エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

創造性を準備した、不安の時代

2013-11-20 03:10:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターの発作を、生物学的に「内因性の病」と位置付けることは、その発作の原因をルター個人に由来するものにしてしまいます。言葉を換えて、敢えて突き詰めて申し上げるならば、発作を起こしたのは「ルターが悪い」のであって、家族のせいでも、社会のせいでも、時代のせいでもない、そういう一切の関わりから断絶した、個別化されたものに、その発作を位置付けてしまうことになります。そうなれば、周りの人たちは、その発作に対して「関係ない」と言い張る余地が出てきてしまいます。

 

 

 

 

 

ライターは、私どもが一番関心を持つ、ルターが22才から30才にかけての数年間について、長期のKrankheitphaseの1つ、つまり、長期にわたる神経症の1症状と、考えました。この症状は36才まで続きましたが、その次に来たのが、「熱狂的に」創造的な時期でして、さらにその次は、40台の深刻な神経衰弱の時期です。実際、ライターが感じたことと言えば、ルターのこの数年間の中で、この宗教改革者には有名な「いつでも力強い状態」である、と本当に特色付けられる時は、ほとんどありませんでした。つまりそれは、ルターがルターらしかったのは、非常にレアケースのことであり、しかも、短期間のことだった、ということです。ライターが考えたのは、少なくともルターは20代の時には、精神病の時代とか、緊張の時代とか言うよりかは、神経症の時代であった、ということでしたし、また、ライターが認めていたのは、この時期の危機は、ルターが人生の価値を探すことが、ルターの心理的な葛藤と意義深く結びついていた唯一の時期だった、ということです。つまり、ルターの創造性が、ルターの心理的破壊過程と調和していた時期であるということですし、同時に、ある程度の「限定的ではあっても知的なバランス」が取れていた時期でもあった、ということです。

 

 

 

 

 

 ライターは、ルターの20台を「不安の時代」と位置づけ、次に来る創造性豊かな時期の前触れ、準備期間としたのでした。また、世間で流布しているルターの「いつでも力強い」という感じは、むしろ例外的な状態であったことを暴露しています。

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「悪いのは、ルターだ」という見方

2013-11-19 03:33:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 <イメージ・話し言葉・出来事>の結びつきが、また出てきましたね。こうも繰り返されるのは、なぜなんでしょうか?

 

 

 

 

 

 しかし、ここで、他の専門家集団も見ておきましょう。ルターの非常に熱心な研究者、デンマークの精神科医、ポール・J・ライターが明快に確信したのは、この聖歌隊での発作は、重篤な精神病だということです。せいぜい、彼はこの出来事を、良性のヒステリーの症例だと彼は見ることを厭いません。その場合でも、彼はこれを、安定しているけれども、無慈悲な、「内因性の病状」の1つの症状である、と評価します。この「内因性の病状」は、ルターは40台半ばに、明確な精神疾患となって頂点に達します。「内因性」とは、実際には生物学的、という意味です。ライターが感じていたのは、ルターの発作が「一連の、意義深い心理学的発達の」一環である、などと見ることは、「どんなに善意的に見ても」、到底あり得ない、ということです。神経系の不規則な不調でしかないルターの異常に、天からの「メッセージ」だとか、内心からの「メッセージ」だとかを見つけだそうとしても、虚しいばかりだったのでしょう。

 

 

 

 

 

 ライターは、非常にドライに、ルターの発作を神経の病気と見たのでした。不安障害だと。エリクソンは、以前の箇所で、魂の次元のことを「生物学的に診断する医者」が困り者だといいました。その実例がライターなのでしょう。

 しかし、これはエリクソンがこれを書いた時代だけのものではないのです。今現在の日本においても、不登校や、クラスに馴染まない子どもがいれば、「ADHDじゃないですか?」、「親の養育能力がない家庭なんです」、「学校は忙しいし、そこまでやり切れません」などと、スビリチャアルな次元に事欠くことが非常に多いのです。

 私どもはどうすれば、この事態を突き抜けることができるのでしょうか?

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心=イメージ+話し言葉+出来事

2013-11-18 03:32:10 | エリクソンの発達臨床心理

 

 最も厄介な存在が、最も身近に存在する。それは思いのほか、良くあるパターンなのですね。さらに厄介なのは、その関係が、なかなか客観的に把握するのは非常に困難なことが多い、ということです。

 

 

 

 

 

 こういったことを考慮に入れて、マルコによる福音書第九章17節~24節に立ち返りましょう。キリストに声をかけたのは、1人の父親でした。「『主よ、私はここに息子を連れて参りました。息子には声を出さない悪霊が憑いてますから・・・』。するとキリストはその父親に答えて尋ねた。『こういう状態になったのはいつからですか?』父親は言った。『1人の子どもの…』。キリストは父親に向かって言った。『もしあなたが信頼することができれば、信頼するものは何でもできます』。その父親はすぐさま泣き出して涙ながらに言った。『主よ、私は信頼します。信頼の弱い私を助けてください』。それで二人は癒されたことが聖書の中に記されています。つまり、モノを言えない悪霊に憑かれた1人の息子が癒されたのは、父親が弱い信頼感を癒された後のことでした。マルティンが示したこの聖書箇所に対する反応の、「内的・心理的」核心の見通しは、慎重に値踏みされるべきでしょう。他でもない、ダニフル先生が用いた物差しで、聖職者と呼ぶ人を測ることとします。ただし、私どもはダニフル先生を、ルターに伝記に中では、聖職者養成校の代表として引用する時の話です。

