 沖縄タイムス【社説 [憲法裁判記録] 国民の共有財産 葬るな】によると、《憲法判断が示されたり、社会の耳目を集めるなど、後の史料や参考資料となる重要な裁判は特別保存として、原則永久保存することが裁判所の規定で義務付けられている》。さらに、《通常の民事裁判は5年保存し廃棄される。重要裁判にもそれをそのまま適用し、特別保存しなかった形だ。廃棄は規定違反の疑いがある。判例の一つ一つが社会を変え、歴史をつくってきた。そのすべての記録は国民の共有財産である。その意識の薄さが、ずさんな管理を招いたのではないか。国民の「知る権利」をないがしろにするものだ。重要な記録をあえて「捨てる」という行為は、歴史の審判を回避するものではないかと勘繰りたくなるほどだ》、《裁判記録は、原告の勇気ある訴えの軌跡だ。特に憲法裁判は基本的人権に関わることが多い。裁判記録に刻まれた人々の声が闇に葬られることがあってはならない》。
 琉球新報【<社説>憲法裁判の記録廃棄 後世の検証絶やす愚行だ】でも、《重要裁判にまで裁判所規定などを漫然と適用していたのか、不都合な記録と恣(し)(い)的に捨てたのか、廃棄処分に至った原因は判然としないが、不適切極まりない。専門家からも規定などに違反する疑いが指摘されている。とりわけ県民にとって重大な問題は代理署名訴訟の記録が廃棄されたことである。米軍用地への土地提供を拒む地主の代理で署名を求められた知事が拒否したため、国が提訴した。1995年12月、当時の大田昌秀知事が代理署名を拒否した背景には同年9月に起きた米兵による少女乱暴事件があった。地主の思想・良心の自由、財産権、地方自治などを争点にする一方で、守れなかった個人の尊厳を背景に憲法の在り方を鋭く問いただした訴訟である。訴訟に込められた意義からも、一連の裁判記録は県民のみならず、国民の財産となるべき資料だ。廃棄処分は歴史を検証する上で大きな損失である》。同様に、《裁判記録には、勇気を奮い起こして強大な権力に立ち向かい、人間らしい労働条件や平和、表現の自由などを求めた市民の人権獲得の歴史も記されている。判決に至る審理過程を振り返ることは重要だ。歴史的な公文書を廃棄処分にすることは後世の検証を絶やす愚行と言わざるを得ない》。

   『●《人権を軽々に扱っている…。合憲違憲が争われた
     戦後の重要な民事裁判の記録多数を全国の裁判所が既に廃棄処分》

 《記録の保存がいかに大事か》が蔑ろに。あらゆる意味で、公文書を平気で破棄しまくるアベ様政権以降、特に、酷い。

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https://president.jp/articles/-/85717?page=1

2024/09/07 7:00
朝ドラのモデル三淵嘉子らが出した原爆裁判の判決文がすごい…「忘れられていた歴史的裁判」が描かれた意味
三淵嘉子は退官後に核兵器禁止の署名活動をしていた
PRESIDENT Online
清永聡 NHK解説委員

連続ドラマ小説「虎に翼」(NHK)では、60年前の史実に基づき、裁判官の寅子(伊藤沙莉)が「原爆裁判」を担当する様が描かれた。NHK解説委員の清永聡さんは「寅子のモデルである三淵嘉子さんは東京地方裁判所の判事時代、8年かかった原爆裁判を裁判官の中でただひとり最後まで担当し続けた。そのことについては生前語らなかったが、裁判官を退職後、核兵器禁止の署名活動をしていた」という――。


■三淵嘉子が実際に8年間担当した「原爆裁判」とは?

「虎に翼」の第20週から第23週にかけては、「原爆裁判」が描かれました。

寅子(伊藤沙莉)が所属する東京地方裁判所の民事24部が、広島・長崎の原爆被害者が提起した日本政府に損害賠償を求める訴訟を担当しましたが、寅子のモデル・三淵嘉子さんも実際に原爆裁判に関わっていました。

     (ドラマ「虎に翼」で裁判官の寅子を演じる伊藤沙莉
      写真提供=NHK)

「原爆裁判」とは、昭和30年代に被爆者によって原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国家賠償訴訟のこと。この裁判をご存知なかった方も多いのではないでしょうか。

