済みませんが、本日もツィッター方式で書かせてくださいませ。できた順にタイトルを変える可能性があります。
副題1、『午前1時に、足指の痛さで目を覚まさせられる』
ほとんど熟睡に近い深さで寝ていたのに、足指が、痛くて、しかも痒いと言う感覚があり目を覚ましたました。『ああ、やられちゃった。ムカデだわ』と思い五分後ぐらいに電気をつけると、午前1時15分です。前夜8時ごろ寝入っていますので、五時間は寝ていますが、自然に目覚めたのではないので、だるくて、もう一度寝たいなと感じますが、結局は起きて、ブログを書こうといたします。
居間は涼しくて、薄いカーディガンが必要で、外の温度を測ると、23度、室温は28度です。これは、南側に大きな崖があるからです。土と言うのは冬も夏も15度程度なので、夏は涼しく、冬は暖かいので、我が家ではクーラーは使いません。熱中症が大ニュースになる時期に、我が家では昼間でもクーラーは使いません。これが、人間関係がどんなに、わずらわしい場所であっても、この雪の下の家からよそへ引っ越してh行かない理由の一つです。東京へ一時間で行かれる距離に住んでいて、これほど、自然に恵まれた家も珍しいという環境ですから。
さて、寝室は二階にあります。なのに、そこでムカデにかまれたのは二回目です。一回目は、一階のたんすの引き出しに入れてあった、下着(いわゆるババシャツ)と言うものに潜んでいたのです。でも就寝前に、変だと気がついて、一応見つけて捨てました。だが、かまれましたけれど。本日のは布団を二階のベランダで干しましたので、そこに木の枝から、とび乗ったものだと思われました。
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副題2、『帰米二世と、引揚者と言う差別語』
朝の二時に起きたのに、まだ、700字しかかいていません。どうしてかと言うと、例の家事、または、雑用にふけっていたからです。それは、三年前までだったら、絶対に後回しにしたはずなのですが、現在は本を作っていないので、時間にも心にも余裕があり、雑用をすることが、私自身の余裕の証であって、楽しくてたまりません。そしてそれをやりながら、『うーん、これこそ、アランが幸福論の中で言っていた「不幸せを感じている暇に、行動をしなさい」と言って居ることの実践例ですね」と、思い至るのでした。おとといの夜だって、また、三大もパソコンがごたごたしたのですよ。神経を消耗し、時間も浪費します。だが、結構伸びやかで、幸福感に満ちています。何があっても、大丈夫みたいです。
お若い方に言いたいです。今もし悩みがあっても、あなたみたいな若い日を過ごした別の人間(=私)が、今は、まるで、悩みの無いような日々を送っていますよ。人生は変わることがあります」と。
ところで、そういうわけで、新章を書くのさえ後回しにして、労働に走っている私は、上のムカデの話だけで、お別れして、皆様に無事に生きていますよと。お知らせをしただけで、外出しようかと思っていたのです。本当は前の章の写真等を、挿入しないとならないのですが、それが大変に時間がかかることなので、700字のほんわかした文章を書いて、用事のために、外出しようかと、思ったのです。ところが、どうしても気にかかることがあります。
それは、中谷共二氏が、人間的な芯を失っているのは帰米二世だからであろう』と、言う文言です。それだけでは説明不足ですね。世の中には他にも帰米二世は多いです。立派な仕事をしている人も居ます。ですからあれだけでは、単純すぎる記述となります。そこが気にかかりますので、それだけでも解説してから、外出をしましょう。
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副題3、『カリフォルニアに移民をしたのは、広島県人が多い模様だが、それは、なぜか?』
このことについては、『ミリキタニの猫』のメイキング部分(レンタルDVDの中に収録をされている)を見た際にも改めて思い至ったのですが、最初期の移民としてカリフォルニアに渡った人の中には、広島県民が多いのです。どうしてか?
