シャツの袖口のボタンを留めようとして、手首がすっかり細くなっているのを実感しました。体重は量っていないけれど、おなか周りの肉の落ち方からして60キロは切っているだろうと思われます。
85センチあったウエスト(というより腹周り)は70センチ台に落ちました。連れて、十年ほども行方不明だった腰骨が現われるようになりました。ダイエットに苦しむメタボさんには羨ましいかもしれませんが、私は逆に深刻です。
一昨日から初夏らしい暑い日になりました。
五月三十一日からの三日間、最低気温は10度を割って、夜になるともう一度ストーブを出そうかと考えるほどだったのに、一転、いきなり暑くなって、私の体調は悲鳴を上げています。
しかし、市役所と社会福祉協議会へ行かなければならなかったので、鉛を巻きつけたような重い腰を上げました。
前日の午後、行こうと思って一旦家を出たのですが、銀行と郵便局に寄って駅に向かう途中、必要な書類を忘れていることに気づいてUターンしたら、どっと疲れが出て、行くのを取りやめてしまったのです。
昨六月四日は前日より暑くなったせいか、前日に増して体調がよくない。明日にするか、とサボリ癖が出かかったのを、今日行かなければ、月曜になってしまうと気づいて出かけました。
食欲もなかったけれど、お茶漬けを無理矢理押し込んで、暑さに備えてマグボトルに冷やした烏龍茶を入れて……。
家を出て数分歩いたところで、財布を忘れた、と思って戻りました。自分のうっかり癖にほとほと嫌気が差し、また気持ちが萎えかけましたが、二日もつづけて疲れたといってはいられません。
家に戻って、財布はどこかと捜したら、なんと財布は持って出た鞄の中に入っていました。こういうことが段々頻繁になります。
午後一時に市役所に着くように家を出たつもりですが、何を勘違いしていたのか、松戸駅に着いたときはまだ零時半前でした。
前回市役所に行ったとき、担当者の身体が空くのを待つ間、待合の長椅子に坐っているのも退屈だったので、建物を出て近辺を徘徊、金山神社という小さなお社を見つけていました。お社そのものは小さいけれども、高さ15メートルという丘の上にあって、緑の多いところです。
一時になるまで、そこで時間を潰すつもりで、確かこのあたりのはずだと道を折れると、岩山稲荷という別のお社がありました。
古くは周辺の鎮守だったようです。伏見稲荷や豊川稲荷と同じように、岩山というのは地名か、あるいは岩でもあったので、単純に名づけたのか。
松戸市役所周辺は小高い台地になっていて、戦国期まで根本城があったと考えられているところです。
南北朝期、新田義貞がこの地に城を構えたのが始まり、という言い伝えがありますが、城はそこまで古いかどうかは疑問。戦国期まで東葛地方を支配していた高城氏の支城だったというのが妥当だろうと思われます。
天正年間(1573年-93年)に高城播磨守という人物が岩山稲荷を再興している、と記録にありますが、この人は大谷口(小金)城主だった胤吉の三男(胤知)ではないか、といわれています。
岩山稲荷の鳥居の隣にはソープランド。
不似合いのようですが、神社とお寺の違いはあるものの、一遍さんが生まれた伊予松山にある宝厳寺の下は道後温泉の歓楽街です。一遍さんが出家の道を選んだのは、そこで苦界に働く女性たちを見たから、ともいわれますから、不似合いのようでいて不似合いではないのかも。
ソープランドの前を通り過ぎ、新京成の踏切を渡って、常磐線沿いに少し歩くと、前回訪れた金山神社です。無住の神社で、由緒を記すものもないので、由来は一つとしてわかりません。
全国に分布している金山神社の一つであるとすれば、祭神は伊弉冉尊の吐物から生まれたという金山毘古(かなやまひこ)と金山毘売(かなやまひめ)です。
二神は鉱山で働く人たちが祀る神ですが、このあたりに鉱山があったとは考えづらい。鉱山転じて鍛冶師・鋳物師などの守り神でもあったといいますから、かつては鍛冶の作業場があったのかもしれません。
市役所で用を済ませたあと、ハローワークを覗くつもりで、真っ直ぐ南下。
ハローワークは常磐線を挟んで、市役所とは反対側にあるので、駅のコンコースを横切ろうと思いましたが、ふと思いついてそのまま駅前を通り過ぎ、相模台公園の下に出ました。
市役所からここまで徒歩十分ちょっと、という近い距離ですが、ここも相模台城という城のあった趾です。かなり急で長い石段があります。
昔からあったものかどうか、階段を上り切ると、土塁を掘り下げたような地形につくられた広場が現われました。本郭があったと考えられるところはもっと先で、広場を突っ切り、一度階段を下らなければならないので、今日はパス。遺構らしいものも遺っていないようです。
この城は北条長時(鎌倉幕府第六代執権)の築城になるという文書(岩瀬村誌)がありますが、それを確かだと裏づける史料はないようです。
標高25メートルと、周辺では一段高いので、眺望はよかっただろうと思われます。
長時の時代から約三百年後の天文七年(1538年)、足利義明(小弓公方)が後北条氏と戦ったときには足利の軍兵がこの台地に陣を敷き、後北条軍が江戸川(当時は太日川)を渡ってくるのを見張ったと「国府台戦記」には記されていて、これはどうやら史実の裏づけがあるようです。
むろんいまはビルやマンションに視界を遮られて江戸川を見渡すことなどできません。
ハローワークは相変わらずの人、人、人でした。
最近、家でインターネット検索をしていなかったので、パソコンを借りて検索してみましたが、新しい求人はありませんでした。
仕事を選んでいる場合ではないけれども、いまの私には重労働や長時間立ちっ放しという仕事は冗談ではなく死を意味します。それを除外してしまうと、仕事は……ない、のでした。
一日も早く体調を元に戻さねば、と思うのですが、どうしようもないディレンマ。これでハローワークは四連続三振。金田と長島の対決もかくや。
社会福祉協議会への行きはバスを利用しましたが、帰りはまた歩き。もう一度浅間神社に寄ってみました。
カメラに収めると、こぢんまりとして見えますが、実際はかなり大きな小山です。
石段(左手)の上り口に建つ極相林を示す石柱です。
前回は雨雲が出て急に暗くなりましたが、今回は晴天の昼日中です。木漏れ日がありますが、やはり森の中は暗い。
狛猿にカメラを向けると、オート発光モードにしてあるストロボが光ります。
浅間神社にはどこも富士塚があります。
大概は石を積み上げただけのものですが、この神社では標高18メートルの丘全体が富士塚です。社殿に到る石段の脇には高さを示す(これは二合目を示す標識)石柱が建てられています。
外に出るのが稀になってしまった間に紫陽花(アジサイ)の季節です。
かつての通勤路では紫陽花の花が咲き始めているでしょう。けれども、私がその群落を訪れることは二度とありません。
ただ、野良のオフグ一家に会えないのだけは心残りです。