広島や長崎で被爆した人たちが日本政府の責任を追及した裁判す。非常に重要な裁判だったにもかかわらず、今の世の中で一般の人には半ば忘れ去られた裁判でもあります。

取材にあたり、東京地裁に問い合わせてこの裁判記録の保管状況を調べてもらいましたが、資料は廃棄されているとのこと。本来は裁判所が特別保存すべきものですが、近年全国の裁判所で民事訴訟記録の大量廃棄が明らかになり、原爆裁判記録も判決文を除き、すべて捨てられていました。残念なことです。

原爆をめぐっては「被爆者」の認定を求める集団訴訟が今も続いていますが、原爆裁判の意義は、原爆投下は国際法に違反するかを直球で問うものだったことです。私は『家庭裁判所物語』(日本評論社)を書く際、原爆裁判を闘ってきた松井康浩弁護士による記録を引き継いで保管している「日本反核法律家協会」会長・大久保賢一さんに、閲覧させてもらいました(現在はネットでも全て閲覧できます)。そして、裁判の経過を詳しく調べました。


■第1回から結審まで一貫して担当し続けた三淵嘉子

その古い紙の綴りは手書きの訴状から始まっています。原告は広島と長崎の被爆者5人。昭和30年に訴えを起こし、東京地裁で4年に及ぶ準備手続きを経て、昭和35年2月から38年3月まで、9回の口頭弁論が開かれました。残された調書の表紙には右陪席の裁判官として全て「三淵嘉子」の名が記されています。

3人の裁判官のうち、裁判長と左陪席は異動で交代していく中、三淵嘉子さんは1回口頭弁論から結審まで一貫して原爆裁判を担当し続けたのです。

     (原爆裁判の法廷の関係図(※写真はイメージです))


■司法担当として原爆裁判は真正面から描いてほしいと希望

「虎に翼」の企画が動き出した際、私は、原爆裁判はぜひ真正面から描いてほしいという強い希望を出していました。短く少しだけ触れるというやり方は、深刻で重大なテーマにそぐわないと考えたからです。脚本の吉田恵里香さんや演出の梛川善郎ディレクターの理解も得て、こうした希望をかなえてもらえました。

第1回の準備手続のシーンは、反核法律家協会が保管している資料の中に調書があり、それをもとに描かれています。まず「原告代理人の訴状陳述」から始まり、「被告指定代理人はいかがですか」「私どもとしては、請求棄却を求める方針です。答弁を準備したく、準備手続きの続行をお願いしたい」「では、答弁書は遅くとも3カ月後……」といったシーンも、実は保管されている記録をもとにセリフにしています。

続いて第2回準備手続きでは、弁護士の岩居(趙珉和)が国側の指定代理人に対し「広島の原子爆弾の投下は、国際法に違反すると言っているじゃないですか」と少し語気を強めている場面があります。おそらくテレビを見ていた人は、これだけでは何のことかわからなかったでしょう。実はこれ、保管されている記録の中に、第2回で提出された国への「求釈明申立書」があります。そこに「昭和二十年八月十日帝国政府は(中略)米国政府に対し、広島に対する原子爆弾の投下が国際法に違反するとスイス政府を通じてアメリカに抗議していたことを明らかにしています。つまり、さきほどのシーンは岩居が「あなた方(帝国政府)自身が当時、国際法違反と言っていたじゃないか」と追及しているわけです。ちょっと怒っていることもわかるでしょう。

記録の保存がいかに大事かということがこれでわかると思います。一方で、例えばこういう小さな部屋で行われる手続きだからといって、ドラマ的に映えるよう面白おかしくはしない。厳格にそのまま、特に広島と長崎の方々に対して誠実に伝えようということを制作スタッフ全員一致で考えています。


■平埜生成演じる裁判長が史実の判決文を読み上げた

第23週の9月6日では、最後に判決の瞬間が描かれました。これはほぼ4分間、裁判長が判決文をただ読んでいるだけという異例のシーンなのですが、読み上げているのは昭和38年12月に言い渡された「原爆裁判」の判決文の一部です。特に後半部分は、放送で聞いている人が理解できるように表現を少しわかりやすく修正したほかは、できるだけ当時の判決のままにしています。