それは、明治政府に、薩長土肥の閥があって、広島県民が入り込む余地が無かったことが悔しかったからだと推察しています。広島県とは、平家の時代から発達をしてのです。その上、大内氏は、対中貿易をしていたので、豊かでした。そこを、尼子氏が来たから攻めてきて広島を支配したのですが、やはり土地の風土として豊かだったはずです。
そこへ東国から来た毛利氏の支配を受けてしまったのは、悔しい記憶であり、江戸時代200年間、その記憶が薄れていなかったと思いますよ。その上、明治維新になったら、明治政府には、山口県人が、要職を占めていて、広島県民の入り込む余地が無かったとしたら、新天地を目指そうということにもなると思います。
だから、決して貧しい人だけが移民に出向いたわけでもないのです。ところが、アメリカでの過酷な生活が、イメージとして、移民を、下に見る風潮が生まれて、それも、悔しいと思います。
実は、私は、山口県の人間ですが、明治維新に、東京へ出なかった、または、出られなかった方だから、その手の悔しさはわかるし、その上、満州からの引揚者だから、そちらでも、差別を感じるので、移民とか、帰米二世の人の気持ちは、よくわかります。
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副題3、『父の上司は、カリフォルニア大学卒のドクターだった』
その帰米二世と言う差別と、満州引揚者と言う差別を二重に感じられたかもしれない人物が、父の戦時中の上司だった、JN博士です。その博士は、カリフォルニア大学で博士号をとり、満鉄の調査部中央試験所と言うところで、頁油岩(特に今の言葉で言うオイルシェール)研究を担当していました。
戦後だいぶ経った後に、父が、大手企業に、再就職を、したくて、すでに、千代田化工の重役をしていたN博士を私を連れて訪ねたことがあります。目黒駅から歩いていくおうちなのに、邸内に、竹林があったのです。それには驚きました。目黒でも敷地は300坪を越えていたでしょう。
「日本石油の四日市製油所に、あきはある。が、定年まで勤めても、今から参加するのなら、課長どまりです」との事で、父はあきらめたみたいです。その年齢に達したら、友人が全部重役になる可能性がありました。比較して惨めだと感じた模様です。
そんなに、豊かなお宅もあるのに、全体として、なぜか、引揚者と言う言葉とか、帰米二世と言う言葉って素直に友達には出しにくい言葉の方なのです。
それは、あまり強い宗教観を持っていない日本人には、拝金主義のところがあって、特に戦後は、お金持ち優先主義になっているからでしょう。その二つの言葉には、貧乏と言う言葉と重なるイメージがあります。
満蒙開拓団の惨めな映像や、マンザナールなどの、アメリカにおける強制収容所の思い出です。
在日の人が、差別を受けたと、元気に語って怒っていますが、日本人って、悪い部分として島国根性があって、差を認めないのです。同質性を尊ぶあまり、少しでも差がある人を差別して見下したりします。で、表ざたにはならなかったので、抗議もできなかった・・・・・差別感情に傷ついている人も多いでしょう。
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副題4、『幸せな過去を持つ人には、どうしてか、自信が無い人が多い』
さて、ここからが、私の独壇場です。上に上げたのは一般論であって、中谷知二氏が、芯のない人物に成ってしまったのは、別に差別感情に負けたから、それゆえに劣等感の塊だったから・・・・・と言うつもりはないのだ・・・・・・と、ここで、強調をしておきたいのです。
それは、ここの副題に書いたとおりであって、幸せな過去とか、幸せな生育暦を持つ人間は、どうしてか、自信の無い人が多いということなのです。これは一般に言ってもあたっているらしくて、『唐様で、売り家と書く三代目』と言う川柳があります。
祖先に実業家が居て、莫大な財産を築いてくれました。すると、二代目はとても上品ですが、ともかくのこと、継
承者として、会社を小さくでも、発展させますが、三代目には、芸術を志す人間が出てきて、やがて、家そのものが消滅してしまうという事を表しています。
