一昨日十七日、一万歩以上も歩くという、最近では珍しいオーバーワークをしているのに、昨日今日と体調はさほど悪くありません。そこでハローワークへ行ってきました。平日に較べると、業務は限られていますが、土曜でもやっているのです。
しかし、結果はまたも空振り。ないだろうなと危ぶみながら行ったものの、実際に「求人ゼロ」という現実に接すると、背中も肩も一層丸くなるようです。
長居をしていても詮方ないので、歩いて数分の松戸市立図書館を覗いてみました。「翁草」という江戸時代の書物に田沼意次のことが(好意的に)書かれていると知ったので、借りに行ったのです。
これは森鷗外も愛読していたという本で(「高瀬川」もここからヒントを得ています)、私も自分の書架に加えたいと思いながら、諸事情これあり、叶わないままになっていました。
事前にWebで調べたときは、吉川弘文館版(全六巻)の所蔵があり、貸出可能とありました。
ところが、実際に図書館へ行って、書架のどのあたりを捜せばいいのか、と館内備え付けのコンピュータで検索してみたのですが、あるはずのものがないのです。
不思議に思って訊ねたら、場所の離れた倉庫にしまってあって、すぐには借りられないということでした。おまけに二十一日から月末までの十日間は休館となるので、借りられるのは来月になってからだという。
ヤレヤレ。松戸に住ませてもらっているのに悪口をいってはいけないと思いつつ、松戸の公共施設にはいつも隔靴掻痒の思いをさせられます。
わざわざやってきたのに、とついムカムカときてしまったので、早々に退散しました。
蒸し暑い。
家に帰っても蒸し暑いだけなので、近辺を散策してから帰ることに決めました。
図書館の近くには、去年も訪ねた平潟神社と平潟遊郭にまつわる来迎寺があります。この来迎寺には遊女を弔った墓があるらしいのですが、去年と変わらず柵があって、境内に入ることはできません。簡単に跨ぐことのできる柵なので、入ろうとすれば入れるのですが、柵が置いてある、ということは、入るな、ということなのでしょうから、入るのは遠慮するのです。
旧平潟地区は鉄道が通るまで水運の街として栄えたところです。遊郭があったのもそのため。
いまはマンションが建ち並んで、その当時を偲ばせるものは皆無ですが、坂川、新坂川、樋古根川、六間川という四本の川が「土」の字を形づくって流れているのを見ると、小舟の行き交う賑やかさが目に浮かぶようです。
猪牙舟に乗って郭を廻る芸伎がいたかもしれません。
足の向くまま気の向くまま歩き出しました。
六間川に沿った道路は松戸三郷道路です。江戸川を越すために徐々に高架になって行きます。その下の道をしばらく歩くと、圓勝寺という案内板が目に入ったので寄ってみました。
真言宗豊山派のお寺ですが、浄土宗のお寺を思わせるような大きな甍です。
境内はいつも私が行くお寺がそうであるように、まったく無人。物音一つしませんでした。
帰宅後、Webで調べてみましたが、ホームページもなく、関連したブログもなく、お寺の由来などはわかりません。
鵜森稲荷神社。
圓勝寺の少し先、江戸川に向かったところにありました。
境内にあった由来書きによると、昔は江戸川のほぼ中央にあって、森に数千羽の鵜が住み着いていたことから、名前がつけられたようです。「ほぼ中央」というのは中州なのだろうかと思います。
現在地に移転、ともありましたので、間違いないようですが、あった場所が中州とは書いてありませんでした。
天気予報ではやがて雨になるようだったので、折り畳み傘を携帯していました。
肩から提げたトートバッグには、ダカラを入れたマグボトルとバイブル手帳、地図、財布、カメラ、携帯電話を入れているだけですが、折り畳み傘一本を余分に持っただけで、バッグはずっしりと持ち重りがします。
曇って、一層蒸し暑くなったと思った矢先、太陽が顔を覗かせてカンカン照りになりました。そこへ恒例の偏頭痛が来襲しました。
これはいかん、と思って腰を下ろせるところを捜したけれども、適当な場所がない。途中でぶっ倒れてもいいと覚悟を決めて、江戸川まで小走りに歩き、松戸三郷道路の橋の下にもぐって身体を横たえました。