この収録には私も立ち会いましたが、汐見裁判長役の平埜生成さんはとても気合が入っていて、4~5回撮影をする間、1回も言い淀まず、しかも冷静に感情をグッと抑えて読み上げる熱演でした。収録スタジオの中にも感動が広がりました。よく考えたら、判決文を読んでいるだけなんですよね。それは、熱演と梛川ディレクターの演出の巧みさに加えて、原爆裁判の判決が持つ力もあったのだと思いました。

     (汐見裁判長役の平埜生成(中央)写真提供=NHK

あの段階で例えば架空の判決文を作ることはできない。あくまで史実通り本物の判決をできるだけそのまま読んで、ドラマを観ている皆さん、特に広島と長崎の人に三淵さんたち3人の裁判官が練り上げた判決を伝えたい、知ってもらいたいという思いで作りました。


■判決の前にその理由を読み上げたことが画期的だった

ドラマでは、判決の際に「主文後回し」になったということも描かれましたが、実際もそうでした。当時の民事裁判で理由から読み上げるのは異例のことでした。これも私が当時の記事を調べていた中、「判決言い渡しは主文を後回しにする異例のやり方で始まった」と書かれた記事を発見し、さらに「『国際法からみて違法な戦闘行為』という言葉が述べられた瞬間、メモを取る原告側代理人松井弁護士の顔がさっと紅潮した」と法廷雑感も書いてあったためにわかったことです。ドラマでも実際と全く同じように主文を後回しにして、判決理由から読んでいます。

この判決文がすごいんですね。最大の争点だった「原爆投下の国際法違反は明確に認め、末尾には被爆者への援護策を国に強く促しています。しかし、主文上は国への賠償を求めた原告が負けている。国は勝訴したので、判断内容が不服でも控訴できないんです。逆に原告は控訴することもできたけれど、「国際法違反という判断をあえて確定させた。三淵さんを含めた3人の裁判官は、おそらく自分たちの判断が国際的にも影響を与えかねない、さらには政治的な影響力も生じうることも覚悟したうえで、この判決文を作成したのだと思います。

     (三淵嘉子、東京地裁民事18号法廷にて、
      1960年2月2日©三淵邸・甘柑荘/アマナイメージズ)


■三淵嘉子をモデルにするからには原爆裁判を描きたかった

3人の裁判官の間で実際にどんな話し合いが行われたかは、「合議の秘密」があって、わかりません。そこは空想を広げることができる部分です。ドラマでは脚本の吉田さんが生き生きとした合議の場面を作っています。

また、ドラマでは原告の当事者尋問を非常に悲しい事情で取りやめてしまいますが、史実でも原告の当事者尋問の申請はあったものの、おそらく争点を絞り込んだ結果、最終的には取り下げられています。この当事者尋問については吉田さんのオリジナルで、入れうるところには創作を入れつつも、原告本人たちがおかれた状況や手続きをできるだけ史実に即して作成したつもりです。

「虎に翼」で三淵嘉子さんを主人公のモデルにするからには、原爆裁判は絶対に外せないというのは、私自身、この企画がスタートした2022年から変わっていませんでした。『家庭裁判所物語』を書くために証言や資料を集めていましたし、三淵さんの生涯において大きな裁判であったことは間違いがないと思っていました。

私の個人的な思いもありました。私は生まれてすぐに父親の転勤で広島に引越し、小学生時代まで広島に住んでいました。1970年代ですから家の近所には被爆の傷跡が残る高齢者もいましたし、小さな頃には母親に平和公園や資料館にも連れて行かれました。

そうした子供の時の記憶もあって、正面から史実通りにやってほしいという思いが強くありました。


■原爆投下を「国際法違反」とした歴史的瞬間をどう描いたか

裁判の終盤、「国際法違反」と言って、請求棄却になるところで、記者たちが1回飛び出ようとするのを汐見裁判長が引き戻す。戻れと言うわけではないけれど、記者たちが判決文に聞き惚れてもう1回座るあたりは、梛川ディレクターの名演出です。ちなみに司法記者だった私も判決途中に慌てて飛び出そうとして、やはり判決文が気になり、もう一度座りなおした経験があります(笑)。

ところで、この原爆裁判の判決は国際社会からも高く評価されました。日本の反応も当然大きく、判決が出たときは新聞各紙1面トップで扱われています。

それなのに、その後一般の人たちからはこの裁判が忘れ去られてしまった。ただ、これで終わりではありません。1996年、国際司法裁判所は勧告的意見の中で、核兵器の使用は一般的に国際法に違反すると指摘しています。この判断について、日本反核法律家協会の大久保賢一会長は、「判断枠組みは原爆裁判と同じであり、その影響が見て取れる」と指摘しています。三淵さんたちが出した判決は、その後も影響を及ぼし続けているということです。