中谷さんのケースは明治初期から数えれば二代目にあたるでしょう。しかも羽田空港に出入りする飛行機の注油を一手に引き受ける大型の給油所を経営し始めたのは氏のときですから企業家でもあり一代目であります。ビジネス上派弱気な人とも思われません。だが、一方で氏は、アジサイ畑儀もう事件のときに、突然に我が家の山の木々を伐採し、泥を別のところに移動をさせるという暴挙に出ました。
それにびっくりした私が、山中の家に、当夜、これをあなたが許可していますか?』と質問をして回ったし、弁護士さんにも連絡を自宅から取っていますから、紛争が法的に発展する事は中谷さんは、当然に予測をし他はずです。それは、瀬島隆三などの裏にいる人間も同じ予測を立てて、どうするかを検討した挙句に、「謝罪をしておくように。しかし、実際には、事を進行させよ」と裏から、命令が電話ででも下ったと思われます。
その謝罪の部分が、『肉を切らせて、骨を絶つという手法であって、なたかに酸としては、いいにくいことだったであろう、帰米二世だという事を明かしたのでした。ただ、それ以外には、弱点は一切出さなかった人です。卒業大学も言いませんでした。私の知っている帰米二世は、カリフォルニア大学か広島大学か、広島近辺の日本の大学を出た人が多いのです。が、中谷さんは、出身大学については言及しませんでした。
私は二時間以上、中谷さんの弁明を聞きながら、『もしかすると、この人は、経済的には苦労知らずで、甘い生活を送ってきたのではないかしら?』と思ったものです。
戦後羽田空港の給油所を開くことができたなどと言うのは特権階級の一人です。無論、米軍支配下の日本だから、中谷さんが、英語が堪能なことが寄与したとしても、並大抵の資金力では無いと、そんな会社は経営できないでしょう。すると、カリフォルニアに残っていた兄弟や、両親が、莫大な資産を持っていた可能性は強いのです。しかも、普通なら財産を全部没収をされて、強制収容所に入れられるのですが、はしっこい人間は、東部へ移住を果たしていたかもしれませんね。財産を全部持って。
そして、中谷さんの別の兄弟が、東部の名門大学(ハーバードやプリンストンなどの愛ヴィリーつと呼ばれるもの)を卒業して、石油会社に勤務していたと仮定をすると、日本で唯一の民間空港だった時代の羽田空港の、航空機用燃料の補給を一手に引き受ける給油所の社長をする事は可能だと思われます。
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副題5、『結婚も子育ても、何もかも順調な中谷さんは、実は、激しくも気弱な紳士だった』
中谷家の坊ちゃん二人が、立派な学歴と職歴を持つ男性であることは認めます。だが、それは奥さんに負うところが大きいでしょう。奥様は、東京の双葉の出身だと、奥様自身から聞きました。それは、雅子様の母校でもあって、所在地は、田園調布だったはずですよね。
奥様は美人でどうのこうのと言うタイプではないが、気品があってやさしい人です。そして、最も驚いたのが、1980年代にお庭で小松菜を作っておられたことでした。これは、戦時中の食糧難の時代に、田園調布かそれこそ、その近辺の自宅のお庭で、野菜を作ったことの思い出の反映だと思われますが、有機野菜って、とてもおいしいから、作っておられたのだと思います。
今、私も真似して、屋根の上で、少しばかりの野菜、(ラディッシュやミニトマト)を作っています。日当たりが悪いので、屋根の上で作っています。(笑)、だけど、中谷家は、たぶん、二区画買った敷地の家の南側の空き地で、菜園を経営していました。これがすごいなと思うゆえんです。大金持ちだと思いますよ。しょっちゅう、駅前の大和証券内で、奥様とは会いましたし。だけど、家族においしいものを食べさせるために、夜盗虫(黒い色の青虫)を、箸でつまんで捨てたりしていたのです。そこがすごい奥様なのです。
私は大芸術家になるつもりだったから、そんな事は眼中に無かったのですが、2011年から本作りを休んでいて、時間があるから、園芸に取り組み始めました。私のやる事はなんでも本格的でして(笑)、2012年は、三田五丁目のバス停前のケイヨーデーツーから、平塚の、花菜ガーデンまで、神奈川県中の、園芸店(日曜大工センターを含む)は11店舗全部探索しぬきましたが、いかんせん、土地が狭くて、日当たりが悪いので、立派な成果とは程遠いところです。だから、北久里浜の眠り姫状態の木を切りたいのでした。30年前、そこで菜園をしていましたので、復活をさせたいのですが、今の庭は真っ暗ですから。
