いろいろなことがすでに承知であると思われていたルターが、精神分析の対象に今までなっていなかった、ということは、エリクソンが歴史上の人物に精神分析の光を当てることが、いかに斬新なアイディアであるか、が示されていると私は考えます。
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なぜ私が、ルターの、聖歌隊での出来事について、その解釈については、大なり小なり、食い違いがある議論をご紹介したのか?
ルターが自分自身の道を確かにすることができずにいる危機(アイデンティティの危機)に、私が心を寄せることを、一番多いもろもろの事実や参考書を、独自の研究に任せるいろいろな文献を学ぶことによって方向付けようとする際に、激しく怒る時のルターの呻きと、笑いの中にさえあるルターの呻きを、繰り返し聴き取りました。 「私じゃない!」 。この同じ事実に対して(ご指摘してきましたように、心理学的解釈に妥当する細かい点で、それぞれに違いがあります)、あの大学教授、あの司祭、あの精神科医、その他引用したものは、それぞれ自分自身のルターをこしらえています。だからこそ、全ての人が一致することが一つあるのかもしれません。すなわち、ダイナミックな心理学ならば、ルターの人生のデータから離れなければならない、という点です。すべての立場の人が、ルター、すなわち、この偉人のカリスマを、包括的に、しかも堂々と捉えることになるほど、一致できるのかどうか?
ルターに対する見方は、立場が異なると、それぞれ違ったものになってしまう。微妙に食い違いが出てきてしまう。エリクソンは、その一致を図るために、ルターの人生のデータから離れなくてもならないといいます。
なぜなんでしょうか?