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●2011年3月11日「震災も原発事故もまだ終わっていない」…「教訓」や「警告」はどこに? 原発復権・原発回帰して原発依存度を上げていいのか?

2024年12月31日 00時00分46秒 | Weblog

[※ 『ふくしま原発作業員日誌-イチエフの真実、9年間の記録』(片山夏子、朝日新聞出版、2020年2月刊、1700円)↑]


(2024年12月15日[日])
震災も原発事故もまだ終わっていない」。あれから13年10ヶ月、震災の傷が癒えずに、故郷に戻ることのできない多くの方が居られる。その大きな理由の一つが、《原発事故もまだ終わっていない》ためだ。東京電力や国は、未だ、福島を《原状回復》していない。にもかかわらず、《原発復権》《原発回帰》する原発依存症な人々、核発電〝麻薬〟中毒な人々。経産省は、《原発依存度可能な限り低減」の文言削除》だそうです。核発電全開…。
 「教訓」として、《震災後の2014年に策定した計画では「震災前に描いてきたエネルギー戦略は白紙から見直し、原発依存度を可能な限り低減する」》と誓ったはずなのに。「警告」を無視して、《原発を最大限活用する」》気満々な原発依存症、核発電〝麻薬〟中毒な皆さん。

 片山夏子記者による、東京新聞の記事【学校でタブーだった「被災に触れる」 福島の女子高生 本音込め演劇制作 3.11当時の思い 若者ら語る集い】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/372278?rct=tokuhou)、《東日本大震災や原発事故後、福島の子どもたちはどんな思いで過ごしてきたのか。震災後、地元高校生の本音を描いた劇を仲間と作った女性は「家族や友達を傷つけないよう、つらい体験を語るのも聞くのも難しいのは今も続いている」と明かす。避難生活はつらいことばかりじゃなかったという大学生も「学校で語る場はなかった」という。震災から13年あまり。今、伝えたいことは何か。(片山夏子)》。

   『●女川核発電所2号機を再稼働したい…《辛うじて難を逃れたにすぎません》、
             そのような幸運に次回も恵まれると思っているオメデタさ…
   『●原発マネーに群がる核発電「麻薬」中毒者の意地汚さ…《辛うじて難を
     逃れたにすぎ》ない、《辛うじて事なきを得たにすぎない》女川原発を再稼働
   『●「閉じない環」破綻した核燃サイクル…《1993年から26回の延期…
     核燃料サイクル政策は要の再処理工場の稼働が見通せず、「破綻」》が露わ
    《各電力会社は使用済み核燃料を再処理工場に搬出できず、急場しのぎの
     対応に追われている。使用済み核燃料を保管する原子炉建屋内の
     貯蔵プールが満杯になると、原発を運転できなくなるためだ。
     東北電力は2月、女川原発(宮城県)の敷地内に新たな保管先
     とする「乾式貯蔵施設」を設けると発表した。乾式貯蔵施設は、
     プールで十分に冷やされた核燃料を金属製の容器に密封し、空冷
     保管する。水がなくなれば重大事故になりかねないプール保管より
     も、リスクが低い。東北電によると、今年9月に再稼働予定の
     2号機のプールは貯蔵率75で、運転再開から4年ほどで満杯になる。
     乾式貯蔵施設を28年に稼働させるという余裕のない計画を示した。》

   『●“日本一避難しにくい原発”伊方原発…大島堅一さん「エネルギー政策で、
      インフラが不十分で逃げにくい場所を選び、差別的にリスクを押し付け」
    「志賀原発、女川原発、柏崎刈羽、そして伊方原発…稼働させたいという
     核発電「麻薬」中毒者に好き勝手やらせていると、日本中が迷惑し、
     世界にも事故の影響が及ぶ恐れ。」

   『●もう一度、「幸運に恵まれる」とでも思っているのかね? 《辛うじて難を
     逃れた》にすぎない、《辛うじて事なきを得たにすぎない》女川原発を再稼働
   『●《周辺住民には地震と津波、その後の大事故の衝撃がなお生々しい》女川核
     発電所再稼働…周辺住民はあのような「幸運」に、再度、恵まれるだろうか?
   『●小出裕章さんは《国が福島県に約束した廃炉へのロードマップはただの県民を
     ごまかすだけのパフォーマンスであり、…悪質な時間稼ぎであると見ています》
   『●核発電バンザイなホシュという矛盾…《地震大国の日本には、北海道から
     沖縄まで原発を動かせる場所はどこにもない》(樋口英明さん)というのにね
   『●樋口英明元裁判官《地震大国の日本には、北海道から沖縄まで原発を動かせる
       場所はどこにもない》はずなのに、仙台高裁ときたら住民側の控訴を棄却
   『●核発電賛成派の周辺住民の皆さん、いいんですね? 経産省や電力会社、原子力
       「推進」委員会は「事故時、避難できませんよ」と言っているのに等しい
   『●樋口英明元裁判官《地震大国の日本には、北海道から沖縄まで原発を動かせる
      場所はどこにもない》はずなのに、仙台高裁ときたら住民側の控訴を棄却
   『●東京電力核発電所人災の教訓も能登半島地震の警告も無視してオンボロ核発電
       所を稼働させたいとはね…ところで、福島は「原状回復」したのですね?
   『●ホントにオメデタイ国だ…14年前の「教訓」やわずか1年前の「警告」を
     無視する、経産省や原子力「推進」委員会委員ら核発電〝麻薬〟中毒者たち
   『●《エネルギー基本計画…原発依存度「可能な限り低減」の文言削除》…原発
     依存症、核発電〝麻薬〟中毒な皆さん…もうどうかしてしまっているニッポン
   『●「教訓」も「警告」も無視して暴走…《原発活用は政府と同じ方向》な
     玉木雄一郎コミ代表(3カ月役職停止処分中)が《原発復権》を大きく後押し
   『●《原発回帰》《原発復権》《原発を最大限活用》核発電全開…《「脱原発依存」
       の看板を下ろすのは、福島の教訓を忘れ去るということだ》(東京新聞)