中谷家の菜園は、小松菜が植わっているときだけ見たのですが、日当たりがいいので、さぞかし収穫も多かったでしょう。その中田に夫人は、例の井戸端会議には絶対に加わらなかったし、礼儀をかかさない人だったので、相当に尊敬していましたが、例の猫を絡んだいじめ時代に、私の猫を触ったことも無いのに、『この猫って、重いんですってね。病気ではないの』と蓮っ葉な調子で、言われたので、すっかり守る機がなくなってしまったのでした。この山の前田夫人辺りが、そういう事を吹き込んで、いじめるように教唆したのでしょう。
中谷氏が、このような賢夫人を迎えることができたのは、戦時中に大勢の男性が戦死して、ちょうど適齢期の男性が少なかった体と思われます。で、当時の日本で最上級の女性と結婚をすることができて、しかも、その奥様は普段なら、つつましくて優しい人でした。
ところが、その中谷さんが、道の途中で出会ったときに、私に驚くべきことを言いました。
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副題6、『川崎さん、ご近所様をいじめないでくださいねと、力なく頼む中谷さんは、いったい何を考えているのだ?・・・・・この時に中谷さん個人の、犯罪(?)が、町内会のものに移行をしたのでしょうね』
ある日、下から上がってくる中谷さんと、崩されてしまった例の山の前で、上から降りる私が、正面切ってであったことがあるのです。すると、中谷さんは、おびえた目をしながら、「川崎さん、ご近所様をどうかいじめないでくださいね」といったのです。
私、激怒しました。それは、20年以上前のことで、ブログもやっていないし、パリへ滞在型版画修行にも行っては居ない時期で、普通の主婦として、何もやっていなかったころです。
こっちは集団いじめの対象でしたよ。だけど、私が相手をいじめることなど、一切ありませんでした。もし今このブログに書いていることがいじめに当たるのなら、さらに激怒します。彼らが何もやらなければ何も書きません。おととい三台のパソコンがおかしくなったのも、例の国際的軍産共同体の、ブルーカラーとしてのエージェントが、また新たな、バグを入れ込めたからでしょう。次から次へと、せっかく、時々は褒めてあげている前田氏でさえ、やってくるのです。仕掛けてくるのです。
この2013年5月28日の『あんたを刑事訴訟にかけてやる』もそのひとつですが、次から次へと小細工を仕掛けてくるから、正当防衛の一種として書いていますよ。それは当たり前の判断です。
だが、当時は一切を我慢をしていた時期です。私はここで、怒りのあまり蒼白になって・・・・とか文脈上いいたいところですが、顔色さえ変えませんでした。激しく軽蔑したからです。
『この人は、天に愛されない人だ。反対に、私には神様が後ろ盾についてくださっているのに、どうしたことだろう。気の毒に、まったく人間として駄目な人物だ。そもそもは安野夫人を恐れたところから発展しているでしょう。どうして、肝っ玉がないのですか? あんな妖怪にだまされて』と、内心で思っただけでした。
ただね。この時にすでに判ったのです。中谷氏は、自分ひとりでやったことであっても、その積荷は耐えられなくなって、アジサイ畑欺もう事件を、町内会全体で行ったことに変更したという事を。
そんなことを読めない私でもありません。だけど、そんな小手先の小細工を行っても、ここに、こういう文章を書かれてしまったらアウトでしょう。
出ないと、どうして、ご近所様をいじめるという言葉が出てくるのですか? 彼一人で、引き受ければいいではないですか。しかも、この時も謝罪ではなくて、お願いです。馬鹿みたい。私がどうして彼のとんでもないお願いを聞かないといけないのです。
私がやってほしい事は原状に復帰することです。そして、異常な礎石を取り除いてもらうことです。
ご自分がするべき事は、何にもやっていないでしょう。それで、どうして私に、何かをお願いすることができるのですか?
