エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターの呻き

2013-11-25 03:35:26 | エリクソンの発達臨床心理

 

 いろいろなことがすでに承知であると思われていたルターが、精神分析の対象に今までなっていなかった、ということは、エリクソンが歴史上の人物に精神分析の光を当てることが、いかに斬新なアイディアであるか、が示されていると私は考えます。

 

 

 

 

 

 

 なぜ私が、ルターの、聖歌隊での出来事について、その解釈については、大なり小なり、食い違いがある議論をご紹介したのか? 

 ルターが自分自身の道を確かにすることができずにいる危機(アイデンティティの危機)に、私が心を寄せることを、一番多いもろもろの事実や参考書を、独自の研究に任せるいろいろな文献を学ぶことによって方向付けようとする際に、激しく怒る時のルターの呻きと、笑いの中にさえあるルターの呻きを、繰り返し聴き取りました。 「私じゃない!」 。この同じ事実に対して(ご指摘してきましたように、心理学的解釈に妥当する細かい点で、それぞれに違いがあります)、あの大学教授、あの司祭、あの精神科医、その他引用したものは、それぞれ自分自身のルターをこしらえています。だからこそ、全ての人が一致することが一つあるのかもしれません。すなわち、ダイナミックな心理学ならば、ルターの人生のデータから離れなければならない、という点です。すべての立場の人が、ルター、すなわち、この偉人のカリスマを、包括的に、しかも堂々と捉えることになるほど、一致できるのかどうか?

 

 

 

 

 ルターに対する見方は、立場が異なると、それぞれ違ったものになってしまう。微妙に食い違いが出てきてしまう。エリクソンは、その一致を図るために、ルターの人生のデータから離れなくてもならないといいます。

 なぜなんでしょうか?

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未知なるルター

2013-11-24 03:31:54 | エリクソンの発達臨床心理

空飛ぶ円盤

 スミス教授は、ルターの自慰への耽溺を見逃しませんでした。スミス教授はまた、ミスも犯しました。ルターも人の子、スミス教授も人の子、ということでしょうか?

 

 

 

 

 

 大学教授、司祭、それに、精神科医が、スミス教授を「精神分析家」と呼ぶけれども、私自身は彼をそのように特色付けることは致しません。なぜなら、彼の非常に優れてはいても、データに基づく貢献が1人の男に対する、1つの孤高な実験であるように思われるからなのです。その男は、私が知る限りにおいては、体系的に、精神分析の視点から研究されたことは、実践においても、理論においても、一度もないのです。

 

 

 

 

 ルターの様に、人類の歴史を語る上で、書くことができないほどの人物でも、必ずしも語りつくされているわけではないことが、エリクソンによって教えられますよね。精神分析の視点からルターを見とる、どのようなことが分かるのか? 今後のエリクソンの展開が楽しみですね。

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スミス教授のミス

2013-11-23 03:32:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「宗教改革」を始めた人物、ルターがエッチな空想に耽っていたこと、それが「事の始まり」というのは、驚きですね。しかし、「宗教改革」がピューリタンやプロテスタントという、「お堅い人物群」を創り出したというのは、何とも不思議なことではないでしょうか?多くのプロテスタントの流れにいる人は、ルターのこの「事の始まり」を知らないと思いますね。

 

 

 

 

 「フロイト派」のいくつかの概念に対して、1人の学者、特に、ピューリタンの背景のある学者にとって、最初に抱いた心ひかれる思いがどうだったのか、一時の教化がどうだったかを理解することは、ためになります。このいくつかの概念は、彼の考えでは、まだ他人事です。自慰行為説を説得力のあるのにするために、スミス教授は、徹底的にドイツ語の文献に当たったのに、ルター自身の文献にある有名な言葉をひとつ見事に読み間違えました。ルターが繰り返し報告したのは、修道士の良心の呵責の真っただ中で、信頼できる上司に告白したのは、「女について」ではなしに、「die rechten knot」、つまり、「本物のコブ」についてです。簡単な言葉で申し上げれば、木のコブのことで、一番切りにくい場所に当たります。スミス教授がなんとなく感づいた、実際の邪魔ものをこのように参照することは、自慰をほのめかすことです。その言葉の響きからはこの種のことをなんら示していないけれども。さらには、少なくとも、1つの場合は、ルターがそのコブを「」、すなわち、「父なる神を愛する」という第一戒に対する罪であると、ハッキリと言っているけれども。このことは、ルターが神に対して、ますます膨らむ、頭から離れない不敬な、相反する気持ちを示しているのでしょう。それは、自分の父親に対する非常に病的な結果(ここでは、スミス教授は、もろん、正しく、精神科医に支持されています)ということもあるのでしょう。父親に対する病的な関係は、その代りに、ルターのエッチな空想に対して、適切な中身を提供してくれます。スミス教授は、聖歌隊でのあの報告された大声が「私じゃない」ということに翻訳されたのは、偶然です。この言葉は、1人のニューイングランドの人でも、発作に中で果たして口にするものか、私は疑います。

 

 

 

 ルターの悩みは「木のコブ」が意味したのは、自慰のことだった、というのは、ちょっと婉曲が過ぎるかんじですね。スミス教授、鋭くもそのように感じたのでしょう。それがなぜ、ルターの有名な言葉を読み間違える結果になったのか、エリクソンの言葉に耳を傾けて見ましょう。

