最後を臭わせるブログを書いたというのに、二度目の更新です。
昨日、関東地方は梅雨入り。前日からの雨で、肌寒く感じる気候であったのにもかかわらず、わりと調子のよい目覚めを迎えることができました。
昨十四日は明智光秀公の祥月命日でした。例年なら髪を洗い、斎戒沐浴したあと、新しい下着に替え、水をお供えし、お線香をあげるところですが、少し涼しかったので、風邪をひいてはいけないと警戒して、斎戒沐浴は取りやめにしました。
雨が熄むのを待っていても、一日じゅう降るという予報だったし、強くはなかったので、昼過ぎに買い物に出ました。相変わらずフラフラと覚束ない足取りです。
数日前、テレビの料理番組で視た豚の角煮と青梗菜炒めが美味しそうだと感じたので、つくろうと思ったのです。肉を食べたいと思うのは久しぶりです。
豚の角煮は自分でつくろうか、出来合いを買うかと逡巡ののち、出来合いのものを買いました。
家に戻って下ごしらえにかかったら、偏頭痛に見舞われました。両耳の上のあたりが両側とも痛むときと、どちらか片側だけ痛むときがあります。
昨日は最初右側。
とても我慢できない、という痛さではありません。しかし、ドーンと居座ったようにいつまでもシークシークと痛みます。
何かほかに熱中できるようなこと、たとえばテレビで秀逸なドラマをやっているとか、インターネットを視ていて、思わず惹き込まれるような記事を見つけたときなどがあると、痛みを忘れることができ、やがてふと我に返ったときには消えているということがあります。
が、昨日のテレビは私にはまったく興味が持てないのに、サッカーのワールドカップ一色。NHKなんぞは試合開始は日本時間で夜中だというのに、昼間からカメラを入れて、誰もいないスタジアムを映し出したりしている。呆れて物が言えぬと思っているうちに、左側も痛み出しました。
処方されている薬の中には痛み止めなどないので、服んでいいのかどうかと思いながらバッファリンを服んで、しばし横になりました。
まるで緊箍児(きんこじ)を填められた孫悟空のようです。
偏頭痛の来襲がたまさか食後だったりすると、まるでセットになっているように襲ってくる胸焼けと吐き気……。危惧したとおり、昨日もやってきました。
嵐が過ぎるまで身を竦ませて、ただただ耐えるほかありません。
気を紛らわそうと倉嶋厚さんの「日和見の事典」(東京堂出版)を読んでいたら、「栗花落」と書いて「つゆ」、あるいは「つゆり」と読む、珍しい苗字があるのを知りました。
当てずっぽうでもなんと読めばいいのかわからないのに、とても「つゆ」とは読めません。
この姓が生まれたのはかなり古く、八世紀のことです。
そのいわれは、というと ― 。
兵庫県立歴史博物館の「ひょうご伝説紀行」に説明がありました。
昔、六甲山の北にある山田の里(現在の神戸市北区山田町)に、山田左衛門という男が住んでいましたが、京の都に上って御所の庭仕事に雇われることになったそうです。
ある日、御所の庭を掃いていると、いつもは中が見えない御殿の簾(すだれ)が上がっていました。そっと覗いてみると、大層美しいお姫様が坐っています。右大臣藤原豊成(704年-66年)の娘・白滝姫でした。
豊成の娘ということは、当時都で一番美しいと評判だった中将姫と姉妹ということになります。さぞ美しかったことでしょう。左衛門はすっかり一目惚れしてしまいました。
以来、左衛門の心は白滝姫のことでいっぱいになってしまうのですが、想う相手が右大臣の娘ではあまりにも身分が違い過ぎます。けれども、諦めようとすればするほど白滝姫を思う気持ちは強くなるのでした。
左衛門は切ない心を歌に詠んで姫に贈ることにしました。
水無月の 稲葉のつゆも こがるるに 雲井を落ちぬ 白滝の糸