微風ながらも少しは涼しい川風に吹かれたのがよかったのでしょうか。
やがてダカラを口に含む元気が出て、ダカラで湿したハンドタオルを頭痛のする場所に当てていたら、いつの間にか来襲は陰をひそめました。
また聞くとは思っていなかった行行子(ヨシキリ)の啼き声が聞こえたので、しばし河原に降りたあと、あとはぐずぐずしている場合じゃないと松戸駅目指して戻りました。幸い空は再び曇り、特別いぶかしいような体調でもありません。
急ぎ足(自分でそう思っているだけで、じつはのろいのです)で帰る途中、小さな森が見えてきました。
我が庵の近くにあったのと同じ女躰神社でした。祭神も同じ筑波女大神、つまり伊弉冉尊。
腰を下ろせる場所でもあれば小休止させてもらおうと立ち寄ったのですが、緑には恵まれているものの、小さな社で、もちろん無人。腰を下ろせるようなところはありません。裏手から入って通り抜けただけです。
すぐ隣には大乗院。ここも真言宗豊山派のお寺です。
女躰神社、大乗院ともかすめるように通過したので、手早く写真を撮っただけです。家に帰ったら詳細を調べてみよう、と思ってWebをさまよってみましたが、いまのところは詳しく触れたブログやホームページがありません。
また体調がよくなったら(そういう日は望めないかもしれませんが)、ゆっくり調べるつもりです。
私が読みたいと思った「翁草」には次のようなことが載っているそうです。
田沼意次が松平定信と一橋治済によって失脚させられたとき、当然のことながら、家臣の大部分(二百七十人だったといわれます)に暇を出さねばならぬことになりましたが、意次はそれぞれの役職に応じて、破格の手当金を渡しているのです。
地位の高かった者には数百両、武士の中では最下級の小徒士並にも五十両。
この時代、一般庶民なら十両あれば一年間の暮らし向きが立ったといわれています。五十両はいまの貨幣価値からいうと、最低でも一千万円。それぐらいは渡していたことになります。
田沼意次は五万七千石という大名にまで出世しましたが、もともとは貧乏人の小倅です。貧乏人が成功すると、苦労した時代を忘れて尊大になることが多いようですが、意次はそうはならなかったのです。
意次に代わって老中首座に就いた松平定信が行なった寛政の改革は、一口でいうなら奢侈を禁止することです。贅沢を摘発しようと、密偵にご婦人の下着まで調べさせたといわれます。
ところが、その密偵が賄賂を掴まされて、案件をうやむやにしていまうこともないとはいえません。松平定信という人は密偵が賄賂を掴まされていないかどうか監視するために、さらに密偵を監視するための密偵を使った、という念の入れ方をした人です。
念には念を入れるというのは何事においても常套手段かもしれませんが、ここまでくると、愉快な話ではなくなってしまいます。
以前のブログで松平定信や田沼意次を取り上げたとき、とくにどちらかに思い入れがあったわけではありません。しかし、意次の面倒見のよさ、定信の疑り深い性格……と知識が一片一片と増えて行くのにつれて、私は徐々に意次贔屓になって行くようです。単純単純。
「幻十郎必殺剣」(テレビ東京・画像も同ホームページから拝借)という時代劇がありました。
同僚を殺害し、本来なら死罪になるはずだった主人公(北大路欣也扮する元南町奉行所同心)が、かつての権力者の思惑で、名前を変えて生き残ることになり、代わりに現政権を担っている者の悪を暴く、という筋立てのドラマです。
かつての権力者とは松平定信。
失脚後、隠居したあと、という設定なので、松平樂翁です。
どこまで史実に基づいているものかわかりませんが、幻十郎が首尾よくことを終えたあと、人けのない屋敷の暗がりからヌッと顔を出すのが中村敦夫演ずるところの樂翁です。
人目を憚って現われるところがいかにも陰湿で、悪巧みを隠しているという風情があって、役どころとしては的を射ていますが、はっきりいって悪役です。役者は割り振られた役を演ずるのが仕事、とはいうものの、我が青春時代、「木枯らし紋次郎」で胸をワクワクさせてくれたのが中村敦夫だったのに、です。