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ルターのエッチな神様

2013-11-22 03:37:29 | エリクソンの発達臨床心理

 

 病気といえば、個人のせいにすることが多いので、その責めは個人に向かいがちです。風邪を引けば、「お腹を出して寝てるから、いけないのよ」と責められますよね。それに対して、同じ病気でも、「社会病理」という呼び方をする場合がありますね。「社会病理」となれば、この病は、「個人が悪い」というよりも、その社会の構造的な欠陥、不十分さの表れとして、捉えることが可能になります。この場合、「社会を、人間らしい暮らしを実現するために、変えていこう」というように、目的的に社会を「チェインジ」する道も開けます。そして、「チェインジ」するのがいつかな?となれば、「今でしょ!」ということにもなります。

 いままさに、「チェインジ、ナウ Change, Now! 今すぐ変えてこう」でしょう!

 

 

 

 

 

 それじゃ、精神分析家はどんなか? 次にご紹介するのは、大学教授で、精神科医でもあり、「現代のフロイト派」の代表格の1人と呼ばれることが多いですし、その呼び名には、非常に傲慢な響きがあるかもしれません。それは、当時アマースト大学で教鞭を執っておられたプリザーヴド・スミス教授です。スミス教授は、ルターの伝記を一冊書き、ルターの手紙を編纂した他に、「精神分析の光を当てた時のルターの初期の発達」という、著名な論文を、1915年に書いています。私がいま「他に beside」という言葉を意図的に用いたのは、ルターに関するスミス教授の業績の中で、この論文には、異質なものだ、という印象があるからです。つまり、この論文は、言わば、左手になるもの(遊び)なのです。右の、公的な手はあずかり知らぬものなのです。スミス教授が主張するのは、「ルターは、幼児性欲のコンプレックスが、神経症レベルで、ヒステリーに準じる形で完全に残った、典型である」ということです。実際に、ジグムント・フロイトとフロイト派が、ルター程、フロイト派の理論の健全な部分を描き出してくれる例など、ほとんどない、といえるほどです。スミスは適切なデータを集めて、「ルターの子どもの頃がいかに不幸なものであったか、それは、父親が厳しすぎたから」、ということを示してくれましたし、「ルターが強迫的に、復讐の神と、目に見える悪鬼としての悪魔と、エッチなイメージと言葉とに、心奪われていたか」を描き出してくれました(このことは、私も、後ほど詳細に触れます)。スミス教授は躊躇することなく、「初期のプロテスタント主義の礎は、ルター自身が空想したことに対する1つの解釈に過ぎない」と特徴づけています。ルターの病的な空想で目立つことといえば、それは、「エッチなこと」をあれこれと想像していたということです。それを、スミス教授は、あらゆるエビデンスに抗して、あたかもそれがルターにとっても性的に「熱望していること」であるかのように扱っています。スミス教授は実際(ルターが「女性」で罪を犯したことは決してない、とスミス教授が強く信じていることは、しぶしぶ認めつつ)、ルターが「エッチなこと」に心奪われていたことは、ルターが自慰行為と戦わなかったからだと見做すほどです。

 

 

 

 

 

 世界を変えることになる人が、「エッチなこと」をあれこれ想像することに心奪われたことに始まる、ということは、なんだか、強く励まされますよね(クスクス)。

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「創造の病」に消極的

2013-11-21 03:39:25 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターは、ライターによれば、神経症の時代を経て、宗教改革を実践するに至る人となれたこととなります。ですから、ルターの神経症も、「創造の病」ということができるでしょう。

 

 

 

 

 

 私どもは、この精神科医が肯定した免罪符を最大限活用しようと思います。というのも、私どもがライターの書いたものを引用する際には、ライターのことを、ルターの伝記記者のなかで「医学・生物学派」の代表、と呼ぼうと思うからです。このグループの伝記記者たちは、ルターが個人的に、あるいは、神学的に「やりすぎ」になるのは、1つの病気のせいだ、と描きます。この病気のせいで、その病気がたとえ、脳の病であっても、神経症であっても、腎臓病であっても、ルターは生物学的に劣等であるか、あるいは、病人だ、とされました。聖歌隊での出来事については、ライターは、不思議な間違いを犯します。ルターは、自分でも口にしていますが、ずっと長い間、自覚的ではありませんでした。というのも、ルターが「極端に意図的に・・・」大声で「それは私だ  Ich bin's」と叫んだからでした。つまり、ルターには、福音に憑りつかれてしまった、という自覚はなかったのです。このように肯定的に感嘆符をつければ、私どもが聖歌隊での出来事のせいにしている肯定的な意味を台無しにしてしまうでしょう。しかしながら、ライターも、同じ本の300ページ前で、伝統的なやり方で、マルティンが「それは私じゃない」と大声で叫んだ話に触れています。

 

 

 

 

 

 ライターは、聖歌隊での発作は、いわば不安発作であり、病気の印と考えたのでした。ですから、そんな病気持ちのルターは、劣等であるか、病人なのですね。ライターのような「医学・生物学」的に物事を考える人は、「病気」=「弱さ」と考える人ですから、この「病気」が創造性の源になっているとは考えないのです。すなわち、「病気」=「弱さ」と見なす人は、「創造の病」と言う見立てに消極的になります。 

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