このような歌を詠めるとはたんなる鄙の男ではありません。ところが、姫からの返歌は、
雲だにも かからぬ峰の 白滝を さのみな恋ひそ 山田男よ
お前には私は高嶺の花だよ、というわけです。しかし、左衛門は諦め切れません。もう一度歌を贈りました。
水無月の 稲葉の末も こがるるに 山田に落ちよ 白滝の水
この話を知った天皇(淳仁天皇)が左衛門と夫婦になるように姫に勧めたのです。
こうして左衛門は白滝姫を妻に迎え、山田の里へ帰ることになりました。
都から下って、現在の神戸市兵庫区都由乃町(つゆのちょう)あたりで一休みしていると、里の人たちがひどい旱魃で困っている様子です。それを聞いた白滝姫が杖で地面をつつくと、見る見るうちに清らかな水が湧き始めたので、里の人たちは大変喜びました。弘法大師みたいです。
山田の里に着いてみると、左衛門の家は白滝姫がこれまでに見たこともないようなあばら屋でした。夜になると、屋根の隙間から月の光が漏れてくるほどです。
ちょうど梅雨に入ろうとする季節で、山田の里は栗の花の真っ盛りでした。
やがて二人は男の子に恵まれます。しかし、白滝姫にとっては慣れない山里の暮らしです。次第に身体が弱り、とうとう病気に罹って、ある年の梅雨のころ、幼い子を残して死んでしまったのでした。
左衛門は姫を手厚く葬りました。すると、その墓の前から清らかな泉が湧き出し、水面に栗の花が散り落ちたそうです。
それから毎年、白滝姫が亡くなったころになると、泉には清水が満ち溢れ、決まって栗の花が散り落ちるのです。
そこで左衛門は姓を栗花落(つゆ)と改め、泉の脇に御堂を建てて姫を祀りました。やがてその泉も、栗花落の井戸と呼ばれるようになりました。
この井戸はいまでも左衛門の子孫が祀っているそうです。白滝姫が杖で泉を湧かせたところは栗花落の森と呼ばれ、こちらも大切に守られているそうです。
別の伝承では男の名は左衛門ではなく、左衛門尉真勝(さえもんのじょうさねかつ)とされていて、夫婦になる経緯は前の話とほぼ同じですが、山田に帰るとき、歩き疲れた自分を背負う真勝の優しさに、思わず零した姫の涙が白水川という川となって流れた、とあります。
一方、兵庫県からは遠く離れた群馬県にも白滝姫の伝説があります。現在の桐生市、太田市あたりはその昔山田郡といわれたところです。
場所が異なるだけで、左衛門と白滝姫が夫婦になるあらすじは大体同じ。異なるのは、白滝姫が井戸を示す代わりに京織物の技術を伝え、それが「東の桐生、西の西陣」と賞されるほどの絹織物の産地となった、という伝承です。
その桐生には織姫神社という社があり、御神体はこのような白滝姫なのだそうです。御開帳は五年に一度。画像は桐生ファッションウィークのホームページから拝借しました。
なんとなんと織姫神社があるのは織姫町という典雅な町名です。桐生市役所も同じ町内。
桐生市中央とか桐生市なんとか台とか、無粋な町名変更など決してせず、どうかどうか末永くこの典雅な町名を守ってもらいたい、と無関係者ながら祈る思いです。
桐生に程近い栃木県足利市も古来織物の町であり、織姫神社がありますが、こちらは祭神が別なので、白滝姫とは関連がないようです。
そろそろ野辺でも桔梗の花が咲く季節になりました。去年と較べると、今年は気温が低めだったので、蕾の具合はどうでしょうか。
去年、二度見に行った茨城県取手にある高井城址の桔梗の群落、まだ見たことのない新鎌ヶ谷駅前の花壇……行きたいけれども、いまの体調では叶いそうにもありません。
それから、是が非でも見たいと思っているのは、京都・智積院、同・東福寺天得院、同・廬山寺、さらに明智光秀公所縁の亀岡・谷性寺……それぞれの庭に咲く桔梗です。
何事もなければ、今年のお盆休みに京都へ行くつもりでしたが、叶わなくなってしまいました。