     (ドラマ「虎に翼」、原爆裁判の場面
      写真提供=NHK)


■家庭裁判所に異動してからも兼任して原爆裁判を担当した

もう一つ、皆さんが気になっているのは、なぜ三淵さんが裁判体である3人の1人になったのか、ということかもしれません。これは結論から言うと、偶然だと思います。

東京地裁に訴えが起こされた場合、当時も今も行政訴訟や労働事件などを専門的に扱う「専門部・集中部」という部署を除くと、「配てん」は機械的に行われます。また、三淵さんが名古屋地裁から異動して東京地裁の民事24部に着任したのは昭和31年。原爆裁判の提訴はその前年で、すでに準備手続も始まっていたというのが史実です。

ただし、三淵さんの意思が反映されたのではないか、と考えられる部分もあります。彼女は原爆裁判が係属中の昭和37年12月に「東京家庭裁判所判事『兼』東京地方裁判所判事」となっています。おそらくその後は家裁に勤務しながら、原爆裁判の法廷がある時には地裁へ来ていたのでしょう。

結審は翌年(昭和38年)3月でした。その翌月(4月)に彼女は兼務が解かれ、東京家裁判事となっています。断定はできませんが、三淵さんはこの裁判を結審まで担当し判決文を書きたいと自ら希望して、兼務となったということも考えられます。


■史実では判決の瞬間、三淵嘉子は裁判官席にいなかった

実際、残されている記録を読むと、第一回口頭弁論から結審まで3人の裁判官の1人として彼女の名前が書かれています。

しかし、昭和38年12月の判決のタイミングではもう東京家裁に異動となっていましたので、法廷での言い渡しには立ち会っていないはずです。おそらく判決の時には、気にしながら東京家裁で少年審判などを行っていたのでしょう。ドラマでは言い渡しの場にも寅子がいますが、このあたりの変更はドラマのオリジナル部分となります。

ところで、私は『家庭裁判所物語』を書く際、彼女が判決後、この原爆裁判について何か書き残したり、周囲との会話の中で触れたりしていないかどうか調べましたが、何も見つかりませんでした。長男の芳武氏にも生前、直接質問しましたが、「当時大きく報じられたので、母が原爆裁判を担当していたことは知っていたが、家庭でも話したことはない」と答えています。基本的に嘉子さんは事件の話を家でしなかったそうです。

自身の経験や経歴を語る場も多かった彼女が、一言も触れていないのは不思議に感じられます。おそらくは事案の深刻さと「合議の秘密」を守るため、意図的に語らなかったのでしょう。


■三淵嘉子が退官後に反核の署名運動をしていたという逸話

ただ、三淵さんの思いが透けて見えるエピソードがあります。彼女は裁判官を退官した後に日本女性法律家協会の会長になります。

     (清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社))

1982年にニューヨークで「第2回国連軍縮特別総会」が開かれました。これに合わせて核兵器の禁止を求める署名活動が全国で行われました。実は、彼女は日本女性法律家協会としてこの署名活動に参加し、会長の三淵さん自身も池袋駅の西口に立って署名活動を行っているのです。私は三淵さんの署名活動のことを知りませんでした。三淵さんの後輩にあたる女性法律家の方々に「あなたそんなことも知らないの、取材が甘いわね」と言われてしまいました(笑)。

それにしても、元裁判官はあまり署名活動などやりませんそれだけに三淵さんの核兵器廃止への思いは強かったのだろうと思います。そもそも最初の夫の和田芳夫さんも弟の一郎さんも戦争で亡くしているわけですから、「戦争を繰り返してはならないという思いもあったはずです。

ただし、三淵さんも戦後しばらくは子供や弟を養わねばならず、自分や家族の生活に追われていました。年月が経ち、日本も占領下から独立し、改めて「あの戦争とはなんだったのか」と思うようになったのかもしれません。こうした彼女の戦争や平和に対する思いがゆっくりと醸成され、「原爆裁判」の歴史的な判決につながっていったのではないでしょうか。


(取材・文=田幸和歌子)
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