頭が悪いんじゃあないの?と、思っただけです。それこそ、『馬鹿みたいな、頭脳の持ち主ですね』と内心で激しく軽蔑をしました。
だけど、私は怒ったときは、言葉には何も出しません。それは品の無い言葉になる可能性があるからです。だから、中谷さんに、私の怒りがわかったかどうかは判りません。それから怒りよりも強い軽蔑を抱いたことも、判っていたかどうかは判明をしていません。
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副題7、『他の人と同じ苦労をしていないことが、中谷氏の弱みであって、それを彼は自覚をしていたのだろう』
安野夫人が怖いのは、誰にとっても同じだと思いますよ。かの銃の怖さは、底知れぬ不道徳感に在るのです。普通だったら、三人も実子の居る男性から妻を引き剥がして、自分が後釜には座りませんよ。自分ひとりは幸せになれるかの知れませんが、他の四人をも不幸にしますね。
彼女は演技が上手だから、ものの見えない人間には善人に見えるのでしょう。だけど、中谷さんご夫婦にはわかっていたはずです。家庭内では、「困ったご夫人だと」、言い合っていたはずです。だけど、彼女の方を抑えることができませんでした。
そして論理が通じるし、道徳観も在るので、怖くは無い川崎千恵子さんに犠牲を一手に引き受けてもらって、事を解決して、さらに、ご自分に罪が及ばないような工夫をしてから、前田祝一氏に会長職を、引き継いでもらったのです。
よく学術論文に倒錯をする人が居ます。似ています。ずるいのです。何とか、自分は、泥をかぶらないようにしたい。だけど、本質的な解決には、何も手を出せない、筋は、通せない。そういう人です。だから、中谷さんが会長職をしていた時代には、トラブル続きで、いつも、夕方の銭湯みたいに、この山がワンワンしていたものです。普通の一戸建ての家が建っている住宅街とはまるで違っていました。引っ越していく人もひどく多かったです。
すべては、この山で、実質的に・・・・・一番になりたい・・・・・安野夫人が源泉となっておきている所業です。動物的な強さで持って、目の前のお宝がほしい人間ですからこうなります。彼女が、近視眼的な人物ですから、そうなります。彼女の言うなりに、大勢の人が動かされます。
それが問題だから、心理学的な解決(=安野夫人に、少し欲望の発露を、慎んでもらうこと)しかないのに、物質的な解決法(アジサイ畑欺もう事件)で、お茶を濁そうとしたのが、中谷さんでした。
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副題8、『修行や苦労が足りない人は、こういう風になりやすく、またそれを、中谷さん自身が知っていた、と推察される』
上の方で、アメリカに戦時中も残っていたご実家とご兄弟が大金持ちだった可能性があると、私は言っています。それについては確認したことが無いのですが、結婚もうまくいき、事業も順風満帆だとすると、戦前、戦中、戦後、大勢のほかの日本人が苦労をした部分について、ほとんど苦労が無かったとも思われます。
戦争には取られなかった可能性が強いです。帰米二世だから裏切る可能性を日本軍上層部は考えたでしょう。で、南洋で飢え死にしたり、シベリアへ抑留をされ奴隷労働に従事する必要も無かったのでした。
満州から手荷物ひとつで引き上げなければ成らなかった私の両親みたいな、苦労もなく、東京大空襲や広島で被爆するなどの苦労も無かったのです。何にも苦労を知らずに、人生を、60過ぎまで送ってきた人です。
だけど、ある程度異常に賢い人だから、その点で、『自分には何か足りないところがあるのだ』と言う実存的な不安を持っていたとも思われるのです。
実は私も似ているのです。主人がよく言うのですが、お前ほど恵まれた人間は居ないと。高校の先輩で戦争未亡人になった方も、『あなたってずるいといってよいほど恵まれていらっしゃるのね』とも言っていました。
だから、長い間、私こそ、その実存的な不安と言うものにとらわれていたのでした。
中谷さんとそっくりでも会ったのです。だから、私も安野夫人の怖さはわかります。なんに迷いも無く、自分を幸せにする方向へだけに向かって、突っ走ることができる人物だから、怖いのです。
だけど、最近の私はひどく変わりました。さばけてきたのです。それは、不幸をいっぱい味わわさせられています。それで、誰に対しても、『ふん、人間として、人生の、経験値は、あなたより、私の方が上よ』と思うことができるからです。