 

 

 

 

 

 子どもの癒しという出来事は、父親の信頼というイメージと結びついています。それは同時に、キリストがその父親に話した、話し言葉と結びついています。

 ここでも、<イメージ・話し言葉・出来事>の結びつきが、物語の展開には欠かせないものとして描かれています。

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最も厄介なのは、最も身近な人でした

2013-11-17 03:36:37 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 シェール先生とダニフル先生の見方がこうも違うのですね。どちらかが正しく、どちらかが間違い、と言うのではないのではないのでしょうか? ルターと言う人物は実際に、それだけ二律背反に満ちていた、というのが、実際に近いのだろうと感じます。エリクソンは何と言うのでしょうか?

 

 

 

 

 

 ルターの経歴はすべて 悪魔が息吹を吹き込んだものだという疑いに伴って、ダニフルはルターのスピリチュアルな性質と心理的な性質の中で、一番きつい点を指摘しました。修道院での日々は、1つの疑いによって、心塞がれるものでした。その疑いを、ルターの父親が大声で口にしたのは、この若い司祭が最初のおミサをしていた時でした。それは、嵐は、1人のGespenst、すなわち、オバケの声だということでした。このようにして、ルターの誓いは、病気と悪魔の境目にあったのです。ルターがこの父の疑いに敏感であり続け、また、自分自身と論争し続け、父親とも論争し続けたのですが、それは、父親が自分の息子のことをスビリチャアルな指導者であると同時に、ヨーロッパの宗教的偉人として認めざるを得なかった、ずっと後までそうだったのです。しかし、二十代の時には、マルティンは未だひどく苦戦している青年でしたし、ルターの魂に吹き込まれた言葉、あるいは、ルターを悩ましていたことを必ずしも表現出来るわけではありませんでした。ルターの世界で一番重たい重荷は、まさに、父親が息子の宗教的な経歴を認めた(それは、とにかく、法的には必ずしも必要なことではないのですが)のは、一番嫌なことを嫌々ながらしたことであり、散々呪った後のことでもあった、という事実なのです。それは間違いありません。

 

 

 

 

 最も厄介なのは、最も身近な人だった、というのは、実はよくあるパターンです。ルターの場合も父親でした。ひとによっては、母親のこともあるでしょう。ルターが偉大だったのは、この最も厄介な存在を愚痴のネタにするのではなくて、自分のスビリチャアルな目覚めのために用いたことだったはずです。

 これは、このブログの読者の皆さんにも開かれている可能性なのです。

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反対派の見方

2013-11-16 03:34:12 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターの発作をシェール先生は、神が準備した苦難である、と見ました。それは何でもかでも、「病気」、「障害」、「異常」と見なして、「自分たちとは違う」と安心したい現代人にありがちな見方とは、正反対の見方と言えるでしょう。しかし、それではスビリチャアルな健康を保つことはできないのです。なぜなら、最深欲求は、今申し上げた「病気」などに見える形で現れることが多いからです。

 

 

 

 

 最も有名で、多くの点でまさに無名な、ルターを中傷する人物は、ドミニコ修道会のハインリッヒ・ダニフルは、教皇の座の副アーカイパーでしたが、ルターの発作に対して、別の見方をしました。ダニフルにとっては、聖歌隊での発作のような出来事は、内的な要因が一つあるだけだとしました。それは、ごく最近の葛藤や真実な難儀などではなくて、人格が極端に堕落しているからなのでした。彼にとっては、ルターはあまりにも頭が変なので、真実の心理的、ないしは、スピリチュアルな苦難があるなどとは到底信じられるものではないのです。ルターを通して語る存在は「悪魔」に決まっています。ダニフルが一番大事にした価値付けの根拠は、単なる病的発作でもなければ、後になって、ルターが宗教改革に至ることとなる天啓でもなく、まさに、何物も神の介入とは無関係、ということでしたし、そうでなければなりませんでした。嵐の日のことに触れたところで、「誰が、他ではない、ルターのために」、「聖霊を通してなされた、息吹が吹き込まれるということが、本当に天から来たことなのか、それは、意識的、ないしは、無意識的な自己欺瞞の働きではなかったのか」と問うています。ルター主義は、ダニフルが恐れていることですが(、そして、立証したいと願っていることですが)、非常に危なっかしい人の絵空事を、教義の高みに持ち上げようとしている、ということです。

 

 

 

 

 

 カトリックのダニフル先生の見方は、プロテスタントの神学者シェール先生の見方と正反対ですね。さてさて、今後については、乞うご期待。

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