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https://www.tokyo-np.co.jp/article/372278?rct=tokuhou

学校でタブーだった「被災に触れる」 福島の女子高生 本音込め演劇制作 3.11当時の思い 若者ら語る集い
2024年12月8日 06時00分

 東日本大震災や原発事故後、福島の子どもたちはどんな思いで過ごしてきたのか。震災後、地元高校生の本音を描いた劇を仲間と作った女性は「家族や友達を傷つけないよう、つらい体験を語るのも聞くのも難しいのは今も続いている」と明かす。避難生活はつらいことばかりじゃなかったという大学生も「学校で語る場はなかった」という。震災から13年あまり。今、伝えたいことは何か。(片山夏子


◆「震災を伝える演劇を作らないか」と誘われ

     (「おらもしゃべってみっが」で震災や原発事故以降の
      体験や思いを語る(右端から)渡部裕賀さん、
      松崎里帆子さん、井戸川あけみさん)

 「みんな涙を流しながら体験や思いを話し合い、何度も台本を作り直した」

 福島県南相馬市で先月16日、震災や原発事故時やその後の体験や思いを分かち合う「おらもしゃべってみっが」が開かれた。4回目の今年のテーマは昨年に続き「若者」。相馬市の県立相馬高校放送局で震災翌年、普段は語れない自分たちの不安や思いが詰まった劇「今 伝えたいこと(仮)」を作った新地町の看護師、渡部裕賀(ゆか)さん(28)は、会場の約40人を前に当時を思い起こし語った。

 あの日、裕賀さんは中学の卒業式だった。家は山側にあり津波を免れたが、海沿いでは多くの人が亡くなった。電車が止まり、隣の市の高校には祖母が送り迎えをしてくれた。入学式は窓が割れたままの体育館で、制服のない子もいた。震災の起きた2011年の12月、放送局顧問の渡部(わたのべ)義弘教諭に「震災を伝える演劇を作らないか」と誘われ、裕賀さんら1年の女子生徒6人が手を挙げた。


◆「前を向くって何」 台本何度も直し

 震災体験はみんな違う。どこで相手の傷口が開いてしまうかわからず、学校では震災の話は「地雷(タブー)」だった。台本の話し合いでも、なかなか自分の体験や思いを話せなかった。そんな中「恩師が津波で亡くなって」と1人が口火を切り、少しずつ出てきた話を別の生徒がまとめた。

     (南相馬市の上空から望む福島第1原発(写真右奥))

 「初めの台本は『つらいこともあるけど前を向いて頑張ろう』という感じだった」。学校や周囲でも「頑張ろう」とさかんに言われていた。だが練習を重ねるうちに、違和感がどんどん大きくなっていった

 「先が見えないのに前を向くって何」「頑張ろうって何をどう頑張ればいいの」「根本的に台本が違うんじゃない?」。台本は何度も書き換えられ、震災から1年の12年3月の初演の1週間前、最初のシーン以外すべてが変わった。


◆劇は反響を呼ぶ一方、校内の批判は強まっていった

 「将来子どもができたときにその子どもに何かあったりしたら…私たちのせいにされる…?」「放射能みたいに風評被害も、もう消えないのかな?」「誰かお願いです!私たちの話を聞いてください?」。書き直された台本には、本音や叫びがつづられていた。

 劇は反響を呼び、各地で上演がされたが、校内の批判は強まっていった。「そんなことやってるんじゃねー」「何むきになってるの」。裏方の裕賀さんは直接言われなかったが、演じた3人への批判は強く、泣きながら練習を重ねた

 地元での上演は厳しいと感じていたが、震災から2年がたつころ、初めて隣接する南相馬市で上演をした。客席は4分の1も埋まらなかった。見に来た在校生はゼロ。教員も2、3人だった。裕賀さんはずっと後に同学年の子が話していたことを聞く。「当時はきつくて震災や原発事故を伝える舞台に立つことも、見に行くこともできなかった


◆「震災も原発事故もまだ終わっていない」

     (「おらもしゃべってみっが」の第2部では5、6人の
      小グループに分かれ、自分たちの思いや体験を語り合った)

 裕賀さんは言う。「当時はまだみんなに話せなかったことがある」。宮城県の海沿いに住むおばさんは「何かあったら要介護の夫とひもで体をくくりつけて一緒に逝く」と話していた。震災後、夫婦は行方不明に。後に体にひもがついた夫だけが見つかった。おばさんを捜しに行ったときに見た、津波に何もかもさらわれ………
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