特に、ニューヨークで野1999年と、2000年の日本人の若い女性を相手にしての障害初めての口げんかで、アサコ(仮名)は、狂うし、2000年のミミは、工房をつぶしてしまったという事実を知って、ああ、やはり、私の方が人間として上ですねと思うことができるので、余裕綽々なのです。
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副題9、『天はどういう方法で、私を愛し救ってくださるのか?』
ところで、読者の中には、「あなたは、よく天が私の味方をしてくださるといいますが、それって、単なる思い込みでは無いですか?」とおっしゃる向きもあるでしょう。で、このケースで、私がそのポイントを銅つかんでいるかを語らせてくださいませ。
まず、私は、ひどいことをされ続けても、28年間、事中谷さんの部分移管しては黙ってきたわけですね。だけど、今般、山崎直子さんの講演がしつこくも二回も同じ場所、婦人子供会館で開かれました。そこで開かれるのなら、私は出席できます。だが、2回目の方は、主宰者が付属のPTAなので、付属の講堂で開かれたら、私は出席できません。
仏は付属の講堂で開かれるはずのものが、わざわざ、婦人子供会館と言うところで、開かれる理由は、私にどうしてもそれを聞かせたいわけでしょう。特に、13日にそれが行われて、しかも、14日に日経新聞に同じテーマで、山崎直子さんのインタビューが行われ、そちらには秘話が公開されていましたので、二回目が、その種の特殊な目的をはらんでいたということが推察されるのです。
なぜ、特に、私にそれを、聞かせたいかと言うと、『御茶ノ水女子大付属高校で、同窓でも、ぴか一の業績を誇っている、山崎直子さんに比べれば、お前なんか取るに足らないんだよ。それを、思い知れよ』と言いたい連中が居るからでしょう。で、誰が間に入ったか走りませんが、原初のアイデアは、井上ひさしあたりから出て、伊藤玄二郎が付属のPTAを動かして、直子さんの婦人子供会館での二回目の講演が実現しました。
私は一切をわかっておりますが、別に直子さんに対して嫉妬心など抱いていないので、平静な気分でそこへ出席をして、『直子さんの誕生星座は何ですか?』と言う質問をして帰ってきたわけです。
だが、その講演会の中で、4,5回ほど、直子さんが東大宇宙工学で学んだ女性であることが、こちらに知らされました。
そうすると、私の内部で、嫌な記憶が呼び覚まされます。それは大原光孝さんから捨て台詞として、7年前に発せられた、「川崎さん、知っていますか? 中谷さんの坊ちゃんは、東大宇宙工学研究所の所長ですよ』と言う言葉です。
これもコンセプトは同じですね。大原さんが真に言いたい事は『川崎さん、あなた東大出では無いでしょう。ご主人だって、そうでしょう。それに坊ちゃんだって、お嬢さんだって違うじゃあないですか。威張るなよ』って言っているわけです。
出、彼に向かって言いたいのですが、『私は別に威張っては居ませんよ。こういう文章は、ご飯を食べるがごとく、息をするがごとく自然に神様から降りてくるだけで、手が入力をするだけです。威張ったりしていませんよ。本当に自然なことなのです。
だけど、そのまえにあなた方が汚いことをやり続けているから、恐ろしいと感じるわけでしょう。汚いことをしなければ、別に何も気にする必要は無いではないですか?』と、答えておきたいところです。だが、捨て台詞の応じるのも、その行動自体が、汚いことなので、放っておきました。特にワインが割れてという捨て台詞に対して、一回文章を書いているのに性懲りも無く同じことをやってくるから、黙って何も書きませんでした。読者だって嫌な感じを受けるでしょう。汚いせりふばかり、耳になさったら。
だけど、その我慢がここで生きてきたわけです。中谷さんと言う、隠れ蓑と言うか防波堤で、ご自分を守ろうとしている大原さんが、金科玉条のように出してきた、役職の名前、「坊ちゃんが東大の宇宙工学研究所の所長ですよ」が、ここに来て生きてきて、中谷友治氏が、私に28年前に味わわせた屈辱に満ちた思い出を語るチャンスができたというわけです。
もうひとつあります。同時進行的に、前田祝一氏が、放った二つの捨て台詞が後押しをしましたね。「あんたを、刑事訴訟にかける」ですって、
願ったりかなったりです。この問題(=山を無断・無許可で崩された問題)を白日の下にさらす好機到来です。だから両方があいまって、私を助けてくれているわけです。そういう事を天が尾見方してくださると表現をしているわけです。
こういうポイントが、『天が私のお味方をしてくださるのです』と言うことの一例です。
では、本日はこれで、・・・・・後で誤変換を直して、署名と日付を入れましょう。
尚、このブログは、2010年から数え始めたところ、1704467回の伸べ訪問数をいただいています。