またまた慌てて前後の見境をなくしておりました。
履歴書が必要になるのはハローワークへ行って、求人先に連絡を取ってもらい、私の年齢、職歴など、相手が了解してからのことです。すなわち、面接してもらえることが決まったとき ― 。それなのに、どういうわけか動顛して、履歴書の用意がないので、ハローワークへ行くのは取り止め、と思ってしまったのです。
で、月曜日(二十一日)はどこへ行ってきたのかというと、松戸市小金原にある萬福寺です。
柏の長全寺を見たあと、長全寺と同じく廣徳寺五世・巧室梵藝大和尚による開山と知ったので、是非とも見ておきたくなりました。
ただ、我が庵からは最短距離を歩いても所要四十分と、やや歩きでがあります。途中、少し寄り道すれば、馬橋の萬満寺と関係が深かったという普化宗(ふけしゅう)の一月寺跡も見ることができますが、病を抱えた身体でそんなに歩いて大丈夫かいな?
小金原へ行くためには新松戸駅の東方にある台地を越えて行かなければなりません。真っ直ぐに走る道がないので、地図を携帯して行くだけではややこしくなりそうです。インターネットの地図でルート検索機能を用い、その地図もプリントして持って行きました。
しかし、結構急坂のつづく道を上り切ったところで迷ってしまいました。昔からの小径を拡幅した道路なのか、このあたりの道という道は必ずどこかでカーブしているし、交差も十字ではなく、X字Y字という交わり方なので、いつの間にか方向感覚を失ってしまうのです。
迷い始めたころ、真夏に近い太陽がちょうど中天にありました。
帽子と扇子と、どこで野良の猫殿に遭遇してもいいようにミオと、それぞれ持って出ようと思っていながら、全部忘れていました。
地図の上下をひっくり返し、南の方角に歩いていたつもりなのに、ふと気づくと、開いたまま手に持っていた地図に自分の頭の陰がある。つまり北を向いているのです。
頭がボーッとして、同じところを二度三度と歩き、挙げ句は近くにあった中学校の校庭に迷い込んだりする始末。
炎天下を帽子もなく歩いているので、身体は汗びっしょり。
けれどもよいことが一つ。前日と同じ靴を履いてきたのに、何がどうなっているのかわかりませんが、右足の小指が靴に当たることがないのです。
どれぐらい余分に歩いたものかわかりませんが、やっと辿り着いた一月寺跡の標識です。
普化宗とは中国で興った禅宗の一派で、虚無僧宗とも呼ばれます。
最近はすっかり見なくなりましたが、私が子どものころは深編み笠に尺八という虚無僧が托鉢に歩いていたものでした。
江戸時代には幕府の庇護厚く、ために明治新政府に弾圧されて、廃宗というひどい目に遭いました。
明治という時代がやってくるまで、この一月寺は普化宗大本山の一つでした。さぞ大きなお寺であったのだろうと思いますが、いまは馬橋の萬満寺に遺石が遺っているだけです。
苦労して辿り着いたのに、見つけたのがこの標識一本だったというのはちょっとガッカリでした。
この標識が建つところ、じつはいまでも一月寺というお寺が現存するのです。ただし、昔とはまったく関係のない日蓮正宗のお寺です。
寺の名も、昔は「いちげつでら」と呼んだようですが、いまは「いちがつじ」と読みます。
一月寺跡から二十分弱で萬福寺です。こちらはバスが通るような広い道がつづいていたので、迷うことはありませんでした。陽射しは強いけれども、サクラ通りの桜並木が遮ってくれるので、歩きやすい。
萬福寺前というバス停が見えたと思ったら、コンクリート造りの建物が目に飛び込んできました。
葬式などに使用される会館と本堂が一体になった建物でした。熱心な檀家も少なくなりつつあるご時世ですから、お寺の経営も何かと工夫しなければならないのはわかりますが……。
形式主義にとらわれているかもしれませんが、お寺の建物がコンクリート造りというのは、どうもいただけません。
巧室梵藝大和尚によって開山されたのは元亀二年(1571年)ですが、この本堂は昭和四十六年に新築されたもの。
境内にあった公孫樹(イチョウ)の古木。
「今日こそは 愚痴をいうまい語るまい 唯ありがたく すごすよろこび」と示された標語。
そのとおりです。語り合う相手のいない私には必然的に愚痴をこぼす相手もおりませんが、心の中で思えば、口に出すのと同じ。ブツブツいったところで、仏にはなれぬ。何も変わりはしないとわかってはいるのだけれど……。
公孫樹の木陰になった墓参者用のベンチを借りて一休みさせてもらい、携帯してきたダカラで喉を潤したので、少し生気を取り戻しました。
萬福寺をあとにしながら、なんとなく廣徳寺がミニ永平寺で、長全寺と萬福寺がミニ総持寺という感じがしました。参詣して心がしっとりと潤うような気がするのは廣徳寺だけのように思います。
きたときと同じ道を戻ります。
途中にユーカリ交通公園があります。行きはその前を通りつつ、帰りに寄れるだけの元気があったら寄ってみるが、多分無理だろうなと思いながら通り過ぎたものでした。
園内にはこんなものが展示されていました。SLファンの間ではこのD51(通称デゴイチ)と貴婦人と呼ばれているC57が人気です。
しかし、私はなんでも大きいものが好きなので、旧国鉄最後の蒸気機関車で、ガタイもデカイC62(シロクニ)に心惹かれます。
特急「つばめ」などを牽引したエリート機関車ではありますが、電化の波の直前に咲いた徒花(あだばな)のような存在で、東海道から山陽、九州、最後は北海道と、活躍の場を次々と追われて行ったことも、物悲しく愛おしく思えます。実際は違うのかもしれませんが、私のイメージの中では戦艦大和とよく似ています。
画像下は自衛隊で救難機として使われたシコルスキー62型。
このあたりまで戻ってくると、常磐線の北小金駅が近くなりますが、まだ随分距離があります。
汗みずくになって、心臓に少し負荷がかかっている感じもしましたが、偏頭痛もなく、何より足が痛くないのがありがたい。このまま歩いて帰ることに決めました。
去年のゴールデンウィークも前を素通りしただけの光明寺。ここも本堂はコンクリート造り。今回も写真だけ撮させてもらって素通りしました。
やはり去年五月に見た幸谷観音です。
等身大(158センチ)の漆黒の十一面観音が祀られていることで、この付近では結構有名です。御開帳は午年の四月十八日だけ。すなわち十二年に一度で、今度は四年後です。私はとても拝むことはできないでしょう。
背を屈めて覗き込むと、ガラス窓を通して辛うじて拝観することができますが、撮影するのは至難。コンパクトデジカメではなおさらです。
六実方面を残していますが、これにて松戸市内のお寺巡りは大体終えることができました。なんとなく自分でカタをつけておきたくて、無理を承知で出かけたのです。体調のよいときとまだ命に恵まれているときがあれば、見残したところも足を延ばしたいと思いますが、とりあえず私の中では完結したような思いがしています。
昨日のブログに書いたように、このあと新松戸駅の裏手に出て野菜を買い、下手な横好きの料理をつくりました。
↓今回歩いた足跡。
http://chizuz.com/map/map70804.html